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『Visible 』
物部・楓7229)&物部・琉斗(3648)&(登場しない)


 漆黒を抜ける一陣の風。
 鬱蒼と茂る闇の中、まるで木々など関係ないかのごとく駆け抜ける。
 形が違えばなんと優雅な姿だっただろうか。しかし、今の風に優雅さの一片すらありはしない。

 自由に流れるのとは違う。
 そう、言えば逃げている、のほうが正しいだろうか。
 ゆえに、それが周囲へ気を張り切れていないのは仕方がないだろう。

 彼にとっては屈辱の極みであった。
 一切手を出せず、成すすべもなく逃げる自分の姿は酷く滑稽で情けない。
 幾ら元々の相性があろうとも、もっと何か出来たのではないか?
 そしてそれが心底無理であると分かって、彼は唇を噛んだ。





「……」
 彼に今一切の余裕はない。それをいいことに、遥かに離れた樹上から不躾な視線を送るものがいた。その瞳に遠慮のない苛立ちを含みつつ、赤い影の視線はなおも彼を追う。
「未熟者め、身内の依頼と思って油断したか」
 小さく漏れたそれは、若い女のそれと同じで若干甲高い響きを持っている。でありながら、女などと生易しいものでもなかったが。

 とはいえ、口調ほど言葉の色はきつくはない。寧ろ、身内を案じるかのように何処か柔らかさすら湛えていた。
 それはつまり、女と視線で追っている男には何らかの関係があって。そしてそれは、どうしようもない程の意味を持っている。
「ふむ…」
 そして一息。何か知ったかのように視線を移す。そこには、今しがた彼が去ったばかりの沼地。

「…さて」
 逡巡。なるべくなら関わらないほうがいいような、そうでもないような微妙な思考と間。
「落とし前はつけないといかんなぁ」
 言葉には少しばかりの怒気と殺気が込められていた。





◇ ◆ ◇ ◆ ◇



 『それ』はその池にいた。
 普段姿形などなく、己の姿をただ一つの概念として存在させている。
 それはつまり普通の者どころか、それを専門として相手している者たちであってすらその姿を捉えることも中々に難しいということを意味する。
 故にそれは咎められることもなくそこにあり、咎められる時となってもなおそれを退けて存在できた。
 今しがた逃げ去った男もまさにそれと同じ憂き目にあい、そして敗走した。
 他と違うところがあったとすれば、瞬時に己の敗北を悟り逃げ出したことだろう。普通ならば敗北を悟る前に殺されているところである。そういう意味では逃げた彼は本当の一流と言うことも出来た。

 ともあれ、『それ』は今もそこに存在し続けている。
 高らかな哄笑などあげることはなかったが、確かな優越感の中に浸り、そしてまた新たな食事へと手を伸ばそうとして――思いとどまった。

 そういった類のものである。異常なまでにその感覚は研ぎ澄まされていた。
 故にその体はすぐに反応し、沼の中に身を置きながらもすぐさま動けるように身構える。

 何かが近づいてくる――。





 依然として沼には『何もない』…はずだった。
 ただ濃すぎる瘴気に、辛うじて生えることを許されていた草木も中てられ枯れてはいたが。一見として、依然何もない。
 が、
「ふん」
 紅い瞳は、確かに何かを捉えている。小さな嘲笑が、沼を覆う瘴気すら弾け飛ばした。

 『それ』は随分と感覚が鋭いはずなのに、そういった感情の機微にはとんと疎いらしい。というよりは、そういう類の感情を知らない、と言ったほうがいいだろうか。
 兎にも角にも『それ』は沼の真ん中に立ち、彼女を見つめていた。

 沼の中心に近づけば近づくほど瘴気が濃くなっていく。最早冷たい泥水は瘴気と混じりあいコールタールのようにすら感じられた。
 それでも女の歩みは止まらない。一心不乱とでも言うかのように、淀みのない足取りは中心を目指す。
 それをどういう意味で受け取ったのか。『それ』は確かに笑っていた。



 ゆっくりと『腕』が広がっていく。見えない腕の見えない一撃などというのは『それ』にとっての常套手段に過ぎない。
 音はない。声もない。気配すらない。
 だが確かに大きく広がったそれは、いよいよ目前に迫った女を捕らえ、自身に極上の味を与えるはずだった。

 刹那。一体何が起こったのか『それ』には理解も出来なかった。

 細長く伸びた自身のそれが、前触れもなく圧し折れている。それも両方。
 今までにない感覚、己を突き抜けていく痛み。しかしそれは、混乱をもたらすよりも先に本能を突き動かしていた。
 冷え固まった沼の水を飛び散らせることすらなく、『それ』はその場を飛び去った。
 わずか一跳びで10メートル。驚くべき身体能力ではあったが、だからといってそれが何の役に立ったのだろう。

 目前には、変わらぬ紅い瞳がある。先ほどと全く変わらぬ距離で、そこに。

 細い指がその折れ曲がった腕を掴む。そうしたら最後、その指が全く離れる気配すらなかった。
「やり方が過ぎたな、外道」
 声は甲高く、しかし確かに怒気を孕む。
 掴んだ指が食い込み、細い腕が一瞬で弾け千切れる。それが瘴気という血を噴出しながら、物音すら立てずに沼へと沈んでいく。
 体の一部の喪失と激痛に、今度こそ『それ』は混乱の極みへと落ちていった。

 この女には全て見えている。そして自分を殺そうとしている。
 何だこの女は、一体何だ――!

 それが女にも通じたのか。冷たい笑みが浮かぶ。瞳が細まり確かに『それ』を見ていた。
「知ってるか? あの子を殺すのは私じゃなきゃいけないし、逆に私を殺すのはあの子じゃなきゃいけない」
 それはただの独白だ。目の前の『それ』など関係のない、彼女自身の都合。
 だから、
「あの子を傷付ける奴は赦さない」
 そしてそれはつまり、
「お前はやりすぎだ」
 その先に待つ結末を予想するくらいの時間は、どうやら『それ』にも与えられたらしい。

 鮮やかであった真紅の瞳に闇が降りる。まるで周りの空気と同化したかのように昏さが増していく。
 果てのない狂気は同時に殺気をも孕み、目の前の女と自分が全く違う次元に住まうものである錯覚すら覚えさせた。
 勝てない。勝てるはずがない。
 大体にして、そんな話など聞いてはいない――。

 鬼気迫る、などといえば聞こえはいい。が、目の前のそれはまさにその言葉どおりであって。自分より勝ると本能的に思い知らされた『それ』に、出来ることなど高が知れていた。
 逃げるか、縋るか。
 無駄な抵抗などという言葉は最初からない。
 そして逃げるという行為が既に無駄だということも、先ほどのことで分かりきっている。
 ならば、取れるべき行為は一つだった。

(待…て…)
 底が震えるような音。目の前の『それ』が発した言葉であったことは、状況を鑑みれば明らかである。
(我は…ただ言われたとおりにし…ただけ…)
 途切れ途切れに聞こえる声は、低く暗く酷く鬱陶しい。女の瞳がさらに細まる。
 だがしかし、言っていることは興味深かった。言われたとおり、と『それ』は言った。
 先を促すかのように女は黙ったままだ。それを是と取ったか、『それ』の言葉は続く。
(この地…に封印…されていた我を解…き放ち…こ…の地で…あれを食…えと言っ…た…)
(我…は言われたまま…にし…ただけ…)
(なれば滅ぼ…すべきはそ…)
 と、そこで声は途切れた。
「一丁前に人語を解すな外道」
 先ほどよりも増した怒気を幾分か吐き出しつつ女が睨みつける。同時に、見えぬはずの『それ』の四肢は全て圧し潰されていた。
 下らぬ言葉を聞かされた女は縋る言葉など吐き捨てて、四肢をなくし動けなくなった『それ』を踏み躙る。そして、
「喚くな。ただでさえ不味い味が落ちる」
 文字通り、女は喰らいついた。

(―――――――――――――――――――――――――――――――――――!!)
 地が震えるほどの絶叫だった。声は声にならず、ただの衝撃となって沼の水面を揺らし、大地を揺らした。
「喚くなといった」
 その声が止まる。女の手が『それ』の口を押さえ塞いだのだ。そして次の瞬間、頭だった部分はその胴体から千切り取られていた。
 幾ら姿が見えぬとはいえ、生の肉を千切り喰らうのだ。みちみちと肉を引き裂く音が響き、血飛沫が瘴気となって女を濡らす。
 沼を支配するのは瘴気ではなく咀嚼音。喉元へ喰らいついた女の口は、そのまま胸へ、腹へと落ちていく。
 まるで男女の情事のように。しかし、そこに色は一切なく、あるのは唯一つの食欲のみ。
 頭を割られ、中を啜られ、腹を割かれ、中に納まったものも噛み千切られ、骨の一片すらも喰らい尽くされる。
 それは最早食事というよりも、ただの蹂躙であった。





◇ ◆ ◇ ◆ ◇



「ッ!!」
 既に山を下りた彼は、その一瞬の違和感に思わず振り返っていた。
「…瘴気が、消えた?」
 今の今まで色濃く山を覆い込んでいたそれが、一瞬のうちに消え去ったのだ。
 そして、聞こえるというよりも感じた何かの叫び声。耳に聞こえずとも、大地を揺らすほどのものである。何であるかは経験上すぐに理解できた。

 それはつまり。今しがた自分を敗走させた存在が、何者かに滅ぼされたということ。

 その意味を知り、つい今しがた降りてきたばかりの道を、山上を仰ぎ見る。そこには、雲が晴れて顔を覗かせた満月がある。



「ふん…もう少しマシかと思っていればとんだ粗悪品だったか」
 吐き捨てるように。否、まさに唾を吐き捨て、言葉どおり唾棄すべき存在の味をその口の中から消し去る。
 とは言え、女の腹が膨れたのは事実である。一応の事実に満足し、沼の傍に立った木の上から女は下界を見下ろした。
 沼は静けさを取り戻し、頭上には霧が晴れたところに顔を覗かせた満月がある。



 月下の二人は気付かない。その視線は確かに交叉していたことに。



「…まさか、あの人が?」
 彼には思い当たる節があった。

「もっと腕をあげなよ」
 まるで慈しむかのようなその言葉は、誰に向けられたものだったのか。

 知らず知らずのうちに腕が震えていた。
 月下に望むその思いに。

 知らず知らずのうちに笑みが毀れていた。
 下界に望む愛しい男に。

 その夜、出会ってすらいないのに。まるで二人は惹かれあうかのように視線を交錯させる。



「決着をつけなきゃいけないのか」
「決着をつけなきゃいけないんだからさ」
 その声がぴったりと重なったことすら二人は知らない。

 それが、物部琉斗と物部楓にとっての長い夜の終わりを告げた。その意味を、まだ知ることすらなく。
 月だけが、その事実を見届けていた。





<END>
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2008年04月14日

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