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『ラビュリントスの涙 〜Ariadne〜 』
葉山龍壱(mr0676)&葉山鈴音(mr0725)

■00

 声が聞こえた気がした。
 魔物の、声が。

「……なし……グアああ……はな、し……きぃ……て、くれェアアあア!」

 魔物はまた頭を抱え込んで苦しげに叫び、悶え、身を捩る。
 しかしその獣の様な咆哮に、ひとひら、“ヒト”の音声が混じったかに聞こえたのは気のせいだろうか。
 いつまた拳が飛んでくるかもしれないと警戒しつつも、一度感じた違和感は泉の如く湧いて止まない。そして、攫われた“もう一人”の行方と安否も気になる。

 自分は、今決断を迫られているのだろう。
 ────この魔物を、どうするべきなのか。



「一緒に来た“もう一人”と別れられたら、外に出してあげる」

 迷宮の中心にあるという部屋の、そのまた中央で、少女はそう言った。
 ぐるり見回した結果、目に入ってくるのは白い石の壁ばかり。高い天井に嵌め殺しの窓はあるが、扉や出口といったものは確かに無さそうだ。「閉ざされた空間」とは、残念ながら口三味線ではないらしい。

 愉快そうに微笑む少女と向き合いながら、自分は考える。
 彼女は何者なのか、探し求める“ラビュリントスの涙”はこの部屋にあるのか。
 ────そして、自分はどう答えるべきなのか。


■01

「……何を、言いたい?」
 葉山龍壱は剣を構えたまま半歩、摺り足で退がる。魔物は膝を突き、喉を押さえて、うう、うう、と漏れる嗚咽。息苦しいのだろう、呼吸が浅く肩が上下している。
 魔物は、初め辺りを無造作に破壊し、やがて自分たちへと拳を向けた。ところが攻撃の途中で動きを止め──そこに、あの少女が現れた。少女は言った、そう、確か。
『期待外れね』
 期待? あの少女が魔物に期待していたこととは何だ? 自分たちを斃すこと? 少女の期待通りに魔物が自分たちに手をかけなかったことが、期待外れ?
 ……だとしたら、少女は鈴音に危害を加えるつもりなのか。
「おい」
 龍壱は短く鋭く、魔物に声を飛ばす。のたうつ自身の呻きで聞こえなかったのか、魔物は答えない。らしくなく焦燥と苛立ちを感じながらもう一度。
「おい、言いたいことがあるならば早く言え」
 魔物がゆるゆると顔をこちらへ向ける。覆いに隠された視線を、ねめつけた。
「俺は、鈴音の元へ行かなければならないのだから」



「いいえ」
 答えはシンプルに、そしてきっぱりと。
 葉山鈴音は、対峙する少女に向かってそう言った。
「朝と夜はずっと一緒にいるもの、別れたりしません」
 迷いの一切無い鈴音の言葉に、少女は緩めていた口許から微笑を消した。
 纏う白いドレスは上品で、身のこなしも清楚で気品あるもの。しかし表情に浮かぶのは、卑俗な醜さと忌々しさ。隠しもしないいっそ憎しみの視線が、ぎりぎりと弓を引き絞る様にして鈴音へと向けられる。
「……そうやって、言うだろうと思ったから訊いたのよね。朝と夜? さしずめ貴女が日の明け染める朝、もう一人の彼が、漆黒の衣を身に纏う夜、といったところ」
「返答がわかっているのならば、どうして私に尋ねたんですか?」
「ちょっと私の言葉を遮るんじゃないわよっ!」
 平手打ちの様に声が飛ぶ。わんわんわんと声は白い部屋の中を反響し、反射的に肩を竦めた鈴音は身体を強張らせたまま上目遣いで少女を伺う。
 少女は、唇を噛み締めていた。忙しなく髪の先を弄り、ちらちらと視線を鈴音に投げて寄越す。
 それはまるで癇癪を起こした子どもの様。──この人、仕草がとても幼い。
「……もう、ヤになっちゃう」
 少女は言い捨てると、くるり、踵を返し、足音を踏み鳴らして階段の上へ。そして台上の中心に立つと。
「貴女、出てく気ないんでしょう?」
 肩越しに、また心持ち顎を上向けて、少女は不遜な態度で声を降らせる。
 そんなことは言っていない。──と口にしたら、また怒鳴りそうだからここは静観したほうがいいだろう。
「だったら、もう、勝手にして」
 ……連れて来たのはそっちのくせに。傍若無人に振舞う少女を、鈴音は困惑を胸に見上げる。
 そんな非難の混じった視線が気に入ったのだろうか。少女はそこで漸く、あの嫌らしい微笑を取り戻した。
「部屋を歩くのは自由よ。精々探してみたら? “ラビュリントスの涙”を」


■02

 聞く意思があるのだと示すために、龍壱は剣を鞘に収めた。
 しかし完全に気を許したわけではない。手は柄にかけたまま、即座に居合い抜きで太刀を浴びせられる姿勢を保つ。
 魔物は徐々に落ち着いてきたらしい。苦しげだった不規則な呼吸が一定のリズムを取り戻し、それが整ったのだろう、漸く口を開いた。
「……ハなしヲ、きイテくれる、か?」
「ああ」
 首肯して、会話になったことを悟る。間違いない、この魔物は人の言葉を話す、そして自分に何かを伝えようとしている。
 鈴音が攫われて、正直手掛かりが無い状態だ。あの少女と魔物は何がしかの繋がりがあるだろうから、情報を引き出すためと思えば魔物の話を聞くのも無駄ではないだろう。
 魔物。そして、少女。龍壱は再び考える。
 魔物は2体いる。1体は、今目の前にいる巨体。もう1体は──あの、少女なのか。
 だとしたら、どちらも人の形をしたものを指して“魔物”と言っていることになる。では何を以って彼らは“魔物”と呼ばれるのか、疑問と言えば疑問だ。────尤も、相手が何者であろうとも。
「……夜として、退くことは出来ないな」
 呟いた龍壱は柄の手に無意識、力を込める。
 ────と。
「アノ子は、まだ、無事」
 魔物が明瞭にそう言った。龍壱ははっとして、暗さに慣れてきた目で魔物を捉える。
「傷つケることが目的でハない。不用意に煽らナければ、大丈夫、君の連れは無事だ」
 流暢な人の言葉が、麻袋の内側から聞こえてくる。多少早口なのは、彼もまた、自分と同様何かに焦っているからだろうか。
「自分の目で確かめるまでは、その言葉信じることは出来ない」
「成る程、道理だ。では手短に……だが、出来れば初めから聞いてほしい」
 頼む、と岩石の様な巨体が頭を深く下げた。先ほどの狂暴さは微塵も感じられない理性的な振る舞い。
 龍壱は逡巡の末に、柄からそっと手を離した。
「早くしろ」



 昔々のその昔。
 葡萄酒色なせると詠われた海原に、宝石の様な島々が浮かんでいた。
 その島のひとつに、白亜の迷宮があった。乾いた風に吹かれ蜂蜜色の陽射しが注ぐその迷宮は、しかし内側に闇がわだかまり、牛頭人身の魔物を孕んでいた。
 魔物には年毎生贄が捧げられ、一歩足を踏み入れれば二度と戻ること叶わぬ迷宮に、若き男女の悲鳴が魔物の咆哮とともに木霊した。
 しかしある時、ひとりの勇者が剣を携え迷宮へと乗り込んだ。勇者は島の姫の助けを借り、見事魔物を撃破する。迷宮はここに陥落し、勇者は姫へと戦果を告げた。
 姫よ感謝します、貴女のおかげで私を本意を遂げることが出来ました。
 姫は愛しき勇者の言葉に頬を染め、その胸に飛び込むとこう言った。
 素晴らしき方、どうぞ私をお連れください。私は貴方様のために肉親をも裏切りました、ですから。

『だから、私を────』



 少女は階段に腰掛けると、脚を組んで膝に肘を置き、それきり声をかけてこない。なので鈴音は部屋を見て回ることにした。勿論物見遊山ではない、ここから脱出する手段を探るためにだ。
 今頃、兄はきっと自分を案じ行方を探しているだろう。例え自分がここに留まっていたとしても、兄はきっと自分を見つけてくれる。自分と再会するまで、兄が捜索の手を休めるとは思えない。
 だから逆に──いやだからこそ、自分も人形の様に大人しく待っているわけにはいかないのだ。兄が自分のために力を惜しまぬように、自分もまた、兄のためならば何も惜しくはないのだから。

 壁伝いに歩いては、そこに切れ目などないか検分していく。だが白い壁には扉も窓も何も無い、進むごとに明らかになっていくのは、少女の言葉の正しさだ。外部と繋がっているのは、やはり天井の窓ひとつのみであるらしい。
 自分がここに連れてこられた経緯から察するに、少女には瞬間移動の能力があるようだ。自分だけではなく、恐らくは自身が触れているものも任意の場所に運ぶことが出来るのだろう。だからこの部屋には出入り口が無い、必要が無い、というところか。
 そういえば、先ほどの魔物は壁を破壊して現れた。──ということは、この壁は物理的な力で穴を空けることが可能なのか。
 試しに拳を作り、それで壁を打ってみる。トントン、軽い音がするだけで、感じるのは石の硬さのみ。……まあ、当然なのだけれど。
 ふう、と一息ついて。振り返れば、一直線の向こうに台が、そして階段と少女が見えた。少女は自分の視線に気付いて眉をくいと上げる。
「お疲れ様、そこでちょうど一周よ。どう、何か見つかった?」
「私ひとりでは、ここから脱出することが難しそうだということがわかりました」
「だからそう言ってるじゃない」
 けらけらと嬉しそうに笑う少女は、この部屋が迷宮の中心だと言っていた。それを信じるならば、ここにマリカの求める“ラビュリントスの涙”があるはずだ。神殿の様な部屋、というマリカの説明に合致するかどうかは、よくわからないけれど。
 鈴音は遠くに少女を見据えたまま、思考を巡らす。壁を壊して逃げる、というのは自分ひとりでは困難だ。また、兄と別れるという条件を呑まなかったのだから、少女が自発的に自分を部屋から出すことも考えにくい。
 ならば、今の自分に出来ることは────。
「お話し、しませんか?」
 距離は離れているものの、辺りが静かなため声が通りやすかった。
 今の自分に為せること。それは、少女から情報を引き出すこと。少女には子どもっぽいところがある、うまく誘導すれば、何か口を滑らせるかもしれない。
「お互いにすることがないでしょう? 二人きりなんですもの、お話してみません?」
 自分の提案に少女は凝っとこちらを見つめている。真意を量っているのだろうか。
 ────すると、不意に。
「あの人、貴女の恋人?」
 え? と目をぱちくり。予期しないところから切り込みがきて、鈴音は咄嗟に返せない。
 少女は、ふふぅ、と楽しそうに頬を押し上げ重ねて問う。
「ね、恋人なの?」
「あ、いいえ。兄です、お兄ちゃんなの」
「ああ、そう。……ふうん、仲良いのね」
「ええ」
 衒いなく返すと、今度は不機嫌な表情を露にする。何だろう、自分たちが睦まじいことが気に食わないのだろうか。ならば、申し訳ないが気分を害してもらう他無い。嘘でも兄と不仲だなんて口にしたくないから。
「じゃあ、貴女は? ご兄弟はいらっしゃるの?」
「え、私? つまんないこと訊くのね」
「お話しするのって、こういうところから広げていくものでしょう?」
 少女はぷふぅ、と頬を膨らませる。わかったわよ、とぶっきらぼうに言うと。
「いるわよ……というかいたわ、弟がひとり。死んじゃったけど」
 ざわり、と鈴音の胸が波打った。死、という単語は好きではない。耳にするだけでも鼓動が速まり、貧血の様に眩暈がする。
 それを必死に堪えていると、少女が体の脇に両手をついて背を逸らし、見上げた先は光降り注ぐ天窓の方向。柔らかな日差しに、少女の亜麻色の髪がきらきら輝く。
「私ねえ、好きな人のために弟を見殺しにしたの。とっても好きだったから、弟より両親より好きになったから、その人のために何でもしてあげたいって思った」
「それは……」
 酷いことだ、と鈴音は思った。
 鈴音にとって身内とは即ち兄、兄は掛け替えの無い大事な存在。それを犠牲にするなんて、誰のためとはいえ出来はしない。──尤も、彼女にとってはその「好きな人」こそが、自分にとっての兄だったのかもしれないが。
「ふふぅ、貴女がどんな風に考えてるかなんて、顔見なくてもわかるわ。うんそうよね、バカなことしたわ。悪いことしたとは思ってないけど、バカだったなあって、ねえ?」
 同意を求められたのだろうが、頷く気にはなれないのでただ黙する。
「ほーんと、バカだったわ私。何で、私の好きな人が私のことを好きだなんて、勘違いしたのかしら」
「……そういう、自分を苛めるような言い方は、良くありませんよ」
「あら優しいこと言ってくれるのね。でもごめんなさい、私、相思相愛のシアワセモノから情けをかけられると、すっごく腹が立つから」
「情けだなんて……思ったことを言ったまでです。変な受け取り方しないで」
「ふーんだ、どーせ貴女だって私のこと好きじゃないくせに。迷宮見てわかったでしょ? 私、貴女にいじわるしてるのよ」
「迷宮、見て?」
「そうそ。ここはね、私なの。貴女、私の中にいるのよ。壁が動くのも罠があるのも、みんな私がそうしたいと思ってるから。入ってきた2人にうーんとイジワルしたいって、私がそう思ってるからこそ、この迷宮は“迷宮”なの」
 鈴音は少女の言葉を反芻し、整理した。そして不意に、兄の横顔が脳裏を過ぎる。
 兄は今ここにはいない。自分たちを害する意思のある迷宮の中でひとりきり。────ドキリ、と鼓動が高鳴った。
「お兄ちゃんに、手を出さないでください」
 前へと進みながらそう、きっぱりと告げる。少女は、ツンとした表情で明後日の方向を向く。
「そういうこと言われると、余計にいじわるしちゃいたくなるのよね」
「止めてください。絶対に、やめて」
 普段穏やかな口調の鈴音からしてみれば、相当きつい物言いだ。
 それを少女は知ってか知らずか、更に唇を尖らせる。
「何よ、みんなして私のこと嫌いになって。父様も母様も自分勝手で、可哀相な弟は言葉の通じない化け物。やっと出逢えた運命の人は、私を簡単に捨てていった。もう、うんざりっ!」
 彼女が何かに苛まれているのは何となくわかる。不平不満ばかり口にするほど拗ねてしまった、その原因があることを労しく思わないでもない。しかし、兄が絡んでいるのだから自分も譲れない。
 階段の下にまで辿りつくと、段上の少女をきっと見上げる。胸元に握った手を当てて────お兄ちゃん。
「お兄ちゃんには、ひどいことを、しないでください。私の大事な人に、傷を、つけないで」
「……そうやって昔の自分も思ってたことが、一番うんざり」
 少女はすっくと立ち上がる。色が変わるほどに唇を噛んで、怒りにか頬を染めている。
 と、その表情が不意に何かに気付く。はっ、と上を見て──しかしその視線を追っても何も無い。
 少女はどこか、自分には見えないものを見ているらしかった。わなわなと唇が震えて、やがて。
「ちょっと、何してるのよ! 貴方、どれだけ私を裏切れば気が済むの!」
 少女の悲壮とも聞こえる絶叫に、部屋の空気がびりりと震えた。


■03

 魔物の話を聞き終えて、龍壱はこの“迷宮”を理解した。
 この迷宮は、先ほど鈴音を攫った少女そのもの。ならば自分たちは、あの少女の意思の中にいるということか。
「……理解はした。ただ、真実かどうか確かめさせてほしい」
 言うと、龍壱は鞘から剣を抜き放った。それは魔物の眼前で一閃となり、頭を覆っていた麻袋を斜めに切り裂く。それを取り去って、中から現れた容貌に龍壱は無言のまま頷いた。
 表情を外気に晒した魔物は、力なく笑った──ように見えた。
「彼女は、子どもの様に感情が極端だ。力をもっているだけに、人を傷つけようとする手段が残酷にもなり得る。彼女はそれを制御できない、ただ、それだけなのだ」
 まどろっこしい話し方をする、龍壱は思う。
 話を聞いていて感じたが、どうも魔物はあの少女を庇おうとしているらしい。少女に理不尽な仕打ちをされているはずなのに、どこか甘さと寛容が見え隠れする。
「贖罪か?」
 問うと、魔物は心持ち項垂れる。
「そう捉えられても仕方ない。彼女を憎んでいるわけではないのだ。私は私として、彼女のことを……」
 弱弱しくなっていく語尾を、断ち切った。
「そちらの事情はわかった。これでもう、用は済んだな」
「……ああ」
 龍壱は大股で魔物の横をすり抜け、彼が穿った穴の奥へと足を踏み入れる。
「何処へ?」
「鈴音の元へ」
 言うなり走り出した自分の後を、魔物もついて来たようだった。
 そして再び響きだすあの、壁の動く音。進む通路の奥、先ほどのように壁が迫り出し道を塞ごうとしているのが、乏しい視界の中で見えた。
「中心はどっちだ」
 背後の魔物に振り返らないまま問う。
「今向かっている先か、それとも、横の壁を壊したほうが早いか」
「横のほうが」
「わかった」
 閉じようとする壁を無視して龍壱は駆ける足を急停止させる。そして気合とともに剣を抜き放ち、壁に斬撃を浴びせた。
 石の中では柔らかい大理石ゆえ傷はついた、だがさすがに穴を穿つには至らない。
「ならば、もう一度」
 同じ場所に先刻よりも強い一撃を見舞うが、傷を重ねただけ。埒が明かない、と舌打ちする。
「……“カミサマノオクリモノ”」
 低く呟いた龍壱の腕が、ドクン、血管が跳ねる様に脈打った。神秘の力を発揮する龍壱の能力、それは特定部位の強化として使用出来る。岩をも砕く力、鈴音のためならば揮うことに一毫の躊躇も無い。
 と、それを、腕を掴んで止める者があった。
「何だ」
「その力は、私が再び理性を失った時にとっておいてほしい」
 魔物が龍壱の前へ進み出る。
「好きにさせることで彼女の気が晴れるならと、思わなかったわけじゃない。贖罪とはその通りだ、私は、彼女の言いなりになることで赦されようとしていたのだろう」
 魔物が渾身の力を込めて拳を壁に叩きつける。轟音と粉塵とともに、壁ががらがらと崩れ落ちた。
「中心の部屋への方向は私のほうがわかる。理性が事切れるまでは、君を先導しよう」
「おまえが我を失ったら?」
「……その時は、斬り捨ててほしい。もうこれ以上、私は、彼女の手足になってはいけないのだ」
 わかった、と龍壱は頷く。
 魔物の金色の髪が、埃混じりの風にふわりと揺れた。



 愛しい方。どうぞ、私を連れて行って。

 神の怒りを買った父、その父のせいで呪われた母。産み落とされた弟は、牛の頭と人の体をもつ魔物だった。
 弟は迷宮に閉じ込められ、私は毎年、その迷宮へと引きずられていく生贄の列を眺めていた。
 心が痛まないはず、ないでしょう? 殺されるために歩いていく同じ年頃の子の泣き顔を見て、何も感じないでいられるような娘じゃ、私はなかった。善人ぶるつもりはないけれど、悪人だって割り切れるほど大人じゃなかったもの。

 でも、ねえ、愛しい貴方。
 貴方は、迷宮の魔物を倒した。私の重く苦しい枷を断ち切ってくれた。
 だから、ここから連れ出して。弟を貴方に殺させた私は、もう、この島では生きていけないし。
 それに、貴方の傍にいたいの。お願い、お願い。
 私を、ここから攫って。

 ……そう、縋ったのに。

 貴方は私を置いて行った。連れて行くと約束したのに、結局、裏切った。
 だから、私は貴方を追いかけた。そして、その胸を貴方の剣で貫いた。
 私の手許に残ったのは、貴方の美しい顔だけ。首から斬り落とした、大好きな貴方の頭蓋を抱えて、私は弟の眠る迷宮に舞い戻った。

 迷宮には、魔物が棲んでいる。
 魔物になった私は、じゃあ、迷宮に棲むしかないわよね。
 魔物になった貴方と、ずっと、一緒に。



 次々と壁を壊して突き進んでいく魔物の後を、龍壱は剣を携えついて行く。迷宮は本格的に自分たちを狙い始めたらしい、一歩進むごとに矢や石が飛んできて弾き返すにも一苦労だ。
 だが、それは逆に、道の正しさを示しているのかもしれない。
 少女の狙いは、自分と鈴音の分断だという。恋人に裏切られ人の絆を信じられなくなった少女は、自分と鈴音の仲を壊したがっている。それが儚い悪戯だとわかっていながらも止められないのだと、魔物は言っていた。
 そして、自分は今まで“魔物”として少女の言うがままになっていたのだと、魔物は──彼は懺悔した。

 次々と現れる壁を壊して進めば進むほど、魔物の拳の破壊力は徐々に弱まっていく。さすがに体力的に限界なのだろう。だが魔物はがむしゃらに突進していく、だから龍壱も敢えて止めはしない。
「もうすぐだ」
 突然現れた落とし穴を飛び越えて、着地。龍壱は頷き、眼前の壁に向き合う。
「この奥に、君の連れと……彼女が、いる」



 それが苛立った時の癖なのだろう、少女は忙しなく髪を弄っている。やがて中空を睨みつけたままヒステリックに叫んだ、連れて来ないでよ!
「……連れて来ないで?」
 もしかして、と鈴音は閃いた。そして即座に踵を返し、壁に駆け寄る。
 出口がないことなど承知の上だ、けれども、もし自分の予想が当たっているのならば、こうしなければ気が済まない。
「お兄ちゃんっ」
 握った両手で壁を打ちつける。何度も何度も、仮令その音が石に掻き消されようとも知らせたくて、兄を呼ぶ。
「お兄ちゃん、ここよ。私は、ここにいるわ」
 その背後に一瞬にして現れた少女が、両手を鷲掴んで怒声を浴びせた。
「うるさいわね! 私だってそうやって呼んだわよ、でもあの人答えてくれなかった、私から逃げたの。何で、何で私ばっかり、何で、貴女は、呼べば答えてもらえるのに、私はっ……!」
 ドオンッ! と爆音が響いたのはその時だった。2人から僅か離れた壁が内側から破裂する──いや、向こう側から突き破られたのだ。
 咄嗟に身を引いた鈴音は、捻り上げられた手とともに背後の少女に拘束される。痛い、と抗議したが少女は聞き入れず、壁に穿たれた穴──そこから現れた影を泣き出しそうな瞳でねめつけていた。
「お兄ちゃん」
 室内に侵入した龍壱はすぐに鈴音の姿を見とめた。そして一瞬の間も置かずに床を蹴り、鈴音を捕まえている少女の喉下へ切先を突きつける。
 しかし少女と鈴音の姿は寸前で消え、探して巡らした視線、階段の上に2人は移動していた。
 少女の表情はまさしく憤怒。涙すら浮かべている血走った双眸は、自分を通り過ぎてその後ろを見ていた。振り返らなくても、その怒りの対象は判る。最後の最後、途方もなく分厚い壁を打ち壊して力尽きた“魔物”に──彼女の最愛の人だった男に、彼女は、感情をかき乱されているのだろう。
「また……また裏切ったのねっ!」
 少女が叫び、腕を掴まれた鈴音が苦悶の表情を浮かべる。
「鈴音を離せ」
 言うなり駆け出す。少女は頬を歪めて自分の後ろを睨んだ。背後からおおお、おおお、と彼の悶える絶叫が聞こえる。彼が言っていた、あの首輪は少女の意のままに喉を締め付ける。そして彼の人としての思考と理性を奪い、真の“魔物”に変えているのだと。
 恋人に裏切られ、“魔物”の心になってしまった哀れな姫。それが、あの、少女。
 ────これが、2体の魔物。
「っ!」
 少女の気が自分から魔物へ逸れた一瞬を鈴音も見逃さなかった。たおやかな身を捩り、少女がまた瞬間移動しないうちにとその戒めを振り払う。そして階段を駆け上がってきた兄の腕の中へと。
「お兄ちゃんっ」
 抱きついてきた妹の細い体を、龍壱は漆黒のコートの中へと庇う様にいだく。漸く戻ってきた大切な人の温もりに安堵し、口許がほんの少しだけ笑んだ。
 しかしすぐさま少女に向き直ると、剣を構え、悔しさも露な彼女の表情を見据える。
「もう気が済んだか」
「……そうやって脅して、あの人に言うことを聞かせたってわけ?」
「違う、これは彼の意志だ。これ以上おまえが、“魔物”にならないようにと」
「私のためとか、そういう薄っぺらな言い方やめてよっ! 虫唾が走る!」
 吐き捨てる様な少女の物言い。龍壱の腕の中にいた鈴音はその視線の先を追った。先刻龍壱が姿を現した穴の前でそれは止まり、膝をついて苦しむひとりの男を、鈴音は見つけた。
 ────そして、気づいた。
「あれが、俺たちを襲っていた“魔物”だ」
 魔物。鈴音は龍壱の言葉に首を横に振った。違う、あれは……人だ。
 筋肉が盛り上がった巨体の上に、先ほど麻袋に覆われていた頭があった。それは身体にはそぐわない、金髪と麗しい容姿をもつ男の顔だった。言うなれば、首輪を接ぎ目として別の人物であるかの違和感を覚えるほど、男は美しい面立ちをしていた。
 男は苦悶に身を捩り、やがてそれが治まると──ゆらり。立ち上がった瞳は虚ろ、締まりのない口の端から涎を垂らし、引きずるような足取りでこちらへと歩いてくる。それはやがて駆け足に、叫び始めて、拳を高く掲げる。
「……自分を、失ったのか」
 龍壱が呟く。そして少女を横目で眇め。
「話は聞いた。恋人の首を、弟の身体に接いだそうだな」
 少女は引き攣る様にして笑った。
「あのお喋り」
 龍壱は鈴音を抱えたまま階段を跳び越える。ちらと少女に一瞥を呉れたのは、彼女が手を出すか否かを見極めるため。動かない、との確信を得てから鈴音を床に下ろし、襲いかかる魔物に剣を構える。そして────。
「“カミサマノオクリモノ”」

 キンッ……!

 擦れ違った瞬間、龍壱は魔物に一閃を叩き込んだ。爆発的に高めた筋力によって揮われた一撃は、過たず魔物を捕らえ──ドンッ、と地響きを伴って魔物は床に倒れ伏した。
 剣を払い、振り返る。案の定怯えた視線でこちらを見ていた鈴音と目が合い、首を振って否定した。
「大丈夫だ、死んでいない」
「え?」
「首輪を、壊しただけだ」
 歩み寄り、魔物の首元を覗き込む。喉を覆う戒めは亀裂を入れたところから砕け、魔物の──彼の首から落ちていた。浅いながらも確かに呼吸している彼が自分を見上げて、唇の端で笑った。
「……感謝、する」
「……そうか」
 鈴音が駆け寄ってきて、求める様に差し出された細い手を、龍壱は剣を持つのとは逆の手で捕まえる。
「お兄ちゃん」
「ああ」
 見交わす視線に溢れる信頼と愛情を互いに感じ、少女へと向き直った2人は、揺るぎ無い意志に満ちていた。
 自分たちは表裏一体。光射す時間と、月の照らす時間。別のものでありながら、一続きの、不可分。
「右手に夜を……」
 鈴音が温かさを胸に、そう言って。
「……左手に朝を」
 龍壱は、妹が絡めてくる指の力強さを感じながら唱和する。
 少女は何かを言おうと口を開きかけた。だが、それは結局一声も発せられないまま噤まれる。
 その胸中に去来したものを、龍壱と鈴音は知らない。心に決めた人に裏切られたと怒り悲しみ、性根から捻じ曲がってしまった少女の心の内を知ることは、出来なかったから。
「重かった、と言っていた。おまえの一途過ぎる想いに、応えきれる自信が無かったのだと。だから今までおまえに従っていた、それが、あいつの精一杯だったんだ」
「……そんな精一杯なんて、いらないわよ」
 少女は力の抜けた声でそう言うと、うつ伏せに倒れた男を段上から眺めた。その身から気勢は失せ、勝負がついたことを悟ったようだ。
 鈴音が龍壱のコートをきゅっと握り込む。龍壱は、そんな鈴音の肩を抱き寄せた。
 やがて少女は、僅か光る目許を手の甲で乱暴に拭うと、掌を開いて2人に向け。
「見せつけるんじゃないわよ。大嫌い、みんな嫌い。だから……もう、私の中から出てって」
 鈴音がかけるべき言葉を探しあぐねているうちに、少女は最後の言葉を口にした。
「────“ラビュリントスの涙”は、あげない」


■04

 気づけば、そこは見覚えのある景色。見回して確信を得る、迷宮の外だった。
 マリカは突然現れた自分たちに驚きもせず、にこりと笑顔で出迎えた。おかえりなさい。
「あの……ごめんなさい。頼まれていた“ラビュリントスの涙”、見つからなかったの」
 おずおずと口を開く鈴音に、マリカは「あらぁ」と目を丸くし──たものの、すぐに肩を竦めて。
「気にしないで、元々私が勝手にお願いしたことだもの。それより2人とも身体中埃まるけじゃない、きっと、大変な目に遭ったのね」
「……大変と言えば、大変だったかもしれないわ」
 鈴音は、マリカの向こう、白亜の迷宮を遠くに望んだ。龍壱もそれに気づき、同じ様に視線を投げる。
 あの中心には2体の魔物が──心が擦れ違ったままの少女と男が、これからも棲み続けるのだろう。男は首輪から解放された、だが少女は迷宮に籠もったまま。この先も自分たちのような2人組を中に誘い入れては、ああして怒りと悲しみをぶつけるのだろうか────。
「……そういえば、」
 はたと思いついたようにそう言って、龍壱が迷宮からマリカへと視線を移す。
「結局、“ラビュリントスの涙”とは何だったんだ?」
「ああ、そのこと」
 マリカは破顔一笑。そして何故か、瞳を伏せて。
「そうね、じゃあ逆に訊くけど、涙はどういう時に流れるかしら?」
「それは……悲しい時、か?」
「あとは辛い時、腹が立った時とか、かしら」
 思案し顔を見合わせる兄妹の姿を、マリカは眩しそうに見つめた。

「あのね。幸福によって流れる涙が、一番美しいものなのよ?」


了 



━ORDERMADECOM・EVENT・DATA━━━━━━━━━━━━━━━━━…・・

登┃場┃人┃物┃一┃覧┃
━┛━┛━┛━┛━┛━┛

【mr0676 / 葉山龍壱(ハヤマリュウイチ) / 男性 / 24歳 / 幻想装具学(幻装学)】
【mr0725 / 葉山鈴音(ハヤマスズネ) / 女性 / 18歳 / 禁書実践学(禁書学)】


ラ┃イ┃タ┃ー┃通┃信┃
━┛━┛━┛━┛━┛━┛

葉山龍壱様・葉山鈴音様

こんにちは、辻内弥里と申します。前回に引き続きのご参加、誠にありがとうございます。納品までお時間をいただいてしまい申し訳ありませんでした。
最終的に“ラビュリントスの涙”を手に入れることは出来ませんでしたが、魔物を解放することは出来たようです。今後迷宮がどうなっていくのか、それは龍壱様と鈴音様のご想像に一任することに致します。
それでは今回は、ありがとうございました。少しでも楽しんでいただけましたら幸いです。
Bitter or Sweet?・恋人達の物語 -
辻内弥里 クリエイターズルームへ
学園創世記マギラギ
2008年03月21日

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