(一)  神々が人へと大陸の覇権を明け渡し、どれほどの歳月が流れたか。  神の子も人に混ざり、恐ろしき魔物の存在も吟遊詩人が歌うばかりとなった。  人が神の教えを説き、  人が剣を持ちて戦い、  人が田畑を育て恵みを得る。  人が王となり国を作り、国は幾つもの線引きをして存在し、力の差を示した。  いつもどこかで争いが起き、そしてどこかで和平が結ばれた。  世界は美しく円を描き、連綿と時を紡いでいる。  大陸西方に位置する王国ヴァルフィルトは、マグトゥレド諸国連合の中でも辺境の、のどかな国であった。  北と南に分断する大山脈の南向こうなど吟遊詩人も歌わない。  東にある脅威も、この地においては風聞でしかなかった。  広い湖、どこまでも続く草原、冷涼な気候。作物の実りは少ないが狩猟により生活を立てている民が多い。  閉鎖的ではあるが、だからこその平穏が魅力であると皆は言う。 「などといって、煙に巻くつもりなのだわ、国王陛下は」 「口が過ぎるんじゃないですかい、隊長」  馬上で揺られながら、憤然と不満を口にする女騎士を黒髪の傭兵が笑いながら諌めた。彼の顔には細かな走り傷があり、がっしりとした体躯、背に負った大剣が勇猛な戦いぶりを語っている。  対する女騎士は、下ろせばさぞや美しいだろう金髪を一つに束ね、高位騎士の証である金色の拍車に足を掛けている。旅の道中であるから武装こそしていないが、腰には細身の剣が携えられていた。家柄に依らず力によって騎士の位を授かるため、令嬢の風貌であっても腕は確かであることを言外に示している。そうでもしなければ、くだらない揶揄の的になることも彼女は身をもって知っている。  が、全てを承知した上で、この昔馴染みの傭兵は彼女をからかうことを止めないのだ。  隊長。皮肉の込められた呼び方に、彼女は鼻を鳴らす。 「えぇ、隊長ですとも。小国の騎士団、第五分隊のね。私とケトだけの隊よ。立派なものだわ」 「陛下は、姫騎士様を戦場に出したくないのですよ、ですから」 「ケト。その呼び方は止めてといったわ」 「もっ、申し訳ありません……っ! リーナル様」 「王位は十年前に返上しました。母様の家に入ったと教えたでしょう。王家には跡継ぎの男子が二人も居るのだし」  二人の後をついて、大きな荷物を後ろに積んで手綱を握る従騎士が小さな体を更に縮こまらせた。金茶の巻き毛がふわりと揺れる。  従騎士としてリーナルに付いて一年。それ以前からの交流があるという傭兵と主人の会話には冷汗をかきっぱなしだ。  ケトは農民出身であり、小姓をしていたのもずっともっと下級の騎士だった。それが十四の年で、王家の血を引くリーナルの下に付けられたのである。戸惑いの連続なのは仕方がない。 「側室の子である長男と、正室の子である次男の覇権争いなんて珍しかないが、王位に男女差の無い国なんだ、正統な血筋でいえば、お前さんが王になるはずだろ」  「だから返上したんだってば! ヴァン、あなたね、今頃そんな話をしてどうしたいのよ」 「いやあ。王子二人が覇権争いの最中に、継承第一位の姫がド辺境へ竜退治なんざ、変な話だと思ってね」 「だから私は」 「でもだけどリーナル様、わたしも心配しているのです。竜……なのでしょう? こんな、三人だけって無茶ですよ! ヴァンさんが腕利きなのは知っていますが」 「あなたまで、この男の法螺に乗せられないで頂戴」  言い募るケトへ、リーナルは溜息で返した。 「神々の御加護はあると、私も信じています。だけど、竜だなんて存在するわけないじゃない、今の時代に。ドルイドだって炎を出さないわ」 「では……リーナル様は、今回の竜退治をどうお考えなのですか?」  ケトの深い青い瞳が、リーナルを見上げる。その色は純粋で、一片の曇りもない。  彼は、本当に竜を退治するための旅路だと思っているらしい。仕方がない、とリーナルは笑い、近くの丘で休憩を提案した。  太陽の位置で距離と時を測り、日没までには予定の集落で休む事ができるだろうと当たりをつける。  そこからもう半日、馬を走らせると『血まみれの三日月』と呼ばれる竜の住まう洞窟へ着く。  王都から四日ほどの行程だ。乗馬に慣れた三人だからこそ、この日数で済んでいる。小隊を動かすだけでも倍以上はかかったであろう。  最初の二日こそ、言葉少なに馬を飛ばし続けていたが、余裕が出てきたところで困惑を積み込んだままの従騎士へ説明の時間を取ることも可能となった。  『女だから』『王族だから』そんな偏見の目で、この少年は主人へ接することが無い。尊敬の念が勢い余る事はあるけれど、それは彼自身の良心からくるものだ。リーナルもそれを知っていて、彼を従騎士に取り立てた。本人に、その事は伝えていないけれど。  さて。  王都から離れたイーハ平原では幾つかの部族が点在して生活している。王国の管理下に置かれているものの、ほとんど自治によるもので、集落での暮らしは様々だという。  その中の一つ、フォモールはイーハでも大きな勢力を持ち、かつてリーナルが従騎士の頃に訓練として身を寄せていたこともあった。  『血まみれの三日月』に関する情報も、首領から話を聞いて核心に持ち込むつもりであったのだ。 「私がケトの年頃、第一分隊の訓練に付いてフォモールで過ごした事があるの。その時の訓練場が、噂の洞窟よ」 「えぇええ!? で、では、それから五年もしないうちに竜が孵り、暴れ始めたと……? それとも、どこかからやってきたのでしょうか」 「竜って卵から生まれるのかよ、ボウズ! はは、トカゲみてぇだな。なるほど、シッポを斬りおとして安心したらマズイな」 「まぜっかえさないで、ヴァン! もう!!」  まぜっかえしたところへ、更に風を送り込むから収拾がつかなくなるのだな。ケトは一つ学習し、言葉を呑みこむ。 「『血まみれの三日月』は、城下の広場で吟遊詩人が歌い始めた事が発端よ。西の地に荒れ狂う災い降りし、とね」 「三日月の夜に、集落を襲い血まみれにするという物語ですよね。わたし、歌えますよ!」 「……歌わなくていいから。集落まるごとを血まみれにする竜。災い。そんなことが事実であれば、陳情書の届く方が先よ」 「でも、討伐令は陛下の勅令でしょう? そして、部隊編成は騎士団長に任せられていたのに」 「横から、アンタが攫ったって話だな。よくやるぜ、二人だけの分隊が」 「ヴァン、傭兵詰所にあなたがいたからだわ」 「へぇ? "黒き剣のヴァン"も有名になったもんだな」 「あなたの称号なんてどうでもいいのよ」 「ひでぇ」  ヴァンの軽口を切り捨て、リーナルは整理する。 「流れの歌なんて、根も葉もない噂話として消えていくことも多いの。だけど、今回は別。城下の民たちはもちろん、騎士団内にまで不安が広がったわ。それを見て、陛下は勅令を出された」 「どうして、今回は別なのですか?」 「歌われている舞台が、西だからよ」 「このイーハ平原……が?」 「そう」  西の辺境。ヴァルフィルト自体が諸外国からそう呼ばれている。田舎者扱いには慣れているし、更なる田舎を馬鹿にすることもない。  ケトには、このどこまでも見渡せる草原の地が、火種と恐れられる理由が解らなかった。 「『イーハの平定』を知っているわね」 「ナーザ陛下の武勇伝の一つですね! 二十年前のことでしょう」 「えぇ」  リーナルがそこで言葉を切り、ヴァンもまた暗い表情をする。ケトは気づかないまま、記憶を辿るように口にした。 「各集落同士の争いが十年以上も絶えなくて、そこへ王子だったナーザ様自らが軍を率いモルフィス大司教と共にヴァルフィルトの御神ラー・イーンの教えを説き、平和をもたらしたということですよね」  辺境の紛争に対し王族自らが出向いた事、国教を用いて血を流さぬ平定を成し遂げたことから、国民たちに熱狂的な支持を得たという。  この勲功からナーザは王位を継承し、今の治世に至る。リーナルが生まれたのはその頃だ。正室の第一子誕生と重なり、大層な祭り騒ぎだったという。 「吟遊詩人が、真実のみを歌うのならば、今回のような歌は生まれなかったはずだわ」 「それは、どういう……?」 「三日月の夜。それは『イーハの平定』が歴史に刻まれた日よ」 「そ、それは、どう、いう」  ケトの声が震える。鈴のように綺麗。リーナルはそう思った。彼の疑問へ、答えを返すのが苦しい。 「『血まみれの三日月』はイーハの嘆きだと、私は思うの」 「それを、アンタが言うのかい。"三日月姫"さんよ」  ヴァンが口の端を歪めた。  ケトが目を見開く。  リーナルは静かに頷いた。 (二)  三日月の夜に、リーナルは生まれた。奇しくも西の辺境で、父が『歴史に名を残す』偉業を成し遂げた時と同じくして。  臣下、そして城下の民たちは歓喜して正統なる王の御子を"三日月姫"と讃えた。  その頃、王の側室には一人の男子があった。名をクラウ、当時御年十五。父と共に、イーハへ出向いていたという。誰しもが彼が王族の後継であると信じていた中で起きた、皮肉な祝事であった。  側室の子と、正室の子。それだけであれば互いの才を見極め王が後継を決める。しかし、リーナルの誕生は神の祝福であると大司教が宣言したことで、事態が変わった。  文武に長けた兄は優しく、幼いリーナルには事情が飲めなかった。  理解したのは五歳の頃、弟のソラスが生まれた時だ。大司教による祝福が無い事に、彼女は首を傾げた。そして、兄へ問うた。  兄は答えた。教えてくれた。 「二十年前の『平定』、それこそが血にまみれたものだったのよ」  遠き西の平原の事など、都に住まう人々が自ずから見聞しにゆくこともない。  その頃は国の情勢も不穏で、商人も東方との交易を中心としていた。誰もが西を気にしながら、現実からは目をそむけていた。  ヴァルフィルトの御神ラー・イーンの教えは、全てが等しく人へ恵みは与えられるというものが本筋である。  『全ての部族に、等しき裁きを。争いを止めぬ蛮族達に、等しき教えを』  モルフィス大司教の一声で、惨劇は始まった。  全ての部族の首領たちの首が斬りおとされ、抗う者もまた同じように処された。  淡々と剣を振るう父の姿に、クラウは震えを抑えられなかったと言っていた。  凄惨な光景に、イーハの民たちも凍りついたという。 「事実を捻じ曲げ祝祭とし、生まれた姫には三日月の二つ名をつけたわ。あの日の事を、忘れさせないように……」 「そんな……リーナル様、そんなことって」 「知ってから、どうするのが良いかずっと考えたわ。十の年で王位継承権を返上し、私の名は王家から消した。それで済むと思ったのよ」 「国は、アンタを担ぎあげる気でいたんだろうな。弟君に関して完全に放置だったのがよくなかったわな」 「ソラスは未だ子供よ。それがどうして、兄上と…… そうね、あの子はケトと同じ年よね」 「は、はい、王宮で幾度か、お目にしたことが……。わたしとは違って、聡明そうな」  母をリーナルと同じくするソラス王子もまた、美しい金髪の持ち主で、しかし冷ややかな瞳が人を拒絶しているようにも感じた……とは、ケトに言えようもない。王の片腕として政務を取り仕切っているクラウ王子は、既に王の風格すらあるように見え、比べるまでもないと……ケトはまた、誰にも言えない思いを抱いている。 「言ってやれ、小賢しいってな。まぁ、姫さんもあの年頃は、そんなもんだったか。血筋じゃ仕方がないな」 「ヴァンさん、わ、わたしはそんなこと! ……あの、ずっと気になっていたんですが。ヴァンさんは、諸国放浪の……傭兵なんですよね」 「あぁ。それが?」 「どうしてこんなに、この国の内情にお詳しいのですか? リーナル様の……その、異名のことも、御存じだったのでしょう?」 「ははは、そんなことか。簡単だ。俺が詳しいのは、何もヴァルフィルトに関してだけじゃない。諸国連合、その先の東国まで渡ってる」 「東国まで!」  傭兵の答えに、ケトは目を丸くした。  東の大国の脅威へ備えるべく『マグトゥレド諸国連合』は存在するが、小国の寄せ集めなのでとかく国境が多い。連合内でも仲違いをしている国もある。どれほどの旅を、この男は重ね、生き抜いてきたのだろう!  "黒き剣のヴァン"、その称号はケトが知るよりよほど大きなものだったのだ。それほどの剣士であれば、王族とのつながりが深いことも納得がいく。  長い事、重用されてきたのだろう。 「だから、ヴァンさんだったんですね」 「うん?」 「我が国の王家にも信頼の厚い御方であれば、リーナル様が即決されたのも、納得がいきます」 「あぁ……えぇ、まぁ、そうね」  大笑いしている男の脇腹を肘で鋭く突きながら、リーナルは言葉を濁した。  城下で噂が立ち、王宮内でも問題視されるようになった頃には発端という吟遊詩人の姿は見当たらず――ヴァンが居た。  十中八九、この男が絡んでいるのだと、リーナルは感じたのだ。  風来坊の根なし草、気づけば居るし気づけばいない。兄クラウも彼を信頼しているようだが、それこそ怪しかった。  兄と弟が険悪であるこの時期に、西方の不穏な噂。  ヴァンを、王都においていてはいけない。しかし、彼ほどの――腕を持ち性格の曲がった男を動かすには、王国騎士団の名ですら難しい。  そうであるならリーナル自身が動けばいいと、そう考えたことは……さすがに誰に明かすこともできなかった。  大人しく着いてきたヴァンの真意は、やはり判らない。  ヴァンを連れてリーナルが西へ行くことこそが狙いだったのかもしれない。  それでも今、自分に選びとれる道は限られていたのだ。  そんな胸の内を誤魔化すように、努めてリーナルは声を上げる。 「信じちゃだめよ、ケト。この男の言うことなんて、三分の四は法螺なんだから」 「過ぎてんぞ」 「過ぎてるでしょう?」 「悔しかったら、お前もヴァルフィルトから出ればいい」 「誰も、そんなことは言っていないわ!」 「じゃあ王家から抜けておいて、どうして騎士団に入った?」 「……それは」  軽いやりとりで済ませるつもりが、反撃にあって口ごもる。ヴァンは満足げに笑みを浮かべ、リーナルの肩を叩いた。 「ふ、まぁいいさ。この国を出たくなったら、俺はいつでも手助けしてやるよ」 「誰がそんなこと! さぁ、休憩は終わりよ。ケトも、荷物を纏めて。フォモールの首領に、話を聞かなくちゃ。行くことはもう、伝えてあるから」  イーハ平原、フォモールの集落。  『血まみれの三日月』が潜む洞窟に、一番近い場所。  恐らくは――そこに何かが、潜んでいる。  五年前に過ごした時は、昔のことなど知らない風に、騎士団を手厚く迎え入れてくれた。  騎士団の修練と銘打った平原への滞在は、年ごとに集落を変えている。  しかし、いずれでも団員が襲われるといった話は聞かないし、集落の者へ危害を加えたということも聞かない。  イーハと王都は、『平定』以降、確かに平穏を保っているように見えていたのだ。 * *  吟遊詩人が歌う。   三日月の夜、竜が踊る 踊る   ひとつ踊りて、災いの鱗が落ちる   ふたつ踊りて、患いの鱗が落ちる   みっつ踊りて、西へと沈む ひとびとの血をすすり、血にまみれた鱗が落ちる   三日月の夜、竜が踊る 踊る 「陰険」  歌と舞いが終わり、広場に集っていた人々も三々五々と散ってゆく。  それらを見届けてから、吟遊詩人が本音を漏らした。 「さんざん歌って、言うことじゃないわね」  舞い手である女が彼に立ち並び、小さく笑った。 「歌なら、君が歌えばいい。僕が楽をやるから」 「イヤよ。本当は舞うのもイヤ。むしろ、アタシが楽をやるからあなたが舞えばいいのに」 「男の舞い手は……聞かないなァ」 「歌も舞いも、どうせ誰も気にしちゃイナイのよ。好きなのはウワサ。おハナシ。飽きちゃった」  深いため息をつき、栗色の髪をかきあげる。 「君は、歌も舞いも好きなんだね」 「昔のことだわ」 「でも、舞ってくれるじゃないか」 「あなたの声が好きなのよ」 「はは。ありがとう」  日で褪せた金の髪を持つ、褐色の瞳の青年は穏やかに笑った。 「本当に。ありがとうございます、ファリド様! レイティアねえさま!」  そんな二人のやりとりを見届けていた少女が、感極まった風に手を叩いた。最後まで残っていた観客である。 「本当だったら、わたくしもヴァルフィルトの城下街で、お二人の姿を観たかったです……竜の歌に舞い、怯える民衆たち……なんて素敵なんでしょう!」 「いっそ突き抜けて清々しいね」 「そういうコなのよ」  黒髪を肩まで伸ばし、フォモールの伝統的な飾り糸を編み込んでいる娘は、澄み切った瞳で吟遊詩人と踊り子を見上げていた。 「レイティアねえさまを初めてお見かけした時、女神様かと思ったの! 月明かりに照らされて、とっても美しい舞いでした」 「アリガト。ミュウくらいよ、アタシを見てくれるのは」 「僕は?」 「それでね、それでね、今日、ついに王国から騎士団がやってくるのよ!」 「へーぇ。さすがだね」 「黙殺?」  女同士の会話に加えてもらえず、吟遊詩人は肩をすくめた。  しかし、彼女らの企みに、自分が巻き込まれていることは確かなのだ。  まったく、どうしてこうなったのだろう。  ファリドは、この国の生まれではない。遥か遥か遠い南方の、今は亡き砂の国の血を引いている。……と、言われて育った。  祖国の手掛かりを得たいがために吟遊詩人として放浪しているところで、舞い手のレイティアと出会ったのだ。  かつては歌姫として酒場で名を馳せていたそうだが、病によって美声は失われた。  舞いの心得もあるというから、自分の歌に合わせて踊ってくれないかと頼んでみた。それがなかなか、相性がいい。  生きる楽しみが無いというのなら再び見つければいいのではないか――……青年が話を持ちかけようとした時、既に彼女は売約済みだったのである。  相手はミュウ=フォモール。  イーハ随一の部族・フォモールの首領の娘。 (続)