「秋の匂いがしますね」  彼女は肩ごしに振り返りながらそう言った。  その向こうから差し込む日差しが眩しくて、男は思わずまぶたを伏せる。 「あら、ごめんなさい、眩しかったですね」  自然と上がった右腕に気づいたのか、彼女は慌てて備え付けのカーテンを引く。 彼と彼女  清潔な白の医療服を身にまとうその彼女は、この病院に勤める看護師だった。  じわりと染み込んだ消毒用のエタノールに混じり、微かに鼻腔をくすぐるエチケットのための花の香り。  それが何の香りかは男にはわからなかったが、彼女の存在そのものを感じ取ることができて好ましく思っていた。 「今日の体調は、どうですか?」 「……はい、悪くはないです」  体温計を手渡されながら、短い会話が交わされた。  いつもの朝、いつもの行動。  変化のない時間に飲み込まれていく、日常。積み重なって、塗りつぶされて、やがては忘れていく。  そして男も、過去の時間を少しずつ忘れていく。  ピピッ、と小さな電子音が左脇から聞こえた。体温を測り終えた音だ。  それを目の前にいる彼女に手渡して、またボンヤリと視界を泳がせる。  ただひたすらに、特に動くこともなく、このベッドの上で過ごす時間。あまりにも長くて退屈で、欠伸が出るほどだ。 「……さん、聞こえますか」 「ああ……はい」  ひらり、と男の視界に何かが舞い込む。一瞬、蝶かと見まごうそれは、彼女の指先だった。  その光景を、男は何度か目にしてきた気がする。その度に、心が締め付けられるような、そんな郷愁が訪れるが、数回の瞬きの後には音もなく消えてしまう。  ――記憶とともに。  過ぎていく時間も、彼女の顔も、優しい声も。そして花の香りも。  男は少しずつ、生きるたびに失っていく。 「君の、その……」 「はい、なんですか?」  小さな声で男が問えば、彼女は遅れを取らずに聞き返してくれる。優しい声音だ。  その、優しい声に甘えて何度でも繰り返して問えば、彼女はやはり何度でも答えをくれるのだろう。  たとえ同じ事だとしても。 「なんでも、聞いてください。私でよければ、いつでもお答えしますから」 「……ありがとう」  君の名前、君の花の香り。  男はそれを問いたくて、その先を言葉にすることができない。  彼の想いの先の『彼女』は、あまりにも近くて、そしてあまりにも遠い位置にいる。  どんなにもがいても、決してその距離は縮んではいかないのだろう。 「秋の、匂いがしますね」 「そうですね」  彼女が控えめに、同じ言葉を繰り返した。  男はそれに、ゆるやかに応える。  遮光カーテンの向こう側、かすかに見える高い空を見上げつつ、瞳の端に映る彼女の姿を男は確かに見つめていた。  一瞬だけでも、憶えていられるように。    夏の終わり、秋の香りがする、とある朝。  どこかの病院の一室で繰り返される、か細い記憶と小さな想いが交差する、物語。  終