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『Insomnia's night 』
桐生・暁4782)&(登場しない)



 腕を伝う鮮血に、暁は苦々しく顔を歪めた。
 ――― 何が“肝試し”だよ
 肝を試される前に、命を奪われる危険の方が多い。きっと、暁と同じようにこの場所に騙されて行かされ、命を落とした者はかなりいるだろう。
 ――― あの死体の理由はコレか?
 熱い息を吐き出し、乱暴に袖を千切ると細くして腕を強く縛り上げる。 これである程度は持つだろうが、この調子では右手は使い物にならない。
 背後に気配を感じ、暁は強く目を瞑り唇を噛むとナイフを持った。 一瞬の沈黙の後に足と腕に力を入れ、立ち上がるとナイフを投げた。 相手の何処に刺さったのかはわからないが、相手が一瞬動きを止めたのが分かる。
 相手の行動を待たずに、暁は走り出した。 高まる心臓の鼓動に合わせ、目の前が揺れ、視界が白く濁りながら狭まり、頭がぼやける。貧血状態になりつつある身体に鞭打って、暁は走り続けた。
 物が乱雑に置かれたこの研究所内で、腰や足をいたる所にぶつけながら、それでも止まる事は許されなかった、
 背後から聞こえてくる荒々しい息遣いに、さらに速度を速めようとした瞬間、何かが暁の足元を遮った。
 体勢が崩れ、床に向かって倒れこむ。 低い位置にあった踏み台が床を滑り、壁にぶつかって止まる。 普段のクセで右手でナイフを取ろうとし、痛みに顔を顰めると左手でナイフを握る。
 足元で聞こえる声に、暁は目を瞑った。
 ――― 間に合わない‥‥‥!!



→ Insomnia's night START



 昼間ですらも誰も通らない高架下には、壁や橋脚に過激な、または下品な落書きが多く書かれている。 常識低な人ならば誰もが眉を顰め、見なかったことにしよう、関わり合いになりたくないと目を逸らすその場所には、偶に若者達が溜まっている時があった。
 勿論、若者が溜まるのは夜だ。 彼らは何故か陽の下ではなく月の下を好み、朝に起き夜に眠る人達とは正反対の日々を送っている。 けれど彼らはそんな生活について不満を零した事はなかった。突き刺すような強い陽光よりも、全ての者を優しく労わるように照らしてくれる月光の方が好きだった。濃密な闇と慈悲深い月が支配する夜ならば、存在を許されている気がする。以前誰かがそう零していたのを聞いた事があった。
 桐生・暁は、呑気に寝そべる野良犬たちにソーセージを分けてやると、茶髪の青年が差し出した煙草を拒んだ。
 吸えないのか? そんな馬鹿にしたような表情に、肩を竦めただけで答える。 彼はそんな暁の反応に、今は気が乗らなくて吸わないのか、それとも単純に煙草が嫌いなのかのどちらなのかだろうと勝手に判断した。
 カタカタと細かい音が、次第に轟音に変わる。 上を走る列車が通り過ぎるまでは、皆無言だった。喋った所で聞こえないと言うことを、皆知っていた。
 この場に集まっている若者達は、互いに名前を知らなかったし、何処から来たのかも、幾つなのかも知らない。そしてまた、誰もその事を口に出そうとはしなかった。
 名前や歳、出身地が分からなくとも、別に問題はなかった。 時折誰かが口を開き、何かを喋ったとしても、皆聞いているようで聞いていない。または、聞いていないようで聞いている。喋った相手も、誰が聞いていても聞いていなくても構わない。そんな曖昧な空気がそこにはあった。
 彼らが集まっている場所のすぐ近くには、ゴミ溜めがあった。 冷蔵庫や電子レンジ、なんなのか分からない大型の機械が無造作に捨てられており、ダンボールや黒いゴミ袋が積み重なっている。 近付けば耐え難いほどの悪臭がするが、彼らのいる場所は風の通り道であり、臭いは下方に流されている。
 悪臭の原因が何であるのか、彼らは知っていた。 緩んだゴミ袋の口からのぞく腐りかけた手首、冷蔵庫の開いた隙間から見える黒い髪、地面に目を凝らせば、赤い液体が染みを作っている場所まである。
 死体の傍でたむろする彼らを異常だと思う人はかなりいるだろう。 けれど彼らの感覚からしてみれば、肉売り場の近くで世間話に花を咲かせる主婦とあまり変わらない。確かに豚肉も牛肉も細切れにされているが、元は1匹の命ある豚であり、牛だった。死んだものの肉を並べていると言う点で見れば、こちらの方は一部見えてしまっているものもあるが、ほとんどのものは隠されている。
 多くの人は、道で死んでいるトンボや蝶を見ても、さして何かを思ったりはしない。稀に可哀想だと思う人もいれば、こんな所で死んで迷惑だと冷たい事を考える人もいるだろう。 彼らもそれと同じだ。捨てられた死体を見ても、さして何かを思ったりはしない。たまには可哀想だと思う人がいるだろうし、こんなところに捨てられているなんて迷惑だと思う人もいるだろう。 彼らは死体を見慣れていた。各自がどのような人生を経た上で人の死を見ても特に何も思わずにいられるようになったのか、誰も話したがらない以上、彼らの辿ってきた人生は闇に包まれている。
 誰かが買ってきた酒が配られ、暁は少し口にした。 吹き付ける北風が少しだけ温かくなったような錯覚を受ける。きっとこのまま飲み続けていれば、身体が熱くなって上着を脱ぐ事になるだろう。
 早いペースで飲んでいた一人がマフラーを脱ぎ、トロンとした目で周囲を見渡す。赤く染まった頬と良い、虚ろな瞳と良い、酔っているのだろう。 地べたに座り込み、壁に背を預けるとうとうととし始めた。
 吹く風は冷たいが、春の気配を感じるようになったこの時期、外で眠っていても凍死することはないだろうが、万が一死んだところで誰も救急車や警察を呼んではくれない。 最悪ゴミ溜めの中の一員となるか、気をきかせた誰かがどこかに運んで捨てるかだ。
 その気をきかせた誰かが優しい心根の人であった場合、誰かが見つけてくれそうな場所にそっと置いておくだろう。けれど大抵の場合は山や海へ連れて行かれ、人知れず自然に帰って行くだろう。
「最近さ、見知った顔がどんどんいなくなってる気がするんだよな」
 青色の瞳をした青年がそう言い、1つくしゃみをした。 顔立ちは純日本人のソレと同じなところを見ると、瞳の色はカラーコンタクトのようだった。
「遊園地に行って、人生変わったんじゃん?」
 前髪にピンク色のメッシュの入った少女がそう言って、ツーテールの髪を揺らす。 毒々しいまでに赤い唇の間から、真っ白な歯が見えている。
「ありゃぁ、ただの肝試しだろ?」
「そろそろ来るんじゃねぇ?」
 煙草を吸っていた青年がそう言って、紫煙を吐き出すとすぐにまた煙草を唇の間に挟み、深々と吸い込む。足元に溜まった吸殻と良い、彼の上空を漂う白い煙と良い、ヘビースモーカーのようだった。
「来るって、誰が?」
 暁の問いに、隣に立っていた黒髪の少女が振り返り、頭の天辺から爪先までをジロジロと眺めると「あ、そっか」と小さく呟き、納得したように頷いた。
 茶色や金色、銀色や赤色、様々な色の髪が揺れ、奇抜な格好をした人々が集まっている中で、彼女だけは艶やかな黒髪と大人しい服装をしていた。 細い縁の眼鏡と良い、知的な顔立ちと良い、真面目そうに見える。
「君、最近来たんだよね?」
 場に向かって喋る事が多い人々の中、少女は暁の目を真っ直ぐに見上げると首を傾げた。
「あぁ」
「真っ黒なスーツ着て、真っ黒なシルクハット被って、真っ黒な杖をついた男の人がたまに来るんだ。肝試しに行きませんか?って。毎回さ、誰かしら連れてかれんだ」
「で、戻って来ないってな」
 無精ヒゲを生やした男がクツクツと笑い、酒をあおると深い溜息を吐いた。その時はすでに、彼の表情から感情は消えていた。
「最後の部屋に小切手が置かれてるんだって。それを持って帰ってきたらあげるって。相当良い身なりの人だから、金持ちの道楽じゃないかって」
「帰ってこない奴らは、その金で遊んでんじゃねぇかってな」
「もしくは、肝試し中にビビって倒れたとかな」
「肝試しなんて嘘で、殺されてる可能性もあるよね。あたし達みたいなのがいなくなったところで、気づいてくれる人なんていないしさ」
 最後の台詞を言ったのは、黒髪の少女だった。 自嘲気味に微笑み、皆だってそうでしょう?と首を傾げる。
「おい、来やがったぜ」
「今日は誰が行くんだい?あたしはごめんだよ」
「別に誰も行かなくて良いんじゃねぇ? 前だって誰も行かなかった時あっただろ?」
 杖をつくカツカツと言う音と、革靴の音が次第に近付いてくる。 闇の中に溶け込もうとでもするかのように全身黒で固めた初老の男性が街灯の光りの中に現れ、シルクハットを取って胸に当てると丁寧にお辞儀をした。
「どなたか、肝試しに行きたい方はいらっしゃいませんか?」
 良く響くバリトンの声が、夜の闇を揺るがす。 深い皺の刻まれた顔には何の感情も浮かんでおらず、瞳は残酷なまでに冷ややかだ。柔らかな物腰を見た後なため、その差にかなり違和感があった。
 暁は男性をつぶさに観察した。 着ているものはどこかのブランド物らしく、指には控えめなシルバーの指輪が嵌っている。胸に下げているのは大振りの鍵で、手袋も黒い。
 ――― この人、何かある‥‥‥
 暁は直感的にそう感じた。 彼の格好におかしな部分はどこにもなかったが、それ以外の部分にはおかしなところが多々あった。 そもそも、こんな真夜中に外に出てたむろしている若者に“肝試しをしないか”と声をかけること自体怪しい。 それに、先ほどまではノンビリと寝ていた野良犬達が起き上がり、警戒するかのように彼を睨みつけている。
 ――― それにこの人、死体に動じていない
 死体に気づいていないわけではない。 彼の視線は何かを確かめるようにゴミ溜めの方へと流れ、眉を寄せては口元に満足げな微笑を浮かべるという複雑な表情を作っている。
「今日は誰も行かないみたいだぜ」
「そうですか。それは残念です。それでは、私はこれで‥‥‥」
「待って。俺が行くよ」
 踵を返しかけた男性が止まり、暁を品定めするようにジロジロと眺める。
 暁の隣に立っていた少女がクイクイと袖を引っ張り、本当に行くの?と問うように肩を竦める。
「だってさ、楽しそうじゃん。それに、最後まで行けば賞金が手に入るんでしょう?」
「はい。それはもう、確かに」
「んじゃ、行くよ。肝試ししたくらいでお金が手に入るなんて、すげー割の良いバイトじゃん」
 ヘラリと馬鹿っぽい笑顔を浮かべ、男性の隣に立つ。
「それでは、こちらへどうぞ」
 ヒラヒラと手を振る暁に、手を振り返してくれたものが数人いたが、それもほんの数秒程度だった。彼らは暁のことなど忘れてしまったかのように再び輪の中心に視線を向け、取りとめもない話をし始めた。
「どうぞ、お乗り下さい」
 男性が黒塗りの高級車の後部座席のドアを開け、暁を促す。 一瞬入ろうかどうしようか悩んだ暁だったが、何かあった場合でも対処できるように気を引き締めた後で車に乗り込んだ。
 車内は適度な温かさで、運転席には大柄な男が座っていた。
「あそこまで」
 助手席に座った初老の男性が冷たい声でそう言い、こちらを振り返ると愛想笑いを浮かべた。
「隣のシートに飲み物やお菓子が置いてありますので、どうぞ遠慮なくお食べ下さい」
 見れば確かに隣のシートの上にはお菓子の袋やペットボトルが置かれている。 知らない人から食べ物を貰っちゃいけませんとしつけられた事のある暁だったが、お菓子と飲み物を手に取ると口に運んだ。
 勿論、現段階で相手が何か仕掛けてくる可能性はないと踏んでのことだ。



 1時間ほどのドライブの後、ついたのは廃墟の前だった。 古ぼけた門柱には木の板がかかっており、かろうじて研究所と書いてある部分は読み取れたが、その上は文字がかすれてしまって判読不可能になっている。
 初老の男性が先に車を降りて外からドアを開けてくれ、暁はゆっくりと車から降りた。 今が何時なのかはわからないが、あと2,3時間ほどで夜が明けるだろう。
「この建物の最上階の一番奥の部屋に小切手が置かれています」
「一番奥の部屋?」
「はい。3階の一番端の部屋で御座います」
「どっちの?」
「2階から上がると、3階の右端に出ます。そこから真っ直ぐに廊下を進んでください。‥‥‥先ほどの貴方様の質問に答えるとすれば、左端のお部屋となります」
「部屋のどの辺にあるの?」
「お部屋の奥に、鏡台が御座います。その中に仕舞ってあります」
 肝試しをするにはもってこいの不気味な建物ではあったが、それ以前に暁は嫌な予感を感じていた。
「30分もあれば行って来れましょう。こちらに懐中電灯が御座います、どうぞお持ち下さい」
 小ぶりの懐中電灯を渡され、内心での複雑な感情は顔に出さずに、それじゃぁ行って来るといたって軽く言うと建物に近付いた。 ところどころ壁がはがれているが、正面のドアは綺麗だった。銀色のドアノブを回し、中に入る。懐中電灯のスイッチを入れれば、細い光りの線の中におぼろげに室内が浮かび上がる。
 埃っぽいが、床が汚れているということはなく、右の端に置かれたソファーにも埃が積もっているということはなかった。適度に掃除はしているものの、それでも住む人がいないために埃っぽい臭いが篭る、そんな感じだった。
 広いホールに入れば、背後で扉が音を立ててしまった。 きちんと閉めていなかったのが、風が吹いて勝手に閉まったのだろう。暁はさほど深刻に考えずにホールを抜け、細い廊下に足を踏み入れた。
 床には何のコードだか分からないものがうねうねと伸びており、細いものから太いものまで絡み合いながら奥の部屋に続いていた。奥の部屋を覗き込めば奇妙な機材が所狭しと置かれており、暁は用心しながら進んだ。
 手術台のようなものの上には、赤黒い色が浮き出ている。錆びとは違った色のそれに、暁の中の嫌な予感が膨らんでいく。
 ――― この機械って‥‥‥
 あの溜まり場で見た、死体の入った不思議な機械を思い出す。全く同じものとは言い切れないが、どことなく似ている気がする。ここにある機械も、何に使うものなのか分からない。
 引き返そうかとも考えたが、今引き返したところで玄関の前にはあの男達がいるだろう。屈強な男の方はどんな武器を持っているかは分からないが、初老の男性が持っていた杖には銃と言うもう一つの顔がありそうだった。
 窓から外を窺えば、玄関口で佇む初老の男性の姿があった。その視線は上に向いており、空か3階部分を見つめているのだろう。
 ギシギシと悲鳴を上げる階段を上がり、2階に出る。長い廊下の先には上へ続く階段があり、右側にはポツポツと等間隔に並んだ窓、左手は一面鏡だった。 懐中電灯を持った暁が映り、困ったような自分の表情に思わず苦笑する。
 ――― それにしても、何で鏡なんか‥‥‥?
 暁は鏡の傍によると、懐中電灯を当ててじっくりと眺めた。見え難いが鏡には薄く線が入っており、この向こうにも部屋があるのだろうと想像する。ためしに押してみるが、鏡はびくとも動かなかった。引くかスライドさせるか、そのどちらかで開くのだろうかと考えてみたが、適当な道具を持っていない今、何の凹凸もない鏡の扉を開けることは出来ない。
 暁は2階の探索を諦めると、素直に3階に上がった。3階は研究員たちの部屋らしく、プレートに名前が書かれている。一番突き当たりの部屋は所長室となっており、暁は他の部屋には目もくれずに歩いた。
 左手の窓から下を見下ろしてみれば初老の男性の姿はなく、玄関前に停まっていた黒塗りの車もどこかへ行ってしまった後だった。
 ――― 帰りはどうするんだっつの
 内心でツッコミをいれつつ、暁は窓を開けようと鍵に手をかけた。硬く固まった鍵は暁の力では動かず、隣の窓で試してみても同じだった。 濃密な闇が暁の背中をそっと撫ぜ、懐中電灯の光りが点滅する。
 ――― ヤッバー‥‥‥
 ベチャリ。なにか濡れたものが落ちる音が所長室から響く。懐中電灯がその音にあわせて点滅を早め、ついに消えた。
 威圧的な雰囲気に呑まれないようにと気を引き締めた時、所長室の扉がゆっくりと開いた。 生暖かい空気が廊下に流れ、何かが腐ったような悪臭が漂う。
「ちょっと気が早いんじゃね?俺、まだ所長室に入ってもいないんだけど」
 軽口を叩きつつ、暁はナイフを構えた。 ゆっくりとした重たい足取りでコチラに近付いてきたソレは、血と泥に汚れた白衣を身に着けていた。右手には血に汚れながらも鈍い光を発するメス、左手には大きな鉈が握られている。
 ドロドロに崩れた顔の中で、両眼だけがギラギラと輝いている。だらしなく開いた口からは紫色に変色した舌が垂れ下がっており、黄色く汚れた歯が見える。
「ソーゼツ」
 暁の彼に対しての評価は、その一言で十分だった。 使い物にならなくなった懐中電灯をその場に捨て、踵を返して走り出す。先ほどのノロノロとした動きと良い、変な方向に曲がった脚と良い、彼に俊敏な動きは取れないだろう。そう判断していた暁だったが、甘かった。
 聞く者に不快感を与える狂ったような笑い声を上げながら走ってくる男性は、暁の予想に反して速かった。滑るようにこちらに近寄り、左手に持った鉈を振り上げると渾身の力を込めて振り下ろす。 素早く右に避け、階段を一段抜かしに駆け下りる。
 鏡の廊下の端で立ち止まり、暁はナイフを投げた。 真っ直ぐに飛んだナイフは男性の心臓と頭に突き刺さり、彼の動きが止まった。けれど彼は倒れることはなく、ゆっくりと首を右に倒すと右手に持っていたメスを床に落とし、心臓と頭からナイフを抜くと手に持った。
 ――― うぅわ、もしかして俺ってばマズイことしたっぽい?
 強化された武器を手に入れた男性は、涎を垂らしながらゲヘゲヘと笑うと、滑るように近付いて来た。
 ――― 窓が開かない以上、扉も開かないよな‥‥‥
 無理に窓ガラスを割る方法もあるが、それも無駄な気がした。彼の様子と良い、研究所内に立ちこめる闇の気配と良い、どう考えても何かしらの力が働いている。
 ――― 戦うにしたって、ここじゃ狭すぎだし‥‥‥いったんホールまで戻って‥‥‥
 階段を駆け下りる暁の背後から、男性の濁った声が聞こえてくる。正確になんと言っているのかはわからないが、“実験”“ご飯”“楽しい”と言う3つの言葉は聞き取れた。
 ――― こっちは全然楽しくないっつーの‥‥‥
 ヒュンと、何かが風を切る音を背後で聞き、暁は咄嗟に左に避けた。 しかし飛んできた何かは暁の腕を深く切り裂き、熱い痛みと共に血が流れる。
 崩れ落ちそうになる足を何とか踏ん張り、1階に降りると物陰に隠れて息を押し殺した。 腕を伝う鮮血に、苦々しく顔を歪める。
 ――― 何が“肝試し”だよ
 肝を試される前に、命を奪われる危険の方が多い。きっと、暁と同じようにこの場所に騙されて行かされ、命を落とした者はかなりいるだろう。
 ――― あの死体の理由はコレか?
 熱い息を吐き出し、乱暴に袖を千切ると細くして腕を強く縛り上げる。 これである程度は持つだろうが、この調子では右手は使い物にならない。
 背後に気配を感じ、暁は強く目を瞑り唇を噛むとナイフを持った。 一瞬の沈黙の後に足と腕に力を入れ、立ち上がるとナイフを投げた。 相手の何処に刺さったのかはわからないが、相手が一瞬動きを止めたのが分かる。
 相手の行動を待たずに、暁は走り出した。 高まる心臓の鼓動に合わせ、目の前が揺れ、視界が白く濁りながら狭まり、頭がぼやける。貧血状態になりつつある身体に鞭打って、暁は走り続けた。
 物が乱雑に置かれたこの研究所内で、腰や足をいたる所にぶつけながら、それでも止まる事は許されなかった、
 背後から聞こえてくる荒々しい息遣いに、さらに速度を速めようとした瞬間、何かが暁の足元を遮った。
 体勢が崩れ、床に向かって倒れこむ。 低い位置にあった踏み台が床を滑り、壁にぶつかって止まる。 普段のクセで右手でナイフを取ろうとし、痛みに顔を顰めると左手でナイフを握る。
 足元で聞こえる声に、暁は目を瞑った。
 ――― 間に合わない‥‥‥!!
 鉈が大きく振り上げられた瞬間、男性が奇妙な叫び声を上げた。断末魔のような声に顔を上げれば、男性が一目散に階段を駆け上がって行くのが見える。
 ――― いったい何があったんだ‥‥‥?
 困惑する暁の横顔を、薄い陽の光りが照らす。 長い夜が明け、新しい太陽が昇りつつある。
 ――― もしかして、太陽の光りが苦手なのか?
 確かめてみようかと一瞬好奇心が芽生えるが、軋みながら扉が開く音が聞こえ、暁は腕を押さえながら外に出た。 朝独特の凛と引き締まった空気を吸い込み、建物を振り返る。音もなく閉まった扉に手をかけてみるが、開く様子はない。
 ――― さっき、出といて正解だったのかもな
 夜に再び開くまでの間あの中にいたいかと訊かれれば、返事は決まっている。あんな中に長時間いたいと思うほど狂ってはいない。
 血の力によってすでに治りつつある傷口を押さえながら、暁は奇妙な研究所を後にした ―――――



「だーかーらー!どうしてそんな数になるわけ!?アキ、俺の話しちゃんと聞いてる!?」
「聞いてるって!」
「俺が教えてあげてるのに分からないなんて、絶対おかしい!」
「でも分からないんだっつの!」
「まーまー、二人とも、そんなくだらない言い合いする暇あったら、先に進んだ方が賢いって」
「ちょっと俺、飲み物持ってくる」
 友人から教えてもらった公式をブツブツと呟きつつ、コップを置くとアイスコーヒーのボタンを押す。黒い液体がグラスの中に満ちていくのを見つめていた時、ふと背後で甘い香りが広がった。
「生きてたんだ」
 振り返ればあの夜に会った黒髪の少女が立っており、暁には目もくれずに紅茶のティーパックをカップに入れ、お湯を注いでいる。
「貴方もインソムニアなんだ」
 彼女は断定口調でそう言うと、友人らしき少女達のところへ戻って行った。
 今日の夜はどう? ごめんね、予定が入っているの。 そんな会話を聞きながら、暁は自分のところに戻るとストローで氷をつついた。
「なぁ、インソムニアってどう言う意味?」
「授業中に寝てるアキには関係ない言葉だよ」



END
PCシチュエーションノベル(シングル) -
雨音響希 クリエイターズルームへ
東京怪談
2008年03月21日

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