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『『黒い訪問者』 』
エル・クローク3570)&(登場しない)



 それは、霧の様な雨の降る街の裏道を、誰にも知られること無く歩いていた。どこから来たのか、どこで生まれたのかもわからない。ただひっそりと、音も無く、まるで影の様なそれは、ある路地裏の店に向かって歩いていた。いや、移動をしていた、という表現の方が正しいのではないだろうか。
 雨はまだ止まなかった。冷たい雨は街に降り続け、普段は賑やかな大通りにも、人影はまばらだ。だからこそ、それの存在には誰一人気付かなかったのだ。それが向かった店の主人以外は、誰も。



 エル・クローク(える・くろーく)は自身の店の香を並べていた。アンティーク調のどこか古風な雰囲気の店は香や香水、ポプリといった香りを扱っていた。
 路地裏にあるせいか、大通りの繁華街にある店の様な賑やかさはあまりないけれど、香の店と兼ねた喫茶スペースも設けてあり、そこで店の紅茶を楽しめる事もあって、静かな場所を好む者には好評の店であった。この店で売られている香水は、特に女性を中心に人気があった。
 先日も、珍しい香水を求めてやってきた女性に、隣国の王妃が使っていたとされる香水を紹介した所、彼女は大喜びでその香水を購入し、その後、恋人にもセンスが良い香水をつけていると褒められた様で、あまりにも喜んでクロークに礼の菓子まで持ってきたのだった。
 それに、1週間ほど前には、心配事が多く寝付く事が出来ないと相談を持ちかけてきた中年男性に、深く眠る事が出来る香を勧めて見た所、その男性はそれから毎日、香を枕元で焚いてぐっすりと眠る事が出来る様になり、体の疲れも取れてなくなったと、つい昨日この店を再び訪れて、クロークが勧めた香を一か月分も購入していったのであった。
「貴方のお役に立てれば、幸いです。またお越し下さい」
 クロークは決まって、店を後にする客にはそう微笑みかけていた。
 自分の作った香で、人々が元気になったり喜んだりするのを見るのは、自分でも喜ばしいものだ。
 しかし、時に店を訪れた人々は、それが表のクロークの姿である事を知らされるのだ。その裏の顔を知っている者はわずかではあるけれど。



「そろそろ、店を閉めましょうか」
 朝からずっと、霧雨が続いている肌寒いその日は、雨のせいで客足も少なく、クロークは早めに店を閉めようと思った。
 店の表へ出て、店の看板を片付けようと店の扉を開けた所、クロークはそこに一人の女性が佇んでいる事に気付いた。いや、女性と言えるのかよくわからない。クロークは一瞬、まるで影が人間の様に歩き出し、そこに立っているのかと思った。
 真っ黒な服を全身にまとい、まっすぐの漆黒の髪は足元まである。手先も黒い手袋に包まれており、唯一見えているのは顔の部分だけだが、前髪が顔の半分まで垂れている為、顔の中で見えているのは、口元だけであった。
 女性だと思ったのは、体のラインが女性特有の丸みをおびた物であるからであり、もしかしたら女性でないのかもしれないが。
「お客様ですね?中へどうぞ」
 クロークは女性ににこやかに話しかけ、扉を大きく開けて彼女を招き入れ様とした。女性はゆっくりと頷くと、店の中へと静かに入ってきた。
 足音もほとんど立てず、何も声を発しないまま店の中へ入ってくるその姿は、本当に影のようだとクロークは思ったが、にこやかな表情だけは決して忘れなかった。クロークは女性を店内に入れたあと、店の扉を閉めて、香が並べられているカウンターのそばへと立った。
「さてと、こんな路地裏の店へよくいらしてくれたね」
 クロークの言葉に、女性は口元をわずかに緩めたまま、クロークの方へ顔を向けていた。目は見えないが、彼女から自分の姿は見えているのだろう、とクロークは思った。
「香水を探しにきたのかな。それなら、お勧めのものがあるよ。貴族の女性達が愛用したといわれる、高級なものがあるのだけど」
 女性は立ったままであった。エルが棚から次々と取り出す香水の方へは、まったく顔を向けていない。ただ、エルの方を見つめて、たまに口元に笑みを浮かべるだけであった。
「香水を買いにきたのではないのかな?」
 女性の目的がわからなくなったクロークは、女性に問いかけてみた。女性はまた小さく頷くと、店の奥にある扉に顔を向けて、そこからまったく顔を動かさなくなった。クロークのもう1つの顔を見せる場所、それがその扉の奥であった。
「何か、お困りの事があるのかな?」
 その女性が何故、その扉の方を見ているのかはわからないけれど、クロークは女性に優しく問いかけた。
 彼女から生気はまったくといっていい程感じられない。動いたりはするけれど、まったく言葉を発しない。ただ、自分の言葉に頷いたり、にやついたりするだけであった。
「僕に出来ることならば、何なりと」
 クロークはさらに彼女に問いかけた。女性は再び頷くと、クロークよりも先に、奥へ続く扉の方へと歩いていった。
 彼女が何をしたいのかよくわからないけれど、こうなればもう1つの仕事を、彼女にするしかないとクロークは思った。



 クロークは、店の奥にある部屋へと彼女を案内した。そこは薄暗く、置いてあるのはランプ1つだけであった。
 その部屋の中央に、大きなリクライニングチェアが置かれており、クロークは女性をその椅子へ座るように促した。暗い部屋の中で黒い女性は、闇の中に溶け込んでしまいそうであった。
「お座り下さい。貴方がこの部屋へ来たという事は、何かを求めてきたんだろうからね。僕は貴方に夢を見せてあげられる。貴方が望むその夢を」
 女性が椅子に腰掛けたのを確認し、クロークは椅子のそばに立つと、どこか怪しげな笑みを浮かべて、1つの瓶から香を取り出し、焚き始めた。
 それは、人をリラックスさせる為の香で、その香りには人々を安心させる効果が含まれていた。
「何か、見たい夢があるのではないかな」
 しかし、女性はにやりと笑うだけで何も答えなかった。話す事が出来ないのだろうか。
 クロークはさらに別の香を焚く事にした。その香には、強い魔よけの力があり、かつては悪魔退治の折に使われていたと伝えられていた。
 この女性が何者かはわからないけれど、まるで、何かに取り憑かれている様に怪しく、不気味な雰囲気を持っているとクロークは感じた。
 だから、何かに取り憑かれているのであれば、まず夢を見る前にその取り憑いているものを追い出さないといけないと思ったのだ。
「貴方に悪い物がくっついているのなら、取り除かないといけないからね」
 優しい口調だけは決して失わず、クロークは女性に語りかけた。

 る、しい。

「え?」
 かすかに、女性の口から声が漏れた気がした。
「何かおっしゃったかな?」

 くるしい。

 今度ははっきり聞き取れた。
 椅子に座りながら、女性の口からうめき声が上がっている。髪の毛のせいで表情は見えないけれど、その女性の口元はゆがみ、今彼女が苦しみに陥っている事は、誰が見ても一目瞭然であった。

 くるしい、助けておくれ。


 女性は口元を歪めたまま、クロークの方へと手を伸ばしてきた。
「そう、苦しいというんだね。それなら、僕が貴方を助けてあげるよ。僕が出来る限り、ね」
 クロークはさらに別の香を持ってきた。その香の蓋を開けると、あたりに何ともいえない優しい香りが広がっていった。
「僕の言葉に耳を傾けるだけでいい。そう、深呼吸して」
 女性はうなり声を上げていた。まるで病気に苦しむ病人のようであった。いよいよ、この女性に何かが取り憑いているのかもしれないとクロークが思った時、女性の声が見せに響いた。今までないぐらいはっきりした声であった。
「ああ、苦しい。早くこの苦しみから解放しておくれ」
 やや眉毛を寄せながらも、それでも笑顔を消さず、クロークは尋ねた。
「貴方は一体?僕に何を望むんだい?」
「私は一度死んだ。たが、未練があっていまだにこの世を彷徨っている。彷徨いながら、この女の体に乗り移ったのだ」
「では、貴方は幽霊?」
 幽霊が訪ねてくるとは珍しい。クロークは心の中で驚いた。
「私は病に苦しんだ。治る見込みのない病気であった。私はその病で命がなくなったはずであった。だが」
「この世に未練が残ってしまい、魂だけが残ってしまったんだね」
 クロークが代わりに答えた。
「生前に、夢を叶えてくれる店の噂を聞いた。病気で行く事は出来なかったから、死んで魂だけの体になり、この女に乗り移ってここまで来た。この女はただの通りすがりだ、私とは何の関係もない」
「そうですか。命をなくしても、僕の店へ訪ねてくれるなんてね。貴方には感謝するよ。お礼に、素敵な夢を見させてあげよう」
 そして、静かに行くべき場所へ行ける様に。クロークは心の中でそっと呟いた。
「さあ、僕に何を望むんだい?」
 もう1度、クロークは語りかけた。女性の体を借りている幽霊は、クロークへと語りかけた。
「健康な体が欲しかった。そうすれば、私は苦しむことはなかったのだから」
 難しい注文であった。香を焚いた所で、健康な体を、しかも幽霊に渡すことは出来ない。
 そこでクロークは、世界で一番、安らかな眠りにつくと言われている香を焚く事にした。
「幽霊さん、貴方は決して苦しむことなんてないんだ。貴方は次に生まれ代わる時、貴方が望んだ姿で生まれてくるはずだから」
 優しく、相手を安心させる様な口調で、クロークは語りかけた。
「もう苦しまないで。僕を訪ねてきてくれた事が、貴方の苦しみの終わりなのだから。もう2度と、苦しむことなんてないはずだから」
 どれぐらい時間が経っただろう。香が無くなる頃、リクライニングチェアに座っていた女性が静かに起き上がった。長い髪の毛を掻き分けて、細長い瞳を見せたその女性はクロークへ不思議そうな表情をして見せた。
「お目覚めみたいだね。貴方は夢を見ていたんだよ。でも、もう大丈夫。貴方の意識を奪っていた者は、いなくなったのだからね」
 首を傾げる黒髪の女性に、クロークは笑顔を見せ、店で一番甘い紅茶を出した。
 女性に取り憑いていた幽霊は、いつの間にか消えてしまった。おそらくは、魂が安心しこの世を去ったのだろう。
 幽霊に香が効いたとはあまり思えないが、クロークの店へ生前に訪ねてみたかったという目的が達成されたのと、クロークの優しく、他人を安心させる語りが効果を発揮し、幽霊を安心させたのかもしれない。
 黒髪の女性は、もともと黒い服の様であったが、幽霊が取り憑いたせいで余計に暗く、真っ黒で怪しい姿になってしまったのだろう。
「幽霊が訪ねてくるとは、思いもよらなかった」
 クロークは店を閉めてリクライニングチェアに座り呟く。
 色々な客が訪ねてくる。例え幽霊だろうと、人間であろうと、クロークの仕事が代わる事はない。相手の願望を叶える事、それがクロークの仕事なのだから。(終)
PCシチュエーションノベル(シングル) -
朝霧 青海 クリエイターズルームへ
聖獣界ソーン
2008年05月19日

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