例えばこんな話を知っている?  斎藤がそう切り出した。  僕は顔をしかめた。  マモルが委員会から帰るのを待っている間に日は暮れて、教室の空気は紺に近い紫色に染まっていた。  前の席のイスの向きを変え、僕の机に頬杖をついている斎藤の、小悪魔のような笑顔は薄闇にまぎれてもわかるから、電気を点ける必要は無い。こんな時間まで残っていると先生に知れたら、早く下校するよう怒られるに決まっているし。  先生たちが口うるさいのは、このところ学校周辺に変質者が現れるという噂もあるからだけれど。  ならば尚のこと、こんな時間まで委員会に駆り立てられている友達を置いて、先に帰る訳には行かない。  斉藤、マモル、そして僕の三人は、小学校一年の頃から五年生になる今まで、ずっと同じクラスの仲間だ。  僕は、マナブなんて名前とは正反対で学業が一切苦手、  斎藤は勉強は得意だけど責任ごとからはうまく逃げるお調子者で、  マモルは真面目さがとりえなもので貧乏くじばかり引いている。  議長委員、なんてものになったのは三年生が最初だけど、きっと卒業までびっちり勤め上げるだろう。  そこで児童会役員にはならない……なれないのがなんともマモルらしいと思う。  あいつが好きでやっているわけではないことを僕たちは知っているから、こうしていつも、委員会の終るのを待っていた。  委員会といっても、大抵は1時間足らずで終わる。  こんなに長くなるのは珍しい。  学期の終わりが近づいているから、先生からの連絡や、年明けのイベント事の打合せなのかもしれない。  グラウンドを囲みL字型をしている校舎の三階からは、二階の視聴覚室の明かりがよく見えた。  大変だなぁ、マモル。  斎藤に見てもらいながら終えた宿題のドリルを閉じたところで、僕は視線をそちらへ流した。  斎藤が唐突に話を切り出したのは、その時。 「……こんな話、って?」  聞きたくない。  そうは思っていても、訊ねないわけにはいかない。  どうせここには僕たちしか居らず、他にすることも話すこともないのだ。 「明かりの消えない教室」  ――何を、言い出すのかと思えば。  斎藤は、こういった悪い冗談が好きなんだ。  年の離れた兄と姉が一人ずついるから、学校の昔話にも詳しい。  同年代の自分たちには確かめようの無いような怪談話を、こうして度々持ち出してきた。  マモルが居たなら、それとなく宥めてくれるのに、二人きりだと悪ふざけに歯止めが効かない。 「旧校舎の話だよ」  大丈夫だから。  早くも怯えている僕に、ケタケタ笑いながら斎藤は前置きする。  旧校舎とは六年前に取り壊された建物で、跡地はプールとグラウンドになっている。  僕たちはその姿を写真でしか知らない。 「兄ちゃんが三年生の時に、用務員のおっちゃんから聞いたんだって」 「用務員って……原田さん?」 「違う、違う。その前の人。今は隠居してるって」 「……ふうん」  じゃあ、顔も知らない人か。  知らない校舎。  知らない用務員。  それではまるで、自分の知らない学校だ。  なにもこことは限らなくなる。  そう考え直すと、心は幾分か楽になった。  ――でさ。  それを見越して、斎藤は話を始めた。  兄ちゃんが三年生、ってことはオレたちも未だ生まれてない頃なんだけど。  その頃は警備システムなんてないから、宿直なんてレトロなことが行われてたのね。  旧校舎なんてそのとき既にオンボロだったから、見回りするのもおっかなびっくりだったって。  用務員さんは仕事を端折っちゃおうと、外回りだけで終らせようとしたの。  当時は二階建てだったし、懐中電灯の光も強いものだったから、外からでも校舎内の様子はある程度掴めるんだって。  んで――ようやく終えたとおもったら……   教室の一つに、明かりがついてる。  それは一階だから、きっと一年生の教室だろう。  宿直室を出る時に鍵は閉めてきたはずなのに……?  だれかこんな時間まで隠れて残っていたのか。  それとも、忘れ物でも取りに忍び込んだのか……?  疑問に思いながら、現実的な可能性を摸索して、用務員さんは必死に自分の心を落ち着かせた。  一度、懐中電灯を消して、宿直室に戻る。  まさかとは思うが物盗りの可能性を考えて、護身用として備えられているバットを手に、明かりのついている教室へと向かった。  ・・・ギ、   ・・・・・・ギ、  古びた木製の床が、一歩踏み出すごとに耳障りな音を立てる。  ギ・・・、    ギ・・・・・・、  鳴るごとに、用務員さんは生唾を飲み込んだ。  程なくして、例の教室に辿り付いた。  1-2、と札が下がっている。  佐藤由紀子先生という、美人教師が担任しているクラスだ。  息を潜めてみたが、物音はしない。  声をかけるべきか――それともこっそり覗くべきか?  突きつけられた選択は単純だ。単純だけど、怖い。  なにか、ひどく胸騒ぎがした。  夏だというのに、全身が粟立っていた。   カタン  用務員さんの指先が、戸にかけられた。  指先三本だけを滑り込ませ、そっと中をうかがう。  何も無かった。  机とイスは整然と並んでおり、人間が居たような温度もない。  ……消し忘れか。  夏は日が長い。  夕方になっても電気をつけているのを忘れていたのかもしれない。  先ほど自分が一周して見回りしていた時にはついていなかったのに。  その事実には気づかない振りをして、用務員さんは思い切って戸を開けた。       ガラガラガラ  戸の開く音、だけではなかった。  なにか――ダンボール箱でも崩れるような、音。  教壇の方からだ。  ギョッとして、用務員さんはそちらを見る。  何も無い。  ぶわっ、と全身から嫌な汗が出てきた。  消さなくちゃいけない。  用務員さんは唐突にそう思った。  この電気を、消さなくてはいけない。  用務員さんの指先がスイッチを探す。  見つけた。カチリ、硬い音が二つ。消えない。電気は消えない。  明かりは消えない。  消えない……!!  カチカチカチカチ  用務員さんの指がしきりにスイッチを連打する。  手ごたえはしっかりしているのに、蛍光灯にはまったく伝わらない。   バチン!  天井中央にある蛍光灯の一つが音を立てて割れた。  用務員さんは悲鳴を上げた。  逃げ出そう。  思ったけれど、左手がスイッチから離れなかった。  見てはいけない――とっさにそう感じたが、反射的に振り向いてしまった。  用務員さんの骨ばった手に、女の子の白く小さな掌が重なっていた。   ……消さないで  声が、耳元で。  聞こえた瞬間、もう一度、大きな音。  蛍光灯の全てが割れた。  破片の一つが用務員さんの頬を切って、それで用務員さんは我に返った。  一目散に宿直室へ逃げ戻り、頭から毛布を被り、朝が来るのを待った。  翌朝、1-2の教室は何事も無かったかのように穏やかだった。  昼が過ぎてから覗きに行った用務員さんは、蛍光灯など割れていないという事実に驚愕した。  そして……。  教室の中央の机に、菊の花が生けられた花瓶。 「戸崎あかりちゃん……。病気で入院していたのだけれど、昨夜、急に容態が悪くなって」  由紀子先生の沈痛な声に、用務員さんの背筋は凍りついた。   ――あかり…… 消さないで  あの、声は。もしかして。 「病弱な子で、教室に来たのは数回だけで……とても来たがっていたのに」  消してしまったのは……自分なのだろうか。  女の子の手が触れた左手で、確かに傷の残る頬を、用務員さんはそっとなぞった。   バチン  大きな音を立てた瞬間、視界が眩い光に覆われて、僕は目を閉じた。 「何やってるんだよ、こんな時間に」  ……マモルだ!  僕の目に涙が浮かんでいるのを認めて、マモルが苦笑いした。  電気を点けたマモルは、スイッチから指を離す。 「斎藤、お前、またマナブのこと苛めてたのかよ」 「苛めてないよ。かわいがってるんですー」 「それがいじめだって言ってるんだよ。ったく、今日だってイジメ問題で延々とこの時間だぜ」 「ん、おつかれ、マモル」  僕は涙をぬぐいながら席を立つ。 「いっつもありがとな、待っててくれて。帰ろうぜ」  ちぇー、と唇を尖らせながら、斎藤も立ち上がった。  マナブがマモルにくっついて歩いていく姿に肩をすくめながら、斉藤は点けられたばかりの電気を再び消した。 「――、なぁ、マモル」 「なんだよ、早く来いよ斎藤」 「……視聴覚室の明り、消したのお前?」 「うん? そうだけど。どうかしたか?」 「……いや。お前のそういうとこ、好きだよオレは」  何も見なかったことにして、斎藤は二人の後を追った。  静まり返った闇の中、煌々と明りを放つ二階の教室。  消えないでと願う子供がいるのならそのままで良いと考え、少年は怪談話を終わりにした。 (了)