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『 シナモン、もしくはバニラで 』
エル・クローク3570)&(登場しない)


 私は、どちらかと言えば甘い香りの方が好きなんだ。なんと言うか、懐かしい気分になるとでも言うのかな。それともただ単に、自分の本性を隠せるからかもしれない。心地いい夢を見た時、決まってああいう香りがするのだ。そう、潮の香りや風の香りではなく……甘い香り。
 しかし、そういう香りには、滅多に出会えない。少なくとも、町をぶらぶらしているだけでは。
 ―――ああ、失礼。紅茶はそこに置いておいて。
 それで、これから語る話なのだけれど。私がまだ名を持たなかった頃、いや、今でも勿論持っていやしないが、不思議な店を見つけたもので、ずっと頭の端の方に残っている記憶がある、それをぽつぽつと並べていこうと思う。そう長くはならないだろうから、次の料理が出てくる間までの暇つぶしとでも思っておいてくれると嬉しい。



 確か、春だったな……いきもの達の目覚める春。道路脇に可愛らしいたんぽぽが咲く季節だ。
 私は目的もなく町をうろついていた。今でも、目的を持って町をうろつくことは、飯の時くらいだけだけれども。蝶々とか飛んでいたよ。白いのやら黄色いのやら、あげはやら。小鳥も機嫌よさそうに囀っていた。風の音がふわふわ漂っていた事ももよく覚えている。空は……快晴とは言わないまでも、上々だった。兎にも角にも、いい日だったよ。

 朝目覚めた時、『今日は何かあるんじゃないか』って言う予感がする時があるだろう?
 私の場合、それはよく当たるんだ。良くも悪くも。

 いつもは足を止めない道でね、ふといつもと景色が違う事に気付いたんだ。今まで閉まっていた扉が開いていた。前前から気になっていた扉だ。装飾が可愛らしくてね……店なのかどうか解らなかったから、見るだけしか出来なかった扉。通り過ぎるたびに心をくすぐられていた扉が、開いていたんだ。
 私は、当然と言うか、中を覗いてみたよ。
 案の定、そこは民家ではなかった。店内は、最初は真っ暗で、後からじわじわと見えるようになってきた。小さな陶器、ガラス瓶、紅茶葉……。入り込む日の光とランプに照らされても尚薄暗い店内は、例えるのなら夜の庭に似ていた。どことなく不気味で、それでいて愛しい、あの雰囲気。私は吸い込まれるようにそこへと足を踏み入れた。
 子供の頃の夜の散歩を思い出してご覧。あの気持ちに似ているよ。
 目に入るもの全てが輝く宝物。私はまだ香に興味すら覚えていなかったから。

 店内に入って、二三歩歩いた時のことだ……ごとり、と、椅子を動かす音が聞こえた。私がまだ薄暗に慣れていない目を凝らしてそちらを見ると、金髪の青年―――今思えば女性だったかもしれないが―――が、微笑を湛えながらこちらを見ていた。

「いらっしゃい」

 まるで口だけが動いたように見えた。それだけ静かな声だった。私は会釈をして、扉をゆっくりと閉めた。
 ランプの炎が揺らめく。私は顔を上げて、改めて店内を見回した。不規則に揺れる明かりに照らされ、品物の影はあちらやこちらへ踊るように映り消えてゆく。幾つもの香炉が並べられた棚。紅茶葉の入る瓶には、耽美な筆跡でその種類や用法が描かれている。様々な形の香も沢山あった。聞いた事の無いような銘柄もあったよ。
 つまりそこは『香り』を売る店だった訳だ。空気と同じように、見ることも触れることも出来ないもの。

「何か、探しておいでで」

 年甲斐もなくきょろきょろとしていた私に、青年が声をかけてきた。ほんの少し傾げた首、さらりと音を立てる金色の前髪。椅子から立ち私の少し近くへと歩いてきて、胸に手を当てて小さくお辞儀をした。

「いや、品々があまりに綺麗だったもので、眺めていただけで」
「それは何より。お気に召すものは?」
「私はこの道を知らないが、どれも素敵だと思うよ。持ち合わせでどれを頂けるか……考えている所さ」

香炉にちらりと目にやり、私は鞄を叩いて見せた。

「それなら、好きな香りなどは。言ってくれれば、僕の方が選んで、試しに焚いてみせるよ」
「ありがたい。さて、どうしたものか」

まだ私には、好きな香りの自覚が無くてね。箱の外観や香の名前を右から左へ眺めて、やがて一つの箱を手に取った。選ぶのに大層時間が掛かったが、それでも青年は私から少し離れた所で飽きた素振りも見せず立っていたよ。その赤い瞳はやけにきらきらとしていたけれど、表情は一瞬も変わらなかったから、寧ろ不気味に見えた。店の明かりの具合からかもしれないが。

「これを下地に、何かいい香りを作っていただけるかな」

 私が箱を手渡すと、青年は「お任せを」、と頷いて、棚からもう数点の香を手に取った。私は値段の見当を付けつつ香炉の棚を眺めていた。出来れば、家でも焚いてみたいからね。

「そう、一つ聞きたい事が」
青年の声に、私はそちらを振り向いた。
「もしも香を焚くのなら、いつごろにするかい。朝目覚めた時?それとも、夕食の前?」

私ははてと首を傾げ、自分の生活を思い描いてみた。まあ、今とさほど変わらないのだが。
「強いて言うなら、仕事が終わってようやく床につけると言った時だね。一日の終わり」
「成る程」
僅かに目を細め、青年は一つ二つ香を取り替えた。

「じゃあ、こっちへ来てくれるかな」
木製の床を踏みしめ、私は青年の後を追った。カウンターには香炉が一つと、幾つもの椅子が並べられている。青年が向こう側の椅子に座り、私はそれと対峙するように腰をおろした。灯りが遠い所為だろうか、店内でも相当暗いこの空間。赤い双眸がきらきらと、あるいはぎらぎらと輝いている。

 その香を焚いている間について、特に言うべきことは何もない。しんと静まり返った店内、香炉に手を翳す青年、私はカウンターに肘を付いてじっと空気に身を委ねていた。それだけの時間だった。扉を開ければすぐに響くであろう雑踏や、私の仕事からは切っても切れないあの音や匂いやら、過去や未来さえも拒んでいるような。そこにあるのは二人の人間と微かに甘い香り、そして今という時間だけであった。未来が今になり、今が過去になり、そうしている間に未来が今になり。香が燃え尽きてしまうまで、どれくらいだっただろう。文字通り時間を忘れさせられてしまった。じりじりと消えていく香はまるで人の命の様であり、この世に迫ってきているであろう終末の様でもあり……これは少し大げさかもしれないが。

「どうだったかな」

 最後の細い煙が途切れてから、青年は微笑んだ。私は「是非頂こう」、と、笑顔を返した。さて香炉を選ばなければと椅子から立ち上がり、鞄から財布を取り出す。いい香炉と勘定についての私の言葉は、青年の声によって塞がれた。

「もう一つ、いい品があるんだ。時間があるなら、そちらもどうだい」

そう言って、カウンターの奥にある、締め切った扉を指差す。示されなければ気付かないであろう扉。表情を変えず、先ほどの香を片手に、彼は瞬きをした。私は開きかけた口を閉じて頷いた。彼は再び歩き出し、扉をあけて「どうぞ」と会釈をした。


 先ほどまでの店内とは比べ物にならないほどの薄暗さ。それが一番に私の脳裏をよぎったその場所の印象だ。真っ暗闇ではなく、しかし目を凝らしても奥にあるであろう壁が見えるか見えないか。青年の手に掲げられたランプは周囲をさりげなく照らしているが、よほど暗い場所に慣れていないとこの部屋の全貌を把握する事は難しいだろう。青年に促され、私は椅子に腰掛けた。ランプが小さな机の上に置かれる。それに、香と香炉も。
 椅子を引く音、それに座る音。金色の髪は灯りに照らされ艶やかに、赤い瞳は薄暗の空間にも関わらず煌いて。目を合わせる。私はなんとなく逃げ出したい衝動に駆られた。それは恐怖や危機やそれに順ずる感情からではなく、未知のものに対するある種の感動が生み出したものだ。
(金色の空、赤い林檎、黒い海に落ちるのは太陽、そして紅と闇の大地)

「さあ、肩の力を抜いて?」

 考えを見透かされたような気がして、私は思わず心の中で苦笑した。頷き、深呼吸し、青年の瞳から目をそらす。見つめるのはテーブルの木目と香炉。『いい品』とは間違いなく目に見えぬ何かであろう。香り、空気、感情、時間、雑踏の幻、心の壁。
 香に火が付けられる。青年の手が翳され、香りが一瞬にして広がる。

「一日の終わり。……どんな夢を見たい」

私は、自分のベッドと窓から見える星空を思い出した。昼の喧騒から離れた空間、ざわざわした空気から切り離された場所。それと、爽やかではない寝入りと夢。

「普通の夢。ただの夢」

私の言葉に、くすくすという笑い声が返ってきた。普通ならばもっと希望のある答えが上がるであろう問いに差し出された私の答えは少なくともそうそうあるものではないのだろう。

「ならば、そうだな。……いつもの部屋。いつものベッド。涼しい空気、星のまたたき。人々の寝息が聞こえてきそうなほどの静寂。一つ一つ、思いをめぐらせてご覧」
おそらく私はここで目を瞑った。視覚の思い出が見つからないのだ。
「あなたはゆっくりと眠りに落ちる。現実とはかけ離れた世界へ。夢、一瞬だけの世界。あなたの創った世界だ。あなたはそこに居るのかもしれないし、居ないかもしれない。見えるものには触れられないかもしれない。時間はずっとゆっくり流れ、手と足はいつもより重く、しかしあなたはそれを不愉快に思わない」
ふと、何も映せないはずの視界に、流れ星のような光がすいと流れた。私はそれを掴もうとした。いや、それは私だっただろうか?
「映るものは時にははっきりと、時にはぼんやりと影を落とす。時折あなたは空を飛び、地面はまるでクッションの様だ。海でもない空でもない場所を飛び回り、気付けばいつもの街角」
私のようで私ではない、それでも私かもしれない私が、どこか解らない、しかし懐かしいような場所を走り回っている。いや、飛び回っているのだろうか。泳いでいると言ってもいいかもしれないな。
「知らないはずなのに知っている人々。デジャヴの数々。それでもあなたは不思議に思わない。それが常識であると信じている」
何か知らない音が聞こえてきそうなほど静かだ。
「時計の針が刻むのは知らない単位の時間。華やかな葬式、色とりどりの雲、オレンジ色の海。明るいのか暗いのか、色が付いているのかすらも解らなくなってくる。自分の名前を呼ぶ声」
息を吸うと、甘い香りがしてくる。どんな名前だったかは忘れてしまった。おそらく、もう一度味わえれば思い出せるのだろうけれど。

「そしてあなたは……、ベッドから落ちて目が覚める」

 私ははっと目を開いた。無意識の内に顔を上げる。悪戯っぽい笑い声が小さく響く。よく見れば、香はもう燃え尽きていた。

「まさか、ベッドから落としてくれるとは」
「どうだい、夢らしい夢だっただろう」

一本取られた……それが正直な感想だったよ。しかし、本当にいい夢を見れた。



 ―――さて、そろそろ料理が出てくるんじゃないかな。
 勿論、その時の香は買ったよ。香炉も、自分が一番好きだと思ったものを買った。いい夢を見たいと思った日には、必ずそれを焚いて眠る。そうすると、不思議と間違いなく普通の夢が見れるんだ。……それで、例外なくベッドから落ちる。そうすると、なんとなく一日の始まりが楽しいんだ。あの日からだな、一日の終わりと始まりが楽しみになったのは。
 だから、心地いい夢を見た時には、甘い香りがするんだ。香を焚いていない時もだ。こういう妙な記憶は、嫌いじゃない。
 ああ、その店かい? 私の記憶が夢でないのだとしたら、そして私の声が幻聴でないのだとしたら、まだ同じ場所にあると思う。場所は……いや、教えない方がいいな。自分で見つけたほうが、絶対に面白い。それにきっと、訪れられる時が来たら、おのずと扉は開いているだろうから。


 さあ、メインディッシュの到着だ。それで、失礼、紅茶のフレーバーなんだが……


おしまい
PCシチュエーションノベル(シングル) -
北嶋さとこ クリエイターズルームへ
聖獣界ソーン
2008年04月14日

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