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『water creatures 』
一条・里子7142)&(登場しない)

 鍋の中ではくつくつと、あごで取った出汁に薄く染まった湯が音を立てている。
 夕暮れは日増しに早くなり、台所の磨り硝子は朱に染まって、世界の全てがその色に染まってしまったかのようだ。
 一条里子は一旦ガスレンジの火を止めると、冷蔵庫の中から二段に重ねたタッパーを取りだし、シンクの脇に並べて蓋を開くと、腰に手を当てた。
「さて、と」
タッパーの中身は白味噌と赤味噌。
 流石に調味料を手作りをする迄の情熱はないが、他社製品を購入すれば容器の形が違い、冷蔵庫の中で嵩張るため、同じ容器に詰め替える程度の手間は惜しまない里子である。
 本日の味噌汁の具材はなめこ。
 器に盛る直前に青ネギを加えて香り良く、本日の主菜のさんまの塩焼き、栗ご飯、里芋の煮っ転がしと合わせて惚れ惚れするような秋の食卓が完成する予定なのだが。
「薄味か、濃い味か……それが問題だ」
重々しく哲学めいた呟きに苦悩を滲ませ、里子は透んだ出汁に満ちた鍋の底を凝視した。
 なめこ汁に大根下ろしを加えると美味、というレシピを先日入手し、本日初挑戦するのである。
 里子と娘は薄味、夫は濃い味を好むため、この味噌の分量に、里子はいつも頭を悩ませていた。
 赤味噌が多すぎれば辛さが気になり、白味噌を増やせば甘いと寂しげに呟かれる。
 多数決で言えば当然一条家女性陣に軍配が上がるが、だからと言って愛する夫を蔑ろにしては妻の名が廃ると言うものだ。
 さりとて、夫の分だけ別の鍋で、という手段は荒っぽすぎる。薄すぎず濃すぎず、家族全員の嗜好を制覇し得て初めての勝利である。
 そうして、今日のなめこ汁に投じる大根が薄味派の救世主になるか、或いは孤高の濃い味党派を撃沈せしめるか。
 個性を持つ食材の味わいを活かせるか否か、その一食一食が伸るか反るかの大勝負、主婦業に従事していれば、スリルに事欠くことはない。
「えぇい、ままよ……!」
里子は己の直感を信じ、赤味噌と白味噌の両方を適量お玉に掬い取り、菜箸で味噌を合わせながら少しずつ出汁に溶き入れていく。
 ちゃかちゃかと小気味の良い音と動きに、出汁に拡がっていく味噌の色と香りに全神経を集中しながら、里子は全ての味噌を鍋に入れた後、お玉で軽くかき混ぜ濃さを均一にした。
 そうしてそっと汁を掬い取り、小皿に取ると口元に運ぶ。
 ほんの少量、含んだ味噌汁はあご出汁の深みが赤味噌の個性を際立たせ、且つ白味噌の甘みを消し去ることなく共存させている。
 ここに更になめこと大根おろしを加えた味を脳内で組み合わせた里子は、肩の力を抜いてにっこりと微笑んだ。
「うん、美味しい♪」
後は、家族の帰宅に合わせて具材を投入するだけだ。
 最大の懸案が解決し、里子は続いて里芋の煮っ転がしに入れる鶏肉を刻もうと、味噌汁の鍋を保温するために蓋を取った。
「そう言えば、来週は運動会だったわねー」
家に一人の時間が長いと、ついつい思考が口を突いて出てしまう。
「やっぱりキャラ弁……かしら」
運動会と遠足のお弁当は、やはり普段と一線を画したものを用意してやりたいのが親心である。
 同級生と見せ合いっこしたり、おかずの交換をしたりするのも心楽しい……けれど制作者側にすれば、運動会プログラム外での真剣勝負だ。
 ここはやはり、娘の好きな特撮物で攻めるべきか。
 否、同性の女の子に銀色をした巨大化ヒーローを披露するのはどうかと思う。だからと言って女の子向けのキャラクターにすれば本人のがっかり感が強いだろう。
 それ以前に、彼の銀色の体皮を如何なる食材で表せばいいものか。ご飯に合うと言えば太刀魚だろうけれども、あの薄い皮を身ごとほぐして敷き詰めるのはどうだろう。
 脇に避けてあった蓋を鍋にかぽりと被せるまでの間に、それだけの思考を巡らせた里子は、それはあまりに娘の自己満足度ばかりが高いと頭を振った。
「何が良いかしらねー……ヒーロー……怪獣……は、ダメね。戦隊物……」
続いてカラフルなそれを候補に上げようとした里子の思考を、背後からの声が止めた。
「河童はどうでしょう」
家人はまだ帰宅していない。それ以前に語尾の高い声に聞き覚えは全くない。
 里子はスリッパを履いた足をハの字に、右足親指でぐっと床を踏みしめると、手にしたお玉を指を支点にキリリと回して味噌汁の鍋に突き入れた。
「曲者……ッ!」
左足を軽く開く動きに腰に捻りを効かせ、里子は声から判じた距離と方向に向け、振り向き様に味噌汁を浴びせかけた。
 御免下さいもお邪魔しますも言わずに他人の家に上がり込む、そんな輩には先手必勝、問答無用、反射的に里子は攻撃に移る。
 一条家に仇なす者に対して、容赦の二文字は有り得ない。
「うあっつ! あっつうぅぅぅ〜ッ!」
聞き慣れない声の主は、台所の床を左右に転げ回っている。
 熱い味噌汁の洗礼を受けた……その肌は緑。背中に甲羅。頭に皿。手足の指の間には水かきを備えた、これぞまさしく。
「……河童?」
盾よろしく鍋の蓋を構え、防御も完璧な里子は、『不法侵入=不審者』を図式とする己の常識を、『不法侵入=妖怪変化』に書き換える必要性を痛感していた。


 里子の味噌汁攻撃にのたうちまわった挙句、頭の皿の水を溢して干涸らびかけた河童だが、ミネラルウォーターで難なく復活を果たした。
「日暮れが早くなると、物騒なものだから……ね?」
ほほほと上品に笑って場を和ませようとしながら、里子は伝承通りに子供の身長しかない河童をもてなしている。
「お持たせで失礼ですが、抓んでくださいね」
夏の名残の麦茶と茄子の漬け物、そして軽く塩もみをした胡瓜を出され、河童は礼の意味でこくりと頷いた。
 胡瓜は、河童が持参した土産である。
 今時分、夏野菜は高い。旬を過ぎたばかりでハウス栽培の物もあまり出ず、それまでの安値の感覚が抜けない内は、手を出す気になれない。
 それを山と積まれて、里子は内心うきうきとしていた。秋野菜も美味だが、緑の鮮やかさは食卓に欠かせない。
 主婦にはこの上なく有り難く、気の効いた手土産に、先までの警戒は泡雪の如く消失していた。
 河童は水かきのついた手でも器用に爪楊枝を抓み、勧めた胡瓜と茄子とを交互に口に運んでいる。
「それで、今日はどんなご用件で?」
こりこりと小気味よい音を立て、胡瓜を咀嚼する河童に里子は用向きを伺う。
 知らぬ者の方が希少価値と言える、ある意味有名人の来訪に意味がない筈はない。
 因みに里子、自宅で穫れた野菜をお裾分け、レベルで河童と親交を深くした覚えもない……知らぬ間に、娘が学友として親しくしていれば話は別なのだろうが。
「実は……赤鬼さんにご紹介頂きまして」
しかし予想の範疇を軽く越え、思わぬ方向からの繋がりに里子は目を丸くした。
 以前、一条家のベランダに不法侵入して、何やかやの後地獄への帰還を東北で待つことになった鬼の名を、里子は遠い思い出の岸辺に忘れかけてすらいたのだが。
「まぁ、懐かしい。彼は元気に……?」
知人の安否を問おうとしたところでふと気付く。
「彼、自殺の名所で、活動してたんじゃなかった……?」
ある可能性に思い至って、里子は目の前の河童を凝視した。
 その真っ直ぐな視線に耐えかねてか、河童がわっとテーブルに泣き伏した。
「そうです……っ、私は、私はなんて愚かなことをーッ!」
頭の角度が悪かったのか、皿からたぷんと水がこぼれ落ち、しゅうぅと音を立てて干涸らびようとする河童の皿に、里子は慌ててミネラルウォーターを注ぐ。
「度々ご面倒を……」
意識を取り戻した河童がまた深々と頭を下げようとするのを制し、里子は先を促す。
 河童の曰くところによると、住み着いた淵のある山が造成工事の対象となり、ほどなく立ち退かねばならないと言うのだ。
 ならば引っ越せばいいのでは、という話になるのだが、河童が生を受けてから、かれこれ50回は住処を移し、近郊を流離っているのだという。
「ここぞと思って永住しようとすれば、やれマンションが建つ、やれ水質汚染が、と水場自体がどんどん数を少なくなって……」
転々とする人生に、ほとほと疲れたんです……丸めた肩に疲労と悲哀を覗かせて、麦茶のグラスを手にした河童は深い息を吐いた。
「それで世を儚んでを……?」
河童が如何様にすれば入水で命を断つことが出来るのか、甚だ疑問が残りはするが。
 人間の都合に追われ、家すら持てないという境遇は、知らずとも搾取する側に属していた里子の胸にも痛い。
「はい……ですが、赤鬼さんにですね。それならば、貴方を訪ねれば良いだろうと……はい」
今までの苦労を思いだしてか、河童の目尻に涙が光る。
「……事情は良く解ったけど」
何となく、正座で河童の身の上話を聞いていた里子は、足を崩して頬杖を付いた。
「うちは河童の住宅斡旋まではしてないのよ、ねぇ」
それ以前に妖怪相談所でもない。
 里子とすれば、現実的、且つ正直な心情の吐露に過ぎなかったのだが、藁をも掴む心情であった河童には衝撃的だったようで、再びテーブルに突っ伏し干涸らびかけること三度目である。
 わざわざ日本海まで赴かずとも、道端に天を仰いで横になっただけでも、十分に目的を達成出来そうな体質だ。
 それはともかくとして、元々自殺願望があっただけあって、この河童はやたら頭のバランスが悪い。
 一条家の居間に河童の干物を鎮座坐すわけにも行かず、里子は皿の水が漏れないよう、鍋の蓋を被せられないものかと頭を注視した。
 サイズ的には、小鍋の蓋が丁度だろうか……家にあるのは、耐熱硝子製だし。里子の思考を知らずして、思惑に沈む面持ちに、河童が何やら期待の眼差しを注いでいる。
「……ダメね」
ただ蓋を被せただけでは頭を傾げただけで落ちてしまう。
 溜息と共に下したセルフ却下に絶望した河童が泣き伏す前に、里子はその顎の下に手を差し込んで自殺行為を阻む。
「頭数が減るだけでもきっと家族は楽になります、年ごろの娘に出会いの機会すら与えてやれない、穏やかな水面の下で眠らせてもやれない親父など……ッ!」
絶望にくれた河童が叫んだ一言に、里子の年頃の娘を持つ親センサーが反応した。
「娘? お子さんがいらっしゃるの?」
 ずずいと顔を寄せた里子に、河童はひっくと肩を揺らしながら頷く。
「これが娘です」
背中に手を回し……甲羅に手を突っ込んだ河童は、如何なる構造になっているかは不明だが、中から一枚の写真を取りだした。
 パウチ加工された写真は、青空を背景にこちらを見ている河童の姿がある。
 黒々とした目のきらめき、ほんのりとひよこ色の嘴、澄んだ水を湛えた皿につやつやに磨き上げられた甲羅。
「まぁ……可愛い娘さんね」
正直に言えば、河童の美醜は解らない。だが、写真を見る限り、穏やかで、優しげな雰囲気はこれぞまさしく乙女と呼べる端正な挙措さえも彷彿とさせた。
「私達夫婦の自慢なんです! 可愛く優しく気だてが良くて、家事も上手い! お持ちした胡瓜も娘が自作したもので、とっても美味しいんですよ!」
先までのうらぶれた様子は何処へやら、途端に活き活きとしだした河童に、人間も妖怪も我が子可愛さは共通するものなのかと、里子は滲む感涙をエプロンの裾でそっと拭き取った。
「でもこれだけ良い娘さんなら、御縁に困るようなこともないでしょうに……それが一番ご心配では?」
聞けば花も恥じらう18歳、人間では漸く法的な結婚が認められる年だが、妖怪の場合はどうなのだろうか。先の吐露から話を振ってみれば、河童は再び肩を落とした。
「それなんですよ……近場には、もう家族持ちしかいなくてですね。贅沢を言えば娘に良い人を選ばせてやりたい……しかし家も禄に持てない貧乏河童なぞ、一体誰が相手にしてくれましょうや!」
「このばかっ!」
バッチーン! と、小気味の良い音を立てて、里子の手が河童の頬を打った。
「……父さんにも撲たれたことないのに!」
頬を押さえ、乙女な感じで頽れた河童は、意外に人間世界の文化に精通している様子である。
「本当に娘さんのことを考えるなら、自殺なんてばかな真似は思いつきもしないはずよ! あなたは結局自分が可愛いだけなのよ!」
テーブルの上に片足を乗せ、力説する里子の口調も何やら芝居がかっている。
「一条さん……! 私が間違ってましたぁッ!」
「河童さん……ッ!」
ひしっとテーブルの上で抱き合うこと、三秒。
「さて」、と両者は同時に座布団の上に再び座り直した。
「じゃぁ、慌てずに懸念を一つずつ解消して行きましょうね。娘さんの縁組み問題なら、ちょっとした伝手があるからそっちに聞いてみるわね」
エプロンのポケットから手帳とペンを取り出し、こちこちとシャーペンの芯を繰り出した里子は、タスクリストに『河童縁組』の文字を書き足す。
「あぁ、それだけでも助かります。私も……そうですね、近場で河童の一族はうちの一家だけですが、遠方には遠縁の者もおりますし。土地に拘らず、そちらからあたってみることにします」
同じく河童も甲羅の中から葉っぱの束を取りだし、皿の水でちょいと濡らした指先で、さらさらと何かを書き足している。
 そんな風に話はとんとんと纏まり、里子は胡瓜のお礼に河童に茄子を山ほど持たせて送り出した。
 何度も見返り、里子に頭を下げながら帰路につく、河童の後ろ姿が夕陽に向かって消えていく。
 その姿をを見送った里子は、中断していた夕食の支度を再開する為、ポニーテールを揺らしてくるりと反転した。


 一週間後。
 里子は早朝から上機嫌でキッチンに立っていた。
「河童も、水神の系譜って言うものねぇ……」
しみじみとした呟きが漏れるのは、懸念が二つ、一時に解決した為だ。
 一つは先の河童の訪問。
 里子の言う伝手とは、龍神を初めとする水を司る存在だった。
 花嫁募集中の河童の有無、居たとすれば周囲の評判、趣味嗜好、年収、背丈、その他諸々の情報を集めて、これぞと思う殿方に河童の娘の写真を釣書と共に送りつけたのが相談を受けて二日目。
 お会いしたいという連絡が来たのがその夜、縁が纏まったという報告が来たのは更に三日後、とこの上なくスムーズな流れには里子の方が驚いたものだ。
 よくよく聞けば、お相手は河童界の白金台と呼ばれる土地に淵を三つも所有する有力河童、誠実な人柄に定評があるが、一族の為にと今まで独り身を貫いてきたのだと言う。
 そんな河童を射止めたのは、娘河童の愛らしさ、そして写真を見ただけの里子でも解る、芯に強さを持つ優しさだろうと確信出来た。
 婿河童は、河童も娘と同じ土地に呼び寄せ、胡瓜が暖まらない距離にある小さな池を住処として提供してくれるのだと言う。
 停滞していた物事が上手く行くときは、そんな風に勢いがつくものね、と感心しながら、里子は手を休めずにくるくると細巻きを作っていた。
 本日は、里子の娘の運動会……解決した二つめの懸念は、キャラ弁の図案だ。
 グリンピースにブロッコリー、サニーレタス、それから河童の手土産の胡瓜。
 メインになる食材が見事な迄に緑なのは、娘のリクエストが河童であった為だった。
 今、彼女の学年は空前の妖怪ブームが訪れているらしい。
 娘は塗り壁か河童かで、ぎりぎりまで悩んでいたが、結局の所は河童で落ち着き、里子も腕の振るい甲斐があるとういものだ。
 塗り壁を選択された暁には、ドカ弁一杯の白ご飯に、黒ごまで小さな目を描くより他に手を加えようがない。
 そぼろで層を作り、味に難のないように整えたご飯の上にグリーンピースを敷き詰め、ノリと卵、各種野菜でそれらしく形作っていく。
 モデルとは先日遭遇したばかりだが、そのままの姿を弁当とするには多少の難がある。
 そこは得意のイラストでデフォルメし、カッパ巻きとタコさんウィンナー、うずら卵で間を埋めて行けば、多少の振動にも崩れることはない。
「……ちょっと可愛くなりすぎかしら」
ほとんど出来上がった河童弁当見つめ、里子は首を傾げた。
 大きな瞳と牛乳で溶いた卵で作った卵焼きは、先日出逢った河童というよりも……。
 思案の末、里子は田麩を取り出すと、河童の髪の部分に丁寧に乗せていく。
「ん、これでいいわ」
河童には、主張しすぎない大きさのピンクのリボンが配され、それは愛らしい娘河童が出来上がった。
 その出来映えの満足の息を吐き、肩の力を抜いたのも束の間、里子はよし、と両脇で拳を固めると、観戦に赴く自分と夫の分のお弁当を準備すべく気合いの力拳を作る。
 こちらは懲りすぎずとも、定番の太巻き寿司とその他のおかずで良い。
 取り敢えず、出来上がった分は包んでおこうと蓋を閉めかけて、里子は微笑むような娘河童に語りかけた。
「うちの子にも、少しでいいからおしとやかさを分けて頂戴ね」
年ごろになればいずれと信じてはいるが、天真爛漫な姿を見るに、ほんの少しの不安も覚えるのが親というものだ。
 里子は、ひっそりとささやかな願いを込めて、弁当箱の蓋をそっと閉めた。
PCシチュエーションノベル(シングル) -
北斗玻璃 クリエイターズルームへ
東京怪談
2008年10月20日

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