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『魔を祓う者と、大蛇の許嫁 』
ソフィー・ブルック7344)&鬼山・真吾(7343)&(登場しない)

【scene ソフィー・ブルック 校庭にて】
 
 それは、遠い歴史の出来事だ。
 その歴史を紐解くように、記憶の中でページを手繰り寄せる。
 彼女の夫はかの悪名高き”デュポン”。百の蛇頭を肩から生やし、鋭い眼光から火を放ち、天に届くほどの体躯をしならせ、ゼウス達オリュンポスの神々に果敢な闘いを挑んだ。母ガイアの命を受けたデュポンはゼウスの雷霆(らいてい)をデュポンは自らの炎で受けて闘いの火ぶたを切った。
 その闘いは長きに渡り、死闘を繰り広げた二人は疲弊しながらも、お互いの攻勢を翻さず、その戦火はシチリア島全土にまでに及ぶ。空は黒々とした雷雲の轟音で響き渡り、島の海岸には大蛇がうねるが如く津波が押し寄せ、地が割れるほどの大きな揺れが何度も地上を襲った。やがて、二人は決着の時を迎える。ゼウスは鍛冶師であるキュプクロスゼウスから授かった雷霆の一振りを投げつけ、その紫電一閃はデュポンの頭を打ち、彼は地によろめき倒れる。背後にはあのエトナ火山。ゼウスは巨大なデュポンの体めがけて山ごと放り、デュポンを封印する。彼の体は不死身だと言われているからだ。
 デュポンには妻がいた。
 その名はエキドナ。半身蛇の魔物だ。
 デュポンとエキドナは気の遠くなるほどの歳月をそこで過ごすことになる。火山は今でもシチリア島で活動しており、その炎は、彼の放つ怨嗟の炎だと言われている。
 けれども、全ては歴史の出来事。そう、ルイス・キャロルの不思議の国のおとぎ話のように。本当のことかどうかは分からない。そんなものはとうの昔の人々がでっち上げた逸話の類であろう、と言う人がいるかもしれない。けれども、ソフィーとっては、嘘か真かはさしたる問題ではない。だからこそ、というわけではないけれど…。たぶん、彼女と夫の過ごした歳月、力に屈した彼を温かく迎え入れる優しさ、そういったものにこそ、何かしら強い意味がある、と思うのだ。自信はないし、それは精緻に描かれた歴史的記述から飛躍した私見、あるいは超がつくほど個人的な思い入れ、もしくは、ささやかで、お子様で、幼稚な妄想かもしれないけれど…。
 さて、と思い、本を閉じると拍子で額に張り付いていた花びらがふわり、と舞い降りてくる。上を見あげると、枝分かれした木々の隙間から漏れてくる黄金色の木漏れ日が頬を照らした。眩しい。満開の桜から離れた花びらが、ダンスをするように一秒、一秒、くるくると回りながら頬にまで降りてくる。目を擦ると、ほのかな甘い香りがした。背もたれにしていた桜の木の温かさを確かめるように、思いっきり背伸びをして、込み上げてくる欠伸をかみ殺す。それからはっとなって本に挟んであったものを思いだし、写真をページの間から取り出して、吟味するように確かめる。ソフィーの許嫁の写真だ。それまで撮られるということを意識していなかったせいか、ボクシンググローブを肩にひっさげ、歩いているところ急にこちらの存在に気づいたのか、シャッターはその瞬間きられ、斜に見あげるような角度で男の子の無愛想な顔が写真に収められている。アシンメトリーになった黒い髪と切れ長の目が特徴的で、シャープな顎のラインが彼の仏頂面と睨め付けるような鋭い目つきなど、もろもろの無愛想さというものをかろうじて、和らがせている感じだ。初めてこれを見たとき、あまりいい印象は芽生えなかった。というより妙な気分だった。どう形容していいのか分からないけれど、何か胸につかえるような、考え出すだけで頭が沸騰して今にも破裂しそうな、ほらもう、また頬も熱くなってくるし。彼の見てくれは格好いいんだけれど、それでも、やはり恥ずかしかった。何て言えばいいんだろう。だって、ソフィーは彼について親から何も聞かされていないんだ。父と母はいきなり入ってきて言うやいなや、突拍子もなく今日からお前の許嫁だ、なんて言うのだから……。
 どうしてこの男の子が自分の許嫁なのだろう。何で。どうして? 考えても始まらない気がするけど、どんな人かは興味がある……。たとえば、本は読むのだろうか、とか、どんな食べ物が好きなのだろうか、とか、男の子だから、きっと本なんか読まないんだろうけど……。 
「あー! もう!」頭を掻きむしり、膝に顔を埋める。「どうすればいいんだろう……」刻一刻と迫ってくるプレッシャーのようなものが、ソフィーの心臓の脈を高鳴らせ、それを抑えようにも抑えられず、行こうにもなかなか足が動かない。いつまでこうやって校庭の隅で、日向ぼっこしているわけにもいかない。けれども、このどこかの校舎できっと彼と会うんだろう。それは確実だった。そのためにこの日本に越してきたのだ。
「本当にどうしよう」そうひとりごちて、真っ赤に染まった顔を冷やすように、風上の花の匂いを嗅ぐ。会わせる顔がない。尻込みしたまま、こうして無為な時間を過ごしているわけにもいかず、お尻に張り付いた花びらを払い落として立ち上がる。大丈夫、大丈夫だから、そう言い聞かせて、頬を軽く叩く。うん、行こう。そう思った途端、校庭のベルが鳴った。
                                                                         
【scene 鬼山真吾】

 校庭に咲いた満開の花が、教室の窓から風に乗ってやってくる。その甘い匂いに僅かな空腹を感じながら、教師の口から垂れ流される、お経のような授業に耳を傾けつつ、睡魔に意識を引っ張られつつも何とか体裁だけ保とうとして、教科書を顔の前に置いているものの、さっぱり頭に入ってこない。上体を机に突っ伏して「鳥はいいな」とか、「空は気持よさそうだな」とか、いつも眠たそうに空を寝そべっている入道雲に羨望の眼差しをむけて、何をすることもなく、白昼夢の一時限目を何とかやり過ごすつもりだったが、ときおり後ろの女子達がお喋りしたり、意中の男子の噂話や、そういったものにばかりに自然と意識が移ってしまう。
 その噂話の中には、転校生のことも含まれていた。
「外国の人だってさ」
「帰国子女なの?」
「ううん、外国の人らしいよう」
 騒がしいな、と思いつつ、やはり噂話に興味が移る。外国人だって? どんな女子だろう、とぼんやりした意識の中で、その姿を思い描こうとするが、上手くいかない。真吾の頭の中では、洋物のスパイ映画に出てくるブロンドの女優や、化粧品のポスターに貼られているような素晴らしくスタイルのいい容姿ばかり目に浮かぶ。まさか女子高生でそれはないだろ……。と自分に言い聞かせながら、心もち頭の角を振る。どんな奴でも、たぶん、自分には無関係だ。いつだってそういった煩わしいものには距離を置いてきた。冷めているのだろうか? そう思ったことはない。ただ自然とそうなっていただけのこと。たとえば、相手の好意に反して、離れていったとして、それが相手の心を戸惑わせたとしても、真吾は自分の思うままを正直に表現した結果なのだ。離れようとした意識はもとよりない。にも関わらず、あまりにも、相手を困惑させてしまうことが多いため、なるべく相手を傷つけまいと、そうなる前に距離を置くようになってしまった。だから、たとえ会話の一つや二つ花を咲かせたとしても、きっと自ら身を引いてしまうだろう。妙なところで気を遣ってしまうのだ。だから、縁もへったくれもないだろう……。
「おーい、みんな、ちょっと聞いてくれ。紹介するぞ。よく聞いてくれ。いいか、ほら、みんな……聞け!」
 担任の魚田が教室に向かって叫ぶ。魚田というあだ名は、恐らく彼のしゃべり方が魚類の口をぱくぱくさせるところに似ているため、生徒達の間で勝手にそう呼称されている。要するによく喋るという意味だが、喋るだけではとくに害もないところも、彼がそう呼ばれる要因ではないだろうかと勝手に憶測している。
「いいか、あー、新しい転校生だ。みんな、いいか? あー、えーっと、そこ静かにしなさい。全く、いつまで喋ってるんだ。あんまり騒がしいと廊下に立たせるぞ、ほら、入ってきなさい。こら、騒がしいから静かにしなさい、そこ」
 どうも彼には静かにしろという言葉に説得力に欠ける。面子だけ保っているが、ほとんど効力のない叱咤というものは返ってその場の騒ぎに油を注いでいるような気がしてならない。
 やや遅れて教室の引き戸が開き、転校生が教卓の方へと寄ってくる。何が起こったのか、一瞬錯覚するくらい、空気が変わり、教室はざわめきや囁き声で包まれる。騒がしいな、と思いつつ、そちらへ意識が引き摺られる。
「紹介するぞ、ソフィー・ブルックだ」
 小柄の容姿に、流れるような金髪が颯爽と、魚田の傍で靡く。瞼を二回ほど瞬かせるとその場で「はあ」とか「すごい」とか、溜息混じりの感嘆のようなものがあちこちで漏れる。緊張しているのか、それともこの場の雰囲気に呑まれてしまったのかわずかに小声を出して、どうも、ソフィー・ブルックです、と名前を告げて、裾を持ち上げ、礼をする。あまり見慣れない動作に呆気に取られつつ、目のやりどころに困った挙げ句、顔を背けてしまう。想像していたものより違っていたものの、どうやら日本語は流暢で意思疎通はできそうだった。だからといって、話すとか、知り合いになろうとか、その気はまるでないのだけれども……。
 一瞬、盗み見るように、転校生の方に目配せをすると、まるで待ち構えていたように、真吾の方と目が合う。しまった、と思って慌てて目を泳がせてしまう。体裁だけ繕うように無関心を装うが、どうにも気になって仕方がない。何度か目を行ったり来たりさせているうちに、転校生が「あ」と声を漏らすのを聞いた気がして、何事かと思う間もなく、彼女が口を開いた。
「真吾、私の許嫁……」
 空気が固まる。
 確か、確かににそう聞こえたのだが、空耳か、あるいは過酷なボクシングの練習に疲労を重ね、激しい減量を行ってきたせいか、あるいは転校して間もなく彼女が突拍子もないことをたまたま喋ってしまったのか、もしくはとてつもない偶然に偶然が重なって起こった出来事とか、それとも天然の性格から発せられた意味のない戯れ言の類で、真吾には全く関係のないことのはずだ。つまり、傍観するのが吉で、この場を何とか凌ごうと思うのだが、如何せん、ソフィーと呼ばれた転校生はこちらを見て固唾を呑んだまま動かず、魚田も教室の生徒達も、明かな懐疑の眼差しで真吾だけを取り囲うように見つめていた。
「人違いだよな……?」
 まさかとは思うが、いきなりのことで状況が飲み込めず、軽いパニックに陥る。待て待て、許嫁だって? 何のことだかさっぱり分からず、軽く狼狽し、頭を振る。それから、真吾は辺りを見回して、クラスメイト達の白眼視を一瞥する。これは何かの手違いだ、何かの間違いだと自分を説得するのだが、それでも納得がいかず、いやいや、それはないだろ、とかマジで言っているのか、とか、否定する姿勢だけ見せるのだが、どうもそういう言葉や態度の類は何ら状況を一転させる効力を持たず、逆に虚しい響きだけを含んだまま、静まりかえった教室の空気を一層重たくさせるだけだった。
「ま……。まあ、とりあえず、そこに座れ、ソフィー」
 魚田が指差したのはこともあろうか、真吾の隣だった。ここまで来ると悪い冗談も度が過ぎるのではなかろうか。一体何が目的なのか、逆に勘繰り、転校生にその真意を質したくなる。しかし依然としてクラスメイト達の視線は、真吾とその転校生の動作に注がれ、まるでその視線の鎖で繋がれて金縛りにあったまま、疑念と緊迫の間で生殺しにされているような状況で、そんなこともできるはずがなかった。
「こんにちは」とソフィーは目で会釈し、微笑む。
「お、おう」
 後ろの生徒が「許嫁」と囁くのが聞こえる。体中が熱くなるのを感じながら、二時限目を迎える。それからというものの、教室の中の噂話は、その話題で持ちきりになり、授業に集中するどころではなかった。どうしてこんなことになってしまったのか、その経緯と理由を考えてみるが、全く心当たりもなく、転校生との接点も見つからない。
頬杖を付き、憤懣やるかたなしといった感じで、隣を見ると、ソフィーはあっけらかんとして、ときおり視線をこちらにやって、僅かに微笑んでくるものだから、その笑顔に、顔中、熱湯でもかけられたかのような熱さを感じて、顔を背ける。あるいは、こちらから、何とはなしに、どういうことなのだろう? と目線を送ってみるのだが、相変わらず罪のない笑顔は、沈黙を守ったまま、笑顔で応えるだけの繰り返しで、拷問のような授業が延々と続く。
 休み時間に入ると、一斉に獲物を見つけたかのような目で女子達が、ソフィーを取り囲む。
「すごーい、本当に金髪なんだ。」
「ねえねえ、どこから来たの?」
「スタイルいいね、身長いくつなの?」
「日本語うまいねー。勉強してたの?」
 その横で煙たがれる真吾は、横に追いやられ、女子達の騒ぎに耳を塞ぐこともできず、頭を掻きむしる。窓から見える空を見あげると入道雲が、そんな騒ぎなどつゆ知らずといった顔で通り過ぎていく。どうやら、今日は厄日らしい。はあ、と一息ついて、騒ぎが収まるのをじっと待つだけだった。それでも不思議と怒りとか、不安なものは感じない、どうしてだろう。確かに、転校生は、真吾のこの不条理な状況へと追いやった張本人ではあるのだが、彼女に罪はないような気がする。日本にやってきて、転校したばかりで気が動転しているのだろう。だから、あんなことを口走ってしまったのだ、と勝手に解釈してみるのだが、その様子からしてどうもそういうことではないらしい。逆に、どうして許嫁であるか、気になって仕方が無く、時期を計らって、そのことを訊ねてみたかった。
 休み時間も過ぎ、三時限目も、四時限目も過ぎ去った頃、ようやくやってきた昼休みに、真吾は、軽い疲労感を感じながら、教室を出る。すると後ろからあの転校生がついてくる。トレーニングでもしようかと思っていた頃に、この様子だと、それも叶わないらしい。追い払うことも、無碍に扱うこともできず、そのまま屋上へと向かうため、階段を登った。後ろをついてくる気配を背中で感じながら、屋上に入るために扉を開けようとすると、急に立ち止まったせいか背中に彼女の手がぶつかり、揺れるよう躓きそうになる彼女の手を捕まえ、こちらに引いてやる。
「大丈夫か?」
「あ、はい。アリガトウ」
 それから誰一人いない屋上に上がると一面青い世界が広がる、何一つない春の空が望めた。こんな日に限って厄介な物事を持ち込んでくるのだから、空にいる神様とやらも、気がきいていない。空の上にいるとしたらの、話だが。適当に座れる場所を探し、そこにどさりと腰を落ち着ける。転校生は、躊躇うこともなく真吾の横に寄り添うように座る。何か話題を持ちかけようかと思ったが、参ったことに話すことが見つからない。こういうとき、自分の不器用さを呪うのだが、何時まで経っても、そういった神経を使う細かさや器用さは身に付かない。翻って、有無を言わせない体力や無駄な力だけが身に付く。本当に参ったなと改めて、凝った首を回し、横を見ると、何やら嬉しそうに空を見あげている彼女がいた。何がそんなに楽しいのだろう?
「なあ、あのこと……」
「あ、お弁当あるの。食べますか?」
「あ、いや……。あのな、だから、あのことは……」
 まるで聞いていない様子で、何やらごそごそと包みを取り出すソフィーは、せっせと弁当の用意を始める。ボクシングの減量中だから、昼食を食べないことにしているのだ、と伝えようとするのだが呂律が回らず、いやいや、と首を振ってみせるのだが、当の本人は意図を汲み取れず、はい、あーんと、口を開けて、厚焼きの卵を箸で運んでくる。今どきそれはないだろ……。あまりにも古典的なシチュエーションに戸惑いつつも、目と鼻の先に運ばれた卵の甘い香りに、腹の虫が一斉に鳴きだしたかのような情けない音が漏れて、仕方なしに、頬張ることにした。
「ああ、うまいよ。ありがとう」
「どういたしまして」
「で、こういうのも何なんだけど……。いいなず」
 言いかけたところでまた、箸を運ばれ、否応なしに食べさせられる。今度はタコウィンナーだった。いや、美味いんだけど、それどころではない。咀嚼している間も、ソフィーは満面の笑顔を浮かべ、嬉しそうに、真吾を見つめてくる。一体何だというのだ、この転校生は。
「で……。」二つめ、三つ目……。ロールキャベツやらきんぴらごぼうやら、数々の運ばれてくる弁当のおかずと格闘しつつもやっと全てを平らげ、喋る時間を許された真吾は、ソフィーにその真意を質すことにした。
「許嫁って言ったな」そのことを言うと何が嬉しいのか、うんうんとソフィーは頷く。まるで件の許嫁発言は当然だと言わんばかりの勢いだ。気後れしつつも、諭すように続ける。
「これは何かの間違いなんじゃないか? 俺はお前の許嫁なんかじゃないし、ましてや、何も知らない。それをいきなりそう言われても正直困るんだ」
 そう言い終えると、やっとのことで胸のつかえから解放された真吾は、下を俯いて、彼女からの返事を待った。

【scene ソフィー・ブルック 学校屋上】

 ファーストコンタクトから、お弁当作戦は功を奏したように思えた。日本の文化に対する下準備もしたし、日本の男の子が、懇意にされている女の子からお弁当を作って貰えるのは好意の証である、ということは事前にリサーチ済みだった。出だしも好調だったし、笑顔も絶やさないよう努力した。こうやって二人きりになれて、恥ずかしいながらも、嬉しさが込み上げてきて、何もかも順調のように思えた。あとは、野となれ山となれ、である。
 腕を膝の上に置き、こちらに体を寄せる姿勢で、真吾は何かを告げるように、一息おいて、ソフィーの面を見る。こうやって相対すると、本当の恋人同士みたいで、とても恥ずかしかった。まさかとは思うけれど、機を見誤って突飛な行動をしたりしないだろうか。まだ会って間もないから、それはないと思うし、そういうことをするような男の子には見えなかった。見た目は無愛想だし、あまり丁寧な物言いではないけれど、根はとても優しいように思えた。さっき、躓いて転びそうになったとき、手を差し伸べてくれたし、きっと、許嫁として、あるいは将来の伴侶として、認めてくれるだろう。
「これは何かの間違いなんじゃないか?」
 そう切り出された言葉から連なる事実は、ソフィーの頭に重くのしかかった。俺はお前の許嫁なんかじゃないし。ましてや、何も知らない。それをいきなりそう言われても困るんだ。彼は心から困惑していた、その素振りや仕草は見ていなかったわけではない。気づいていなかったわけではない。でも、それ以上に舞い上がっていた。日本に来て、許嫁がいる、という両親の言葉に、愚直まで信用して、ここまで来たのだ。今更引き返せるはずもなかった。そう、そうだったんだ。彼は、このことをまるで知らされていなかったのだ。今まで、笑顔を振りまいて、いそいそと彼の心を掴もうと慣れない料理に苦心したり、日本のことを、そして真吾のことをもっと知ろうと、勉強してきた、数々の行動が頭の中に蘇り、全てが全て滑稽じみて見えた。何だ、そうだったんだ、知らなかったんだ。何て自分は馬鹿なことをしたんだろう? 勘違いに勘違いを重ねておまけに恥の上塗りまで犯してしまって、一体何をしていたというのだろう? 本当に馬鹿だ。何て、不埒で、幼くて、惨めで、情けないことをしでかしてしまったのだろう。後悔がさらなる後悔の呼び水となり、そのことは自然と胸が締め付けられるくらい、あるいはずたずたに引き裂くくらい、もっといえば、暴力的で、非情で、無情で、冷酷な仕打ちとなって返ってくる。こんなことになるなんて思ってもいなかった。
「何で……」自分の手が顔を覆っていた。流れてくるものを必死に抑えようと、躍起になり、顔を背けようとした。泣かない、泣いてはだめだ、そう自分を抑え込もうとすると返って溢れてくる理不尽な気持ちに、針を刺すように彼の言葉が続く。
「だから、許嫁だなんて言うな」
「でも、でも……」
「いいか。俺はお前の……」
 分かっていた。もう分かっていた。許嫁なんかじゃない。その言葉はソフィーのもろくなった部分に楔を差し込み、最後の一撃を下し、ばらばらに崩していった。気がつくと立ち上がり、その場から逃げだしていた。

【scene 鬼山真吾 学校教室】

 それからというものの、転校生は黙ったままだった。まるで、さっき起こったことが嘘だったかのように、あるいはそのこと自体、全てが白紙に戻され、何もかもなかったかのように、彼女は背筋を伸ばしたまま、真吾のことなど眼中にない様子で、授業に聴き入っていた。真吾は真吾で、久しぶりに食べた昼食のおかげか、長い四時限目と五時限目の間中、睡魔と格闘していた。気になることといえば、彼女の雰囲気や容姿といったものの類だ。その華奢な容姿は確かに魅力的ではあったが、何かが引っかかる。もっと根本的に通常の人間とは何かが違うのだ。真吾は退邪士の家系にあたる。だからこそ、人の見えぬところまで否応なしに見る場面に突き当たる。最近の例を挙げるならば、魔の土地に取り憑かれた女性の話だ。夜になると、誰かと誰かが見知らぬ人間と話す声が聞こえるという。話からするとその声は男のものだった。その依頼が舞い込んできたときには、すでに行動に出ていた。確かに、女性の背後に黒々とした影が確かに佇んでいた。顔半分は割れ、脳漿が丸見えになった影は、当時近くの団地に住んでいた不動産業を営んでいたという、四十代後半の初老の男だった。死亡したのは随分前だと、当人から聞かされた。全てが全て見えるわけではない、五感にはないもので感じ取れる部分だけ情報として得られる。何となく、そこに漂っては、消えてしまう者もいれば、人畜無害な人に取り入って、奸計を働く者もいる。そこで退邪が必要になる。鬼山の虚無僧である家系に生まれた真吾は、激しい気性の魔と対峙することも多々ある。それが件の男だ。不動産業はバブル時代に崩壊し直面し、地価は値を下げ、家族離散までに追いやられた。現世に相当強い怨恨を残し、自害したのだという。退邪に必要なのは強い精神と肉体だ。ボクシングを行うのも精神統一の業に打って付けだったからだ。彼は、女性の自我の半分を強引に奪い取り、生活の一部を破綻に追いやろうとしていた。強い怨みが、やり場のないエネルギーに変わり、彼女の体を容赦なく傷つけようとしていた。意識が無意識に変わり、普段覚醒しているはずの昼間にふと人が変わったように気性が荒くなったり、あるいは酷い抑うつ症状に悩まされたりするのは、大凡、魔に取り憑かれたりするせいだ。
 浄化には段取りは必要がない。それが真吾のモットーだ。悪さをする輩は、早々に現世から立ち退いてもらうのが一番良い。現世とあちらの世界には扉ともいえる溝がある。力業とも言えるけれど、拳でその扉を叩いてやれば、魔は安定を失い、こちらの世界にいられなくなる。
 逆に真吾はそういった魔を持つ者の傍にいると、その力を取り込むことも出来るようになっていた。危ないことだ、と父に咎められたこともあるが、意識無意識にかかわらず、やってしまっていることに、コントロールが効かない。返ってその危険性を認識している分、良いのだが、あまり魔の力に当てられていると、その世界に取り込まれ、その将来を廃人として過ごすこともあり得る。
 その力が、今、隣にいるソフィーに反応を示していた。両腕が疼いている。どういうことだろう? 魔とは違う、もっと強大な力に引き込まれている感じだ。その力に嫌悪感といったものは感じられない。むしろ異質であり、今まで感じたことのない種類の力だった。
 相変わらず素知らぬ顔で授業に没頭している様子のソフィーはそんな真吾の考えなどつゆ知らず、先ほどから、ひと言も口を聞かず、慣れない手付きで、ノートに筆を走らせている。まさかとは思うが、父によると、人に化けて暮らしている狸や狐の妖魔が人間社会に隠れて生活することがあるらしい。もしかすると、それかもしれない。特に人に危害は加えないものの、ときおりその生活に馴染まない者が犯罪に走ることがあるという。人としては野に帰すのが筋だろう、父に聞かされたときはそう思った。山や森が人間に破壊され、あぶれた者達がそうやって人に化けて生活する、そのこと自体は人間に非がある。けれども、慣れない人間社会との融和を無理に図ろうとすることもない。これは持論だけれども、互いの域を超えてまで、苦しむことはないのだ。
 そうこうして考えているうちに授業は終わり、ベルが鳴る。

【scene 鬼山真吾 鬼山家に向かう帰路にて】

 帰宅する準備も整ったところで、携帯電話が鳴り、電話に出ると相手は日本各地を飛び回っては長い間家を空けて三年ほど経つ父からだった。
『おう、元気か』
「あ、ああ、何?」
『お前、ひょっとして、すでに会ったのか?』
「は?」
『いやいや、会ってないならいいんだが、今日、うちにホームステイに来る子がいてなァ……』
 まさか、と思った。ここまで周到に、段取りが行われていたとは、思ってもみなかった。その真意を質そうと、自然と声が大きくなる。
「まさか、親父……」
『いやー、許嫁だって。参ったな。』
「参ったじゃねーよ。何勝手に俺の知らないところで話進めてんだよ……。だいたいあんたはいつもそうやって勝手に」
『まあまあ、いいじゃないか。いい子だぞ。お前のことは一目見て気に入ってくれたようだし、母さんもお前が、心を決めているなら、問題なしときたもんだ。よかったな! 真吾、これでお前も一人前だな』
「おいおいおい、ちょっと待てよ。お袋が知ってるってことは」
 あの弁当、どうもどこかで食べたことがあるような気がしていたが、まさかそこに絡んでくるとは……。いい加減うんざりして頭を掻きむしる。許嫁? あれは本当のことだったのか。だとすると、真吾は、彼女に酷いことを言ってしまったのではないか。待て待て、そもそも本人の同意なしに秘密裏に話を進めていた両親のせいではないか、一体何の瑕疵があるというのだろう。しかし、あのソフィーの態度の硬化具合からして、相当来ているに違いない。朝から転校生が来て、こうなるとは予想していなかったが、ここまで酷いことになるとは正直、今のところ退邪士であろう者が神頼みするしかなかった。
『んじゃ、俺は仕事があるからな。元気で』
「お、おい、待て。クソ」携帯電話が壊れるくらいフラップを叩く。どうしたらそういう話になるんだ。まさか身内が共謀して作った縁談だとは思いもよらず、舌打ちするしかなかった。これはもう肝を据えるしかない。さっきのことで怒らせたのかも知れないと思うとまた厄介事が増えたな、と思い、慌てて、出て行ったソフィーの姿を追う。

【scene ソフィー・ブルック 学校校庭】

 どこにも行くあてがなかった。両親はギリシャにいるし、飛行機でついた足でこの学校に来てしまったのだ。とりあえず、悲しい出来事も辛い思いでも、届かない、遠くへ行こうと思った。どこに行こうとも誰も咎めたりはしないだろう。ここ日本で、知人など一人としていないのだから。いつから間違ってしまったのだろう。許嫁と言い渡されたとうの彼は、まるでソフィーのことを知らないという。それはそれでいいのだ。けれども、その彼に煙たがれ、挙げ句に、迷惑をかけてしまった。そのことだけが唯一の心残りで、あとはもうどうでもよかった。とりあえず学校を出て、あとの自身の身の振り方は、当面、先送りにして考えようと思った。重たい足を引きずるように、校庭を後にすると、桜の木が、もの悲しい表情をして花を散らせていく。綺麗だな、と同時に、とても寂しい感情が込み上げてくる。ギリシャにはない風景だ。この桃色の花たちが散って、いずれやってくるだろう季節というものを重ねていくのだろう。夏はいつやってくるのだろう? そのとき自分はどうしているだろう? まるで未来の予想図が描けないまま、独りぼっちで、どこを彷徨えばいいというのだろう。
 ふと、音が消えたような気がした。
「待て、ソフィー」
 後ろを振り返る。彼が、肩で息をしながら、そこに立っていた。
「さっきはすまない。事情は親父に聞いた」息継ぎをするように、彼は大きく呼吸し、バッグを肩に引っ提げて、こちらに歩み寄ってくる。
「帰ろう、家に」ぐいと腕を掴まれ、半ば強引に校庭の柵へ連れて行かれる。それでも嫌ではなかった。何でだろう。こんな気持は初めてだ。
「名前……」思わず泣き出しそうになる。「名前、呼んでくれた。初めて」また顔を覆い、溢れてくるものを抑えなければならなかった。けれども今度は、嬉しさのせいだ。こんなに泣き癖がついてしまったら、この先ひ弱な人間だと思われるではないか。
「あ、ああ。悪い。こういう性格なんだ。だからもう泣くな」
「うん」
 桜が散るまま、二人は校庭を後にする。

【scene 鬼山真吾 鬼山家帰路】

 黄色信号から、長い赤信号へと変わる。会話することもなく、二人で横断歩道の前で待つのだけれども、赤信号の長い時間が、沈黙をそのまま映し出しているように思えて、何か話しかけようか、それともどこか暇つぶしになる喫茶店でも探そうか、思案するのだが、そんな都合よく場当たりの良い店を思いつく甲斐性など持ち合わせておらず、結局青信号に変わった途端、そそくさと歩き出していた。ポケットに手を入れて歩いていると、やや左を寄り添うようにソフィーがついてくる。目抜き通りを抜け、繁華街へと出る。パチンコ屋の、けたたましい電子音と、買い物袋に一杯の夕食を抱え込んだ主婦や、仕事帰りのサラリーマン、携帯電話で話ながら自転車に乗る学生達、そういったものとすれ違い、二人の間に守られていた沈黙も街の騒がしさや喧噪にかき消されていった。時折、その距離を縮めようと、小走りでついてくるソフィーも、真吾の仕草や態度にだんだん慣れてきたのか、調子を合わせるように歩幅を大きく空けるように、歩むようになっていた。
 思いついたように立ち止まる。
「なあ」
「あ、はい」
「気になることがあるんだけど」
「うん」
 興味津々といった小動物のような目をして、真吾の顔を覗きこむソフィーは、どうにも直視しがたい。相手の身長が低いせいか、近くの電柱に背中を預け、腕を組んでから、少し上から見下ろすような姿勢になる。そして、そのことを告げようか思い悩む。学校にいたとき程の力は感じなかったが、それでも、匂いで分かる。どうも異質な感じがこちらに伝わってきて、それが気になるのだ。それをどうやって説明したらいいのか。あるいは、彼女自身それを秘密にしておきたいのか、もしくは、真吾自身の勘違いということもある。まだ退邪士として修行中の身であるし、その勘が百発百中、というわけにもいくまい。もし、勘違いだとしても、自身の退邪士生業というものをいつかは説明しなければならない。そこには当然、危険というものも付きまとう。彼女にも家族はいるだろう、許嫁ならば、尚更、危険な目に遭わせるわけにはいかない。いずれにせよ、打ち明けなければならない重要事項だった。
「変わった話だと思ってくれればいいし、まあ、あんまり気にすることじゃないんだけど。」と前置きをおいて、説明する。彼女自身、それに気づいているかもしれないのだ。親父の話からして、お袋と接触済みであることは分かっていた。もしかするとすでに知っていることかもしれない。
「俺、少し変わった仕事をしてるんだ。それについて、クラスメイトに他言したことはないから。最初は驚くかも知れない。ウチがそういう家系だからさ、だから、もし何かあったとしても、その時は必ず、俺が」
 言いかけていた言葉が喉につかえ、それから、押し黙る。さて、どうしたものか。どうしてこういうときに限って口下手が災いするのか、要するに、守るから安心しろ、と言いたかったのだが、それがなかなか出てこない。不自然な物言いに、ますます、目を丸くさせるソフィーはじっとこちらを見つめて、動かない。いやいやいや、だから、と頭の中で説明の段取りをするのだが、その真意が伝わるのか、そもそも伝えられるのか、ということの自信がますます薄れていく。
「あー、だから、そのだ。とにかく何を見ても驚くな」何が何を見ても驚くな、だ。あまりにも無粋な言い方に、我ながら、情けなくなり、頭を掻きむしる。それを見たソフィーがふっと息を漏らして、口に手を当てる。
「面白い……。真吾」
「あ、ああ、そうだな。よく言われる」
 それを聞いたのがツボにはまったのか、お腹を抱えて可笑しい、可笑しいと口を漏らす。まあ、これでよしとするか。
 それから歩き出そうとしたとき、妙な感覚が脳裏に過ぎる。ソフィーの背中に手を当て、後ろに追いやり、その方角を確認する。丁度、雑貨屋とバーガーショップの間の、鉄製ダクトが突き出た小道の方だ。湯気に混じって黒い気配のようなものを感じ、そちらの方へ足を忍ばせる。ソフィーも気づいたのか、背後に隠れるようにそちらをしきりに気にしている。頭の中で危険信号がひっきりなしに鳴り響いている。指の先から痺れるような感覚が、じわじわと皮膚を伝わり、頭頂がひっぱられるような錯覚に陥る。いわゆる、危険な類のパターンだった。このまま逃げても良かったかも知れない。今、二人で近づいていってそれが、真吾の祓うべき魔だとしても、この状況で、人一人守る自信がなかった。
 黒い砂のような影が、横に退き、それから真吾達の背後に回る。どうやら複数いるらしい、それらしい気配があちこちから感じられる。どうする? このまま逃げるか、それともソフィーだけ帰すか。暫く思案し、口を開く。
「このまま帰れるか? 少し邪魔が入ったみたいだ」
「でも……」
「さっき言ったように俺には」
 そう言いかけたところで、酷い目眩に襲われる。足下がふらつき、その体を支えるように、ソフィーの手が、指先に触れる。大丈夫、大丈夫だ、いつも通りやれ、そう言い聞かせるが、体が上手く動かない。ここまで症状が出るとしたら、相手は相当強い魔の力を持つ者だ。逃すわけにはいかない。そのまま野放しにしたらいずれ、厄介なことを起こす。そうなる前に、仕留めなければ……。
「真吾、ダイジョウブ?」
「あ、ああ。平気だ」
 頭を抱え、壁にもたれかかかる。それでも目で、影を追う。こちらを伺うように、四方に散らばり、視界の隅から隅へと移動する。狙いは何だ? 通常の魔であるならば、滅多に複数で群れることはしないはずだ。というよりそれぞれの存在自体が独立しているため、よほど強い怨念や思いといったものがない限り、複数で現れることはない。影がまた一瞬揺らめき、まさか、と思い、横にいるソフィーに手を翳す。ひゅっと風を切るような何かが、額を掠め、それが刃だと気づいたとき、真吾は両手に力を込めて、手を組み合わせ、大きく呼吸し、退邪の力を発動させる。淡い紫色に染まった拳を突き出し、いつでも挑めるように構える。
「来るぞ、下がってろ」
 影が大きくうねり、その正体を現す。自らのエネルギーの大きさを象徴するかのような、黒々とした靄がその足下から立ち上る。怒りや怨嗟、不安と悲しみといった負の感情が影の坩堝の中でふつふつと煮えたぎっている、そんな感覚だ。銀色に煌めく刃が、真吾の左足を掠める。体を軸にして、影に蹴りをいれるが、物理的な攻撃は効かないようだった。続けて、退邪の力を纏わせた拳で、影の中央に一発入れる。その瞬間、堅い鉄のようなものに弾かれ、相手の力業に体ごと吹き飛ばされる。背中に熱いものを感じながら、視界の天と地が反転する。当たった部分のパイプが折れ曲がり、瓦礫の中で泳ぐように手をまさぐる。
「こんなところまで追ってくるなんて」ソフィーが険しい声でそう呟いた。何だ? この影は、彼女を追ってきたというのか。だとすれば、この地にはない力だ。やれるのか、やれないのか、そのことを考えている猶予もない。ソフィーを守らなければ。立ち上がり、もう一度退邪の力を発動させる。右のジャブから、左にステップを踏み、影の端を掠める。動きが速い。あっと言う間に背後に回られ、先ほどの力が背筋を直撃する。一瞬気を失ったかのように、頭の中が真っ白になる。痛みが脳髄を突き刺し、マンホールの上に俯せになったまま、血反吐を吐く。スリーカウントを取られる前に、何とか立ち上がり、構える。ソフィーと影が対峙している。その背後から、退邪の力をたたみ込もうとすると、動きが読まれたのか鈍器で殴られたような重い一撃が背後を襲う。くそ、相手は一人じゃなかったんだ。多勢に無勢だ。どうする? 真吾。弱音を吐くか? このまま尻尾を巻いて逃げ出すか? 頭が上手く回らなかった。背骨が折れたみたいにじわじわと痛覚を刺激する。神経を研ぎ澄まして、その痛みを抑えるが、直後、拳大の痛みが腹部を直撃する。痛みに堪えている暇もなく、次から次へと影の力が叩き込まれる。
「逃げろ、ソフィー」
 その時だった。火の粉が、蛍火のように辺りを立ち上り、ソフィーの金色の髪の毛が逆立つように靡く。影が赤い光に包まれる。轟々と風が巻き起こり、炎が立ち上る。彼女の影が大きくしなるように大蛇の形へと姿を変えていく。あの感覚、あの時感じた異質なもの、あれがソフィーの正体なのか。影が目の前で、ソフィーへとにじり寄る。何とかしなければ、あいつは――。
 拳から紫色の発光体が、ぱっと閃き、体中を覆い尽くす。体を熱く燃えたぎらせるその紫色の発光を拳へと移し、影の背後に叩き込む。拳が影の腹部を貫く。歪んだ影は、雄叫びをあげ、耳をつんざく奇声をあげながら、真吾の拳を跳ね返そうと藻掻く。それに負けまいと力一杯、拳を突き立て、影の力を押し返す。やがて影は藻掻くのをやめ、力を失ったように、黒々とした湯気を消散させ、最後の断末魔を上げながら――息絶えた。

【scene ソフィー・ブルック 路地裏】

 真吾がそこに立っていた。
じっとソフィーの方を見つめていた。大蛇となってしまった下半身の姿を彼に見られてしまったのだろう。その表情は堅く、無表情だった。息を切らせ、闘いを終えた彼は、ゆっくりとソフィーの方へ寄ってくる。
「ごめんね」
 そう呟く自分がいた。何故だろう。とにかく謝らなければいけないような気がした。日本に来てこんなことになるとは思ってもいなかった。彼にも沢山迷惑をかけてしまった。だから、もう傍にいられないと思った。きっと彼に嫌われただろう。こんな人間離れした姿を見られて、こんな酷い姿を彼に見せてしまって、だから、もう彼とは……。
「帰るぞ」
「えっ」
「親父とお袋に、俺の嫁さんを紹介しないといけないからな」
 気がつくと涙が頬を伝っていた。
 うん、うん、と頷きながら、彼の手をぎゅっと握りしめる。それから、デュポンという怪物がかつて存在したことを思い出す。彼にはエキドナという妻がいた。そう、怪物という名を冠せられた彼女の、悲しくも、遠い昔の出来事だ。春は、やがて夏へと変わっていく。
 桜を散らせながら。



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吟遊詩人ウィッチ クリエイターズルームへ
東京怪談
2008年01月31日

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