「ごめん、5分遅れたぁ! って、まさか早すぎっ? えっ? えっ?」  18時55分。和久井夏緒が集合場所の駅前広場へ駆け込むと。 「5分遅れで合ってる。ほかの奴らはみんな急用だってさ」  藍沢信治がやれやれって顔で、肩をすくめてみせた。 「……また、気とかつかわれちゃった感じ?」 「感じじゃなくて、気をつかわれてる」  あー。と天をあおぐ夏緒と、苦笑いする信治。 「ふたりぼっちで飲んでカラオケって、どうやって盛り上がんのさぁ!」 「俺が和久井の話聞いてうなずくとか、俺が和久井の歌に合わせてタンバリン叩くとか」 「おめーももうちょっと働けよっ」  言い合いながら、ふたりは並んで歩き出した。手ひとつ分――およそ10センチの距離を空けて。 「まあ、気づかわれるのはしょうがないかな。横から見てるとイラつくらしいよ」 「気づかいより飲みにつきあってほしかったよーっ」 「言っとくよ。和久井がさびしがってるから、気づかいするのやめてくれって」  勢いよく「号泣しながら声絞り出してたって言っといて!」と食いついた夏緒を、いつもの苦笑でなだめながら、信治はふたりの距離をもう一度確かめる。  あいかわらずの、およそ10センチ。  それは8年かけて探り合ってようやく落ち着いた、信治と夏緒のラグランジェポイントだった。  およそ5メートル。  それは高校に入学したばかりの信治が、夏緒に初めて出逢ったときの距離だ。  出席番号順に席を割り振られた結果、窓際いちばん前になった信治と、廊下側いちばん後ろに座らされた夏緒。  1学期が終わる直前までその距離は一定に保たれていて、信治は夏緒の苗字すら知らないまま過ごしていた。  が、そんな中。クラス内でささいな事件が起きて、なぜか信治が犯人だと決めつけられた。  しかたないことだったと信治自身思う。そのころの信治は人との距離をうまく測れず、口を開けば正論と理屈を垂れ流すことしかできないイヤな奴だった。  だから、なにも言えないしなにを言う気もなくて。自分を責める奴らをただにらみつけていた、そのとき。 『藍沢って、そうゆうヤツじゃなくない?』  夏緒が、そう言って割り込んできた。  もちろん、それだけのことで疑いが晴れたわけじゃない。でも。  信治はその言葉で、なんというか、見つけてもらった気がしたのだ。「おめー」でも「あれ」でもない、「藍沢」って奴を。 『や、どんなヤツか知んないけどね?』  このとき、信治はなぜか決意してしまったのだ。  夏緒が思う「そうゆう藍沢」になりたい。  問題は、夏緒自身が「どんな藍沢」が「そうゆう藍沢」か知らないということで――  と。回想にふけってる場合じゃないな。  信治は夏緒の横顔を見やり、頬に浮かぶ感情を読む。 「なんか迷ってることある? 俺でよかったら話聞くけど」 「ぅえっ? あ、そんな顔してたっ? いや、アレってちょっとどうなのかなぁって。チラっと思っただけだよ? 藍沢といて退屈だとかそんなんじゃないからねっ?」 「いいからいいから。おじさんに話してごらんよ」  夏緒の話が相談事じゃなく、ただ話したいことなのだと理解した信治はひたすらにうなずき、ときどき彼女の言葉を要約したり整理したりしながら聞き続けた。 「……藍沢ってさ、よく気がつくよねぇ」  それはもう。ずっと夏緒の表情を読み続けてきたんだから。それに。  ――近くにいるから、よく見えるだけだよ。  小さく息をついてメガネをはずし、レンズを拭いた。彼と夏緒の身長差、そして夏緒の不器用さのせいで、よくメガネに触られてしまうのだ。 「――そういや藍沢ってさ、いつからメガネかけてんだっけ?」 「高1の2学期から。度は入ってないけど」 「なんか、メガネかけて生まれてきましたみたいな感じするよね。ナチュラル・ボーン・キラーってゆうかさっ」 「殺し屋かよ……いや、メガネあるほうがそれっぽいだろ?」 「頭いい人?」 「頼れる相談役」  夏緒との距離を縮めていく中で、信治が自分に課した「藍沢像」。  夏緒は信治が「どんな藍沢」か知らない。だったら好奇心旺盛でうかつな彼女の相談役を務めるメガネ男子こそが「そうゆう藍沢」だと思い込んでもらおう。信治の8年間の努力は、すべてそのためにあった。  果たしてそれは成功した。少しずつ距離をつめて、夏緒のとなりに収まることができた。でも。  10センチ――世界でいちばん頼りになる友だちの立ち位置を、どうしても詰めることができないのだ。だから。  今日も信治は「そうゆう藍沢」として、夏緒の相談に乗るしかなかった。 「そっかぁ。あー、まー、藍沢はね、そうゆうヤツだもんね」  あれ?  なんだ、その微妙な反応。俺、ちゃんとできてるよな? 夏緒の頼れる相談役。 「わかってるんだよ? わかってるんだけどさ。んー? わかってんかなあたし。ほんとに?」  ちょっと待ってくれよ。  俺はずっと、和久井が頼ってくれるメガネになる努力をしてきたんだぞ。今さらこれが「そうゆう藍沢」じゃないなんて言われても―― 「藍沢」  夏緒が激しくかぶりを振った。  そしてうつむいて、うなって、頬を抑えて、「よしっ」と気合を入れて。  真っ赤な顔を、まっすぐと信治に向けた。 「藍沢じゃない信治はさ、どうゆうヤツなんだろね?」  ――ずっと、「そうゆう藍沢」になればいいと思っていた。  でも今、夏緒は疑問をぶつけてきた。信治は「どうゆう信治」なのかと。 「藍沢はさ、和久井の頼れる相談役になりたい男だよ」  それは、これまで信治が築き上げてきた「和久井に認識してほしいそうゆう藍沢」だ。 「実はメガネキャラじゃない信治は、俺もまだ、どういう奴なのかわからないんだけど」  今にも溶けだしそうな顔をして、夏緒が信治をにらみつけている。  ずっと彼女を見てきた藍沢にはわかる。逃げ出したいのを必死でこらえていることが。  ずっと彼女を見てきた信治にはわかる。不安と期待でぐるぐるしていることが。  そして。  ずっと彼女を見てきた俺にはわかる。今、夏緒に話さなきゃいけないのは「藍沢」でも「藍沢じゃない信治」でもないことが。 「俺は」  夏緒の赤い手へ、信治の赤い手がおずおずと近づいた。 「夏緒と、手をつなぎたい」 「――みんなに気とかつかってもらってよかったねっ」 「報告とかどうしようか? 今さらなんだろうけどなぁ」 「きょっ、今日はあたしが話聞いちゃおっかなっ! 信治があたしのこといつ好きになったのかーとかっ」 「長くなるよ、8年分あるから。夏緒は今夜、帰れない」 「えっ? ぶ、分割で! 24回払いでっ!」 「3ヶ月分かぁ。明日までに終わるかな」  信治と夏緒の距離は、今もおよそ10センチ。でも。  ふたりの手と手が繋がっているから――きっと0センチ。