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『【 太陽と月に背いて 中編 】 』
鬼丸・鵺2414)&魏・幇禍(3342)&黒須誠(NPC2503)




溺れそうな黒だと、空を見上げた。

月のない夜の話だ。

掌をゆらりと揺らめかせる。
風が、銀色のメッシュが入った黒髪を舞い上げた。
星すら見えないビロードの如き艶やかな空の色に、幇禍は小さく息を吐く。

東京の闇は、他の何処よりも、ほんの少し深い。

「溺れそうだ…」

暗闇が肺を満たしていた。
コプリ…と気泡が空に上る幻を見た。

いや、ずっと前から溺れていた。
生まれたときから溺れ続けていた。

虚ろな眼差しを空に向けていた幇禍は、黒々とした建物の影がそびえ立ち、周りを取り囲んでいる情景を無感動に見渡す。

そろそろ、人の輪郭も限界に近付きつつあるらしい。
何も感じない。
感動も、恐怖も、焦燥も、郷愁も。

ただ、鵺に会いたいだけだった。

湿り気を含んだ夏特有の風が吹き渡り、廃墟の街を通り抜けていく。


『幇禍君と初めて出会った場所で待ってる』

胸ポケットに入れてある携帯を取り出し、鵺から届いたメールを眺める。

「まってる」

平坦な声で、読み上げた。
此処に来るまでに、何回も、何十回も読んだ文面。
彼女から送られて来た言葉だと思うと、殊更に愛おしかった。

指定された時間が間もなく来る事を確認して、幇禍は歩く。
律儀な彼は、鵺との約束を何よりも大事に、強固に守る。
指定された時間ぴったりに、彼女の待つ場所に到着できるよう歩幅を調整しながら、彼は自分が微笑んでいる事に気付かずにいた。


ここは、東京の都心から、それ程離れてはいない郊外にある、バブル最盛期に、森を切り開き高級住宅街として売り出す予定だったゴーストタウン。
建設途中のマンションが無残に鉄骨を覗かせ、途中まで舗装された道路などが、虚しく敷かれたまま、放置されている。
バブルが弾け、建設計画が白紙に戻った為に、廃墟と化しているその場所は、今や、専らよからぬ連中の、よからぬ取引場所や、無軌道な若者達の溜まり場となっていて、滅多と一般市は近付かない。


闇の中、夜の建設現場に不可欠な仮設照明の強い光に照らされた、廃墟の全貌が浮かび上がる。
建設途中のまま、放置された高級マンションになる筈だったビルが立ち並び、幾本もの鉄骨が転がっていたり、地面に突き立てられている姿が、眩すぎる程の白い光に浮かぶ様は、世界の終焉後に見られる風景とはこのようなものかも知れない…と思わせる殺伐さと、奇妙な美しさに満ちていた。

ザクリと靴底が砂利を擦る音が響く。

幇禍の目の前にあるのは、荒涼とした風景の中で、ハッとする程、不気味に見える十字路。
逢魔が時には人ならぬ者を導くという、交差する形をとった四つ辻である。
ここで、鵺と初めて相対した。
雨の中、彼女に、悲しい別れを告げられたのもこの場所だ。

約束の時間ぴったり。

薄い唇が緩やかに開く。

「おーじょーうーさぁーーん…」

空虚に響き渡る声。

「約束の お時間です」


声に笑みがたっぷりと含まれた。


「次にお会いする時を 
   
    心より
     
      お持ち申し上げます」


それは、幇禍にこそ相応しい台詞だった。

心より待ちかねた。

やっと、会える……。
鵺に、会える。


四辻の向こうから赤い番傘を差した少女が一人。

ひらり
 ゆらり
  くらり
   ふわり

彼女でしかありえない、たゆたうような軽やかな足取りで此方に向かって歩いてきた。

黒い着物。
裾に赤い曼珠沙華の模様があしらわれ、夏の風に吹かれて舞い上がる。
真っ白な白足袋を履いた足には、赤い鼻緒があしらわれた黒塗りの下駄を履き、番傘の奥に見え隠れする真っ白な頤と、血のように赤い唇が酷く艶かしかった。

「鵺…」

掠れた声で名を呼んだ。
漆黒の風が二人の間を通り抜けた。


「随分と……」

傘の奥の赤い唇が微かに動く。

「随分と…可哀想な顔をしているね」

傘がゆるゆるともどかしい速度で上がる。

銀色の髪が零れ落ちるかのように幇禍の目に入り、次いで真っ赤な、この世のどの宝石よりも美しい色をした瞳が幇禍を射た。
白い指先に飾られた、スタールビーの指輪と同じ色。
知らず自分の指を飾る漆黒のオパールに指を這わせる。

鵺の大きな目が、細められ慈しむような形になる。

「…寂しかった? 鵺に会えなくて」



息を呑む。



幇禍は憐れなほどに、己の心臓が早鐘の如く打つ音を聞いていた。

これ程、この人は、美しい人だったろうか?

記憶の中にある鵺は、確かに美少女と呼ぶ他ない整った外見を有してはいたが、その美しさは、まるで魂があるとは信じられないような、人形めいた美しさに留まっていて、精巧さに見惚れるような、芸術品的美貌の範疇にあった。

人でないような。
人でないような。

そんな生き物。

それが、鵺。



しかし目の前にいる鵺は、その全身から香気すら感じさせる程の色香と、生命力を発していた。

銀色の髪が揺れていた。
強い光の下キラキラとした光を周囲に放つが如く、その銀糸の揺らめきは、幇禍の心を捉えて離さない。

瞳の赤と、肌の白とのコントラストが強烈なまでに目に焼きつく。
黒い着物の襟から伸びる、細い首がくたりと曲がる。


「鵺は寂しかったよ」


銀色の長い睫を瞬かせ、まるで、幇禍の罪であるように、鵺は再度言った。

「幇禍君。 鵺は寂しかったんだよ?」
「申し訳ありません」

詫びた。
為す術もなく。
他に言葉も見つからなかったので、素直に、幇禍は詫びの言葉を口にした。

「申し訳ありません。 もう、二度と…」

懐に手を入れる。
握り締めるのは冷たい銃身。

「もう二度と、寂しい思いはさせません。 永遠に」

鵺は鮮やかに笑った。

「永遠?」
「はい」
「いらないよ?」

赤い番傘が、宙に舞った。
黒い着物を翻し、鵺は面を帯より取り出す。

「永遠! ないよ? そんなもの。 それ自体が寂しいから!」

ヒラリ、光に翳すは、ほの白き面。
どんな容貌かは強い光に照らされ見えない。

真っ黒な影と化したビルや建物を背景に、眩く白い光の中で、真っ赤な傘が刹那、幇禍の視線を遮るが如く、その眼前でくるくる回りながら落ち、その向こう側、面を着けた鵺が袂を翻しくるりと回って身を翻す。

まるで、全てが芝居じみて。
まるで、全てが幻想めいて。

現実ではないみたいに。
現実ではないみたいに。

考えてみれば、鵺と出会ってから一度だって、現実を生きてる心地なんてしなかった。

そろそろ終演。
夢の終わりだ。

くらくらと幇禍は惑い、手繰り寄せられるように彼女を追う。

「キャハハハハハハ!!」

鵺が笑った。

「鬼さん こちら!」

パンッと、手を打つ音が響き渡る。



「手の鳴る 方へ」



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「出来た」

小さく呟いて、手の中にある打ち上がったばかりの面を日に翳す。


ここは、青山にある静かなホテル。
喧騒を避ける為に、最上階の部屋を用意して貰った。
父親の知り合いが経営しているとかで、中学生の身の上でもすんなり最上級の部屋を用意して貰えて助かった。


面を打つ際、相手が手強ければ、手強いほど、精神を集中させる必要がある。
静かな環境は、困難な面打ちの際の必須環境だったので、この静謐さは鵺にとってはありがたかった。

あれだけ一緒にいたのにね…。

それでも、幇禍の面打ちは困難を極めた。
魔女よりも、手こずったかもしれない。

それはきっと、鵺にとって思い入れの深い人物だからだ。

誰よりも。
そう、誰よりもずっと傍にいてくれた。

だからこそ、どうしても感情が阻害して、彼の内面を面に具現化するまで時間が掛かってしまった。


「あふっ」


早朝から面打ちに打ち込んだためか、眠気に襲われ、小さな欠伸を見せつつ、「さてさて!」と呟き、ふかふかのキングサイズのベッドを名残惜しげに眺める。

「時間があれば、お昼寝とかしちゃいたいんだけどねぇ…」なんて呟いて、それからぐるりと部屋を見回す。
綺麗なシャンデリア、天蓋付きのベッドに、大きなテレビ。
短時間しかすごせなかった事が、惜しい位の豪華な設備に、「また、別の機会にね!」と声を掛けつつ、部屋を出る。

向かうは決戦の場所、二人が初めて出会ったゴーストタウン。

これから、幇禍と繰り広げる死闘を思うと、とにかく人目に付かない場所、そして、戦闘中、自分の身を隠せる死角が豊富に存在する場所が望ましいと考えられる。
ならば、鵺が知っているそんな都合の良い場所は一つしかない。

結局全ては、あの場所から始まった。
決着も、同じ場所で着けるのが相応しいのだろう。

人殺しのプロフェッショナルである幇禍との戦闘力の差異は、よく理解している。
よく理解しているからこそ、鵺は、慎重に、そして自分が取れる最大限の策を練って、幇禍と相対する事を決めた。



ホテルのロビーに出れば、既に車がエントランスに用意されていた。
父親が手配してくれたリムジンに乗り込めば、何も告げずとも、滑るように車は発車した。
広い車内で、鵺はだらしなく腰掛けて、瞼を綴じ思考を巡らせる。
この車のトランクには、予め手配を依頼しておいた、これからの作戦に必要な様々なアイテムが乗せられている筈だった。
中には随分と物騒なものもお願いしたのだが、まるで、日頃、鵺が、服飾品等の欲しいものをおねだりした時と同じような反応を見せて、全て用意してくれた義父に改めてとんでもない人間だと嘆息する。

緊張感漲る心境であるかと言えば、そうでもなく、鵺は普段以上に平静でいる自分を訝しみながらも、自分は随分と前から、この事態に備えて心構えをしてきた事を思い出した。

名無しにだって言われた。


分かっていただろう?と。
あれは、神様の範疇の生き物。

いつも守られていたからこそ、彼の強さは痛いほど分かっている。
分かっているんだ、そんな事は。


中学に入学したばかりの頃、ほんの少しばかり、学校に通ってみた時期がある。
入学金を払ってくれた義父の手前、形ばかりは学生をやってみようかと気紛れを起こしてみた頃の話だ。
カトリック系の学校だったので、宗教教育にも熱心で、聖書を常に持ち歩かされた。
あの時、存在を微塵も信じていなかった神様と、先日相対してしまった。
しかも、その姿形は、ずっと一緒に暮してきた、鵺にとって何より大事な人の形をしていて…。


皮肉なもんだと嘆息した


祈ってみた時期もある。
神様に、助けてよと。

暗い土蔵の中で、実母に虐げられ、存在を獣以下に扱われ、生きてる価値もないと蔑まれた。
犬のように飯を喰らい、暗闇の中で、見様見真似で両手を握り合わせてみた事もある。


神様、助けてよ と。


届かなかったのか、聞こえなかったフリをしたのか。
どっち? ねぇ、どっちよ、神様。

問い掛けたとて、あの男は返事をくれないだろう。
別段構わない。
そういうものだ、祈る対象なんて、そんなものだ。


革のシートに身を任せ、ゆらりと一瞬意識が下降した。
自分の中に棲まう妖怪達に、呼びかけようかと試みて、まだ皆には会わない方が良いと思い直した。




リムジンから、ゴーストタウン手前で降ろして貰う。
こんな場所で降りる、自分に対して何一つ疑問をぶつける事もなく、積んでいた荷物を全て降ろして、リムジンの運転手は深々と鵺に頭を下げると、そのまま何事もなかったかのように走り去っていた。

義父が新しく雇った運転手だろうか?

彼のお抱えならば、常人に比べて随分肝が据わっている事にも納得出来る。
鵺はとりあえず、力自慢の「大入道」の面を付け、ひょい、ひょいっと、木箱を抱え上げると、スタスタと目的地に向かって歩く。
懐かしの廃墟は、最初に見た頃よりも、さらに寂れた姿を晒していた。

日のある内に、この場所の地形を把握し、地の利を得られるよう全て検分しなければならない。


幇禍との待ち合わせ場所に指定した四辻を越え、彼を誘導しようと目論んでいる、廃墟で最も目立つ、背の高いビルの前に立つ。


高く、高く聳え立つ姿は、まるで、バベルの塔。
かってバビロニアの民が、天に届く事を目指して建設し、神の怒りに触れ、元々は、この世の全ての民が同じ言語を話していたのを、バラバラにされてしまった、「バラル(混乱)」の原因。

新約聖書により、キリスト教文化圏においては、バベルの塔が建築されたバビロニアは退廃した都市の象徴ともされていて、なる程、この廃墟のあり様は、退廃以外の何物でもないと、辺りを見回してみた。

ラクガキ等も目立つ灰色の建物の中に足を踏み入れる。
足音の反響音で、天井からパラパラと、瓦礫の粒が振り落ちてきて、激しい戦闘を行えば、この建物は呆気なく倒壊してしまうかもしれない…なんて危惧を抱く。
アイテムの入った木箱を床に置き、「大入道」の面を外して、昼間打ち上げたばかりの幇禍の面を装着する。


知りたいのは「彼ならどう動くか?」という、その一点。
全身に行き渡るのは、暗殺者として、一級の才を持つ彼の思考回路。

ビル内部を見回す。
先ほどまでの風景と全く違って見える。

木箱の中から、黒く塗られたワイヤーを取り出す。

「…ここは、暗闇」

建設現場に放置されたままの、仮設照明達がまだ使える事は確認してある。
如何に、動体視力が人間の範疇を遥かに凌駕している幇禍とはいえ、視神経自体は人のソレと同じ機能を有している。
ビルの外は、仮設照明の強烈な光を使って白く照らし、一転、このビルの内部には一切の光が届かぬよう、照明位置を工夫する。
光に慣れた目が、暗闇の世界に飛び込めば、暫くの間は視界は全く使い物にならず、また、暗闇に慣れた目に、光の世界は眩過ぎて、視界を得るのに時間が掛かる。
二階に、照明の光を持ち込めるかどうか確認しつつ、トン、トントンと、階段を登る
ビル自体はエントランス部分から、最上階まで吹き抜けになっている作りにしようとしていたようで、見上げれば、四角く切り取られた青い空が見えた。

「ふう…ん…」

頷いて、それからとりあえず最上階まで、丁寧に各階の様子を見ながら確認すると、次いで、ビルを出て、廃墟の様子全ての検分に取り掛かり始めた。




用心に、用心を重ねたとて未だ足りない。

公園を作る予定だったらしい、ゴーストタウン全てを見渡せる丘の上にある荒れ果てた広場に立つ。
双眼鏡を覗き込みつつ、脳の活性化に良いという糖分を摂取すべく、棒付きキャンディを咥えて、それから、その場に胡坐をかいてしゃがみ込んだ。

バサリと広げるは廃墟の詳しい地図。
実際に検分した状況と地図を照らし合わせ、脳内で組み立て、赤ペンで罠の張る位置を書き込んでいく。
面を付けたまま、地図を見ていると、幇禍の視界においては、世界はこれ程、殺伐としたものに見えていたのかと切なくなった。
どの場所も、どの位置も、人を殺すに適しているか否か、身を隠すのには適切か、どのような罠を張れば良いか、逆に、罠の仕掛けられている危険性をどれ位考慮すれば良いのか…目まぐるしく思考がめぐらされ、判断が適宜行われていく。
面によって得られる力は、当人の持つ能力には遠く及ばない。
つまり、今、鵺が思考している事柄よりも遥かに膨大な、そして緻密な計算を、幇禍は戦闘前や後ろ暗い仕事の前には行っているのかと思うと、眩暈を覚えるような心地がした。


想像を遥かに超えていた。
こんな世界に生きているのかと、これまで、こんな世界に生きていたのかと、鵺はとてつもなく寂しくなった。


鵺しかいなかった、幇禍君。
こんな世界に、鵺は、君を一人ぼっちにしちゃったんだね……。

荒れ果てた広場。
足元に黄色い小さな花が咲いていた。
名前なんて知らない。
名前なんて知らない。

だから、何も感じない。

鵺は、怖くなって、面を外す。

深呼吸をして、花を眺めた。


可愛い花だ。


心から思えた。


何度も何度も瞬いて、鵺は風に紛らせるように「可愛い花だよ」と呟いた。
かって神様に捧げた祈りよりも、ずっと、ずっと切実に、幇禍に届けば良いと願った。

青い空を見上げる。
生命力に溢れる雑草達を見回す。
自分の心臓に手を当てる。


「会いたいよ」

幇禍君。

「今、君に教えたい事がたくさんあるんだ。 君に知って欲しい事がたくさんあるんだ。 届かなくても良いんだ。 聞いて欲しいんだ。 鵺の言葉を、聞いて欲しいんだ」


夏の風が吹いた。
切なくて鵺は笑った。


幇禍の面を打つ事は、今朝方思いついた策だった。
全ての思考に及ばぬとも、彼の能力の一端でも継承出来れば、彼と相対した際に有利かもしれないと考え、打ちあげた。

「良かったぁ…」
草むらに足を投げ出し、鵺は呟く。


「良かった、幇禍君の世界を知る事が出来て」


花は綺麗なんだよ。
世界は君が思ってるほど汚くないよ。
鵺以外にも、幇禍君のことを大事に想ってくれてる人がいるよ。

教えてあげよう。
一緒に、知ろう。

目を閉じる。
息を吸う。

銀色の長い睫が風に揺れた。
静かに微笑を浮かべた鵺は、本当に綺麗で、誰も見ていないのが惜しい程に綺麗で、綺麗で、赤い目玉をゆらりと揺らめかせながら瞼を開くと「うし」と気合を入れ直し、また、面を着けると、地図に赤ペン片手に向かい合った。




策を練り、罠を張る。
罠の詳細を書き込んだ地図に従い、力仕事は「大入道」の面を被り、繊細で細かな仕事は、手先の器用な「百々目鬼」の面を被って行った。
その名の通り、腕に百もの目を付けてスリ等を得意としていた女の妖怪「百々目鬼」は、ワイヤー等を使った、細かな作業を行う時に重宝して、腕の先に出現した目玉で詳細を確認しながら一つ一つ丁寧に仕込んでいく。

全てに引っ掛かるだなんて思ってはいない。

むしろ、どれだけ策を張り巡らせようとも、所詮素人の、付け焼刃。
幇禍からすれば、失笑物の稚拙な罠ばかりなのだろうとも理解していた。


だが、どれだけバレバレの罠であっても、その罠を回避する為の時間が必ず必要となる
鵺がこの罠達によって狙っている、最大の効果は「時間稼ぎ」。
待ち合わせ時間は深夜。
空を見上げれば、既に日は落ちかけて、鵺は、手元を照らすべく、仮設照明の灯りを灯して回る。
指先を土で汚し、綺麗に整えてある爪を欠かしながら、それでも、鵺は、幇禍を迎え撃つ準備を着々と進めた。






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黒い着物は闇に紛れ、銀色の光を弾く髪と赤い曼珠沙華の散る裾を目印に後を追う。

幇禍は夢中になって駆けながらも、張り巡らせた神経が、危険信号を受信し、爪先にチリリとした気配を感じて、不意に一歩踏み出すのを思い止まった。

軽く足を前の地面に乗せてみれば、明らかに他の床面に比べて柔らかい。
確認するまでもなく、神経を研ぎ澄ませて、足元に仕掛けられているらしい罠を迂回すれば、その瞬間、足首に「クン」と突っ張るような違和感を覚えた。

咄嗟に前方に跳び、転がりながら、背後を確認する。

ヒュッ!!と鋭い音がして、何本もの先を尖らせた鉄矢が自分が先ほどまで立っていた場所に突き刺さっていた。

「へぇ…」


幇禍は笑う。

白い光に包まれたビル前の広場。
張られているワイヤーは案の定白く着色されて、光に紛れ見えなくなっている。
見回せば、そこらかしこに罠の気配を感じた。

「へぇ……」

肩を揺らす。
右目を覆っている眼帯を外した。
片目の視界よりも、遥かに視界が広がる。

「嬉しいなぁ…」

目を細め、愛しさのあまり心底呟いた。
準備をしててくれたんだ。
俺に会う準備を。
俺の事を考えながら。
あの白い指先を汚して。

鵺お嬢さんが。
俺の為に。

俺の為に。

「嬉しいなぁ…」


ニコリと穏やかな微笑を浮かべ、鋼線が張り巡らされているらしい前方に向かって、懐から取り出したナイフを数本素早く投げる。
その瞬間、四方八方から降り注ぐ鉄の矢を眺め、爪先に神経を集中させて歩みを進める
違和感のある場所は回避しつつ、「よく勉強してあるな…」なんて思わず感心した。

ブービートラップ

戦争において、自らのテリトリーに侵攻する敵に備えて警戒線に張る、殺傷能力を備えた罠達。
日本では、南ベトナム解放民族戦線、通称ベトコン(本来は蔑称として使われていたものが、定着してしまったという背景を持つらしい)が、米軍の侵攻に対して駆使し、劣勢にも関わらず、兵士達に悪夢的トラウマを残すほど苦しめた事によって広く名が知られるようになった。
単純な仕掛けから、精緻な物まで種類は多々あるが、鵺が仕掛けたもの達は、素人が張ったものとしては充分賞賛に相対する出来栄えだと、幇禍は感嘆する。

それこそ、油断して前進すれば名前の通り「Booby(間抜け)」宜しく全身ハリネズミの如き状態になっていただろう…なんて思考しながら、ビルの入り口手前に足を踏み出した瞬間「ガシャン!」と大きな鉄音を立てて、自分の足が物凄い力で締め上げられるのを知覚した。

「あーあー…」

思わず呻く。

仕事時、足音を殺すために靴底に緩衝材が仕込まれたブーツの足首を鋭い歯を供えたトラバサミが見事に咥え込んでいた。

「…油断…してました…ね?」

思わず小首をかしげながら頭を掻く。
しゃがみ込んで確認すれば、黒く塗られたトラバサミは、ビルの外の強烈な光のせいで更に色濃く塗りこめられた闇の中絶妙な位置に仕掛けられており、横を見やれば、鉄骨や瓦礫が放置されていて、無意識に幇禍が、この位置を通るように仕組まれていた事に気付く。

「うううん…」

思わず唸る幇禍。
これは素人相手などと侮っていては、本気で命を落としかねない。
手早くトラバサミから足首を解放させ、強固なセラミックの糸にが仕込まれたブーツだからこそ、自分の足首の先に足がくっ付いてくれている事を確信する。
それ位のトラバサミの圧力と、刃先の研ぎ具合に鵺の本気を感じつつ、「こんな女子中学生、絶対いない、他にいないっていうか、いたら怖い…」と、慄きながら呟き、建物内に足を踏み入れた。



外の眩さから一転した、真っ暗闇に視線が慣れるのを待つつもりはないらしく、上空より、突如、銃弾が降り注ぐ。

連続した銃撃は、間違いなくマシンガンの仕業。

なんつう物騒なものを渡すんだ…と、入手先であろう自分の元雇い主を恨む。


素早く暗闇に慣れる為に、目を閉じたまま、気配を探って、その銃撃を避けた。
建物内部の構造は、まだ理解しきれないが、銃声の反響音、音がしてから、ここに到達するまでのタイムラグを計算すると、この階層より、ある程度上空より銃撃が行われていると判断して間違いないだろう。

然るに、この建物は吹き抜けの構造をしており、鵺は、建物の上階に存在している事になる。
天井までの高さを視認しなければ、どの階層に、鵺が存在しているのか一概に判断は出来ないが、日本の一般的マンションの床から天井までの平均の高さに照らし合わせれば、せいぜい此処より三階層程上の場所より狙ってきていると推測するのが妥当だ。
銃の腕前は、かなりの物だと判断できるが、この銃弾の癖や、軌道の精密さを見るにこれは…「俺だ…な…」と呟き苦笑する。

あの時、白い光のせいで確認出来なかった面は、俺の面だったのか…と気付き、それから「ならばこの罠配置も頷ける」と納得した。
目を閉じたままでは、足元に張られているワイヤーを避け切れず、引っ掛かり、つんのめって地に伏せた所を転がり鉄の矢を避けようとすれば、そのまま、暗闇の中、深く掘られた穴に転落した。

咄嗟に、懐からナイフを取り出し壁に突き立てる。
次いで、ブーツの爪先踵に仕込まれたスイッチを、押すようにもう片方の足をぶつけると靴底に出現したスパイクを壁に引っ掛け落下を防いだ。

ふーっと息を吐き、「まさか、こんなとこで、通販アイテム万能ブーツ(「憐れな子供 後編」に登場の万能靴の改良版。 ブーツにも、スパイクにもなります! 今なら、サービスで、足音を殺せる緩衝材&セラミックで丈夫な作りにカスタマイズ☆)が役に立つ時が来るなんてなぁ…。 通販で買う前は『凄い!』って、喜んで買ったは良いけど、山登りの趣味一切ないし、そもそも、スパイクが必要な岩壁とか、氷壁を登る事態が、将来に渡って一切想像できない俺の元で、予想通り日の目を見ないまま、ここまで来たお前が、こんな風に鮮烈デビューを果たすとは…」と感慨深げに呟きつつ、よっこらしょっと穴から這い出し、再び「ねぇ? それ、どういう作りになってるの? まさか、それも通販アイテム?」な内ポケットより、絶対、そのサイズは入らないよね?な懐中電灯を取り出して、穴の底を照らしてみる。


「わぁ…」


思わず呻く声には「見なきゃ良かった!」な後悔も多分に含まれており、穴底に「すんごく刺さるよ?」ってな風情でびっしりと聳えている針の山に「…女子中学生の仕業じゃない、絶対女子中学生の仕業じゃないっていうか、多分、うん、お嬢さんは閻魔様…」と幇禍は虚ろに呟いた。

ここまで本気印とか、多分、本家のベトナムゲリラ兵もやってくれちゃってはないんじゃないかな?とか考えていれば、また銃弾の嵐が幇禍を襲ってきた。

向こうは、どうにも、此方に一息つかせる気はないらしい。

見上げる余裕すらなく、ナイフを闇雲に四方に飛ばし、ワイヤーを切り裂き、降り注ぐ鉄槍を避けて、階段へと走り込む。
そのまま、駆け上がれば、階段途中、カチっと嫌な音をするスイッチを踏む気配がして、咄嗟に身を伏せれば、また、洒落にならない鉄球が、鉄鎖につながれたまま、ブォン!と強烈な風圧を生みつつ幇禍の頭上スレスレを通過して、背後の壁に轟音を立てて埋まった。

「………」

伏せたまま冷や汗が背中に浮かぶのを感じつつ、そのまま、這って、階段を進む。
見れば、幾つものスイッチや、先程引っ掛かったトラバサミが仕掛けられていて、余りに極悪なその仕掛けの数々に、先程「嬉しい」なんつって笑ってた自分の呑気さ加減を、思いっきり殴打したくなった。

プロだ、これ。
プロの仕事だ…。

自分の面を被ったまま、この仕掛けを考案したのだろうと推測すれば、自分のえげつなさを改めて振り返る事になり、何だか「俺って、すっげぇヤな奴」等と、黒須や興信所の腐れ縁探偵からすれば「い ま さ ら 気 付 い た かぁぁぁぁ!!」と怨嗟の声が聞こえてきそうな自嘲をする。

漸く二階に到達すれば、再び銃弾の嵐が降り注ぎ、その上、一階とは打って変わった強烈な光が部屋を照らし出していて「うっ」と呻き声を漏らし、一瞬掌を視界で覆うと、先程、強烈な光の中でそれでも辛うじて視認出来た仮設照明を打ち抜きながら、マシンガンの連続した銃撃から、脅威の反射神経で逃れ続けた。
灯りのない部屋にて、漸く瞼を開き、また、階段を這って登る。

鵺は、幇禍が階段に姿を消せば、自分も一つ上の階に登って、また銃撃の準備をするという方法を行使しているらしかった。
罠の張り巡らせた階段をどうやって登っているのだろう?と考えて、鴉天狗の面を被り、自分から空を飛んで星空に逃れた、鵺の姿を思い出す。

つまり彼女は上層階へは、面の能力を使ってエントランスの吹き抜け部分を使い、上層階へと移動しているのか…と気付いた瞬間、幇禍は階段を這い登るをやめて、再び、四次元ポケット疑惑の濃い懐より、数体人形を取り出した。

他愛もない、ネジ巻き式の、人形。
鵺を探している間ストレスの余り、適当に購入してしまった通販グッズの内の一つで、種も仕掛けも何もなく、ネジを巻いたら前によたよた進むだけの代物だ。

とはいえ、最近の玩具ならではの性能で、階段程度の段差は自力で乗り越えられるようになっており、うさぎ、さる、くま、ねこ、とらの五体をそれぞれ、時間差を置いて、ネジを限界まで巻いて進ませた後、幇禍は階段をそろりそろりと下り始めた。

よたよた進む人形たちが、順番に次々と罠にかかるのを視認して、ゆらりと笑う。

このままでは、最上階まで、このストレスの溜まる進軍を強いられるのは必至で、じりじりと鵺を追い詰めていくのも楽しいが、やはり、これだけ会えない時間が続くと、今すぐ彼女に会って、その息の根を止め、その体を思う存分抱きしめたい焦燥にかられてしまう。

先ほどまで自分がいた、二階、階段の降り口に到着し、そのまま一気に吹き抜け部分に接する柵にまで駆け寄って、頭上を見上げた。
案の定、そこには黒い羽を羽ばたかせ、黒い着物の裾を美しい夢の如く閃かせ飛ぶ鵺の姿が目に入る。

躊躇う事はなかった。

懐から取り出した銃でその羽を打ち抜いた。

「っ!」

黒い羽が散り、幇禍の目の前を鵺が落下していく。
目を細めながら、幇禍は、もう一発、床に落下した鵺を見下ろし、鵺の腿の辺りを撃ち抜いて、それから、悠々とした足取りで階下に向かった。




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熱い…熱い…熱い…熱いっ!!!


喉の奥で悲鳴を噛み殺し、もんどりうって痛みを堪える。
太ももから流れ出る血液の熱さに、虚ろに視線を彷徨わせ、痛みに浮かぶ涙に忸怩たる思いを抱いた。

着物の裾が血に染まり、「はっ!」と吐き出す息の温度に、更に焦る。

考えてみれば、いつも幇禍に守られて、これほどの灼熱の痛みなど、ついぞ経験した事はなかった。
座敷労の中にいた時とて、神経が鈍っていたのか、主人格が別の存在であったからか、折檻を受けていた時の記憶は遠くになり過ぎて、経験のない激痛に脂汗が額から顎へと伝い落ちる。


時間がない。
時間がない。
時間がない。


時間稼ぎの為に張った罠によって、幇禍と自分との間に生まれた距離は、丁度三階層分
幇禍のいる上層階フロアの向かい側の吹き抜けに接する柵前から、幇禍の面の能力を行使して、彼に銃撃を浴びせた。

正直、この銃撃で、何発か喰らわせて、行動を鈍らせるなり、いっそ、一度、ここで殺してしまって復活までのインターバルを利用して最上階まで一気に向かうつもりだった。

しかし、幇禍は想像以上に手強くて、鵺に一気に最上階まで向かわせる時間を与えてくれない。
悉く銃撃を避け、一切のダメージを追わないまま、階段を登る幇禍の姿に、鵺は根源的な恐怖を覚えた。


つまり、あれが、殺人人形の、殺人人形たる所以。


銃弾を浴びせなければ、あっという間にフロアの罠を突破し上階に向かってくるのは、想像に難くなかったし、今以上の距離生まれれば、彼に銃弾を撃ち込む事すら叶わない。

幾ら幇禍の面を被っていても、正確な射撃を行える距離は限られていて、彼の本来の能力が行使できれば、こんな羽目に陥る事もなかっただろうと確信する。
銃撃と、罠の二段構えで稼ぐはずの時間は、最初に想定していたよりも、上手に生み出せなくて、最上階で用意すべき、最後の仕上げの時間を稼ぐ為の手段を鵺は考慮し始めていた。


どうしたって、能力差は否めない。


面を使って行使する能力より、本人の持つ力の方が優れている事は重々承知だ。

それでも、今回は彼の面の力がなければ、ここまで、勝負を持ち込むことすら出来なかっただろう。

幇禍が階段に姿を消し、罠と格闘している間に、鴉天狗の面を使ってまた、距離を稼ぐ。

巧いやり方ではない事は承知していた。
下から撃ち抜かれる危険性を、一切考慮していなかったわけではない。

だからこそ、階段に張った罠には、作動した際、小型モニターに知らせが来るよう仕掛けしていて、その作動状況によって、幇禍が階段を何処まで進んだかを一々確認していた。
階段の半ばまで幇禍が到達するまでは、移動を控えるようにして、下からの銃撃に備えていたというのに、モニターには、相変わらず、階段状の罠の作動状況が知らされ続けていて、何某かの手段で自分がたばかられた事を察する。



甘かった。



太ももを抱え込み、荒い息をついたまま、目をぎゅっと閉じる。

無駄な足掻きと知りながら、鵺は幇禍の面を被り、程無く現れるであろう彼に備えた。



ザリザリと不吉な足音が聞こえてくる。
鼻歌めいた調子外れのメロディーが、鵺の鼓膜を引っ掻いた。

「お嬢さん…」

掠れた声で名前を呼ばれた。

「お嬢さん、お見事でした」

赤い目を見開いて、階段の降り口に幸福そうに立つ幇禍を、鵺は視認する。


真っ白な血の気のない顔。
元々、スリムな体型をしていたが、更に痩せてしまったような気がする。

会わない間の幇禍の焦燥を想い、鵺の胸は焦がれるほどに痛む。


それは、撃たれた激痛を凌駕する痛みだった。


可哀想な程に弱っていた。


嗚呼、泣きそうだ。


心の中で惰弱な自分に気付いてしまう。

鵺は、幇禍君に関わる事だと、こんなに心が弱くなる。


「びっくりしました。 この歓迎に。 素晴らしいです。 才能がおありだ。 さすが、俺のお嬢さん」

パチパチと拍手すらみせ、はしゃいだ声で幇禍は言う。

「例え俺の面を被っていたにせよ、発想や、タイミングに、俺のものじゃないセンスがお有りです。 お嬢さんは、昔からやれば出来るお人でした。 ええ、存じてます。 俺が一番存じてます。 お勉強だって、きちんと取り組めば、並々ならぬ成果を残せただろうに、ああ、それを見届けられないのが今更惜しい」


ザリリと軋んだ足音を立てて、幇禍は鵺の目の前に辿り着き、面を見下ろして「何だか、怖いですね。 俺の面」といって微かに笑う。

「幇禍君」

鵺は、倒れ伏したまま、痛みを堪え、名を呼んだ。

「はい」

「愉しい?」

純粋な疑問に、幇禍は首を傾げる。

「愉しいというより、嬉しいです。 鵺お嬢様とこうして対峙出来る事が」

綺麗な綺麗な綺麗な顔に、幇禍は恍惚の笑みを浮かべて「言ったでしょう? 地の果てまでも追いかけて、絶対に貴女を捕まえるって」と囁いた。
しゃがみこみ、優しい手つきで、鵺のこめかみにそっと銃口を押し当てる。

「俺ね、他に人ならむしろ好きなんですけど、お嬢さんだけは苦しむ姿みたくないんです。 足、痛いですよね? 痛いですよね?」

白い指先が、鵺の指先を掴んだ。
ゆっくりと持ち上げて、そこに光る赤い宝石に目を細める。

「おかわいそうに…」

そう言いながら、そっと指輪に口付けた。
真っ暗闇の中、外から微かに差し込む仮設照明の光に反射してキラキラ光る指輪は宝石というよりも、星のようにすら見える。
幇禍の真っ白な肌や、銀色のメッシュの髪もキラキラ光って、存在自体が儚く光り輝いているように見えた。


鵺はうっすらと笑った。


「幇禍君、鵺ね、幇禍君の髪が好き」
「ありがとうございます」
「肌も好き」
「ありがとうございます」
「笑顔も好きよ?」
「凄く、嬉しいです」


本当に幸せそうに幇禍は笑った。


狂ってる。


鵺は確信する。


狂ってる。
だからって、どうして、嫌いになれる?


ここまで、この人を狂わせたのは鵺。

理のせいじゃない。
幇禍君のせいじゃない。

鵺だ。
鵺が、この人をここまで狂わせた。

血がダクダク流れ続けている。


「会いたい、幇禍君に」


泣きそうな声で呟いた。


「会っています、今」


幇禍はそっと、鵺の滑らかな頬を撫でた。


「ずっと一緒です。 ずっと、これから一緒にいられます」
「永遠に?」
「永遠に」


鵺は笑った。


「会いたいよ、幇禍君。 君に、会いたいよ。 やっと分かった。 鵺ね、ずっと幇禍君を探してたんだ。 ずっと、ずっと幇禍君に会いたかったんだ。 もうじき、会えるよ、幇禍君。 そうしたら、また、キスしよう」

ヒラヒラと、幇禍に鵺は手を振る。


「最上階で、待ってるね?」


そして、鵺は、自分が仕掛けた細工の位置を、脳裏に思い浮かべつつ、頭上に手を伸ばす。
鵺の動作を受けて、幇禍が躊躇なく、その白い掌に、大振りのナイフを突き立てた。



「ひああぐあぁぁぁぁぁぁっ!!!!!」



叫ぶ。


痛みに、意識が遠くなる。

それでも、幇禍の面の反射神経と、そして危機回避能力は、遺憾なく発揮され、空いている手で躊躇なく、突き立てられたナイフを引き抜き、次いでしゅるりと手首に絡まったロープを掴んだ。


体が急激に引っ張り上げられる。


クレーンを使って設置した、大掛かりな逆バンジーなんて、よくバラエティ番組の罰ゲームで、芸人が仕掛けられているのを見てケラケラ笑っていたものだが、まさか、自分が経験するとは思わなかった。

そもそもは、対幇禍用の罠で、とにかく距離を稼ぎたい一心で駄目元で、最下層に仕掛けておいたものだったりする。

これに、もし、幇禍が引っ掛かり、足首をとられて、ビルの最上階まで吹っ飛ばされれば、予め一階に隠してある最後の仕掛けの準備を整え、上から幇禍が降りてくるのを待つつもりだった。

しかし、案の定、この仕掛けに引っかからずに、二階へと到達した幇禍の姿を見て、中々苦労させられた仕掛けだったのに無駄に終ったかと肩を落としたものだが、この仕掛けに己が救われるとは、まさに予想外としか言いようがない。

ヒュルヒュルヒュルっと一気に巻き上げられ、空中に放り出されて、手を離す、最上階に転げ落ちるようにして辿り着き、激痛に暫く呻いて、動作を停止させた。

幇禍の面を着けていなければ、間違いなく死んでいた。

咄嗟の受け身が功を奏し、致命的な重症は負ってない事を確認する。
ビルのすぐ裏手に停めてある、逆バンジーの仕掛けの為に大活躍してくれたクレーンの影に「助かったよ」と呟いて、それから、おそる立ち上がろうとして、太ももの痛みに、また倒れ付した。

「ちっくしょう…」

呻き、それから、「八百比丘尼」の面を取り出す。
人魚の肉を喰らうた為に、不老不死となってしまった悲劇の尼の面の持つ自然治癒能力は高く、つけた瞬間から痛みが治まり、傷口が常人ではありえない勢いで回復していくのを感じる。

しかし、余りに時間がない。

幇禍は、今、猛然とした勢いで、最上階に向かってきているであろうし、銃撃を行えない今、フロアに仕掛けられた罠など、彼にとっては取るに足らない仕掛けと成り果てているだろう。
時間がない以上、完治させる所まで癒せる事はないだろうが、それでも、ゆるりと立ち上がればずくりと、鈍い痛みを感じながらも、何とか歩けるところまで回復している事がありがたかった。

コロリと、回復によって再生された肉に押し出され、打ち込まれた銃弾が太ももから零れ落ちる。

掌に空いた穴も大分塞がって、グー、パーと握ったり開いたりを繰り返し、神経が完全に再生した事を確認すると、鵺は「八百比丘尼」の面を外し、「ありがとね」と呟いて、撫でると次いで、帯から時の大魔女の面を取り出した。



生半可な覚悟で着ければ気が狂う…か。



狂うわけにはいかない。
今鵺が狂うわけにはいかない。

精神を集中する。
乗っ取られぬよう気持ちを強く持った。

空を見上げる。


月のない夜の話だ。


漆黒の闇の下、黒い着物の裾を靡かせて、鵺は面を装着した。








ぎ…ググぎぎぅぐぐうあぁぁがががアあっぐうあうあううううあうあううう…っ!




ころして!


ころして!


ころして!


ころして!!


いたぁぁぁぃっ!
いたぁいのうっ!!


なんでぇ?!

なんでぇ?!

いやだぁ! 死にたくない!

あああ、愛してるのおおお!!
あなたのこと 愛してるのおおお!!!

なんでぇ!? なんで、殺すの!?
死ぬの!?
いやだぁぁぁぁああああっ!!


怖い、怖い怖い、怖い怖い怖い!!


いやぁあぁああ!!!












殺してやる。








脳内を駆け巡る狂気の嵐に指が硬直した。


「ひ…ぎ…っ…うう…ぎ…い…っ…」


鵺の喉から、軋んだ声が零れ落ちる。


「お…あっ…あっ…ひ…あっ…あああっ…!」


頭を抱え蹲り、床を二度、三度を掻き毟った。


爪が折れ血が滲む。

指先の痛みで、微かに自分の意識を取り戻す。

四肢が引きつり、痙攣を繰り返した。



これが 魔女の狂気。



憎い
憎い
憎い
憎い


憎い
憎い
憎い
憎い


全部憎い。

世界が憎い。


壊したい。

ただ壊すだけじゃ済まさない。


生とし生ける者全て。

己が味わった以上の絶望と痛みと苦しみに悶え、苦しみ、全ての人間同士に醜く争わせ、悶絶する地獄を世界にもたらしたい。



「ひ…ひひっひ…ひあっ…っひひ…くふっ…くふふふっ…」


忍びやかな笑いが漏れた。


「こ…わ…そう…? な? ええ…やん…えへへ…っへ…醜い…せかい…世界…醜い…汚い…臭い…厭らしい…全部……壊して…滅茶苦茶に……汚して……」


鵺の唇から笑い声が零れ落ち続ける。


真っ暗闇の中にいるようだった。
暗闇は粘着質の粘り気を持って、鵺を取り込み、閉じ込め、押し込め、肺の中一杯に満たして、苦しみの余り、鵺は足掻く。



これが 狂気…。


やばい。

やばい…このままだと…。


「た…すけ…て…」


指先がもがいた。

赤い指輪が煌いた。



「たすけ…て……」



不意に浮かんだ名前は……。



「名無し」



狂気。

魔女の狂気に勝る、狂乱。

手が帯の中に差し込まれ、黒い面に触れた。



「世界を 汚す? イいイイい、いや! イヤよ! いやイや! 違うわ? うひひっ! 違うわ! 鵺? 刺して、引き裂いて、ぐちゃぐちゃ! そもそも、世界は汚らわしい! 汚らわしくって美しい! イヒひヒ! 負けたら、今度こそ、この体! 私が貰うよ? 私が貰うよ?!」


不意にカッと目を見開いた。

脳内をかき乱す狂気の嵐が収まっているのを感じ、そろりと黒い名無しの面を取り出す。

「たす…かった…」

狂気で狂気を相殺した。
鵺は、後頭部に名無しの面を装着する。
頭の中が、クリアになり、意識が明瞭に保てる事に、「さすが…」と思わず呻いてしまう。

名無しの狂気と、魔女の狂気。
質が異なるが故に、鵺の中に同時に押し寄せ、今、その狂気を打ち消しあっているのだろう。
驚嘆すべきは、幾ら面状態となり本来のものよりも和らいでいるとはいえ、あれほどの狂気に対抗できている名無しの狂いっぷりで、それほど壊れきっているあの人格の欠点としかいいようのない、激情が、こうして今魔女の能力を行使するために役立っているなんて、世の中本当に何に利益を見出せるかは分からないものだなんて暫し呆然とした。


だが、勿論そんな余裕もなく、鵺は慌てて最上階に予め用意してあった鵺の形を模した人形に幇禍の面を被せる。
そして、時の大魔女の能力でもある傀儡に魂を吹き込む魔術を行使して、指先に、鵺以外の人間には見えぬ操り糸を纏わせた。

これが、対幇禍戦の最後の仕掛け。

幇禍面を打った事で判明した事実。
それは、彼の見ている世界が、余人とはあまりにかけ離れ、殺伐としたものであった事だけではない。


彼を人にする。


それが鵺の切なる望みである以上、自分以外の誰かを敵として認識させ、理を上書きする事は、ただ結論を先延ばしにするだけで、全くの無意味である事を鵺は理解してしまった。

人形のままではならない。
鵺以外の人間を敵と認識したとて、幇禍君は理からは逃れられない。

もっと、根本的な解決が必要なのだ。
そう、彼の生い立ちにまで立ち返り、向かい合う、根本的な解決が。


だから、その為にも、この勝負、負けるわけにはいかない。

当初の計画から、軌道修正を加えて、これほどまでの策を弄した。


ヒラりと指を閃かせれば滑らかに、人形とは信じられぬ動きを、鵺人形は見せてくれる。
満足の笑みを浮かべ、それから、周囲を見渡し眉を寄せる。


彼を「捕獲」する為の罠。


屋上部分に放置されていた縄の中に、ワイヤーを仕込んだ、極めて丈夫な縄にて、彼を捕らえる罠を仕込んだ。

しかし、先ほどまで目の当たりにしていた幇禍の能力をもってすれば、あっさり見破られる可能性も大いにある。


だとすれば、これから講じるべき策は…。

「精神撹乱」

冷静さを失わせ、罠に気付かせないような手立てを執る必要性がある。


鵺は、数秒の思考の後、今の彼を動揺させる事が出来るのは、己の存在のみだと確信すると、ひらりと自分が身に纏っていた着物を、鵺人形に手早く着せる。

この派手で動き難い衣装も、幇禍に最初の姿を強烈に印象付けさせ、誰よりも鵺の事を知る彼に、鵺の人形が偽者である事を気取られぬよう取った秘策の内である。

自身は着物の中に着込んでいた、黒い体にフィットした軽くて身を隠すのに適したインナー姿に変じ、次いで、目立つ銀色の髪を黒い頭巾の中に押し込むと、予め調べておいた、自分の声が最も建物内に響くポイントに立ち、糸を操る指先をうごめかせつつ、傀儡を操る能力を発動させた。




--------------------



最上階まで、あと、少し。

踊るような足取りで、幇禍は罠を突破し、階段を駆け上がる。
銃撃による撹乱がなければ、罠は用意に回避出来て、幇禍は一気呵成としか言いようのない勢いで、最上階をひたすら目指した。


「幇禍君」


頭上から声が降ってくる。

見上げれば、幇禍の面を付けたままの鵺が、最上階からこちら側を覗き込んで、大きく手を振っていた。


「幇禍君! 鵺、待ちくたびれちゃったよ」


笑い声を含んだ声。


「ねぇ! 幇禍君! 早く来て? 鵺に、早く会いにきて?」


キャハハハハハハ!!


甲高い声が、響き渡る。


「退屈だよ! 幇禍君! がっかりしちゃう…鵺、このままだと、がっかりしちゃう」


繰り返される笑い声と、挑発的な言葉に、ゾクゾクと背筋が震え、幇禍は満面の笑みを浮かべる。

脳内が興奮に染め上げられ、ただ、一心に、一心に、鵺の事ばかりを想った。


最上階に立つ鵺は銀色の髪を風に靡かせて、おいで、おいでと手招きしている。


「鬼さん こちら 手の鳴る 方へ」


歌うように鵺は言い、また「キャハハハハ!」と笑うと、不意に静かな声で、切りつけるように言い捨てた。


「思い知らせてあげるから、ね?」


天井から響く愛しい愛しい娘の声は、反響を繰り返し、幇禍の心を直接揺らす。

「殺すなんて、愛はないって、鵺が思い知らせてあげるから、ね?」

一歩、一歩階段を駆け上がる。


早く

疾く


はやく


会いたい


「鵺が、いけなかった。 置き去りにした鵺がいけなかった。 だから、ね? 全部教えてあげるから」


響く声に、息が上がる。
罠を潜り抜け、回避し、飛び越え、打ち壊し、唇が、知らず鵺の名を読んでいた。

「鵺 鵺 鵺 鵺…!」

鵺の声は、雨のように降り注ぐ。

「鵺ね、諦めないから。 幇禍君の事、絶対に諦めないから、だから、もう怖い事は何もないよ」

あと少し、あと少し。

最後の階段を、殆ど夢見心地に駆け上がった。



「もう、何も、怖がらなくて、良いんだよ?」




漆黒の夜空が、突然視界一杯に飛び込んできた。


最上階。

風が吹き荒んでいる。

建設途中のまま放置された荒れ果てた屋上。

ロープや瓦礫が散乱していた。


血に染まった着物の布を翻し、鵺が此方を向いて立っている。


優しい声で鵺は言う。



「幇禍君は要らないと思ってても、王宮の皆や興信所の皆から君に向けられた心は君の中身に確かに在るんだ。 空っぽなんかじゃないんだよ。 そこから動かなきゃ駄目だ、自分を知る事からはじめよう。 それは目指すもの、人の有り様とはまだかけ離れてるかもしれないけど、今度は君を置き去りにしないように、手を繋いで行くよ」


鵺が手を伸ばした。


「ねぇ? 怖くない。 怖くない。 二人一緒なら、何も怖くない」


歌うように


叫ぶように


喚くように


囁くように


鵺は言った。



「おいで 幇禍君」


幇禍君は、よく研ぎ上げられたナイフを構え、微笑みながら鵺に駆け寄った。



知らなかった。


その時、自分の頬を一筋の涙が伝っている事は。



幇禍は知らなかった。








抱きすくめるようにして、鵺の胸にナイフを突きたてた瞬間、自分の体が強い力で締め上げられるのを知覚した、鵺を抱いたまま、爪先が浮かび上がり、全身の自由が利かなくなるのを確認する。

足掻く余地すらなく捕らえられた。


唯一自由の聞く首を巡らせ見下ろせば、そこには、自分が殺害したはずの、鵺の姿が見えた。




---------------------------




魔女の面を外し、名無しの面も帯に仕舞いこんだ。

素肌を撫でる風が心地良い。


「お嬢さん。 どうして…」


泣いている幇禍の傍に近付いて、そっとその涙を指先で拭った。


「もっと、一緒に笑おうよ。 もっと、一緒に遊ぼうよ。 もっと、一緒に…もっと…一緒に……」


声が詰った。

不憫で、愛しくて、苦しくて、切なくて…。


力いっぱい、幇禍の体を抱き締めた。




「生きるって 楽しいよ? 鵺と一緒なら、凄く楽しいよ?」

ねぇ、だから…。

だから

だから
だから!!!





「だから、鵺と一緒に生きて下さい」







もう、他に何も望みなんてない。






幇禍のこめかみに銃口をあてて引き金を引いた。



パン!!と乾いた音を立てて、幇禍が事切れた瞬間に、素早く雪女の面を装着し、彼の体を瞬間冷凍する。


仮死状態のまま、動かなくなった幇禍を暫くじっと眺め、それから、安堵の余りへたりこむ。


「だ…第ニ関門も…突破…かな?」


そのまま仰向けに引っくり返り「強すぎる…幇禍君、強すぎるよ…」と呻くと、辛うじて、運や、事前準備に助けられ、からくも収めることの出来た勝利の喜びをじんわりと噛み締めた。




再度、「八百比丘尼」の面を装着し、完全に体の傷が治癒する頃に、ビルの前に一台のバンが停まったのを確認する。
既に時刻は明け方近く。
疲労と睡眠不足のあまり、強烈な眠気を覚えつつ、「大入道」の面の力を使って凍ったままの幇禍を階下に運べば、人間限界まで驚いたらこういう顔になるよねーという間抜け面を晒した男が、車の前にて咥え煙草のまま立ち尽くしていた。


「やっほー! まこっちゃん、ご苦労様」


軽く声を掛けて、「えい」と言いつつ勝手に後部座席に、凍った幇禍を押し込む鵺を、目を見開いたまま眺め、眺め尽くす余り、鵺が助手席に乗り込んで、シートベルトを締め、シートを倒し、あまつさえ、そのまま眠りにつく体勢をとるところまで呆然とした後に、


「なあああんでーーやねぇぇぇぇん!!」


と、渾身のツッコミをいれてくる。



「おわ?」と、その大声に薄目を開き、黒須の顔を眺める鵺に「うん、うんうん、整理しよう? 一つ整理しよう? お前言ったよな? 言ったよな? 運ぶものは、大したもんじゃないって言ったよな?」と、遮光眼鏡の奥の細い、陰険な目を何度も何度も瞬かせて確認を取る黒須。

「うるさい、うるさい、夜明けのテンションとしては最悪にうるさい。 あと、説明するのもたるいから『なんやかんやあったんだよ』としか言う気ないけど、壮絶な死闘の後にお目にかかる顔としては、まこっちゃんは最悪に気持ち悪い」と、鵺は軽快に言ってのけ「じゃ、おやすみ」と言いつつまた、身を横たえる彼女に、「えええええ?!! 事態の説明、いっこもないよね?! あと、悪口しか言われてないよね?! 早朝から、俺悪口しか言われてないよね?!」と訴えられて、疲労激しい脳髄に響く声に「うー」と呻きつつ耳を塞いだ。

「ていうか、これ! 何、これ?! うん、幇禍だな! 幇禍が、え? 何、これ、うわ! 冷たい! すげぇ、冷たい! 凍ってるの? なんで? 何が?! どうして?! この大チャンスに、俺、これまでの恨みを込めて、こいつの事、タコ殴りにしてもいいとかいう、お前から、俺へのプレゼント?!」

そう矢継ぎ早に問い掛けられ「殴ってもいいけど、後ほど、仔細全て幇禍君に報告して、多分100倍返しだよ? だって、幇禍君ドSの国の人だから」と鵺が言えば、途端に黙りこくり、そのまま大人しく、運転席へと収まる黒須を呆れながら眺める。


「大した物じゃないんだけど、運び屋頼まれて?」


そう、城を後にする前に、黒須に依頼をしたのは、こんなとんでもないモノの運び屋を請け負ってくれるのは彼くらいしか思いつけなかったからでもある。

父親を頼っても良かったのだが、流石にこれから、海外に行って来ますとか気軽に告げられず、元都バスの運転手とかで、車の運転技術に信頼のおける黒須に、「バイト代弾むから」と持ちかければ一も二もなく飛びついてきた。

どうも、最近パチンコで散々な負け方をしたらしいが、まぁ、鵺にとっては、そこら辺はどうでも良い。

「空港に向かって」とだけ告げて、再び眠りにつこうとする鵺に、「何処行くんだよ?」と胡乱気な眼差しを寄越して黒須が問うてくる。

「ん? 中国」

そう気軽に答えれば、黒須は「はふ」っと息を吐き出して、それからバックミラーで後部座席に転がる幇禍に視線を向けた。

「指定された時間に来れば、幇禍が冷凍状態で、お前は、如何にも疲労困憊で、俺が何があったか気にならねぇ筈ねぇだろう?」

そう言われ、殆ど眠りの世界に突入していた鵺は「後で、鏡よ鏡よつって、お城の鏡娘さんに聞いてよ。 鵺は、も、無理、限界」とふにゃふにゃとした声で答える。

「良いのかよ。 あいつに聞いて」と問い返され、薄目を開いて黒須の横顔を見れば、少し戸惑った表情をしていて、当人の与り知らぬ所で、物事を知る事に躊躇を覚えているのだと鵺は理解した。


なーーんか、まこっちゃんって、いい加減なようで、変なトコ律儀よね…と胸中で呟いて「いいよーん。 知りたかったら、どうぞどうぞ」と言ってやる。


「そっか」


そう短く答えて頷いて、少し心配げに後部座席を眺め「あいつ大丈夫なのかよ?」と問う黒須に「およ?」と首をかしげて、鵺は目を開いた。

「心配?」
「ちげーよ。 でも、借りがある。 助けて貰ったからな」

黒須の答えに、メサイアビルでの出来事か…と思い至り、鵺は「よっこいしょ」っとシートを起こす。

「寝るんじゃなかったのか?」
黒須に問われ「まこっちゃんがうるさくて、目が覚めちゃった」と鵺は返答すると「いいよ。 飛行機の中で寝るから」と言い、それから座席の上で膝を抱えた。

「ばっかだよね」
「んあ?」
「幇禍君」
「おお、何だか分からんがあいつに対しての悪口なら、全て無条件で賛同するぞ」

そう力強く言い切られ、小さく笑うと「ほんとばか」と鵺は呟く。

ちゃんとさぁ、心配してくれる人、いるんじゃん。
幇禍君にも。

それなのに、こんなに寂しい顔をして……。

不意に、言葉が零れ落ちた。

本音だった。
正直な言葉だった。


多分聞かせる相手としては、黒須は、距離感やそのスタンスからいっても、鵺にしてみれば妥当としか言いようのない相手だった。


「…鵺もだ」
「え?」
「今回ね、まぁ、色々あって、結構大変な事態で、鵺はね、幇禍君を失いそうになったの。 ていうか、今も、真っ最中。 失いそうになってる、真っ最中。 でもね、どう考えても、一番苦しんでるのは幇禍君で、彼を一番苦しめたのは、鵺で、後悔って好きじゃないから、絶対したくないんだけど、なんか、なんか…ああ…なんか……辛いね」

鵺は静かに笑って、抱えた膝に額を埋めた。

「苦しんでる姿を見て分かった。 一番大事にしたい人だったんだって。 幇禍君のこと、鵺は大事にしたいんだって」


黒須が緩やかに車を停めた。


「ばっかみたい。 全部ゴミクズだって想ってたから、肝心な時に、大事な人を、どうやって大事にすれば良いか分かんなかった」


「鵺?」


気遣うように名を呼ばれた。

「触っていいか?」


確認されて、鵺は微かに頷く。

ポンと頭に掌を置かれた。


「中国行くのは、幇禍を取り戻すためなのか?」

鵺は微かに頷いた。

「そっか。 勝算は?」

「五分…」

思わず、素直に答えた鵺に「十分っていえ」と黒須は間髪入れずに言う。

「十分って言え。 100%って言え。 絶対に勝つって言え」

鵺は頭を上げて黒須を見る。

絹糸の如き髪を、揺らし首を傾げて無表情に此方を眺めた黒須が「約束しろ」と鵺に言った。

「お前は無敵だ。 だから、勝って、幇禍取り戻して来い」

鵺は笑った。


「とーぜん。 勝ち以外、ありえないね」


黒須も笑う。

「だろ?」

そして、また再びエンジンをかけた。


「負けるお前なんか、想像すら出来ねぇよ」

そう言われ、鵺はまた笑うと、小さな、小さな声で「ありがとう」と呟く。


確かに、五分の勝負なぞ、する気でいては勝てる話も、勝ちを逃す。

何があっても取り戻すと決めたのだ。

100%の勝利以外は許されない。

そう心に決めれば、力が全身に漲った。

さて、最後の、最後に控えた大勝負。


勝手、鵺の大事な日常を、ばっちり取り戻してやるんだからね…!

そう胸中で朗らかに決意を固め、鵺は優しい眼差しで、後部座席を振り返り呟いた。

「あと、ちょっとだから、待っててね、幇禍君」

そして、黒須の運転する車は朝日に包まれながら、鵺と幇禍を乗せて、空港へとひた走り続けた。




〜to be continue〜




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東京怪談
2009年07月06日

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