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『pattering of raindrops 』
黒蝙蝠・スザク7919)&(登場しない)

 雨が、降ってきた。
 黒蝙蝠スザクは、意識の隅に引っ掛かってきた音をそうと判じ、迷うことなく手にした傘を開いた。
 各所に白いレースをあしらった黒のワンピースに、合わせたような黒い傘。
 けれど真実は逆で、傘に合わせてスザクは服を選んでいる。
 生地の貼る、ポンと軽い音を立てて開いた傘を頭上に掲げ、スザクが僅かに首を傾げる動きに、ツインテールの黒髪が揺れ、肩にかかる。
 確かに雨だと思ったのに、続く雨音がしない。
 スザクは傘の中棒を肩にかけ、斜めに傾げて空を見上げる視界を確保する。
 薄い雲に覆われながらも、青を滲ませた空に雨の気配はない。
 どこか遠くで、子供達の歓声があがる。昼下りの住宅街に人影はなく、薄曇りに日傘を差すスザクの行動を見咎める者もない。
 しかし今更傘を閉じるのも面倒に感じ、スザクは傘の芯を肩にかけたまま、柄をくるりと回した。
 思えば、水の香すらない。
 ぴんと貼った傘の小間が、ぱらぱらと雨に打たれて一時だけの楽器となって奏でる雨粒の音色を楽しめるという期待を外し、スザクの肩が僅かに下がった。
 二度と同じ雨音の演奏を聞くことのない、濃密な音が溢れる静かな時間。
 それが敵わぬと、自分の勘違いながらも肩透かしをくらった気持ちで、スザクはがっかりしながら再び歩き出そうとした。
 乾いた風がスザクの髪を揺らし過ぎゆこうとした時、スザクはぱっと顔を左に向けた。
 また、雨音がした。
 微かな音は風に乗り、途切れ途切れながらも確かにスザクの耳に届く。
「……ピアノ?」
雨音の存在感を感じさせたそれは、風に乗った音色。
 途切れがちな音に曲の形を判じることは出来ないが、一音一音に想いが、命が込められているかのようなそれは、スザクの感じる雨音の響きに酷似する。
 風の流れてくる方向に、一軒の家があった。
 古びた飾り鉄柵の向こう、同じく時間の流れを感じさせる建物は、瀟洒な洋館だ。
 葡萄茶色の切妻屋根に、煉瓦造りの壁。風雨に些か褪せかけてはいるが、それは却って風情と呼べた。
 けれど、比較的新しい建物の建ち並ぶ住宅街には、らしからぬ。
 違和感に首を傾げるスザクの背後を、ベルを鳴らしながら自転車が通り過ぎていく。
 子供用の椅子を荷台に取り付けた自転車に乗った、女性の後ろ姿を何気なく見送って、スザクは再び洋館に視線を向けた。
 まるで白昼夢の中に居るような、現実から剥離した感覚は、スザクだけのものらしい。
 ゆっくりと踏み出した一歩に、フェンスの装飾に紛れた扉がキィと蝶番を軋ませながら、内側に向かって開く。
 まるで誘うようなそれに、スザクは小さく微笑んで頼りなく揺れる門の上部に手をかけ、軋みを止めた。
「……お邪魔します」
囁くように断りを入れたスザクは、門を奥へと向かって押し広げ、敷地に足を踏み入れる。
 足下、洋館の外壁と同じく褪せた煉瓦の道が、コツリと靴底にあたって乾いた音を立てた。
 煉瓦の道以外は緑鮮やかな芝生に覆われて地面は見えず、芝生の中にもぽつりぽつりと菫に似た白や紫の小さな花がささやかに咲いている。
 スザクは後ろ手に門の留め金を閉め、奥へと向かって歩き出す。
 その後ろ姿が霞の如く、洋館を擁した空間と共に消えて行く様を、見る者はその場に居なかった。


 スザクは玄関の横を抜け、裏庭へと回る薄暗い小道に沿って歩いていた。
 右手に洋館の壁、左手にはバランス良く配された樹木。そしてその根元には陰を好む花が咲いている。
 今の季節、少し気の早い紫陽花の青い花が影の中にも鮮やかだ。
 目を楽しませる緑が濃さを増すと共に、細切れだったピアノの音も、曲の形を為してくる。
 ショパンのエチュードだ。
 後に雨垂れと題されたそれは、確かに雨を思わせる。
 スザクは傘をくるりと回した。
 心なしか、傘も喜んでいるように思える。
「最近、雨降ってなかったものね」
演奏はしっとりと、音それ自体が雨粒のようだ。
 やがて、開けた庭に出たスザクは小さく歓声を上げた。
 三方を樹木が壁を作り、それでも充分な広さを持った敷地に太陽光が穏やかに降り注いでいる。
 その光の恵みを享受する緑の中に、硝子貼りのサンルームが張りだしていた。
 其処には、黒々とした光沢を纏ったグランドピアノがあった。
 エチュードは、そのピアノが奏でている。 
 音を弾き、放ち、時に揺らし、多彩な音を引き出す奏者の……人間の姿は、ない。
 ただ、白と黒の鍵盤が踊るのみで、音の紡ぎ手は存在しない。
 自動ピアノと言うには、その音はあまりにも命を持ちすぎていた。
 だが、スザクはそれに驚くことはなく、傘を閉じるとサンルームに通じる扉を開く。
 途端、ピアノの音色は驚いたように演奏を止めた。
「聴いててもいい?」
スザクは戸口から、演奏者不在の椅子に向かってそう声をかける。
 返るのは沈黙。
 けれどもそれも長くなく、曲調を変えて緩やかな音が再び戻る。
 クラシックに歌詞を乗せた、流行の歌謡曲。元は交響曲であったものを、ピアノアレンジしたものだ。
 スザクを容認するどころか、年若い来訪者に向けての気遣いを見せる姿なき存在……或いはピアノそのものに、スザクは少し笑んだ。
 板張りの床に靴のまま踏み込むのはどうかと、スザクは少し思案をすると、靴を脱いできちんと揃え、戸口に脇に避けて置く。
 その間も全身で周囲の気配を探っている。
 邸内に人の、魂の気配はない。
 魂を補食することの出来る彼女だからこそ判じられる感覚でも、意思を持つ者の存在は知覚出来なかった。
 ピアノそれ自体が、九十九神と化しているのかも知れないと、スザクは判じて物珍しげに室内を見回した。
 サンルームは、ピアノ室なのだろう。
 広々とした空間に調度は少なく、小豆色をした革張りのソファと、脇机がある程度だ。
 よく見れば床にはうっすら埃が積もり、窓硝子も薄く膜が張ったように汚れている。
 その中で、ピアノだけが艶を保っていた。
 決して新品ではないが、よく手入れをされ、時の流れを上手に取り込んだ存在感がある。
 スザクは、空間を流れる音につられて小さく歌を口ずさむ。
 折々に耳にする機会があれば、フレーズの部分はなんとなく覚えてしまうものだ。
 それにまたピアノも気付いたらしい。主旋律をスザクの歌に任せ、伴奏に専念してしまうピアノに、スザクは軽く肩を竦めた。
 あまり、歌が得意な方ではないけれども、最後まで歌いきるしかなさそうだ。
 少しの戸惑いに声が揺れれば、ピアノはスザクをはげますように曲にアレンジを加え、タララララと白い鍵盤を鳴らした。
 スザクはそれに答えて、ほんの少しだけ声を大きくする。
 ピアノが楽しそうだと思い、それにつられて頬が緩む。誰に捧げるでもない恋の歌を、スザクはピアノの旋律に心楽しく声を乗せた。


 それからスザクは、足繁く洋館に通うようになった。
 ピアノの音色は変わらずにスザクを迎え入れ、徐々にスザクの好む曲を覚えて、それを優先的に奏でるようになっていた。
 そうしスザクは簡単な掃除道具を手に、ピアノ室の床の埃を掃き出し、窓を磨き上げ、ソファを拭う。
 ピアノ室が綺麗になれば、屋内に繋がる廊下を磨き、隣室の埃を払いと、徐々に清掃圏を広げていく。
 ピアノが、それを不快に思っている様子はない。
 今も拭き掃除に勤しんでいるスザクのために、遠くで陽気な曲をBGMに奏でている。
 洋館は、おそらく個人病院を営んでいたのだろう。
 玄関ホールには椅子が並べられて待合室の様相を呈し、続く部屋には古びた医療器具が並べられている。
 その部屋の脇を通る度、微かに消毒薬の匂いが鼻を擽った。
 けれど、スザクは仕事の為の部屋や、個人の私室と思しき場所には踏み込むことをせず、共有空間のみの掃除を手がけることにしている。
 掃除は演奏に対してのお礼に近く、過去の詮索をする為に家に入り込んだのではない。
 水をもらうために洗面所に向かいながら、スザクはブリキのバケツをがろんと鳴らした。
 家と同じく古びたそれは、懐かしいような色合いをしている。
 雑巾や洗剤の消耗品は、都度に持参して持ち帰るようにしているが、バケツやモップなどの大物を持ち歩くのは荷物が大きすぎるため、家のものを借りていた。
 人はいないというのに、不思議なことに水や電気はいまだに通っている。
 それを有り難く使わせて貰いながら、スザクはピアノとの親交を深めていた。
 無機物のそれと親しくなる、というのも奇妙な表現だが、そうとしか言いようがない。
 やはり、雨を思わせる曲が好きなことを、スザクの反応から察したのだろう。雨や水、流れ行くものを題材にした曲の演奏が多くなった。
 慈雨は甘く、氷雨に切なく。驟雨となれば情熱的に奏でる音色は、言葉を持たない癖に雄弁で、スザクに語りかけてくるようだ。
 常にはおしゃべりな彼女も、ピアノの前では無口になった。
 掃除の後は、ソファに凭れるように腰掛け、ピアノと向かい合う。
 音があるけれども静かな空気は、雨に包まれた日に似ている。
 共に寂しさを抱えた存在であるが為、穏やかさを保つのだろうと半ば本能のように感じ取りながら、スザクは小さな欠伸を右手で隠した。
 ピアノの曲が、子守歌に切り替わる。
 眠ってしまって良いのだと、そう言っているのだ。
 スザクは、壁にかけられた時計を見た。3時を少し回ったところだ。
「……30分で、起こしてね」
ピアノの勧めに甘え、スザクはソファの上に身を丸め、腕を枕にして目を閉じた。
 穏やかな時間と、優しい空気。
 スザクは幼子のように、安堵して眠りについた。
 眠りの底で、ピアノの響きは雨粒の音色に変わる。
 さぁさぁと、数多の音が更に重なり、スザクは瞼を閉じたまま微笑んだ。
 雨が、降ってきた。
 ピアノの音と混じり合って協奏し、響く和音はスザクの底で波紋を作り、心を揺らす。
 暖かで、少し寂しい雨とピアノの音色を引き連れて、スザクは眠りの縁に沈んで行った。


「ちょっと……、ちょっと起きて!」
強く肩を揺さぶられて、スザクははっと意識を取り戻した。
 洋館に、人の姿を認めたことはない。
 目覚めを促して肩を掴む……大きな掌を逃がすまいと、スザクは咄嗟にその手首を握り締めた。
「ちょ、お嬢ちゃん、寝ぼけてんのっ?」
スザクの動きを読むことが出来なかったのか、相手があからさまな狼狽の声を上げるのに、スザクはようやく目を開けた。
 視界がやけに薄暗い……大きな窓の採光に屋内でも暗さを感じたことはないのだが、今スザクの目には小さく丸い窓のような空間に、低く草に近い風景がやけに明るく見える。
「あ……れ……?」
掴んだ手首を離し、スザクは現状が理解出来ずに目を瞬かせた。
 スザクが身を横たえる場所は、やたら狭い。
 細身の身体ですら平になることが出来ずに、両肩が傾斜に引っ掛かっていて、狭苦しさに身動ぎをすれば、それが円筒の形状をしているのが判じられた。
 冷たく、灰色をしたそれ即ち……土管、である。
「女の子がこんな所で寝てたらダメでしょ」
スザクを起こそうとしていた中年男性は、作業服に黄色のヘルメットを被り、如何にもな服装に、某かの工事に携わる人間だと知れた。
「早く出て出て。まったくもう、最近の子供は何処でも座り込むかと思えばどんなとこでも寝るのかっ?」
急き立てられて、スザクがどうにか土管から出ると、そこは空き地だった。
 自分が入っていた土管以外には何一つとして人造の代物は存在せず、雨に濡れて花弁の間に露を湛えた姫紫苑が頼りなく風に揺れるばかりだ。
 洋館など、何処にもない。
 スザクは呆然として、クレーン車が空き地に鉄骨を運び入れる様を眺めた。
「ここはね、マンションが建つから、これからずーっと工事だから! 勝手に入り込んじゃダメだよ、危ないからね! 次やったらお巡りさん呼ぶよっ?!」
スザクを悪戯で入り込んだ子供だと思っているのか、脅しつける工事関係者……腕章に主任の文字がある男性に、スザクは勢い込んで聞いた。
「マンションって、ここに建ってたお家は? もう潰してしまったんですかっ?」
寸前までぼんやりとしていたスザクの変貌に、主任は半歩ばかり身を引いて反射的に答えた。
「建ってた家って。ここは十年以上、ずっと空き地だよ」
 そんな筈はないと詰問しかけ、スザクは不意に納得した。
 あれはこの世にない場。
 彼岸と此岸の狭間に建った家。それが、現出する条件が潰えてしまったからこそ、スザクだけを現世に残して消えてしまったのだ。
 あの時、眠らなければ別れを告げる間くらいはあっただろうかと、スザクは後悔に唇を噛みしめた。
「すいません……ちょっと、ねぼけちゃったみたいで」
スザクは鼻白んでいる主任にぺこりと頭を下げると、土管に立てかけてあった傘を手に取り、その場から逃げ出した。


 そうしてスザクは、以前と同じ日々に戻った。
 雨音を聞きたいときは、空を仰いで雨を待つ。
 それは、自覚の薄かった孤独の所在を明らかにして、それを持て余す弊害をスザクに与えていた。
 その変化を、スザクは溜息と諦めと共に受け容れようと努めている。
 以前と同じ生活に戻るだけだ。訪れれば迎えてくれる、まるで家のような存在が消えてしまっただけ。
 自分に言い聞かせながら、それでもあの洋館の建っていた場所によく似た静かな住宅街に足を踏み入れれば、どうしても期待してしまう。
 あの角を曲がった所に、樹影の濃い庭の向こうに。あの日のように、あの時のピアノが聞こえては来ないかと。
「……ばかみたい」
期待を拭えない己を卑下し、スザクは傘を広げた。
 涙が滲んでしまいそうなのを、傘の影に隠そうと思って、頭上に掲げたその時。
 傘の内側で、音が跳ねた。
 弧を描いた布に集音効果が生じたのか、いつかのそれのように、雨音のようなピアノの音が、スザクの耳を打つ。
 エリック・サティのピアノ曲。三つのジムノペディ、第一番。短音と和音を交互に奏でる冒頭を、スザクが天気雨のような曲と称して、ピアノがよく奏でるようになった曲だ。
 ピアノの音は、語りかけるように……スザクを、誘う。
 道を進み、木立の伸びる先に曲がり、少し開けたその場所に。
 洋館は、嘗ての姿のまま、建っていた。
 勿論、以前の場所とは違う。
 けれど間違いなく同じ家だ、同じ、音だ。
 そもそも、この世の物ならざらぬ家に、どんな不思議があってもおかしくはない。
 その確信に、スザクは迷わず門に手をかけた。
 初めての時と同じように、家の脇を抜けて裏庭に出よう。そしてサンルームでピアノを聴くのだ。
 スザクは再会の喜びに胸を高鳴らせ、押し開いた門の隙間に身を滑り込ませた。
PCシチュエーションノベル(シングル) -
北斗玻璃 クリエイターズルームへ
東京怪談
2009年05月29日

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