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『遠き夜に雪さやかに降り積む 』
榊・紗耶1711)&榊・遠夜(0642)&(登場しない)

 じわり、と。
 インクが滲む様に、榊遠夜の意識は覚醒した。
 瞼を開いた、という意識もないままぼんやり見えていく世界は、何時か何処かで見た覚えのある真白。足の裏に感触を得るに至って、遠夜は己が立つ場所を理解した。

 ────ああ、此処は、夢だ。

 自覚した途端、視界が明瞭に開けた。
 白い世界は“部屋”の形をしていた──と認識したのは、窓があったからだ。四角く切り取られたそこだけが漆黒に塗り潰され、どうやら今は夜、星さえ見えぬ闇夜らしい。
 と、その黒の中を音も無く落下していく小さな白があった。
 何だろうと瞬きすれば、それが淡雪であることに気がつく。まるで花弁のようにひらりはらりと絶え間なく落ちていく雪、それを自分の夜色の瞳が映す。
 その視界の端。窓辺に佇み外を眺める少女の姿を見とめると、自分の鼓動はトクン──波打った。
「紗耶」
 一瞬の躊躇いを呑み込んで、彼女の名を、半身たる妹の名を呼ぶ。
 闇色の衣に身を包む彼女は肩越しに振り返り、喜も哀も色に表れぬ、清水の様に澄んだ穏やかさを声音に湛えて、
 ──兄さん。
「初雪だね、兄さん」
「……ああ、雪だ」
 答えると、彼女は少しだけ微笑った。


 暦の上では春となった今日に漸く、今季最初の雪が東京の街に降り積もった。
 自分は窓辺に歩み寄り、紗耶の隣りに並んだ。そして彼女にならって外を見遣る。

 静かだった。

 彼女は深い眠りの淵から、自分の夢にまで渡って来てくれたのだと、ふと思う。
 彼女が普段居る場所はもっと静寂に満ちているのだろうか。彼女以外誰もいない、誰かに触れることすら叶わない、音もない、色もない、悲しみも苦痛もたった独りで引き受けるしか術のない、そんな場所なのだろうか。
 まるでこの、雪の降る夜の様な。


「彼女は元気?」
 不意に、紗耶が外を眺めたままで言う。
 突然問われて驚いたが、“彼女”が誰であるかは容易に見当がついた。というか、一人しかいない。
 なのでこくんと首肯する。紗耶はは、ほんの少し口許を緩ませる。
「そう。なら、兄さんも大丈夫だね」
「え?」
「きっと彼女がついていてくれる」
 さらりと言ってのける妹に、自分は複雑な感情を覚えた。
 彼女は決して的外れなことは言っていない。むしろ当たっているのだと思う。
 今日も“彼女”に世話を焼かれた。寒い日だから身体を冷やさないようにと、いつも以上に気遣われた。
 それは自分にとって快い干渉で、他者と深く関わることを恐れる臆病な自分の心に、あの人は温かな指先でそっと触れてくる。触れられたその場所からじわりと熱が移り、いつしかそれは、自身の心が孕む熱となっていく。

 この熱は、ある意味で恐怖の種であり。
 ある意味で、自分の知らない花の芽吹きでもある。

 だから、“彼女”の話をされて感じるのは甘いような苦いようなもどかしさ。それが喉を塞ぐようで、息苦しいようで、ため息を吐き出す様にしてぽつりと呟いた。
「わかったように言うんだな」
「……それは少し、違う、かもしれない」
「違う?」
 意外にもあっさりと否定されて眉を寄せれば、彼女は何故か表情を曇らせ──多分、困惑していた。
「そうであればいいと、私が、願っているから」
 窓に置いた彼女の指が曲がり。
 カリリ、と硝子に爪を立てた。





 “彼”と一緒に景色を見た。
 春の花咲く、また散る景色。夢の世界にのみ生きる自分には本来見ること叶わない、命の景色を。

 何故自分は、あちらの岸辺へ寄る術を得てしまったのだろう。彼岸とも言えるこちら側で、ただ夢という朧な世界のみに魂を住まわせている自分が、どうしてまた此岸と言うべきあちら側に身を得るようになってしまったのだろう。
 恨み、ではない。むしろその逆。
 だから、怖い。
 自分は“願い”始めている。こうしたい、こうであればいいと、闇に閉ざされたこちら側では持つはずのない、
 希望、を、
 確かに胸に宿し始めているのだ。

 まるで、ショウの観客が、その演者たらんと切望する様に。
 舞台へと続く階を、渡ってはいけないと知っているのに。





 もし、もしも。
 あの日の災禍を身に受けたのが自分であったら。
 彼女は、自分と同じ様に熱を得たのだろうか。

「紗耶」
「なに、兄さん」
「寒くないか?」
「ううん。兄さんの夢は、私に温かい」
「けど、雪が降っているから」
 硝子に添わせた彼女の手に、自分のそれを重ねた。指の間に指を差し入れ、きゅっと握って包みこむ。
 幼い頃は同じ大きさの紅葉であった掌、今は幾分か自分のほうが大きい。彼女の五指は白く細く真っ直ぐで、爪も桜貝の様な淡い桃色。自分も男としては華奢なほうかもしれないが、それでもこうして並べて見てみれば、節の太さや骨の形が少女のそれとは比すべくもない。
 共に鎌倉で過ごしていた頃には同じ姿であった彼女と、今は──いや元より、別の身体で生きているのだということをまざまざと思い知らされる。
「兄さんは、温かい」
 閑寂たる白い部屋の空気を、彼女の声が震わす。まるで琴を弾く様に、玲瓏に。

 ────温かい、か。

 彼女はそう言うけれど、自分にとっては彼女のほうにこそ温もりを感じる。
 彼女のほうが、自分を温めてくれる。
 今も、昔も。

 あの日から一度も、自分を責めない妹。
 元凶である半身を、赦し続ける片割れ。

 もし、もしも。
 夢の世界を彷徨うのが自分の宿命であったならば、彼女は陽の当たる世界で誰かを見つけられたのか。
 あの日運命が、闇に突き堕とす相手を間違えさえしなければ、彼女は。

「兄さん」
「ああ」
「彼女も、温かいかな?」
 “彼女”の面影が脳裏を過ぎる。
 逡巡しながらも、自分は答えた。
「そうだね。……触れたら、きっと」

 ────おまえも、僕のように、
 想う相手を、見つけられたのかもしれないのに。





 “彼”に一度、抱き締められた。
 春の花舞う、また踊る景色。夢の世界でただ独り生きる自分には本来感じること叶わない、彩り豊かな景色の中で。

 闇色の夢の内に囚われてからずっと、過ぎ去りし日々を眺めて暮らしていた。
 兄と手を繋ぎ縁側に座る幼い自分、父に抱かれて安らかに死を待つ自分。薄紅色や蒼色、柔らかな日差しに煌く夏の光、春の微風、灼けた空気。
 数々の想い出は淡雪の様に降っては落ち、落ちては消えて、遣る方ない寂しさと切なさとをひと時慰める。決して積もらぬ儚さだけれども、自分はそれでいいと思った。

 紗耶。 紗耶。

 だって兄はいつも自分を呼んでくれていた。この虚空に響く一番愛しい音が、兄の声だった。

 ごめん、紗耶。ごめん、僕を責めて、赦さないで。
 さや。 さや。

 その懐かしい声に恋い求められるだけで、自分は幸福だった。
 ……なのに。

『 紗耶さん 』





「兄さんは、明日を望むことが、ある?」
 突然投げ掛けられた問いに遠夜は些か驚く。
 見れば、紗耶自身も口をついた言葉に戸惑っている様で、つまり今の問いかけは彼女の無意識から零れ落ちたものだと知った。
「……無かった」
「無かった?」
 反復した彼女に、頷く。
「朝陽を浴びて目覚めることが苦しかった。どうして僕は今日を迎えることが出来て、紗耶は出来ないのかって……赦せなかった、自分が。紗耶に謝れる力も無い自分が嫌だった、救えない自分を恨んだ、夢から醒め起きて着替えて食べて昨日と同じ道を歩いて人と話して普通に息をして、生きて」
 連なる言葉が息を詰まらせる。熱のこもり過ぎた語尾を一度区切って、奥歯をぐっと噛み締めて。
「責められずに生きている自分が明日を望むことは、罪悪だと感じていたよ」
「……兄さん、それは」
「でも、」
 彼女のほっそりとした手を握る力が、無意識、強まる。爪を立ててしまったことに気づいて慌てて離すと、今度は逆に彼女から手を掴まれた。
 掌と掌を合わせた格好で指を絡め、今日、初めて向かい合った。闇に水銀を流した様な彼女の瞳に、雪ではなく、自分が映っているのが見える。
「──でも?」
 促されて、一瞬後悔する。
 彼女に言ってしまっていいのか。自分が苦しめている最愛の半身に告げてしまっていいのか、自分を慈しみ愛してくれる彼女に──ねえ紗耶、おまえを前にしておまえの瞳の中にいるのに、僕はおまえ以外の面影を胸に抱いている。あの少女の笑顔も自分を呼ぶ声ももう記憶から消せない、僕が想っているのはもうおまえだけなじゃない、彼女のことを考えている、彼女がこの世界で生きている、だから、紗耶、だから僕は。

「……でも、今は、望むよ」

 鼓動が、速かった。
 吸う息も吐く息も胸に痛くて、俯いて。
 けれども、最後までと口を開いた。
「朝を迎えて、逢いに行きたい人が、いるんだ」
「……うん」
「ごめん…ごめん紗耶。僕こそが、紗耶の運命を甘受するはずだったのに、僕は、勝手に」
「兄さん」
「勝手に、紗耶を置いて、一人で、大事な人を、紗耶以外の人を、紗耶、ごめん、紗耶」
「兄さん」
 指先が、頬に触れた。
 彼女のひいやりとした指先が、眦をつうとなぞる。
 顔を上げたら──抱き締められた。
「……泣いているのかと思った、私のために」
 肩口に彼女が頬を擦りつける。
 背中に回された腕は親鳥が雛を守るかの形で自分を抱き、彼女の熱や匂いやそれから多分想いといった優しく柔らかいものに、今自分は包み込まれているのだと感じた。
「でも、よかった。涙、零れてなかったね。
 よかった、兄さんが哀しみだけじゃない感情を、抱くことが出来て」

 ──── よかった 。

 彼女の抱き締める力は決して強くなかったけれど、自分は胸が詰まって呼吸がうまく出来ないでいた。空になった両手は脇にだらりと下がり、指先まで痺れて動かすこと侭ならない。
 彼女の言う通り目許も頬も乾いていて、零れる雫は確かに無かったけれど。
 自分は多分、泣いていた。
 その理由を自覚したら、ようやく腕が持ち上がり──彼女を、妹を、魂の片割れを。
「さや」
 紗耶の身体を、ぎゅっと、胸に抱くことが出来た。

「紗耶、ごめん」
「ううん」
「紗耶を護りたかった。……護りたい」
「ありがとう、兄さん」
「さや、さや」
「兄さん」

 腕の中で、一瞬、彼女が震えた気がした。

「……私も、望んでいるの」





 “彼”と、また、会いたい。
 話をしたい、同じものを見たい。
 陽の光に照らされた蒼穹を仰ぎ、
 舞い散る茜色の木の葉を目で追い、
 深々と降る粉雪を彼の肩越しに眺め、
 そして緩み始めた寒さの中、芽吹く初春の花を共に見つけたい。

 目を覚まして、この永い夢から醒めて。
 あの人に、逢いたい。

 ──── 私は、明日を、望んでいる。





「私の世界には、兄さんの声だけがあった。兄さんが何処にいても、兄さんが私を呼ぶ声だけは聞こえていた。
 それが私の世界に満ちる音の総てで、兄さんに呼ばれる名が、夢に彷徨う私の名前だった」
 でも、と紗耶は言った。
 腕の中で小さく、首を打ち振った。
「でも、今は、違う。あの人が私の名を呼ぶ、その声が暗い昏い夜の底にいる私の耳にも届く。
 兄さん、私も同じ、兄さんと同じ。望んでいる、明日という日を」
 告げられた言葉に、遠夜の鼓動は一瞬時を止めた。

 (もし、もしも)
 (彼女が、自分と同じ様に熱を得られたなら)

「紗耶にも、逢いたい人が、いる?」
 微かに震える声で問えば。
 彼女は、躊躇しながらも頷いた。
「……私にも、逢いたい人が、いる」

 言葉が意識に染み込むまで少し時間がかかった。
 初めはぼんやりとした靄の様な、しかしそれは徐々に形を為して枝に葉に、やがて意味という花が咲いて、結実し。
 ────ああ、と天を仰いだ。

 紗耶にも。
 紗耶にも、逢いたい人がいる。

「だから……怖い」





 私のために、苦しんでいる人がいた。
 音も無く降り積もる雪の様に深々と、密やかに、ただひたすら自らを責め抜いている愛しい人がいた。
 苦しまないでと私は呟く。貴方のせいじゃない、貴方を恨んでなんていない。
 ────……むしろ、責められるべきは、私のほう。

 私を両腕に抱いたまま、逝った人がいた。
 地に落ちて消えてしまう雪の様に儚く、呆気なく、そのくせ私を連れて行ってくれなかった大事な人がいた。
 溶けることも出来なかった根雪は暗闇の中取り残され、遠ざかった春に涙を零す。
 早く、早く私を溶かしてくれればいいのに。
 愛しく大事な人たちを苦しめ、命まで奪った私の痛みも生もすべて、終わらせてくれればいいのに。

 そう望んでいたのに。
 私は、溶けぬ身のまま春に包まれた。
 彼と一緒に、花を見て。
 彼の創り出した命の色を見て。
 彼に、抱かれて。

 ────……私は、だから、怖い。





「紗耶は、その人のことが、好き?」
 少し身体を離して、彼女の前髪に隠れた顔を覗き見る。
 答えあぐねているのがすぐにわかって、それは多分彼女が自身と向き合っているから。そう思い、口が開かれるのを促さずに待つ。
「……好き。そう、好き」
「好き?」
「……大好き、あの人のことが」
 ふわり、と紗耶の頬が笑みを象った様に見えた。
 しかしそれは一瞬でかき消え、悔いたかの表情に取って替わられる。
「でも……でも、それはいけない。私が願うのは、いけない」
「どうして?」
「好きだと思うと、逢いたくなる。逢って、触れたくなる。あんな仮初の姿じゃなくてこの、この掌でちゃんと、触れたい。目覚めて、あの人に、触れたい。
 ……叶うならば、夢から、醒めたい」
 でもそれは。
「出来ない」
 そして。
「……こわい」
 彼女が両腕で自身をかき抱く。ぎゅっ、と袖を握り込む。
「私が目を覚ましたら、起きてしまったら、また……誰かが傷つくのかもしれない」
「そんな、」
 遮ろうとした自分を、彼女は首を横に振ることで留める。
「良くないことが起こる、かもしれない。────起こらない、なんて、言えない」
 俯いた口許、語尾はか細く震えていた。
 自分の手を離れて独り苦悩する彼女の姿に、自分は距離を知った。自分が生きている世界と彼女が眠り続ける世界、その隔たり──距離。

 そして、知らなかったこと、を知った。
 彼女の想い人、
 だからこその、葛藤。

 責められるべきは自分、傷を負うべきはこの身。
 延々と苛み続ける自責の念は、ただ自分だけのものだと思っていた。
 彼女を救えたら、闇の淵から引き上げることが出来たなら。
 出来なくちゃ、赦されない。
 赦されない限り、自分は、永遠に、自分を、責めなくちゃいけない。

「兄さん……父さん、ごめんなさい」
 紗耶、ごめん。
「私は、目覚めちゃ、いけない……」
 僕を、赦して。




 雪。            白。

          雪。

    雪。

                雪。

 雪。

       白。            雪。




 深々と、降る、雪。
 遠く深き夜の中、さやかに音も無く降る、雪。




「紗耶」
 手を伸ばせば、彼女に触れられた。
 両手で肩を強く掴む。その力にか、びくん、彼女が肩を跳ねさせ顔を上げた。少し双眸を、瞠って。
「兄さん?」
「……こんな簡単なことなのに。紗耶にとっては、好きな人に触れることですら、難しいのだなんて」
「…………」
「紗耶、僕と紗耶は、二人だ」
 同じ胎から時を同じくして生まれ、別の身体を得て育った。
「それは、多分、この為なんだ。自分では自分に与えられない言葉を、互いにかけ合う為」
 すう、と冷えた空気を胸に吸い込んだ。凛としたものが身体を巡るのを感じ、それが、痛みに耐える強さを呉れた。
「紗耶が自分を赦せないなら、僕が……赦す」
 ずきり、と鼓動が悲鳴を上げる。
「ゆるすよ」
 責められるべきは自分苦しむはずは自分そんな自分が咎のない彼女のにこんなことを言う資格なんてないのに。
 でも。
「赦すから、自分が、悪いなんて思わないでくれ」
 彼女の瞳は、驚いた形のまま凍っている。ただ黙して雪を受け止め続ける夜の様に、漆黒に光を混ぜたその瞳を。
 見つめて。
「僕は紗耶を救いたかっただけなんだ。それはつまり、僕のエゴなんだよ。死んだ父さんもそうだったと思う。
 だから紗耶が、父さんや僕のことで苦しむ必要はないんだ。起きていい。紗耶の大好きな人に、逢いに行っていいんだ」
 肩に置いた手を持ち上げて、陶器の様に滑らかな頬を包み込む。
 白磁に似て、しかし温みがあるのは彼女が生きているからだ。命の明かりを胸に灯し、この先も歩んで、しあわせになる権利がある、人、だからだ。
「紗耶が目覚めることで何か災厄があるのなら……その時は、僕が全力で護るよ。もう昔の僕じゃない、同じ過ちは、繰り返さない。絶対に」

『紗耶さん』

「多分、紗耶が大好きな人もそう、言ってくれるのじゃないかな……?」

『紗耶さん』

「……さん」
 彼女が誰かの名を呼んだ、ような気がした。





 貴方に逢いたい、逢いたい、触れたい。
 ──── 愛しい、貴方 。





 二人で手を繋ぎ、窓の外を見ていた。
 雪は未だ降り止まない。夜もまだ、明けない。
 と、紗耶が、ぽつり。
「……はなのよう」
「え?」
「雪が……花の様に見える」
 ひらり、はらり、と。
 舞い落ちる白い淡雪は、いつか見た桜の花弁に似る姿。
 落ちても積もらぬ雪の白、落ちて積もるは花の白。
 花は、溶けない雪。
 想い出は、心に積もる花。
「花になるよ」
 遠夜が言うのを、紗耶は雪を眺めたまま聞く。
「紗耶がそうであればいいと願えば、そう、なるんだ」
「……私が、願えば」

 名残の尽きぬ手をどちらからともなく離し、遠夜はいつの間にか現れていた扉へ向かう。ノブへと手を置き、回す前に半身で振り返った。
 紗耶は窓を背にしてこちらを見ている。夢を渡る身の彼女は見送る側、目覚める自分は送られる側。
 見つめ合う二人の間に、もう言葉は要らなかった。微笑んだのも、二人同時だったから。

「紗耶」
「兄さん」
「……また」
「うん。元気で」


 遠夜の去った後の独りきりの部屋で、紗耶は開け放たれたままの扉を前に佇んでいた。
 遠夜はこれを閉めていかなかった。何処かへと──明日へと繋がる道は今、未知として目の前にある。
 そして振り返れば、窓の向こうにはやはり闇。しかし先ほどとは違う光景が目に飛び込んでくる。
 そう、雪は、いつしか、

 ────止んでいた。


 了

PCシチュエーションノベル(ツイン) -
辻内弥里 クリエイターズルームへ
東京怪談
2008年02月07日

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