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『orc 』
一条・里子7142)&(登場しない)

 夏の日差しは、時に体力と共に、人間の思考まで奪っていく。
「……あっつぅ……」
右手に西瓜、左手にエコバッグをぶら下げて、一条里子は真夏の炎天下、アスファルトから立ち上がる陽炎の中を歩いていた。
 2時からの特売セール、本日は醤油にサラダ油と、台所を預かる者にとって必須の消耗品がお値打ち価格とあり、炎暑を承知で出かけたのだが。
 産地直送の西瓜が、広告外に安かったのは誤算だった。
 氷水でキンと冷やした西瓜が、子供用のプールでぷかぷかと泳いでいる様に暑気を払う、熊本産の巨大西瓜がまるごと一個、なんと驚きの580円。
 視覚の攻撃に合わせ、流通規格外サイズの大安売に、つい財布の紐が緩んでしまい、重量級の荷物を抱えて町中で遭難しかけている次第だ。
「……もう……無理、かも」
汗は額から顎の先へと頬を伝い、拭おうにも両腕にかかる負荷に腕自体が上がらない。
 どこか、冷房の効いた喫茶店にでも入って涼みたいところだが、それでは折角安売りに赴いた意味がなくなってしまう。
 主婦の矜持と生命の危機とを天秤に載せ、里子は歩道をゆらゆらと左右に揺れながら進む。
 芯まで冷えているせいか、西瓜が汗のように結んだ露を滴らせ、ぽたりぽたりと路上に染みを作る。
 あまりの暑さに、蝉の声さえ陽炎に溶けてしまったようだ。
 里子は、ふと足を止めた。
 アスファルトにべったりと張り付く、自身の影の端にかさかさと乾いた感触の……乾涸らびた何かが落ちている。
「カエル?」
関節を曲げた手足を広げ、直射日光と輻射熱のサンドイッチになった哀れな両生類に、両手の塞がっている里子は心の中でのみ合掌してまたぎ越そうとした。
 その時。
 西瓜から滴る水滴が干物の上に落ち、ジュッと音を立てて吸い込まれた。
「……ジュッ?」
いくら熱いとはいえ、水が瞬時に沸騰するような熱は有していない筈だ。
 いぶかしく足下を見た里子は、道路にへばりついた干物がむくむくと動く様を目の当たりにした。
「み、みぃずぅ」
「みみず?」
お約束のボケをかます里子に、カエル、否、常識的な生態系の範疇に属する生き物では到底適わない復活をとげたそれは、里子の二倍ほどの高さに細く大きく膨れあがった。
「みずをぉぉ……寄越せえぇぇ!」
両腕を頭上に高く掲げる形はそのまま、里子に覆い被さるように倒れ込んでくる影を、里子は冷静に見つめる。
 何というか……全体が希薄である。
 ともすれば向こうの風景が透けて見せそうな存在感の薄さに、里子は荷物の重さに任せて両肩を落とした。
「……問答無用です!」
だって暑いし。
 里子は、先と同じ場所に貼り付いたままの干物を、靴底で無残に踏みつぶした。


「ごめんなさいねえぇぇっ! ほら暑かったからあぁぁっ!」
井戸端会議モード全開で、里子は冷えた麦茶と共に大きく切り分けた西瓜を客の前に据えた。
「こちらこそ」
仏頂面で、しかし律儀に頭を下げるのは墨染めの衣に禿頭の……紛う方なき僧侶である。
「でもご縁っていうのはあるものなのね、ほら、何というか望外の幸運とか、そういう縁って大事にしたいと思いません?」
ころころと笑いながら、話を元に戻させまいと里子は奮闘していた。
 この僧侶、先の干物である。
「はるばる和歌山からいらして、こちらは暑かったでしょう? 海坊主さん」
更には、妖怪である。
 あまりの暑さに路上で乾涸らびていた海坊主を踏みつぶした後、さすがに哀れに思った里子は、本人の希望通り水を与えるべく指先でつまみ上げた干物を公園の噴水へと投じた。
 するとざんぶと水を割って現れたのが、僧形の海坊主だったというワケだ。
 それで言うと、海坊主はほとんど水で出来ているのだなと、里子は思わぬ事実に感心する。
 熱気に乾涸らぶのならば、無限に水に満たされた海中で山のように大きくなるのも理解出来る。
 どうぞどうぞと西瓜を勧める里子に、海坊主は正した姿勢で軽く礼をすると、スプーンを手に先ず種をほじくり出す。
 妖怪に年齢の意味などはないが、三十を少し超えた所の僧形が些か勿体ないような男ぶりだ。
「……あの、それでご用件は」
黙々と西瓜の種と格闘している海坊主に、沈黙に耐えかねた里子が本来の目的を問いかけるが、鋭い一瞥を食らう。
「食事中に、私語は厳禁」
思いの外、礼儀にうるさい海妖である。
 とはいえ、至極もっともな指摘に、里子も黙って己の分の西瓜を相手にすることにした。
 西瓜は大きければそれでいいということはなく、育ちすぎたものは水っぽいことが多い。けれどこの西瓜は大当たりで、しっかりとした果肉と糖度の高さが帰路の労苦を労ってあまりある。
 沈黙を幸いに、夏の風物を心底堪能した里子は、海坊主がスプーンを置くのを待って座を正した。
「まずは御礼を」
和装の袖を後ろに払い、あぐらをかいた海坊主が両の拳を床につくと、深々と頭を下げる。
「次の雨を待たねば動くことすら出来なかった拙僧に、水を与えて下さったばかりか歓待まで頂き、感謝のしようもございません」
踏みつぶした相手に礼を取られ、気まずさが先に立ち「いえいえ」としか返せない里子である。
「このようにお世話になった上で申し上げるのは、大変心苦しいのですが……」
海坊主が更に深く頭を下げるのに、里子は来た、と心中に身構えた。
 鬼に始まり河童に続き、地獄の顧客獲得騒動までと里子の周囲には妖怪絡み、しかも当事者の直接依頼で舞い込む騒動が多い。
「一条様ならば、我々の声を聞いて下さると伺い、まかり越した次第にございます」
 海の妖怪からの依頼であると……先ず考えられるのは環境汚染、温暖化。地球規模の問題であれば個人の手に余ると、里子は恐る恐る、無難な方向から攻める。
「えぇと、どちらの噂で……?」
「赤鬼殿のご紹介で」
またあの男かと、インパクトばっちりな新婚さんの片割れの、頭部の表面積の広いシルエットを思い浮かべ、里子はため息をつく。
「私に出来ることであればいいんですけど」
海洋汚染の巨悪を倒せとか、魚の乱獲を阻止しろとか言われたらどうしようと、即座の断りをシミュレーションしながら里子は予防線を張った。
「無理は承知の上で、老い先短いこの身の願い、お聞き届け下され」
海坊主の頭頂部が、傾きかけた日差しをうけてぴかりと光る。
「拙僧の娘を捜して頂きたい……!」
「お力になれる事でしたら!」
娘の一言に過敏に反応する、子を持つ親特有の連帯感に、里子は海坊主の両手をがっしりと握りしめた。
 どうも、妖怪相手にスポ根気味になるなと自戒しながら、里子は素材サイト運営に使っているノートパソコンを取り出した。
 海坊主の言に従い、手がかりとなる項目を、大手検索サイトの項目に入力する。
『和歌山 シャチ 網』
手がかりは、それだけだ。
 海坊主曰くところの娘とは、シャチのことらしい。
 果たして海坊主の娘とは、如何なる妖怪かと頭を悩ませかけた里子だが、子がシャチということは、海坊主は養い親ということちなる。
 家族とはぐれた幼獣と出会し、半年ほど一緒に暮らした。
 けれど、船のスクリューで怪我をしてしまい、このまま死んでしまうよりはと、定置網の内に入れて人の手に託したのだと海坊主は言う。
「シャチは寂しいと死んじゃうって言うものね……」
決してウサギの誤用ではない。
 シャチは、元来群れで生活する生き物だ。
 仲間意識も強く、情に厚い。実際、まだ生態が解明されていない折に、単体での飼育が不可能だと判明するまで、幾頭もが孤独の中、命を落としている。
 その筈が子供だけが海を彷徨う羽目になるとは、家族に何が起こったのか、些か悪い方向に思考が向く。
「今でも思います。あの選択は正しかったのか、あの娘の傍から離れるべきではなかったのではないかと」
沈痛な面持ちで、海坊主は里子の言葉を待っている。
 里子自身、我が子は未だ庇護下に居るが、彼女と暮らしを別にすることを思うだけで切ない。
 せめて、幸せで。そう願う親心は当然だ。
「たぶん、どこかの水族館に保護されていると思うんだけど……」
里子はそれらしき情報を目で追いながら、次々とページを切り替えていく。
 そして、ある項目で手を止めた。
「海坊主さん」
里子の声に、海坊主の肩がこわばる。
 思わず、そのまま沈黙を続けて「ファイナルアンサー?」と聞きたくなるが、悪戯心はぐっと押さえて、里子はノートパソコンを閉じた。
「娘さんに会いに行きましょうか」
海坊主に否やなく、里子はそのまま交通手段の確保する為の検索を開始した。


 夕食の席で、里子は唐突に、盆の休暇を如何に充実させるかの家族会議の開催を希望した。
 夏と言えば海。夏と言えば山。夏と言えば怪談。
 それぞれの主張が別となって紛糾する筈の旅行の計画は、事前に里子が綿密に立てておいた計画表を前に、夫と娘を沈黙させることに成功した。
 場所は千葉、海の幸、山の幸がふんだんに味わえながらもちょっぴり不穏な噂が流れている為、リーズナブルな価格で直前の予約にも対応可能だった温泉宿を始め。
 乗馬や乳搾りが体験出来、近くには釣り堀もある山間の観光施設を巡った後、里子は本来の目的地である海際の水族館に至った。
 日本で最初にシャチの飼育を始めたという歴史ある水族館は繁殖を成功させ、水族館で生まれた個体のショーが楽しめることを売りにしており、飼育頭数が最も多い。
 野生のシャチを捉えた場合は、学術研究を目的としている前提に、調教などが施されることはない。
 水族館にほど近いリゾートホテルに一泊の予定を立て、里子は海風に吹かれながら海沿いの遊歩道を歩いていた。
 夕日が沈みかけている中、散歩ついでにコンビニにアイスを買いに出ると、家族には言い置いてある。
 幸い、娘は夫を相手に卓球に夢中である……リゾートホテルに、なぜ卓球。甚だしく雰囲気を壊している気がするが、設備が整っているのはいいことだと、無理からに自分を納得させ、里子は小振りのショルダーバッグから瓶を取り出した。
 ジャムの空き瓶を活用したその中には、海坊主の干物が入っている。
 家族旅行に妖怪を混ぜ込んでもらうわけにはいかないと、海坊主は知り合いとして参加すればという里子の提案を固辞し、もっともコンパクト、且つ邪魔にならない姿で同道したのだ。
 ご家族が戻る前にと、海坊主が自分を脱水機にかけろと言い出した時には戦慄したが……ベランダの隅に座禅を組み、翌朝そこをのぞくと見事に乾涸らびていた為、問題なく連れ出すことが出来た。
 里子は瓶の蓋を開けると、周囲に人気がないのを確認してから、瓶を思い切りよく海へと投げ入れた。
 海坊主単体では、風に飛ばされて車に轢かれかねないという配慮からであり、決して不法投棄ではない。
 とっぷんと波の間に瓶が呑まれたと思った瞬間、噴水で見たのと同じように、水中からのっそりと海坊主が立ち上がる。
「海水は……いい」
やはり真水では何か思うところがあったのか。しみじみと呟く海坊主に、里子は大きく手を振った。
「お疲れ様ー! あそこがそうよー!」
海坊主の注意を引きながら、里子が指で示すのは、水族館の裏手……海に面し、生け簀のようにしてネットの張られた場所だ。
「彼処に」
海坊主の姿がむくりと大きくなった。
 表面積が広がるにつれ、手足や顔と言った細部が形を失い、大きな水の固まりになる。
「ちょ、ちょっとちょっとー! 待ちなさい、娘さんに会いたいなら、人型に戻って! ナイターチケット取ってあるんだから!」
水族館が主催し、展示されている生物の夜間の姿が見られると人気のツアーである。
 本当ならば、家族全員のチケットを取りたかったのだが、如何せん空きがなく、一枚しか入手出来なかった。
 それを、海坊主に提供しようと言うのだ。
 里子の制止に、表面張力でゼリー状の姿を保った海妖は、しばし悩むように動きを止めるとしゅわしゅわと水を吹き出しながら僧形の姿に戻ると、浜から道路へと上がってきた。
「シャチの水槽まで係員さんが案内してくれるけど、すぐ脇にあるショーの観覧席に行ってね。解る?」
世間ずれした妖怪に、単独行動を強いるのは気が進まないのだが、自在に乾涸らびるという器用な真似の出来ない里子に同行する術はない。
「海の香りの方向に行けば、問題ないかと」
里子の差し出すチケットを受け取り、海坊主は自信を持って答えた。
 海の傍らで、そう案じる心配はないのかと、里子は安堵の息を吐く。
「私はここで待ってるから。いってらっしゃい」
促す里子に深々とお辞儀をして、海坊主は逸る様子で足早に入場門の中に姿を消した。
 その後ろ姿が屋内に消えてしまうまでを見届け、里子はさて、と呟いて腰に手を置く。
「……ここからが一仕事よねー」
里子は、海坊主に一つ嘘を吐いた。
 正確には、大切なことを言わなかった……けれどもそれは、海坊主の願いを叶える為なのだと、胸の奥でちりりと疼く罪悪感を説き伏せる。
 里子は、その場にサンダルを脱いだ。
 浜辺より高く作られた道の端から、ひょいと砂浜の上に降りると、波打ち際に歩を進めて、足首を水に浸した。
 足の裏で砂が動き、くるぶしを波が撫でる。
 里子は前屈の体勢で、両手を海に入れると、目を閉じた。
 これから成そうとしている事は本来、自分の領分ではない。故に、里子はそれが成せる相手に助力を請うた。
 彼女に最も近しく、父や母にも似た想いを自分に注いでくれる守護者に。
 里子の唇が動く。声が、水を震わせる。水に入った里子の四肢を中心に水の輪が生じ、拡がり、波すらも打ち消して水面を鎮める。
 里子の喉が紡ぐのは、魂呼ばいの音。
 低みから高く、長い、長い息は黄泉に下った者の魂を、現世に呼び戻す。
 鏡のように静まった水面に、つぷりと波紋が浮かんだ。
 其処始点に、水はシャアァと弧を描くようにして弾かれ、水脈を作る。
 その動きを作る、存在が里子の正面に大きく輪を描きながら、徐々に浮かび上がってきた。
 独特の質感を持つ背びれはシャチのそれだ。
 海洋ほ乳類の中で、食物連鎖の頂点を極めるとされる、海の怪物、シャチだ。
 里子は顔だけを上げると、薄く目を開いた。
 ちょうど、夕日を背景にしたシルエットに、眩しげに細めた眼は、いつもの彼女の、明るい空色のそれには見えない。
 睫が落とす影に、まるで漆黒の瞳であるかのようだ。
「父御のお迎えじゃ」
古めかしい口調で、里子は言う。
 それを合図に、シャチの背びれがとぷんと水に沈み。
 里子の見つめるその先で、シャチが水面を蹴って空中に躍り出た。
 流線型の美しい姿態、黒と白のコントラストは、水に濡れて更に艶を増している。
 シャチは、思いの外澄んだ声で、一声鳴くと水族館の方向へ泳ぎ去った。
 里子は、それが親を呼ぶ子の声であることを知っている。
 ネットで調べた折、シャチを特集した動物番組の動画があった。
 シャチの子に寄り添う親の鳴き声に対して、子が同じ声で応え、甘えていたのだ。
 海坊主の娘は、水族館に保護された後、数年してから子供を産んだ。
 そして更に数年経ってから、生涯を終えた。
 自然の下では、シャチの寿命は七十を超えると言う。
 それから考えれば、遙かに短い命であり、保護のそれ自体、人の手によって自由を奪われたと言う声もある。
 けれど、里子は子を得られたその事は、間違いなく彼女の幸せであったと信じて止まない。
 そして彼女が生きた証を目の当たりにすれば、彼女の父は重い後悔から抜け出すことが出来るだろう。
 里子はもう一度目を閉じると、うんと腰を伸ばして空を仰いだ。
 細く、遠く、養い親に甘える子供の声がする。
「ありがと、貸しにしといてね」
里子は空に、そう声をかけた。
 傍から見て、紛う方なき独り言のそれに、どこからともなく、水くさいわと声がして、里子の後ろ髪をくんと引っ張った。
PCシチュエーションノベル(シングル) -
北斗玻璃 クリエイターズルームへ
東京怪談
2009年08月24日

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