月の綺麗な夜だった。  欠けることのない真円は、黒い夜空にぽっかり空いた穴のよう。明るすぎて星の瞬きすら届かない。この夜の支配者だと言わんばかりに、月は夜空に鎮座ましましていた。  中秋ではないにしろ、鑑賞するに値する名月だったと思う。  けれど、見上げるものは誰もいない。  町からは人の気配が絶えている。まだ丑三つ時には早く、草木だってまだ起きている。だというのに、町はひっそりと眠りに就いていた。  遠くから聞こえる電車の音。おそらくは終電だろう。一般的な日本人は夜型にシフトしているのに、この田舎町はしつこく昔気質なのであった。  曰く。  ――満月の夜は出歩くな。狼男に食われるぞ。 「いやいや」  いやいやいや。  念のため補足しておくが、現在は二十一世紀である。世紀の大予言を華麗にスルーし、科学文明も煮詰まってきて、古き良きSFに現実が追いついてきている時代なのだ。  そんな時代錯誤な、しかも国まで違う民間伝承を引っ張ってきてどうするというのだ。  そんな益体もないことを考えながら、私は静かな町をそぞろ歩く。  何しろ綺麗な月だ。わけもなく気分が浮き足立つ。そんな自分に多少の嫌悪感を覚えないでもないが、この多幸感の前には些細なことだった。  月夜の散歩。図らずも月一の楽しみ。まるで月を独り占めしているかのような錯覚。見飽きたはずの町並みが、妙に愛おしく思える酩酊感。 「お巡りさんに見つかったらなんて言い訳しようかしらん」  いかんせん上下ジャージに、頭からすっぽりパーカーを被っている不審者ファッションだ。もう六月、そろそろ暑いのでなんとかしたいが、かといって代替案も思い浮かばない。  今夜は風もない。虫も鳥も鳴き出さない。どこまでも静謐で、実はこの町はとっくに滅んでいるのではないかという妄想が――  ぞぶり。  だから、そんな小さな音は、大きな違和感として私の耳に届いた。  がぶり、がぶり。  生々しい、生理的嫌悪感を催す音。脈絡なく昨日見たアフリカの動物ドキュメンタリーを思い出す。確かライオンがガゼルを狩ったところでチャンネルを変えたんだったか。  ざぶざぶ、ざぶ。  ぷん、と鼻につく臭いがあった。意識した瞬間、噎せ返るほど去来して吐き気を覚える。腥い、鉄さびの臭いだった。  要するに。  私は言いしれぬ不安を覚えながら、その方向へ跳んだ。  果たして、そこにあったのは。 「――――」  あまりに現実離れした光景に、意識が一瞬宙に浮いた。  古びた街灯。寿命が切れかかっているのか、チカチカと明滅する。その灯りが照らしているもの。  アスファルトの上に広がる真紅の水たまり。臭いの原因はこれらしい。よく見れば辺りの塀にも散らばっていて、派手な前衛アートもかくや。  そしてその上に、出所であったものが、見るも無惨な有様で散らばっている。  そう、散らばっていた。  道ばたにぶちまけられた、生物の教科書でしか見たことのないアレコレ。まだ瑞々しく、ピンク色に輝いている。本当にそんな形をしていたんだと、したくもない納得をしてしまう。  それらが収められていたはずのものは、ざっくり中央からえぐり取られている。几帳面なのか知らないが、そこまで徹底しなくてもいいだろう。空洞を作ってどうしようというのだ。何かを代わりに収めるわけでもあるまいに。  凄惨。  あとはもう、その一言で十分だろう。詳しいことを調べるのは警察の仕事だ。善良な一般市民としては、これ以上は一秒だって見ていたくない。  だが、そうも言っていられない状況だった。  水たまり――いや、正しく言い直そう。血だまりの上に、一つの人影があった。いや、人影というのは正確ではないかもしれない。だからといって他に適切な表現があるかも悩ましい。  第一印象は、青い、だった。清流のように美しい青。  しかし、頭から被った鮮血が台無しにしていた。赤と青のコントラスト、なんて繊細さとは無縁である。絵の具を溶かした水をぶちまけた感じ。  体格は人間のそれ。見慣れた制服姿。しかし、その頭部と臀部から生えたもの、そして露出した肌が決定的に間違っている。常識にあってはならないものだと主張している。  血に汚れた、青く輝く毛並み。頭の形は犬にも似て、尻尾が生えている。おおよそ生物学的にあり得ない構造。  ――つまり、青色の狼男が、血塗れ姿で死体の傍に立っていた。  いや、女子制服だから狼女?  私は半身に構えた。いつ飛びかかられてもいいように、あるいはいつ飛び込んでもいいように、慎重に距離を詰める。  狼女は呆然と死体を見つめていたが、やがてちらりと私を一瞥した。視線が合った、気がした。  弾丸のようだった。  狼女は一瞬で私との距離を詰めると、下からすくい上げるようにその爪を振るってきた。野球のアンダースローを連想する。狙いは腹部か。実に鋭い一撃で、もらえばモツを零すこと請け合い。  しかし、直線的で工夫がなかった。  愚直な一撃を、私は上半身をずらして捌く。そのまま腕を捕らえ、勢いのベクトルを変える。そのまま背負い投げの姿勢に持っていき、アスファルトに叩き付けた。  だん、と良い音がして、狼女は背中からアスファルトに落ちる。こふ、と口から息が漏れる音がして、そのまま大の字に寝そべって動かなくなった。どうやら一発で気絶してくれたらしい。  我ながら柔道なんだか合気道なんだかよく分からない技だなあと思いながら、慎重に狼女を観察する。さて、勢いでやったはいいけどこれからどうしよう。  ――不意にその姿が揺れた。陽炎のように揺らめいて、一瞬存在感が希薄になる。ざざ、というノイズが耳を掠めた。それも一瞬のことで、一秒後にはそこに大の字に寝そべった、 「――は?」  絶句した。思考停止。頭の中が真っ白になる。  そこには、大の字に寝そべって気絶した女子高生の姿があった。見慣れた制服だが、それはいい。人間が変身するくらいはよくあることだ。驚くポイントはそこではなくて、 「誰だッ!」  怒号と共に視界が白く染まる。私は反射的にその場から飛び退いて、手近な屋根の上に着地した。追いかけてくる懐中電灯の光をかわして、さながら怪盗のように夜の街を駆け抜ける。  慌てて色々飛び回った挙げ句、最終的にショッピングモールの屋上に辿り着いた。ここまで来れば大丈夫だろうと溜息を吐く。  ああ、肝が冷えた。今のはお巡りさんのパトロールだったのか、それとも自治体のおじさんか。とにかく気持ちを落ち着ける。動悸が激しくて暑い。ここなら誰にも見咎められないだろうから、ちょっとくらいフードを脱いだっていいだろう。  街を見下ろす。相変わらず真っ暗だが、先程の現場はにわかに明るくなっていた。懐中電灯の光がどんどん集まっていく。きっと今頃、あそこは大変なことになっているのだろう。そして明日の朝刊に思いを馳せ、憂鬱になる。  空を仰げば真円の月。真っ暗な夜空の中、唯一爛々と輝いている。  ルナティックの語源はそうだっけ、と脈絡なく思い出す。アレは怪物と相性がいいのだ。見る人がいるなら今の私はそれなりに絵になっているのかもしれない。  ……そろそろ家に戻ろう。興が醒めた。さっさとまともな人間の姿に戻らないと。  申し遅れた。私の名前は織戸圭司。  生まれながらの人狼というけったいな設定を持つ、どこにでもいる普通でありたい男子高校生である。