『Mal 』

東雲・鏡子（7627）＆（登場しない）

悪。唯、悪。



悪とは世界の敵の全て
悪は全ての裏切りの誰か
この世界の歪みが悪
悪は汝、汝は悪唯、それが悪



滅べ、そのセカイ。





◇　◆　◇　◆　◇



　何故、自分はこうなのだろう。
　制服の長袖をそっと捲り、少女はただそう思う。
　そこにあるのは無数の痣や傷跡。そして壊れた少女の心。

　もう何度この痛みを味わってきただろうか。
　何時からかその対象とされた。最初は暴言、次に徹底的な無視と嫌がらせ。そして次第に暴力が振るわれ、行為はどんどんエスカレートしていく。

　彼女たちは実に狡猾だ。
　絶対に見えない部分に痛みを与え、少しずつ少しずつ、外見では分からないように、しかし確実に彼女を壊していく。
　イジメなどと書けば、まだ言葉だけではそう深刻なものに思えない。
　しかし、それは確実に被害者の心を壊していく。少しずつ被害者を蝕み、内面と外面両方から破壊する。
　体の傷ならまだ治す事が出来る。
　だが、心に負った傷は治らない。

　それに反抗できればどれだけ楽になれただろう。
　しかし、それが出来るほど少女は強くない。
　そも、イジメをするものはそういったものを見抜く力に長けている。反撃を受けない、体のいい対象だけを弄ぶのだ。

　だから少女は、今日もただされるがままに壊れていく。



「こんにちは鏡子ちゃん♪」
　彼女を呼ぶのは楽しげな声。ただ、楽しげと言っても嘲笑を含んだものであったが。
　顔を上げるまでもない。そこにいるのは何時もの面子だ。
　どうせ顔を上げたところで何時もと同じ。もうそんな行為すら酷く億劫になり、少女――東雲鏡子はただ机に目を落としていた。
「無視すんなよ」
「っ…ぁ…」
　その様子が気に入らなかったのか。髪の短い女子が脛を蹴り上げる。鈍く重い音が、手加減なしのものであったことを告げる。
　流石にその痛みは強烈だったのか鏡子の口から小さく悲鳴が漏れ、その様子は彼女たちを大いに満足させた。
「ほら、何時もみたいに付き合えよ」
　痛みに涙が溢れてくる。しかしそんなことお構いなしに彼女たちは鏡子の腕を掴み、強引に立ち上がらせた。
　痛みでまともに足が動かない。なのに彼女たちは鏡子を引っ張り歩かせる。
（酷い、よ…）
　小さく心の中でだけ悲鳴が上がる。勿論彼女たちはそんなことにも気付かなかったが。





　綺麗な黒髪を乱暴に掴まれながら引きずり回される少女が窓ガラスの向こうに見える。
　それを眺めながら、【それ】は小さく哂う。
　その世界の歪みを。その世界の汚さを理解して。
　まるで玩具を与えられた子供のように、ただただ声もあげず、歓喜に身を振るわせる。





◇　◆　◇　◆　◇



「東雲何無視してくれてんだよ」
　連れ込まれたのは女子トイレ。強引に白い壁へ打ち付けられて、鏡子は成す術もなく地面へと倒れこんだ。
　あまり掃除されていないのだろうか、埃が彼女の顔を汚す。
　そんな彼女の無防備になった腹に、髪の長い少女が遠慮なく爪先で蹴りこむ。鋭いそれはするりと入り込み、鏡子の呼吸を一瞬止めて咽させた。
「なぁ東雲、あんた何時からそんなに偉くなったわけ？」
　倒れ込んだまま顔を上げない鏡子の髪を掴み、強引に上げさせながら少女たちは笑う。そこには一切の慈悲もない。ただ玩具を壊すかのように、明らかに楽しんでいる。

　暴力が振るわれるのは決まって腹や袖に隠れた腕など、外から見えない部分。
　こういうときの的確さは実に素晴らしいものを持っているのだから性質が悪い。
　今日も増え続ける傷と痛み。
　幾ら今まで正気を保っていた鏡子でも、限界がある。そして偶々、そう偶々。今日このとき、その限界を超えた。
（…もう、いい…）
　心が閉じる。
　何も考えなくなる。
　瞳が他人事のように、今も振るわれ続ける暴力を見つめている。
　度重なった暴力。その中で重なった傷。鏡子の精神的な弱さを考えれば、寧ろよく今まで耐えられていたと言うべきだろう。





『本当にそれでいいのか？』
（……）
　不意に何かが聞こえた。
　それはどうやら鏡子のみに聞こえたようで、目の前の少女たちは相変わらず下卑た笑い声を上げながら鏡子を蹴り続けている。
『この世界は理不尽だ。そうは思わないか？
　この世界の歪みは悪だと、そうは思わないか？』
（……）
　鏡子に反応はない。しかし、それも関係ないとばかりにその声は遠慮なく言葉を続ける。
『苦しいだろう。辛いだろう。そうやって心を閉ざしたところで、体は否応なく痛みを求める』
（……痛い……）
　そこで漸く鏡子に反応があった。
　幾ら心を閉ざそうとも、感情をなくそうとも痛みは消えるものではない。
　特に内と外、両方から痛みを受け続けている彼女には。
『痛みから解放してやろうか？』
（……解…放…？）
　その響きは、鏡子にとってただ只管に甘い誘惑だった。
　感じたくもない苦痛に何度悲鳴を上げたことか。何度消えたいと思ったことか。
　痛みを忘れられる。今の彼女にとってこれ以上ない願いである。

　…それがどういうことを意味しているか、そんなことも分からないまま。
（……痛いのは、もう嫌……）
　そう、心の中で呟く。

　それは彼女にとって心の底からの願い。
　それは彼女にとって唯一の逃げ場所。

　小さな誘惑に傾き壊れゆこうとしている少女を、【それ】は満足気に眺めていた。
　そしてその答えは【それ】にとって最も望むべきものでもある。

『よかろう。ならば解放してやる』

　異変は唐突に訪れた。
　心の中が、闇に覆われていく。
　鏡子の心が少しずつ少しずつ黒く染まる。
（……ぁ…）
　そこで漸く自分の中で起こる異変に気付く。
　何かが自分の中に入り込んできているのだ。
（…嫌…）
　初めて、弱々しい鏡子の心が拒絶を見せた。それは今までになく強いはっきりとしたもの。
『どうした？　解放して欲しいのだろう？』
　またあの声が響く。愉悦を含んだあの声が。
　それではっきりと鏡子は理解した。
（こんなの、嫌、私は私なの…！）
　今自分は塗り潰されている。その先に待っているのは、ただの無ではないか。

　確かに解放して欲しいと望んだ。確かに救って欲しいと思った。
　でもそれはあくまで自分は自分としてであって、誰かになりたいとかそういうことではない。
　しかし、
『だが、それではずっと何も変わらない』
　また、甘い声が響く。
『お前がお前である限り、ずっと変わらない』
　それはそうだ。自分が元に戻ったところで、再びあのイジメが再開されるだけ。そこに一切の救いなどない。
　誰も手を差し伸べてはくれないし、きっとこの先もずっとそうだろう。
『簡単なことだ。その間私と代わればいい。眠っている間に全ては終わる、辛い事も悲しい事も。目が覚めた時はもう何もない』

　蛇の誘惑だった。
　眠っているだけで全てが終わるという。それはなんて素晴らしいことだろうか。
　その間、とそれは言った。なら、時が来ればきっと目覚められるだろう。
　何もない世の中。それはとても素晴らしいことではないか？

『身を委ねるだけだ。私は約束を破らない』
（……本当に？）
『勿論だとも』

　酷く弱っていた心は、鎌首を擡げた誘惑に勝てるほどの強さも残っていない。
　そもそも【それ】が何なのかも分かっていないというのに。
　それでも、その辛さから解放されるなら。

　今度こそ少女の心が委ねられる。【それ】に暗い笑みが浮かんでいることなど知らずに。

　今度の異変は唐突ではなかった。委ねてしまえば、その変化も許容できるのだろう。
　酷く眠い。鏡子はそう思う。
　心の中が別の色で塗り替えられていく。段々と意識が遠のいていく。
　あらゆる感覚から遮断され、いよいよその眠りに抗えなくなった時。

『お休み』

　そう、はっきりと聞こえた。





「…あん？」
　不意に鏡子が立ち上がる。ただされるがままだった者の唐突な行動に、少女たちは一瞬呆気に取られた。
「何勝手に立ってんだよ」
　たったそれだけでも癪に障るのか。蹴っていた長髪の少女がその肩を突き飛ばそうと手を伸ばす。
　――が、それは叶わなかった。
「え？」
　鋭すぎる感覚は、時として理解の範疇を超えてしまう。
　少女の右腕、肘から先が、地面に落ちていた。



　鏡子の手には、何時の間に握られていたのか一本の日本刀がある。
　何処からそんなものを出してきたのか。いや何処に隠し持っていたのか。
　至極当然の疑問全てが、目の前の鈍色に輝く凶器によってもたらされた悲鳴に掻き消される。

「腕、あたしの腕、腕がない、ぇ何これ嘘嫌そんなの駄目嫌あぁぁぁぁぁぁッッッ！？」
　漸く状況が飲み込めたのか、腕を落とされた少女は半狂乱で髪を振り乱す。
　自分の腕がない。感覚は最初なかったが、それを視認すると否が応でもその事実が叩きつけられ、脳が痛みを理解する。そうすることで唐突な激痛と腕があるのにないという感覚に陥り、その事実が彼女を混乱させた。
　そんな少女を見下ろしながら、鏡子がゆっくりと動く。その瞳に、光は既にない。

「へっ？」
　少女は最期まで何が起こったかは理解できなかっただろう。
　虐めていたはずの少女が、自分に対して日本刀を振り下ろしている。それは綺麗に自分の心臓と肺を撫で斬って、悲鳴をあげることすら拒否させた。

「て、てめぇ何やってんだよ！」
　咄嗟に茶髪の少女が飛び掛る。まだ呆け続けている少女たちの中にあって、彼女だけは勇敢だったということだろう。それとも、先ほどの少女は親友だったのか。その仇をとるためだろうか。
　が、それはまた悲劇を呼ぶ。
　彼女もまた、その日本刀によって膾斬りにされる。声をあげる前に、その頭自体が飛ばされた。

　残った三人の少女たちも、さっきまで生きていた友人の血が自分を濡らしたことで漸く事態を理解する。
　本当に恐怖を抱いたとき、人は悲鳴をあげることすら忘れて逃げ惑う。
　次に悲鳴をあげるのは、自分の命を落とすときになってからだ。



　髪を一本に纏めた少女は、背を深く袈裟で斬られ一瞬で絶命した。
　返す刃が、隣にいた金髪の少女へと翻る。それは正確に、人の中心部にある心臓を貫いた。



　一瞬のうちに四人。恐らく残った髪の短い彼女はそう思ったに違いない。
「……ぁっ……」
　恐怖に奥歯が噛みあわず、ただカチカチと不快な音を鳴らす。
　次第に彼女を生暖かい感覚が包み込む。それが自分の股の間から出ているということに、少女は終ぞ気付かなかったが。

　自分を見下ろす鏡子の瞳は、何処を見ているのかも分からない程にあやふやで怪しい。
　いや、本当に自分を見ていないのかもしれない。そんな鏡子は今までに見た事もない。
　なんだこいつは、いやなんだこれは。
「ね、ねぇ、お願い助けて…わ、私たち親友でしょ？」
　今まで少女たちを率い、ちょっと彼女に対して悪戯をしていただけだ。日々に募るストレスの解消にはもってこいだったから。
　そう、彼女は自分がどれほどのことをしていたか理解していなかった。漸く出た言葉は、彼女の運命を決定付けた。

　そうして彼女は見た。鏡子の影を。
　そこには何かがいる。鏡子ではない何かだ。
　それは漫画などによく出てくる形。そう、例えば巨大な竜か何かの形ではなかったか。
　
　なんだあれは、そう思った瞬間。返事もなく、鏡子の腕が軽く振るわれる。
　すとんと、軽い音。
　今目の前で命乞いをしていた少女の顔は、既にそこになかった。





◇　◆　◇　◆　◇



　所謂イジメグループの惨殺事件は瞬く間に学校とその周辺地域に広まり、犯人が捕まらない、その事実が住民たちを大いに震え上がらせた。
　しかし、そんなこととは関係なく、鏡子はゆっくりと学校を歩く。

　既に光をなくした瞳で。
　何かに覆われてしまったその瞳で。

　ゆっくりと、ゆっくりと。まるで何かを求めるかのように歩き続ける。



　それは、かつては九十九神と呼ばれた存在。
　遠く遠く忘れさられた存在だった。

　体を手に入れ、今は何を思うのか。



　求めるのはただただ恐怖に彩られた心。
　少女の体を乗っ取り、ただ小さく哂う。





　それは悪。





＜END＞

PCシチュエーションノベル（シングル）

EEE

東京怪談

2008年08月04日