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『Delusion of possession 』
海原・みなも1252)&草間・武彦(NPCA001)



 気がつくと、あたしは雨の中にいた。
 霧のかかったような風景。水の匂い。空気は冷たい。
 目の前にあるのは、和風とも洋風ともつかないような、どこか変わった作りの屋敷。
 この建物には、見覚えがある。──そう。つい数日前、あたしはこの屋敷の地下室に閉じ込められて、生きたまま椅子に加工されそうになり、そして──。
 そして──?

 よく思い出せなかった。ついこのまえのことなのに、十年も昔のことのように思える。わすれるはずがないことなのに。まるで、夢の中にいるような気分。もしかすると、実際そのとおりなのかもしれない。この雨の中を傘もささず歩いてきたことの説明をつけるのに、『夢』以外の理由を見つけるのは難しそうだった。
 けれど、どこか違う。夢にしては現実感がありすぎるし、なにより肌を流れる水の感触が夢の中のものとは思えなかった。
 五月の雨は、まだ冷たい。その冷たさが、あたしに何かを教えてくれる。あるいは、つなぎとめてくれている。あたしを、この世界に。もし雨が降っていなければ、あたしはとっくに「あちら側」へ行ってしまっていたのかもしれない。こうして意識を取りもどすこともなく。

 雨は激しさを増して、弱まる様子がない。
 屋敷の門は大きく開かれて、鉄柵が風に揺れている。まるで、手招きするように。にぶい銀色に光るその動きは、水の中を泳ぐ魚影にも似て見える。
 この屋敷に主人がいないことを、あたしは知っている。数日前、彼は警官に射殺された。少女連続誘拐の容疑者として。その命が失われる最後の瞬間を、この目で見た。見てしまった。狂気と絶望に塗りつぶされた、あの表情。一生忘れられそうにない記憶だ。
 もしかすると、彼があたしを呼んだのかもしれない。
 そう思って、しかしその考えはすぐに打ち消した。
 彼じゃない。あの狂気と妄執にとりつかれた魂はたしかに超越的なものではあったけれど、今この屋敷を包み込んでいる瘴気は、ただ一人の人間から発せられるものと思えなかった。

 そういえば──。ひとつ、思い出した。
 あの犯人が射殺されたあと、屋敷の地下からいくつもの『作品』が見つかったことを。いずれも生きたまま家具や調度品の中に埋め込まれて、中には二度と元の姿にもどれない子もいたという。見つかったのは生きている子ばかりだったけれど、おそらく死んでしまった子もいたはずだ。
 この屋敷を覆い尽くしている怨念のような瘴気は、それが原因なのかもしれない。そして、その瘴気が、意思のようなものを屋敷に与えている。まるで、この屋敷そのものに魂を吹き込もうとするかのように。
 ぜんぶ想像でしかない。けれど、雨がすべてを教えてくれている。そんな気がする。

 夢の中にいる感覚は終わらない。
 アスファルトの上に立っているはずなのに、まるで砂浜に立っているような感覚。路面に溜まった水が波のように寄せて、足元の砂をさらってゆく。あたしは一歩も動けない。ちょっとでも動いたなら、たちまち崩れ落ちてしまいそうだった。
 それだけじゃない。さっきから、ひどく息苦しい。吸い込んだ空気が、内側からあたしの体を侵蝕してゆくような──。
 ぐらりと、めまいがした。まどろみに落ちるような──。気圧が変化する感覚。

 一瞬、目の前が暗くなった。
 ほんのわずか、意識を失っていたような気がする。
 その一瞬のあいだに、なにかを見たような記憶が残っていた。それこそ、夢だったのかもしれない。見えたのは、黒い髪の少女が微笑んでいる光景だった。
 すぐに理解できた。あの少女こそ、『彼』の娘だったにちがいない。けれど、それは彼女自身の記憶ではなく、おそらくこの屋敷が抱えている記憶だった。
 この屋敷には、かぞえきれないほどの魂が刻み込まれている。それはたとえば誘拐されて壁に埋め込まれた少女たちのものであったり、生きながら家具にされた子たちのものであったり──。文字どおり、無数の魂が刻み込まれ、埋め込まれている。
 もしかすると、あたしの見た黒髪の少女は、それらの魂が作り上げた怨念と妄執の産物なのかもしれない。そして、屋敷の意思が今あたしを取り込もうとしている。黒髪の少女の幻影に実体を与えて、この屋敷の新しい主人とするために。

 そこまで気付いたとき、冷たいものが足元から押し寄せてきた。
 アスファルトの路面に溜まった雨水が、凍りつくような温度をもって足を這い上がってくる。まるで、意思のある生物のように。もちろん、錯覚だ。そうでなければ、悪夢の続きにちがいない。
 あたしは、強い意思をもって雨水に命令する。あるべき形にもどれ、と。
 それでも、足を這い上がってくる冷たさは止まらない。──そう。最初からわかっていたことだ。これは雨水なんかじゃない。錯覚でもない。これを何と呼ぶのか、あたしは知っている。恐怖、だ。

 夢なら、もう覚めてもいいころだった。
 いくら悪夢にしても、これは現実感がありすぎる。それでも目の覚める気配がないところからすると、どうやらこれは夢ではないのかもしれない。
 けれど、夢でないとしたらこの朦朧とした感覚は何だろう。麻酔でも打たれたように手足は自由が利かないし、頭も回らない。そのくせ、一人でここまで歩いてきたのだから不思議だった。しかも、どうやって歩いてきたのかだって覚えてないのだ。

 呼ばれたのではなく、操られたのかもしれない。そう気付いた。
 けれど、気付いたからといってどうにもなるものではなかった。
 とにかく逃げなければ──。
 しかし、どうやってみても足は動かない。完全に凍りついてしまったか、それとも石化してしまったか。まるで他人のもののように、足も腕も自由にならなかった。
 乗っ取られてしまったのかもしれない。
 気がつけば、自由に動かせるのは頭の中だけだった。──いや、それだってもう自由にはならない。ここへ来たときから意識が朦朧としていたのは、最初から頭を侵蝕されていたのかもしれなかった。

 気付くのが遅かった。もう、どうにもならない。なにもかも手遅れだった。
 ひどいめまいが襲ってきて、ぐにゃりと視界が歪みだした。水鏡に映した風景みたいに、すべてが揺らいで見える。そうして、目に見えるものすべてが見知らぬ何かになっていった。氷のかたまりをつめこまれたみたいに、頭の芯がひんやりしていく。その温度が、あたしの脳の中にある記憶を凍りつかせ、消し去っていくように思えた。
 雨の中に立ち尽くしたまま、あたしには何もできなかった。ただただ、あたしの中のすべてが消し去られて、自分が自分でなくなってゆくのを、傍観者のように見つめているだけだった。
 すべてが消し去られ、書き換えられてしまうのに、おそらく大した時間はかからない。このままでいれば、数分たらずであたしという存在は失われてしまうだろう。けれど、なぜだかそれは不思議な心地良ささえ感じられて──。

 パンッ、という音がした。頬に、ピリッとした痛み。
 同時に、ゆがんでいた視界が形を取りもどした。まるで、魔法がとけたように。
「みなも!」という声が聞こえた。だれかが、あたしの名前を呼んでいる。聞き覚えのある声だった。この声は──、そう、草間さんだ。
 タバコの匂いがした。そして、もういちどあたしを呼ぶ声。よく知っているその姿が、目の前にあった。肩に、手が触れている。雨の中にいたせいか、その手はとても熱く感じられた。
「草間、さん……?」
 無意識のうちに、言葉が出ていた。
 口が動く──。そう思ったとたん、金縛りがとけたように全身が自由になった。と同時に今まで忘れていた重力が襲いかかってきて、あたしはアスファルトに尻餅をついた。──痛い。痛くて、冷たい。
 右手を見ると、皮膚がすりむけて少し血がにじんでいた。その痛みが、悪夢の終わりを告げているような気がした。

「なにをやってるんだ、みなも。この屋敷には近付くなと言ったろう?」
 苦りきった顔で言いながら、草間さんは手を差し伸べてくれた。
 あたしは、その手を取ってゆっくり立ち上がる。
「ごめんなさい」
 いろいろと言いわけしたいところだったけれど、いまは謝っておくべきだった。
「何があったのか知らないが……、ともかく屋根のあるところに行こうか」
 そう言って、草間さんは傘をあたしに押しつけてきた。
 もちろん、傘は一本しかない。水を自由に扱えるあたしの力を草間さんも知っているはずだけれど、それでも傘を貸してくれるのは彼がハードボイルドだからなのだろう。
 あたしは傘を差し、歩きはじめている草間さんの後を追いかけた。
 途中、いちどだけ後ろを振り返ってみた。つよい雨の下。主を失った屋敷は、色あせた白黒写真のように見えて、どこかはかなげだった。けれど、きっとそれもまた錯覚に違いなかった。

 三日後、屋敷が取り壊されたという話を耳にした。
 なにか言葉にしがたい思いがあたしの中を通り抜けて、そして何も残さず消えていった。
PCシチュエーションノベル(シングル) -
牛男爵 クリエイターズルームへ
東京怪談
2009年05月18日

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