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『+ 虎と龍と、ナメクジと + 』
竜王寺・珠子5215)&伊葉・勇輔(6589)&(登場しない)

「大事なお話って何?」
 とある冬の日の朝。
 オレ、竜王寺・珠子(りゅうおうじ・たまこ)は、そう言いながら座ったイスの上で足をぶらぶらさせた。目の前にいる四十歳近くのおっちゃんは、たった六歳のオレに対して、とても低い姿勢で「へえ、」と頭を下げる。
 おっちゃんは、イスの前に重々しく正座をして背筋を伸ばしたかと思うと「実はですね、」と話を切り出した。
「西の方から、えらくでけえ暴力団の組員共が、この上野に手ぇ出してきやしてね」
「手ぇ出す?」
「乙姫組を乗っ取っちまおうって腹みたいでさぁ」
 オレはあまりピンと来るものがなくて、首をコトンと傾けた。
 東京、上野を仕切る弱小ヤクザ“乙姫組”。それがオレの家の稼業ってやつだった。オレの父さんが俗に言う頭ってやつで、オレはその娘だから、乙姫組の組員のみんなにはいつも「お嬢」なんて呼ばれていた。
 ただ、上野はいつだって平和だった。
 ヤクザなんて言っても、ちょっと言葉が悪いだけで、乙姫組の組員は優しくて面白い人たちばかり。ヤクザの家にいるわりに“普通”が当たり前な毎日だったから、オレは組員の一人であるおっちゃんに言われた「手ぇ出す」とか「乗っ取る」とかに、いわゆる現実味ってものを感じる事は出来なかった。
 でも、組からすればこのお話はかなりの大問題らしくって、おっちゃんは自慢の坊主頭をテカリと光らせながら「それでですね、」と強く膝を叩いた。
「お嬢もご存知の通り、乙姫組ぁケンカにゃ向かん組です」
「うん、父さんが“うちは義賊だ”って言ってるもんね。ケンカは悪い事だしね」
 義賊。あんまり意味はよく解らなかったけれど、とりあえず「義賊は恰好いいんだぞ、悪い事しないんだぞ」と言われて育ったオレは、乙姫組イコール義賊っていうその事を妙に誇らしく思っていた。
「そうなんです。ですが、今回ばっかりはケンカなしにゃいられねえんでさぁ」
「ケンカするの? 弱いのに?」
「……お嬢にそう言われっちまうと、非常に申し訳なくなるんですが」
 おっちゃんは困ったような笑ってるような、そんなおかしな顔をしながら頭をポリポリと掻いた。
「ですが本当に、うちのモンがケンカ強くねえのはお嬢もご存知の通りなモンで。ですから今回は助っ人を頼んだんですよ」
「すけっとって何?」
「お助けマンの事でさぁ。お嬢にもご紹介しておきやすね」
 そう言うと、おっちゃんは急に立ち上がって部屋を出て行ってしまった。
 オレは相変わらず足をぶらぶらさせながら、その“お助けマン”とやらに考えをめぐらせてみた。
 お助けマンという事は、ヒーローというわけで。それは要するに、オレがよくテレビで見ている時代劇の主人公、近山(ちかやま)のカネさんのような人を指すわけで。
 オレは無意識の内に、にへっと笑ってしまった。
「お待たせしやした」
 そんな事をしていると、おっちゃんはまたすぐに部屋に戻って来た。
「ご紹介しやす」
 そう言ったおっちゃんは、一歩だけ後ろに足を引いて、右の手の平で自分の後ろを指し示した。
「しばらく用心棒としてうちについてもらう、伊葉・勇輔(いは・ゆうすけ)さんです。東京最強って言われてる強い方なんですよ。伊葉さん、こちらはうちの頭の秘蔵っ子です」
「どうも」
 おっちゃんが紹介してくれた伊葉っていう人は、おっちゃんよりもずっと若い大人の兄ちゃんだった。その兄ちゃんは、真っ黒な髪の毛と真っ黒なツリ目をしていて、強そうで、でも何となく優しそうな顔をしていて、たぶんこれが“優男”ってやつなんだろうとオレは思った。
 でもおかしな事に、その兄ちゃんは全然“お助けマン”には見えなくて、オレは思わず兄ちゃんを指差しながら「ねえ、この人、バカ?」と、おっちゃんに訊いた。
「ななな何をおっしゃいやすか!」
 おっちゃんは慌ててオレの肩をがくがく揺さぶったけど、それでもオレは伊葉の兄ちゃんをじろじろと見てしまった。
 だって今は冬で、外はぶるぶる震えるくらいに寒くって。なのにこの兄ちゃんは。
「おっちゃん、オレさっき外見た時、雪積もってたんだよ。なのにこの兄ちゃん何でアロハシャツ……」
「粋ってヤツでさぁ! これぞ男の粋ってもんなんでさぁ!」
「…………」
 とりあえず、おっちゃんの必死さだけは伝わったので、オレは黙り込んだ。
 でもやっぱり納得はいかなくて、“粋”な兄ちゃんを見ながら「こんな人で本当に大丈夫かなあ」と顔をしかめた。オレは寒いのが嫌いだから、こんな日に半そでアロハシャツを着ている兄ちゃんを「本当に人間かどうか」という部分から疑ってしまう。
「…………」
 黙ったまま下から上からと兄ちゃんを眺めていると、何となく兄ちゃんと目が合ってしまった。兄ちゃんは笑いもせず怒りもせず、普通っぽい顔をしながらオレの事をじっと見ている。
「ねえ、兄ちゃん強いの?」
 オレがそう訊くと、兄ちゃんはちょっとだけ目をぱちぱちさせて、「生意気な事訊いてくれんじゃねえの、」と言った。
「でもまぁ、強いと思うぞ。三食おやつ付きの為なら、おいらはいくらでも強くなれっちまうから」
「三食おやつ付き?」
「おまえの父さんからもらう、助っ人のご褒美」
「お金じゃないんだ?」
「うっかり二束三文払われるより、三食おやつ付きの方がありがてぇのよ」
 そう言って兄ちゃんはにっかりと笑った。
 その笑顔は、何て言うか“大人っぽさ”がなくて、とってもすんなりと心の中に受け入れる事が出来てしまった。

 とりあえず、悪い人じゃなさそうだなっていう印象だった。

 ◆◇◆◇◆◇◆

 その日の放課後。
 早く帰って来いと念押されていたオレは、一人ざくざく、学校から家までの道のりを歩いていた。汚れた雪をさらに汚しながら、早歩きをしている。
 はあっと息を吐くと真っ白いものが口から出て行って、余計に空気が冷たく感じた。オレは寒いのが苦手なので、少しでも早く家の暖かさに包まれたかった。
 帰ったらおこたに入って、みかん食べて。それから、いつも通り時代劇でも観て。今日は確か、大好きな近山のカネさんの再放送の日。
 そんな事を考えながら、オレはひたすらに足を前へ前へと動かした。

 でも、そんなゆるゆるな事を考えていたからだろうか。
 オレはその瞬間、何が起こったのか自分でもまったく解らなかった。

 その時はまだ夕方って言うにも早いような時間で、周りには白い雪がいっぱいあったはずなのに。想像の中の“みかんと時代劇”でるんるんしていたオレの目の前は、その瞬間、まるで絵本で読んだこの世の終わりみたいにいきなり真っ暗になってしまったのだった。
 一瞬息が苦しくなって「何かおかしいぞ」と思うと同時に、“みかんと時代劇”っていう平和な日常は、思っていたよりも壊れやすいものだったらしいと、オレはその時に初めて知った。

 ◆◇◆◇◆◇◆

 真っ暗なこの世の終わりに光が差したのは、それからたぶん十分くらい経ってからだった。
 どうやら本当にこの世が終わったわけではなく、オレはただ単に布の袋をかぶせられていただけみたいだった。
「ごめんねえ、お嬢ちゃん。オジさん達も、恐い思いはさせたくなかったんだけどねえ」
 目をぱちぱちさせると、何だか壁を這うナメクジを思い出しそうな、ねっちょりとした喋り方をするオジさんがオレの目の前にしゃがみこんでいた。
 オレはどこかの倉庫みたいなところで、パイプ椅子に座らされていた。周りには十人くらいのオジさん達がいて、オレの事を取り囲みながら何かガヤガヤしゃべっている。
「別に、恐くはなかったけど」
 オレがそう言うと、ナメクジさんは「ほお、」と目を丸くしながら感心したように頷いていた。
「偉いねえ。じゃあ、もうちょっとだけオジさん達と一緒にいてね」
「嫌だ。オレ、帰ってみかん食べるから」
「…………」
 何か変な事でも言っただろうか。俺の言葉にナメクジさんは「ん?」て顔をしながらオレの事を見ていた。
 でも、そんな事は結構どうでも良く、今何がどうなっているのかさっぱり解らないオレにとっては、ナメクジさんの意味不明な言葉よりも、みかんと時代劇の方がよっぽど大切だった。
 ところが、立ち上がろうとすると、後ろに立っていた別のオジさんに肩を押さえられて、オレはもう一度パイプ椅子に座りなおす形になった。
「……オジさん達、誰なの?」
「オジさん達ねえ、暴力団の人なんだ」
「乙姫組狙ってる人?」
「うん、そんな感じかなあ。ねえ、嬢ちゃん。オジさん、嬢ちゃんにちょっと訊きたい事があるんだけど、答えてくれる?」
 相変わらずナメクジっぽい喋り方で、ナメクジさんは首を右に傾けながらオレを見ていた。
「九頭龍って知ってるかな?」
「くずりゅう……?」
 ナメクジさんに言われて、俺はその“くずりゅう”の事を考えた。
 確か、代々うちに伝わっているっていう刀の事だった気がする。「認められた人しか使えねえ代物らしくって、今は誰にも抜く事が出来ねえんでさぁ」って、昔おっちゃんが言っていたような記憶がある。
「……誰にも抜けない刀だって聞いてるよ」
「本当に誰にも抜けないの? 嬢ちゃんは九頭龍を見た事ある?」
「ないよ」
「そうか、ありがとう」
 ナメクジさんは何だか満足そうに頷いてオレに笑いかけた。この人は、何だか笑い方もねっちょりしていて、気持ちが悪いなあと思った。
 オレは何だか変に疲れてしまって、ナメクジさんから目をそらした。ちょっとだけ頭をひねって、現状ってヤツを考えてみる。
 すると、とりあえずここにいる西の暴力団員さん達は、要するに“くずりゅう”が欲しいのかって事に気付く事が出来た。でも“くずりゅう”が欲しいなら、どうしてオレがこんな所に連れて来られているんだろうと、それが解らなかった。
 不思議と今でも「恐い」とは思わなかったけれど、ただ何となく不安になる。オレはどうなるんだろう。まさか殺されたりとかしないよね、なんて。
 オレは目線を前に戻して、ナメクジさんを睨んでみた。
「ねえ、オレ帰りたいんだけど」
 けれどナメクジさんは、ねっちょりと笑ってすぐに「駄目だよ」と答えた。
「お嬢ちゃんはね、大事な大事な人質なんだ」
 そして、そう言われたオレの頭には、こないだ観た時代劇のワンシーンが頭をかすめていった。

『お前さんを人質にして、ヤツをおびき出すのさ』
『あの人相手じゃ、あんたなんか一撃で終わりだよ!』
『その為の人質なんだよ。お前さんを盾にすれば、あいつも手は出せまいよ』
『なんてヤツ! 卑怯者!』

 ――とりあえず、ナメクジさん達が卑怯者だという事は、充分に理解出来たオレだった。
 オレはむーんとため息をついて、そっと周りを見回した。相変わらず倉庫内はオジさん達がひしめきあっていて、きちんと数えてみると、ここにはナメクジさんを含めて十三人ものオジさんがいる事が知れた。それから、オレが座っている場所から入り口まではとても遠くて、オレの真後ろには相変わらず一人のオジさんがオレの事を見張っていて。
 落ち着いてみると、逃げたくても逃げられない状況だって事も、よく解ってしまった。
 こんな時にどうすればいいかなんて、これまでに教わった事はない。上野はいつだって平和で、弱小って言われている乙姫組は、これからも義賊で弱小でい続けるんだと思っていた。だから、そんな乙姫組がこんなわけの解らない事に巻き込まれるなんて、オレは考えた事もなかったのに。
 あまりの展開に、さすがにちょっと嫌気ってのが差してしまった。さすがにちょっと、誰か助けてよなんて事を考えてしまう。
 でも、「本物の人生ってのは、ドラマみたいに簡単には行かないんだぞ」って言っていた父さんの言葉を思い出して、オレはさらに気分を沈めた。
 ところが、そうして鼻の奥がツンとしてきた、そんな時だった。
「はぁーい、お待ちどうさん、デリバリー九頭龍でぇっす」
 そんな軽い声が倉庫内に響いて、一瞬周りがシン……となった。
 オレは一瞬ぽかんと口を開けてしまったけれど、何となく聞き覚えのある声に、慌ててきょろきょろと首を回した。反対に、ナメクジさん達は聞き覚えのない声にわたわたと辺りを見回している。
 けれど、いくら周りを見回しても、そもそも倉庫の扉は開いていなかったし、何度数えても倉庫内には十三人のオジさんとオレしかいなくて、一体どこから声が聞こえたのかはさっぱり解らなかった。
「はいはい、こっちだよ、こっち」
 するともう一度、今度ははっきりと聞き覚えのある声が“頭の上”から降ってきた。
「な……ッ!?」
 ナメクジさん達は驚きながらアゴを上げて、オレもびっくりしながら上を見上げた。
 するとそこには、なんと天井の骨組みのところにしゃがみこんでいる伊葉の兄ちゃんがいた。
「何だお前、何処から入った!」
「何処って、屋根の穴」
 兄ちゃんは「何て事ないだろ、」みたいな軽い言い方で、天井に開いている、人が一人通れるくらいの小さな穴を指差した。
「つかそんな事よりもよ、おい、怪我してねえかい?」
 それから兄ちゃんは、ニカッとオレに笑いかけてくれた。
 オレはとにかくびっくりして嬉しくて、思わず首を縦にぶんぶんと何度も振った。
「そうか、そりゃあ良かった。雇われた日早々にお子様が拉致られたとか、冷や汗もんだぜまったくよぉ」
 オレはドキドキ心を弾ませながら、伊葉の兄ちゃんの事をじっと見つめた。
 これはあれだ、と。これこそまさに“お助けマン”だ、なんて。
「おい、貴様、降りて来い!」
 ところが、そんな事を考えていると、俺の後ろにいたオジさんが、ちょっと怒ったように兄ちゃんに向かって声を張り上げた。と同時にオレはナメクジさんに抱え上げられてしまい、身動きが取れなくなってしまう。
 それを見た兄ちゃんは、呆れ果てたように舌打ちをしながら天井の骨組みの上にすっくと立ち上った。
「おいおい、勘弁しろや“虚無の世界”」
 兄ちゃんの言葉を聞いたナメクジさんは、明らかに驚いたように身体を震わせて、オレをズリ落としそうになっていた。
「何を……」
「調べりゃすぐ解ったよ。普通の暴力団がこんなモン欲しがるわけねえだろうが。なぁ、心霊テロ組織“虚無の境界”の幹部さんよ」
 こんなモン。そう言った伊葉の兄ちゃんの手には、長い棒が握られていた。木で出来ているらしいそれは何だかとても重そうで、その棒はオレには全く見覚えのないものだった。
 でも、それなのに何となく惹かれるものを感じて、オレは思わずそれを凝視した。
「く、ず、りゅう……?」
 深く考えないままに、その名前を口にする。
 すると一瞬、時が止まったかと思えるくらいに空気が張り詰めたような気がした。
「それが九頭龍か!」
 けれど、すぐにナメクジさんの大きな声が耳を裂いて、オレはハッとした。
「寄越せ!」
「嫌だねえ、急かす男はモテねえよ」
 そう言いながら、びっくりした事に、伊葉の兄ちゃんはそこから跳んだ。
 本当にびっくりした。普通、でっかい倉庫の高い天井から人が跳ぶなんて、映画の中でだけの出来事のはずなのに。けれど兄ちゃんはそれを事も無げにやってのけて、しかも映画の中の俳優さん達よりもよっぽどカッコイイ着地を決めてくれた。
 スタっと軽い音を響かせて、しゃがんだ状態で着地をした兄ちゃん。
「まず子供を返してもらおうか。それからこいつを渡すよ」
「いや、同時に交換だ」
「何ビビッてんだってぇの。こっちは一人、そちらさんは十三人。そちらさんに不都合な事って何かありますかね?」
 明らかにナメクジさん達の方が有利なのに、それでも兄ちゃんは自信満々でそこに立っていた。そして、明らかに兄ちゃんの方が不利なのに、気持ち的には兄ちゃんの方が優位に立っているように見えた。
「…………」
 不意に、ナメクジさんはオレを抱えていた腕をゆるめて、オレを地面に下ろしてくれた。
 急に自由になった事に戸惑い、一瞬ナメクジさんを見上げたものの、ナメクジさんはひたすら伊葉の兄ちゃんの方しか見ていなかった。オレも兄ちゃんの方に目をやる。
「ほら、来い来い」
 そのまま戸惑っていると、伊葉の兄ちゃんはまるで犬でも呼ぶみたいにオレに手招きをした。
 犬扱いっぽいのがとっても気に入らなかったけど、でもどうやら本当に自由にしてくれたらしかったので、オレは駆け足で兄ちゃんの元へ走り寄った。
「さあ、九頭龍を寄越せ」
 ところが、そうしてオレが兄ちゃんの元にたどり着いたその瞬間。ジャキじゃきっと、とても重々しい音が倉庫内に響き渡った。
 兄ちゃんの腕に掴まりながら周りを見てみると、周りのオジさん達はいわゆる“チャカ”ってやつをオレ達に向けていた。
「兄ちゃん」
 いくら何でもさすがに恐くなって、オレはぎゅっと伊葉の兄ちゃんの腕を握った。
 けれど兄ちゃんは「ああ、平気平気」と、相変わらずあっけらかんとした感じでオレに笑いかけてきた。それどころか、きんちょー感がないっていう、ちょっとアレな感じの笑顔のまま「コレ持ってな」とオレに“くずりゅう”を渡してくる。
 想像以上に重いそれに、オレは思わず「うわっ」と声を上げた。
「ガキに渡せって言ったんじゃない、俺達に寄越せって言ったんだぜ、兄ちゃんよぉ」
 ナメクジさんが眉を寄せながら、ねっちょりとした口調でそんな事をぼやいた。確かにそうだと、オレは自分の手の中にある“くずりゅう”を見下ろす。
 ――と、また、何だか周りの空気が張り詰めたみたいに、キィン……と耳が痛くなった気がした。
「はいはい、やかましいってぇの、オッサン」
 今度は兄ちゃんの声にハッとして、オレはまた顔を上げた。
 そうして、思わず身を固めた。
「…………」
 腕の中にある刀をぎゅっと抱きしめて、オレは伊葉の兄ちゃんを凝視した。
「な、ななッ、」
「何だコイツ!」
 周りのオジさん達も、オレと同じくらい驚いて、がやがやと声を上げていた。
 一体、何がどうなっているのか。
 今、兄ちゃんの体の周りを、冷たい“風”が渦巻いていた。その上、ほんのちょっとだけ兄ちゃんが光って見えるような気さえした。
 オレは、自分の目を疑った。
「――ふん、お粗末さんってな」
 そう言った兄ちゃんは、けれどその瞬間、もうそこには立っていなかった。屋根に穴一つ空いているだけの倉庫内に、ゴオッと強い風が吹き荒れる。
 その瞬間、周りにいたオジさん達は“ひとりでに”倒れ、転がり、吹き飛ばされて壁に身体を打ち付けていた。
 もう何が何だかさっぱり解らなかった。時々強く唸る風の方にきょときょとと目をやるものの、それでもやっぱり何も見えなくて。
 気付いたらもう、倉庫内で立っていたのは、オレと、ナメクジさんと。そして、いつの間に移動したのか、倉庫の扉の前であっけらかんと立っている伊葉の兄ちゃんだけだった。
「…………」
「……貴様まさか、白トラ……」
 オレは何も言えず、ただただ立ち尽くしていた。けれどナメクジさんは、さっきまでのねっちょり具合はどこへやら、何だか掠れた声でそう呟いていた。
「も、諦めろや」
 伊葉の兄ちゃんがそう言いながら足を一歩前に出すと、ナメクジさんは明らかにビビッてしまった様子で、一歩足を引いた。そうして何故か、ついっとこっちに目をやる。
 ……オレ、ポジション的に何かやばいかもしれない。ナメクジさんと目が合った瞬間、オレはそう思った。
 今ナメクジさんのいる場所は、オレと伊葉の兄ちゃんの間。つまり、オレは今頼るものも隠れるものもない状態で、一人たたずんでいるわけで。
「動くな、白トラ!」
 案の定、ナメクジさんはしっかりとオレに銃口を向けてきた。
 兄ちゃん、何でそっちに行っちゃったの。意味なくない? やっぱりバカなんですか。
 オレは思わず、そんな事を考えたのだけれど。
『……け、』
「お前が白トラだったとはな。しかし、四神白虎の力……確かに脅威以外の何物でもないが、動けなければ意味もないだろう」
「おいおい、お前さん、その白虎の力をよく見てなかったのかい? 動くとか動かないとかの次元の話じゃねえのよ。子供を盾にしようったって無駄だって」
『ぬ、……』
「う、うるさい! お前が動いた瞬間、引き金を引く!」
『……け、……わ、を……』
「いや、だからね?」
 二人の会話を尻目に、ふとオレは辺りを見回した。
 何か、合間合間に、二人とは違う変な声が聞こえるような聞こえないような。
「撃てるもんなら撃ってみやがれってぇのよ。おいらに向かって撃とうが、その子供に向かって撃とうが、どのみち怪我を負うのはおまえ一人だ」
『……あ、……け、』
「うるさい! 黙れ……黙れッ!」
『さあ……、』
「黙るだけでいいならいつでも黙ってやるけどよ」
「このっ、思い知れ!」
『さあ……!』
「自分の軽口が子供を死に追いやったと後悔しろ!」
 ナメクジさんのそう怒鳴った声と、何だかおもちゃみたいな「パンッ」っていう軽い音が、嫌に大きく響いた。
 ただ。
 それがオレの耳に正常に聞こえていたのか、いなかったのか。
『――抜け!』
 オレが最後にはっきりと聞いたのは、その一言の“声”だった。
 瞬間、何かが弾けた気がした。
 まるで周りの時間が全て止まったみたいに、耳が痛くなった。
 けれどオレは考えるよりも何よりも先に、いつのまにか重いと感じなくなっていたソレ……“九頭龍”の、その鞘の鯉口を素早く切っていた。そうして刀身を半分鞘から出した状態で、力一杯“袈裟がけ”に振り下ろす。
「……ッ……!?」
 ナメクジさんが何かを叫んでいたような気もしたけれど、何も解らなかった。オレが九頭龍を振り下ろした瞬間、それはもう意味不明なほどの光と衝撃が倉庫内にほとばしって。
 そうしてオレは、鞘と、そしてナメクジさんとを、思いっきりフッ飛ばしてしまったのだった。

 後は何も覚えていない。
 ただ、兄ちゃんでもナメクジさんでも、ましてや父さんでもない知らない誰かに、『珠子』と、そう呼ばれた気がした。

 ◆◇◆◇◆◇◆

 気が付いた時、オレは伊葉の兄ちゃんの背中におぶさっていた。
「……あれ?」
「お、気ぃついたのか」
「ナメクジさんは?」
「ナメクジ……? ああ、あいつか。えらくまた言いえて妙なあだ名を付けたな」
 オレは兄ちゃんの肩をぽんぽんと叩いて、そっと地面に下ろしてもらった。
 ぐるりと周りを見回すと、そこは見覚えのある通学路だった。何が何だか解らなくて、オレは兄ちゃんを見上げる。
「覚えてるか?」
 すると兄ちゃんは、何やら布でぐるぐる巻きにされた長いものをオレに手渡してきた。そっとそれを受け取る。
「……九頭龍?」
「そう、九頭龍」
「オレ、抜いた?」
「抜いた」
「……ナメクジさんは?」
 オレは、それはもう目も当てられないほどにナメクジさんをふっ飛ばしてしまった事を思い出して、背筋が凍るような思いになった。まさかオレ、人を殺してしまったんじゃ、なんて――
 けれど兄ちゃんはあっけらかんと笑って、まるでオレの心を読んだみたいに「生きてるよ」と言った。
「今頃ポリスメンにしごかれてるだろうさ。鞘から完全に抜かなかったのが良かったんだろうな。あのおっさんは気を失っただけだった。無意識かもしれないが、鞘付きのままってのはいい判断だった」
「…………」
 抜かなかった、と言うより、実は刀が長すぎて最後まで抜けなかっただけなんだけど。そう思ったけれど、それは言わないでおこうとオレは口を引き結んだ。
 オレは、ぐるぐるに巻かれている布を……たぶん、倉庫にいたオジさん達が着ていたと思われる何着かのスーツ達を、そっとめくってみた。すると、九頭龍はどことなく青白く光っているように見えて、何だか神秘的な感じになっていた。
「大変だったんだぞ。刀に意思があるのか、おいらが持とうとすると、そりゃもうバッチバチ電撃放ってくれやがって」
「意思? 電撃? 刀が?」
「おう。それにしても、まさかおまえさんが“使い手”だったとはね。おまえの父ちゃんもびっくりするだろうさ」
「……よく、解んない」
 兄ちゃんの言葉に、嬉しいのか不安なのか、心の中が何となくもやっとして、オレは唇を噛んだ。
 すると兄ちゃんはふっと軽い息を吐いて、オレの頭をくしゃくしゃと撫でた。
「追々解るだろうよ、それこそ本当にお前が“使い手”なら、な」
 顔を上げると、伊葉の兄ちゃんはそのツリ上がった目を優しく細めて、オレの事を見下ろしていた。
「何にしても、良かったじゃねえか。何事も前向きに考えてみろって。な、坊主」
 解らない事だらけではあったけど、ただ、オレはそんな兄ちゃんの言葉にほんの少しだけ安心して。
 ――いや、安心、したような気はしたんだけど。
「……兄ちゃん今、何て言った?」
 オレは何だか聞き捨てならない言葉を聞いたような気がして、にへっと口の端だけを吊り上げた。
「んん? 良かったなっつったんだよ。褒めてんだぞ。ほれほれ、やったな、坊主!」
「ぼう、ず……?」
 改めて聞きなおしてから、オレはぷるりと武者震いをした。
「ぼうず……」
「ん?」
 兄ちゃんは、ぷるぷる震えているオレの様子を気にしたのか、きょとんとした顔をして「どうした?」とオレの顔を覗き込んできた。
 けれどオレはと言うと。
「あのね兄ちゃん、」
 手に持った、布でぐるぐる巻きの九頭龍を振り上げて。
「オレは、女だ――ッ!」
 そう力の限りに叫びながら、振り上げた九頭龍を、今度は力の限りに振り下ろしたのだった。さっきみたいに雷が起こらない事をちょっとだけ祈りつつ。
「えぁああああッ!?」
 とりあえず、オレが女だと知っての驚きの声だったのか。それとも、脳天に叩き入れた面の打撃への悲鳴だったのか。
 それは解らなかったけれど、大の大人の大きすぎる叫び声が、雪の積もる上野の街に散々響き渡っていった。

 とある冬の日のお話。
 後から思えば、全てはこの日から始まったような、始まらなかったような――





 ◆◇◆ ライター通信 ◆◇◆

 二度目のご依頼、本当に有難う御座います。今回は過去の、しかも【覚醒】というとても重要なお話をお任せいただけて、とても嬉しく思っております。
 わずか六歳の頃のお話という事で、子供ならではの視点・世界を表現出来ればと書かせていただきました。
 前回と同様、少しでも楽しんでいただけますと幸いです。

 それでは、またご縁をいただける事をお祈りしつつ……
PCシチュエーションノベル(ツイン) -
弓束しげる クリエイターズルームへ
東京怪談
2008年09月08日

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