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『謹賀新年ノベル! 』
千獣3087

「う〜ん」
 ミナは困っていた。
「う〜ん、う〜ん、創作意欲はまんまんなのにネタがないわ……!」
 そう、彼女は小説家。
 しかし、残念ながらネタを生み出すのがへたくそな半人前だった。
 今、彼女は会社から新年ノベルを提出するよう請求されている。
「こうなったら……!」
 ミナは拳を握った。
「人からネタもらうしかないわ……!」

 ■■■

「というわけで、あなたはお正月ってどう過ごす? 私に教えて?」
 とミナはあたり構わず聞き込みに回った。
「実体験を元に全部まぜこぜにして、少し(嘘。大幅に)脚色して。私が1つの小説にしてみせるわ!」
 さて、あなたたちのお正月の経験がミナによって改造されてしまうようですが……

 ■■■

 そんなミナが飛び込んできたのは精霊の森――
「正月の体験?」
 森の守護者、クルス・クロスエアが奇妙なミナの要求に眉根を寄せた。
 ちらりと自分の隣で聞いている少女を見やる。
 千獣。――精霊の森で過ごす少女。
「……お、正、月……?」
 と彼女はぽつりとつぶやいた。
「そう、お正月!」
 ミナが勢いづく。
 千獣、考え中。
「……お正月……」
「そう、お正月の体験伝!」
「体験伝って、大げさじゃないかな……」
「体験したことには何事にも意義がある!」
 拳を作って力説するミナに苦笑するクルス。
 その横で千獣、やっぱり考え中。
 小首をかしげて、結論を出した。
「……お正月……って……何……?」
 ミナがずっこけた。
 クルスが「やっぱりな」と微苦笑する。
「お、正月って……どう、過ごす、の……?」
 千獣は無垢な瞳でクルスを見た。
「うーん、僕も世間一般の正月らしい正月は送ったことがないなあ……」
 一応知識としては知っているクルスだが、彼は基本的に森に缶詰で研究だ。そこの記念日などありはしない。
 しかしミナは諦めなかった。
「あなたたちだからこその経験ってあるでしょ!? もう、正月らしくなくてもいいわ、教えて!」
「はいはい、分かった分かった。――でも僕の体験に千獣は出てこないぞ?」
「そこが私の腕の見せ所よ。あなたの体験談に千獣さんを登場させてお話にする。腕が鳴るわ〜!」
 立ったまましゃべっていた彼女は小屋の中の椅子に勝手に座って、メモ帳を取り出した。クルスの体験談を聞きとめる用意――
 クルスは目を細めて微笑んで、
「千獣。キミも座って。――飲み物を作りながら話すよ」
「いくらでもしゃべって!」
 ミナは力んだ。
 千獣がちょこんと椅子に座る。
 クルスが語り始める。その内容に、千獣がぴくんと反応する。
 ミナが物凄い勢いでメモを取り始める――

 クルスの物語が終わる。
 ミナはうんうんとうなずき、千獣を見た。
「千獣さん。いくつかお聞きしたいのだけれど」
 千獣は小首をかしげながら、ミナの質問に答えていく。
 ミナはノートを取り出して、早速書き始めた。

 タイトル。

『よこがお』
 ⇒著:ミナ・バーレン 協力:クルス・クロスエア様 千獣様 精霊の森の皆様

 ■■■

『よこがお』

 常緑樹のこの森に、季節感はない。
 けれど、季節を送り込んでくれる者がしばしばいた――彼女も、そんな人間のひとりだった。
「今年もよろしくねえ、クルス坊や」
 としわくちゃの顔で笑顔を作りながら、手製のおせちやつきたてのお餅を持ってきた老齢の女性。
 クルスは彼女が小屋のテーブルにそれらを広げるのを見て、ようやく今日は正月だと思い出した。
 微笑して、
「今年も森をよろしく、カンナさん」
「……今年からは『うちのお嫁さんもよろしく』じゃあないのかい?」
 カンナ・シュズリナはカラカラ笑いながら、きょとんとテーブルに置かれたおせちやお餅を見つめる千獣を見た。
 クルスが額に手を当てる。
「照れるでないよ。……かわいい女の子だねえ」
 カンナは千獣をしげしげと見て言った。
 千獣はやっぱりきょとんとしてカンナを見下ろす。カンナは背が低かった。
 ――自分は呪符を織り込んだ包帯で全身を巻く者。そんな自分を「かわいい」と初対面で言う人なんて滅多にいない。
 クルスが咳払いをして、
「千獣。今日は正月だ――1年の始まりの日。この箱……3段に重なっている箱は重箱と言って、中におせち料理を入れる。お餅は正月には欠かせない食べ物で」
「1、年の、始まり……」
 千獣という少女の中に、年月の概念はない。彼女は首をくりんとひねった。
「まあ深く考えなくていいよ千獣。とにかく、カンナさんは毎年正月にこうしてお祝いを持ってきてくれる。……食べるかい?」
「食べてちょうだいよ、お嬢ちゃん」
 カンナがしわを深くする。
「??? 食べ、る……」
 食べても味など分からないのだが、カンナが重箱を開けた時、並んでいた料理の色鮮やかさに心惹かれた。
 一番目を引いた卵焼きをつまんでぱくり。
 味付けは甘かった。
「これやこれも美味しいからね、たんとお食べ」
「うん……」
 クルスは苦笑しながらも口は出さなかった。
 ぱくぱくと千獣がおせちを食べている間、カンナは風呂敷に包んで背中に背負っていた荷物を下ろした。
 風呂敷包みから出てきたのは一升瓶。しかし中身は酒ではないことをクルスは知っている。
 彼女の家は果樹園だ。フルーツジュースである。
「僕もお餅を頂くよ」
 ときなこ餅を一口口に放り込んで、ゆっくり噛みしめて食べると、改めてカンナに向き直る。
「……今年も?」
 カンナは、その瞬間、少しだけ悲しそうに――笑った。
「ああ。……お願いできるかい」


 千獣を連れて、クルスはカンナと共に小屋を出た。
「お嬢ちゃんも連れていくのかい」
 とカンナが千獣を見て不思議そうな顔をする。「確かに小屋に一人きりにするのはかわいそうだけどねえ」
「いや」
 とクルスはつぶやいた。
「カンナさん。千獣は――この森の中でも最もファードを愛している」
 千獣がはっと顔を上げる。
 カンナが口をつぐんだ。ややあって、
「……そうかい」
 立ち止まり、千獣に向き直った。
 千獣の包帯で巻かれた手を取って。
「許しておくれ」
「………」
 千獣は黙って、カンナの橙色の瞳を見つめた。


 樹の精霊ファード。この森そのものを司っている、母なる樹。
 その体は癒しに満ちている。葉や朝露、木肌はもちろん、樹液に至ってはどんな難病も癒せると言わせるほどの最高の薬になる。
 ただし、樹液は当然ながら――木肌を傷つけなければ手にいれられない。
 ファードの幹にナイフを入れること。
 それはクルスだけが自分に課した、罪だった。


「クルス坊や。あんたにこんな力があると知った時――あたしゃ感謝の念が絶えなかったんだよ……」
 ファードの本体の幹に触れ、「久しぶりだねえ、ファード」とカンナは囁いた。
 梢がさやさやと鳴る。
 ファードが返事をしている証拠だと、クルスも千獣も知っていた。
「ファード。今年もいい果実が取れた……あんたに飲んでもらいたいよ」
 手に持っていた、一升瓶を掲げるカンナ。
「ライチのジュースさ。……喜んでくれるかねえ」
 千獣がこれから起ころうとしていることを察して身を硬くする。
 クルスが動いた。
「ファード。……行くぞ」

 千獣は目をつぶる。
 ファードを身に宿す時の感覚は、自分が一番よく知っている。
 全身に枝葉が伸びて侵食していくようで、けれどそれが心地いい。
 癒しの樹と一体化することが、疎ましいことであるはずがない――

 そして、カンナの体にはファードが宿った。
 カンナは嬉しそうにまた顔をしわくちゃにして、
「ファード。あんたは相変わらずあったかいねえ」
 と言った。
 千獣は我知らずうなずく。それが見えたのか、カンナが千獣を見て、
「お嬢ちゃんもよく知っているんだね。……ファードは、あったかいねえ」
「うん」
 いつになくはっきりとした声が出た。
 カンナの体の中で、ファードは何と言っているんだろう――
 クルスが少し考えた後、
「申し訳ないんだけれどカンナさん。今回はファードに体の支配権を与えてやってくれ。千獣にファードの声が聞こえない」
「ああ、もちろんだとも」
 そしてカンナは目をつぶる。
 そして開いた時――どことなく、目つきが変わっていた。
「クルス、千獣……」
 カンナのからっとした声とはまるで違う、穏やかな声。
「カンナが来た……今日が……お正月、ですか」
「そうらしい」
 クルスは笑って言った。「相変わらず世事には疎いですねクルス」とファードがカンナの顔で優しく笑った。
「ファード……?」
 千獣は囁くように呼ぶ。母と慕う樹は微笑んで、
「いい気分ですよ。千獣」
 と言った。
 千獣はほっとする。
 と、体の支配権をゆずって奥にいるカンナがファードに何かを言ったらしい。
「このジュースをですね。はい、今年も頂きます、カンナ」
 一升瓶をクルスが開けた。そして、カンナが用意していたコップに注ぐ。
 ファードはコップを持ち上げ、口をつけた。
 ゆっくりと飲んで。
 そして柔らかく、笑みを作る。
「ああ……カンナのジュースは美味しいですね……」
 ――ファードは樹の精霊だけに、水分が好きなのだ――
 千獣はそれをよく知っている。ジュースをもらって、ファードがどれだけ喜ぶだろう。そう思ったら、“美味しい”ジュースを持ってきたカンナが少し羨ましかった。
「ライチ、というのですか、カンナ」
「この味は、“甘酸っぱい”というのですね」
「新しく学びました……」
 そしてカンナに促されたのか、ファードはライチジュースの入ったコップをクルスや千獣に渡そうとした。
 クルスは千獣に、「飲んでごらん」とコップを渡す。
 千獣はこくんとうなずいて、一口飲んだ。
 ――これが“甘酸っぱい”?
 林檎を食べた時と同じような。でもちょっと違うような。
 不思議、不思議とちょこんと首をかしげていたら、横から「僕もちょっともらうよ」とコップをさらってクルスも飲んだ。
「――ああ、ライチってこんな味だったかな。久しく食べてない」
「そうなのですか?」
「街には今の時期出回ってたかなあ……」
 一升瓶からコップに注ぎ足し、クルスは千獣に戻す。
 千獣はちょっと迷ってから、ファードに渡した。
「あら。ありがとう、千獣」
「ううん……」
 千獣はちょっぴり微笑んだ。「ファード、が、嬉しい、なら……」

 その時、千獣は考えもしなかった。
 カンナという女性が、何故こんなにもファードに入れ込んでいるのか――を。

 ++++

 騒ぎが起きたことに、気づいたのは、クルス、千獣、ファードとまったく同時だった。
「……誰か森に入ってきたな」
 クルスの声が低い。どうやら知っている人間ではないらしい。そして、友好的でも。
 千獣は耳を澄ます。彼女の聴覚はなみなみならぬものだ。ここから森の出入り口までくらいの音なら――聞こえる。
 急に、
 うっとうめいて、カンナが――いや、ファードが体を折った。
「ファード……!」
 千獣はファードを抱きとめた。
「どう、した、の! どうし……」
「な、何でも、ありま――」
「痛いんだよ!」
 唐突に声が戻ってきた。この調子はカンナだ。
「誰かが――思い切り痛いことをしたよ! ファードが――痛がっているよ!」
「―――!」
 クルスがばっと新たな気配のする方向へと走りだした。
 千獣はその後を追った。
 何事あれど、ファードを傷つける存在は許さない。
 少女はその一心で。そして青年も、おそらく同じで。

 森の出入り口にいたのは、見知らぬ男が5人。
 斧やナイフを持って、森の近場の樹を切りつけていた。
 千獣は大きく目を見張った。ファードは森自体を司っているのだ。森のどの樹を傷つけられても彼女には痛みが走る。
 しかし男たちは、たった今傷つけた樹から流れ出る樹液を採り、
「これでいいのかねえ。噂の万能薬?」
「こんなに簡単に採れるものだとは思いませんが……」
「はっ。この森にいるっていう人間に聞きゃいいじゃねえか。力にものを言わせて――」
「……それは万能薬ではないよ」
 低く、低く。
 言いながら、クルスは男たちの前に出た。
 銀縁眼鏡を押し上げながら、
「残念なことだね。万能薬などこの森にはない」
 言い放った。
 ガハハ、と一番大柄な男が斧を手に笑った。
「馬鹿を言え! この森の薬で助かったってぇ人間は多いんだ。隠したって無駄だぜ!」
「あなたがこの森唯一の人間ですか」
 小柄で、ナイフしか手にしていない理知的な顔立ちの青年が言う。ちらりと千獣を見て、
「……随分不気味な人間までこの森にいるんですね。知らなかった」
「不気味とは失礼なことだ。女の子に向かって」
 しかし今の千獣はそう言われてしまっても仕方がなかった。
 全身から――抑えきれない殺気。男たちに叩きつけたら、それだけで男たちが息絶えそうな、それほどに膨れ上がった心。
 しかしその小柄な男は平気で前に出て、
「実は自分たち、事業に失敗しましてねえ」
 とクルスに向かって語り始めた。
「………」
 クルスが目を細める。
「借金取りに追われ。このままではろくに食べることも出来ず。死んでしまうんですよ」
「………」
「いやはや人間、死にたくはないものです。そこで、こちらの樹液の噂を耳にしましてね」
「………」
「……どうですか、儲け半分。半分こで。それで充分、自分たちも生きていけますのでねえ」
「………」
 つらつらと感情のない言葉を連ねる青年の後ろでは、いかつい男たちがぼきぼきと拳を鳴らしている。
 クルスはゆっくりと手を掲げた。
 千獣は思った。――クルスがやることはない。
 クルスがやるまでもない。あんな男たち私がやる。どうしてやろうか、ファードの一部のようにしっかり傷をつけて追い払ってやろうか――
 おしゃべりな男はにっこりと笑った。
「いかがです? いい話でしょう」
 クルスが指を鳴らそうとし、
 千獣の殺気が爆発的に高まって、
 そして2人の心が破裂しそうになった時、

「あんたらなんかにやるもんか!」

 背後から大声が聞こえてきた。
 はっと、クルスが振り返る。千獣の殺気も散らされた。
 いつの間にか背後にはカンナがいて、
 斧を持ったカンナがいて、
 小柄な体でクルスや千獣を通り越し男たちに向かって斧を振り上げた。

「ファードの大切な――体、傷つけさせるもんか!」

 森の小屋には1本だけ斧がある――
 それを思い出し、千獣は戦慄した。いけない、カンナを止めなくては。
 今のカンナの中にはファードがいるはず。ファードが無理やり体の支配権を奪えばカンナの動きは止まる、けれど止まっていない、それはカンナの想いが強すぎるということ。
 カンナは男たちに向かって、無茶苦茶に斧を振り回した。男たちは突然の老婆の強襲に、驚いて逃げ惑った。
「カンナさん!」
 クルスがぱちんと指を鳴らす。カンナの動きが束縛されたかのように止まり、そしてクルスたちの方へ引きずり戻されてくる。
「放しなよ! ファードの敵はあたしも許さない! ファードの敵は……!」
「カンナさん落ち着いて」
「落ち、着い、て……」
 自分のことはつい棚にあげて、千獣はカンナの体を抱きしめる。
 中にファードがいる。ファードに……
「ファード、に、人……傷つけ、る、こと……させちゃ、だめ……」
 はっと、カンナの反抗の気配がやむ。
 カンナは泣いていた。
「許しておくれ……許しておくれお嬢ちゃん」
 クルスが束縛を解いたらしい、カンナは動いて、千獣の手を握った。
「あたしは昔、ファードの樹液で娘を助けようとした……許しておくれ」
「………!」
 千獣は思わずばっとカンナを振り払った。カンナはどさっと地面に倒れる。
「ファード、を、傷つけ、たの!」
 怒鳴る千獣。怒りに火がついた。
 顔面に砂をつけながら、カンナは嗚咽をもらしている。
「なんでえ、やっぱり万能薬はあるんだな」
 戻ってきた男たちがにやりと笑った。「まったく婆さんには驚かされたぜ。しっかし、婆さんにはやって俺らにはくれねーってのか」
「………」
 クルスはカンナを抱き起こしながら、ちらと男たちの背後を見やった。
「……早く帰った方がいい」
「ああん? せっかく今なら、儲けの半分やるって言ってるんだぜ? 半分だぜ半分。すげえ妥協じゃね?」
「……早く帰らないと、キミたち借金取りに追われるどころじゃなくなるよ」
「ああん?」
「まだ気づかないのかい。……気配には無頓着なんだね」
 はっと、一番小柄なおしゃべり青年が背後を向いた。そして真っ青になった――
 千獣はまるで今まさに突然現れたかのようなその大量の気配に、驚いた。
「ファードを、傷つける……?」
 誰かの低い声が聞こえる。
「冗談じゃないわよ!」
 誰かの甲高い声が聞こえる。
「ただの金儲けのために、奇跡の樹を傷つけるですって!?」
「何という愚か者だ!」
 男、女、若者、老人、ありとあらゆる、
 10人、いや20人を超す人数の街人たちが――
 否、森周辺の村人たちまでもが――
 まるで森に来た時のカンナのように、風呂敷包みや道具袋を抱えながら、男たちの後ろに立っていた。
 なぜか着飾っている女性が多い。化粧をしたその美しい顔を、鬼のような形相にして。
「帰りなさいよ! あんたたちの顔は覚えているけどね!」
「いや、今すぐ官憲に突き出してやるさ!」
 血気盛んな若者が自分の荷物を置いて男たちに飛びかかろうとする。
 男たちは反抗しようとして――体が動かないことに気づいた。
 気づけばクルスが、すっと男たちに掲げていた手を下ろそうとしていた。
「忘れるな。この森を傷つければ、この僕と――この森を愛する者たちが許さない」

 ++++

「あたしは、クルスに散々怒鳴られながらもすがった……」
 ファードを本体の樹に戻した後、ファードの樹を見上げながら、カンナはつぶやいた。
「娘が重態なんだ、どうか助けてほしい、お願いだから薬をくれって……ね」
 たったひとりの――子供だったんだ、と。
 千獣は黙って聞いていた。
 たった1人の子供。その子供が今にも死にそう。それはどんな気持ちなのだろう――と、おぼろげに思いながら。
「クルスは……樹液をくれたよ」
 うつむいた森の守護者は、そっと癒しの樹の幹に触れる。
 ――ファードにナイフを入れることが出来る、たった1人の存在。
 今でも、ファードの樹液を採る時には涙を流す……彼。
「でもね」
 カンナは胸に手を置いた。
「……間に合わなかったんだ」
 千獣は目を大きく見張った。
 ではファードの痛みはどうなる? クルスの痛みはどうなる?
 カンナの……苦しみはどうなる?
「あたしの娘は死んだ……」
 カンナの言葉を、後ろでたくさんの人間が聞いている。
 各々に、何かを思っているかのような顔で。
「……娘の葬式が終わってからファードの元へ、来た。クルスが、ファードの姿を見せてくれた」
 ――擬人化<インパスネイト>。
「ファードはね。たまらず泣いて許しを乞うたあたしに向かって、こう言ったんだ」

『私も泣きたい』
『あなたとあなたの娘さんのために泣きたい』

「でも泣き方を知らないのです――って、言う、から」
 その時。
 初めて、ファードを体に宿した。
 そして、彼女を傷つけたことへの罪悪感はいっそう深くなり――
 彼女の優しさをいっそう深く知り――
 ファードを宿したまま、泣いた。

「それ以来ね……。ファードを、娘代わりに大切にしようと決めたんだ」
 言って、カンナは苦笑した。
「自分勝手だねえ……自分だって傷つけた相手を、傷つけることはもう許さないなんて決めるなんて」
 ああ。
 本当に自分勝手。
 だけど。
 そんな人間の矛盾した心を、ファードという精霊は受け入れるのだろう。

 クルスは千獣の肩を抱いて、「今来てくれたみんな、全員――」と背後を向いた。
 20を超す視線がある。まっすぐにファードを見上げる者もいれば、苦しげに、悲しげに見る者もいる。
「……全員、一度はファードの樹液を欲しがった人々だ」
「………!」
「樹液で助かった人もいれば、カンナさんと同じ結果になった人もいる」
 千獣は彼らを凝視する。
 千獣の視線に気づいて、彼らは視線を下ろし泣きそうに微笑む。
 彼らは何を思う?
 彼らは何を思う?
 今はファードを傷つけるなと叫ぶ、わがままな彼らは。

 カンナが、ファードから一歩退いて、樹を仰いだ。
「お正月、だよ。ファード……」
 優しい……優しすぎる声音だった。
「新しい年が来たよ。……でもね」
 あたしたちの心は、これからも変わらないんだよ――

 横顔が見えた。
 老婆の横顔が。
 疲れ果てているようにも見えず。
 悲しみにくれているようにも見えず。
 しっかりと、精霊を見すえている、その。

 千獣はクルスの腕の中に顔をうずめた。
 訳が分からないまま、彼女も震えていた。
 青年はそっと、少女を抱きしめる。
「人間というものの心……もう少し、知っていけるといいね」
 囁く彼の声に、千獣は小さくうなずいた。

 もしもこの森から夕陽が見えたとしたら、
 きっと老婆の横顔は、夕陽に照らされて、――……


 【終わり】

 ■■■

「―――」
 書きあがった原稿を、ゆっくりと読み上げてもらった千獣は、うつむいた。
 千獣が出演しているところはフィクションだが、他はすべて真実、とある正月にあったことだとクルスが言った。
「正月か」
 クルスは改めて腰に手を当てる。「カンナさんはもう亡くなってしまったんだが」
「!」
 千獣はばっと顔を上げた。
 クルスは微笑んだ。
「それでもカンナさんのように、正月に挨拶に来てくれる人は多いんだよ」
「あ、じゃあ私にもおせち料理分けてください!」
 1作書き上げた疲れを感じさせず、ミナははいはいと挙手をする。
「はいはい。――ああ、噂をすればなんとやら」
 千獣の耳も聞き分けた。
 森に複数の足音が聞こえてくる。敵意はない。たくさんの荷物の気配がする。
 ああ、持つのを手伝いに行かなきゃ――
「出迎えに行こうかな。千獣、どうする?」
 問われて、千獣は一も二もなくうなずいた。

 小屋の外へ出ると、森の木々の梢が柔らかく揺れ。
 失礼するぞー! と元気のいい声が聞こえてくる。
 千獣は飛び出した。わがままな、けれど自分と同じ心を持つ者たちに、初めましてと言うために――


 ―FIN―


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■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■
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【3087/千獣/女/17歳(実年齢999歳)/獣使い】

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■         ライター通信          ■
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千獣様
いつもありがとうございます、笠城夢斗です。
今回は謹賀新年ノベルにご参加くださりありがとうございました……ってとうの昔に新年終わってしまいましたが;
申し訳ございませんでした!
何にしようか迷いましたが、結局ファードにまつわる話となりました。
こんなこともあったんだなと思ってやってくださいませ。
また次回、お会いできますよう……
HappyNewYear・PC謹賀新年ノベル -
笠城夢斗 クリエイターズルームへ
聖獣界ソーン
2008年02月20日

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