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『Turkish blood 』
アドニス・キャロル4480)&モーリス・ラジアル(2318)&(登場しない)

 会話はとうに絶え、二人の間には沈黙だけが流れている。
 アドニス・キャロルは、呼気に混じる酒精の甘さが心地よく、そっと満足の息を吐き出した。
 深夜近く、ホテル最上階に設えられたバーに客の姿は少ない。
 夜景を正面に据えられた席は、隣り合うモーリス・ラジアルとアドニスの貸し切り状態だ。
 夜の人々が営む時間と静かな音楽、そして瞬かぬ光の風景ばかりがある。
 都会の空に星はなく、月の存在感は元より薄いが、それが新月ともなれば尚更だ。
 今夜、天空に空いている筈の真円の虚は、地上の光に掻き消されて影すら見えない。
 だが、姿なくとも地球に最も近しい天体は、その満ち欠けでアドニスを支配する。
 七世紀を生き、吸血に対する欲求も薄れて人により近く、吸血鬼として曖昧な存在と化しても、光のない夜は五感を研ぎ澄ます。
 それは常には知覚出来ない精緻な世界をアドニスの物とし、明瞭な感覚は確かな自信に繋がった。
 モーリスの、グラスを持つ指の動き、薄く開いた唇に吸い込まれる琥珀、そしてアドニスの視線に気付いて僅かに笑む目元。
 その全てを余すことなく、まざと感じ取れる。
 故に沈黙は、重さではなく、二人の間に流れる時間を密にし、より心を近付ける。そんな錯覚を覚えさえする。
 モーリスが、琥珀の液体の残る透明なグラスを軽く掲げた。
 不意の乾杯の意に、グラスを手にしようとしたアドニスの手、薬指に光る指輪にすかさずグラスの縁が合わせられた。
 グラスと指輪が立てる音は、鈴のそれよりも澄んでリンと鳴る。
 虚を突かれたアドニスに向け、モーリスは悪戯っぽい微笑みを浮かべると、グラスの中身をくいと一息に飲み干した。
 二人とも、バーの開店時間から、殆ど間断なく飲み続けている。
 血の代りに赤ワインを常飲するアドニスは元より、モーリスもアルコールに耐性があるとはいえ、摂取量はかなりのものだ。
 しかしこの時間、この空気を崩してしまうのが惜しく、いっそ朝までこうしていたいとアドニスはひっそりと溜息を吐いた。
「キャロル、酔いましたか?」
モーリスの何処か期待に満ちた言に、アドニスは微笑んでゆっくり首を横に振る。
「生憎と。部屋に戻るのが惜しいだけで」
憎まれ口のような言に、ほんの少しだけ本心を滲ませる。
 アドニスに、モーリスはほんの少しだけ片笑んで、腕時計のカバーを開くと文字盤に目を走らせた。
「私も同じ気持ちですよ、キャロル。ですが、そろそろお開きにしなければいけません」
指先が示すのは文字盤の頂点、長針と短針が重なり合うまでに僅かに5分の位置。
 閉店時間の近さに、後ろ髪を引かれる心持ちながら、アドニスは軽く肩を竦めた。
 ジャズの生演奏を堪能した後は、互いの日常や仕事のあれこれの会話を酒の合間に楽しみ。
 話の種も尽きた頃に何とはなし、飲み比べに流れて今に至る。
 特に何が賭けられているわけではない。
 だが、適当なゲームは楽しくないものだと互いに熟知している為か、勝敗がかかるとなれば半分以上、本気が混じる。
「引き分けのようだな」
勝負が付かずに閉店ならばそれが当然の流れだ。
 しかしモーリスは何かを含んだ笑いで、飲み干したグラスを手の甲で押し、脇へと滑らせた。
「さて?」
 すかさず空のグラスを引くウェイターに、モーリスは片手を上げて何やら指図した。
「モーリス?」
訝しく、動作の意味を問うアドニスに、モーリスは微笑みのみを向け、す、とアドニスの唇に人差し指をあてた。
 唇を封じる形で言を阻まれ、距離を詰めた顔が、その指にチ、と軽く音を立てて口付ける。
「最後の勝負と行きましょう……酔い潰して差し上げますよ」
吐息に乗せられた囁きが近い。
 自信を見せるモーリスに、アドニスも口の端で笑んで、僅かに唇を開くと舌先でモーリスの指をちろりと舐めた。
「それは楽しみだ」
受けて立つと。
 アドニスの本心からの言葉に、モーリスがすいと身を引く。
 名残惜しげにアドニスの唇に最後まで残っていた指が離れると同時、「失礼します」と背後から声が掛かった。
 見れば、フロアマネージャーが深緑の瓶を手に立っている。
 瓶の首と底、手で支える箇所には濡れた布巾が添えられ、体温が移らぬ配慮が為されている。
 その心遣いを必要としてしかと冷えた様子をした瓶は、室温にも冷たい露を結んでいた。
 内に満ちる液体が揺れる度、その色の濃さに瓶の色がゆらと色を変える。
「無理を言って、申し訳ありません」
モーリスの謝罪に、マネージャーはとんでもない、と明確に、しかし落ち着いた様子で労を否定し、アドニスに向かって軽く瓶を示した。
 何のラベルも貼られていないが、すらりとしたそれは確かにワインの瓶だ。
「ルーマニア産です」
年号も、銘柄もない、産地だけを告げる妙に首を傾げる間もなく、マネージャーはソムリエナイフで手際よくコルクを抜いた。
 途端、漂い出す香りにアドニスは気を引かれる。
 鼻腔を擽る甘さを含んだ香りに、時が醸した独特の気配を探る。
 七世紀という長きを生きる身に、ワインと共に込められた古い空気はいつでも懐かしい。
「キャロルにワインを説くのは、釈迦に説法ですから」
そう笑うモーリスとアドニスの前に、ウェイターが半ばまでシャンパンを注いだフルートグラスを据える。
 アドニスがその意図を掴む前に、赤ワインがグラスの中に注がれた。
 発泡に混じり、真紅は瞬く間に色を薄めて淡く澄んだ薔薇色へ姿を変える。
 ワインはそのまま楽しみたい。それが上質であるなら尚更だ。
 せめてテイスティングを許して欲しかった、と些かならぬ不満を込めたアドニスの視線を受け流し、モーリスは笑みを深めた。
「ターキィシュ・ブラッドですよ」
シャンパンとワインを半々で混ぜる、カクテルの一種だと説明を受ける。
 もう一つのグラスにも、同じようにワインを注いで、脇にボトルを置こうとしたマネージャーをモーリスは制する。
「残りはどうぞ」
そう勧めるモーリスに、マネージャーは深く一礼してボトルを下げて行ってしまった。
 アドニスは思わず、未練がましくもマネージャーの背を視線で追ってしまう。
「どうかしましたか? キャロル。さ、気が抜けてしまわないうちにどうぞ」
 モーリスはにこにこと笑顔を保ったままカクテルを口にするよう促した。
「……」
アドニスは渋々とカクテルを手にする。
 フルートグラスは炭酸を長く保つ為、空気に触れる部分を極力少なくする配慮に、杯の部分が細く長い、独特の形をしている。
 シャンパン単体で飲むのならばそう問題もないのだが、ワイン自体が上物である場合はカクテルにしてしまうには抵抗があった。
 先ず一口を口に含み、味わいよりも舌に弾ける炭酸の刺激に軽く眉を寄せる。
 ぷちぷちと弾けるシャンパンの気泡が、ワイン本来の風味を飛ばしてしまっているようで、アドニス個人としては至極不満が残る。
 さりとて特別アルコール濃度が高いわけではない。
 酔わせると豪語したモーリスの自信を計りかねながら、更にグラスを傾けて、アドニスは目を見開いた。
「良いでしょう」
アドニスの反応を待っていたのか、自身はグラスに手をつけていなかったモーリスは其処で漸くカクテルに手をつける。
 モーリスに答えることはなく、アドニスは残りのカクテルを喉の奥に滑り込ませ、目を閉じた。
 身体の内に沁み込む、独特の感覚。
 慣れたそれは味覚で美味を感じるよりも先に、細胞の一つ一つに力が満ちるような錯覚を与える。
「キャロル? 酔ってしまいましたか?」
モーリスの呼び掛けを明瞭に感じながら、身体の反応に意識を取られ、アドニスは直ぐさま応じることが出来ない。
「……反則だろう」
絞るように発した声は、不満を示したつもりでも満足を隠せない。
「では、私の勝ちということで」
モーリスが宿の手配をし、勝負に持ち込まれた時点で策が巡らせてあることに気付くべきだった。
 用意周到なモーリスは、実に嬉しげな声で勝利を宣言し、アドニスの肩を抱き寄せる。
「……部屋まで手を貸してくれ」
目を閉じたままのアドニスの要請に、モーリスは朗らかに応じた。
「仰せのままに」
嵌められ感が強いとはいえ、モーリスの機嫌が良いなら悪くもない、と。
 視界を閉ざして尚、揺れる世界を堪えながら、アドニスは頬を緩ませた。


 インド綿を使った清潔なシーツに横たえられて、アドニスは漸く目を開いた。
 二人きりで使うには贅沢過ぎる空間に見合って、二つ並んだベッドはどちらもキングサイズだ。
「気分は悪くないですか?」
横に腰を下ろし、身を捻って覗き込むモーリスの髪が、肩から流れて目の前にあるのに、アドニスはぐいと掴んで引く。
「ちょ、キャロル……ッ」
引いた髪に痛みを感じるより先に、均衡を崩したモーリスの肩を押して体勢を反転させ、アドニスは互いの位置を入れ替えた。
「モーリス、アレは何だ?」
倒れ込む際、紐を引き解いた髪が白いシーツの上に無造作に広がっている。
 その一房を手にとって口元に宛て、アドニスはモーリスの瞳を覗き込む。
「お気に召しませんでしたか?」
解っていて嘯いて見せるモーリスだが、アドニスは望む答えを待った。
 しばしの沈黙に負けた振りで、モーリスは肩の力を抜いてアドニスの頬に手を添える。
「ワインですよ、ただの。トランシルヴァニア最古の醸造所で偶然見つかったんです」
微笑んで、モーリスの手が頬を伝い、顎を通って鎖骨へと滑った片手は、アドニスのシャツのボタンを器用に外した。
「十四世紀の、名も無き逸品です」
「十四世紀……」
復唱するアドニスに、モーリスは小さく頷いてシャツの間から指を差し込み、首筋の鎖を探る。
「そう、あの土地はトルコ軍侵攻の著しい時代でしたね」
 鎖の先は、ロザリオに繋がっている。
「彼の地で流れた戦士達の血、そして命をふんだんに吸った葡萄を醸したワインです」
軽い力で引かれた鎖に、シャラリと音を立ててロザリオが引き出された。
「……美味しかったでしょう?」
そう、モーリスが仄かに笑う。
 十四世紀、森の向こうの国と呼ばれた土地に存在した公国では、夥しい血が流れた時代だ。
 欧州に侵攻しようとするトルコ軍を、残虐とも言える苛烈さで制したヴラド・ドラクルの生きた頃。
 ドラキュラのモデルとなった人物の生きた時代のワインなど、冗談にしても出来すぎ、かつやり過ぎである。
 血と命、そして今は亡き国の歴史を閉じ込めたワイン。
 それは鮮血に似た死の甘さと、生への無念を澱のように交わらせて、懐かしさと堪えがたい衝動とを、アドニスの内に呼び起こした。
 ターキィシュ・ブラッド……トルコ人の血。何とも意味深なカクテルの名にこそ、ヒントが込められていたのに。
「全く……懲りないというか」
苦さと呆れの滲むアドニスの独言に、モーリスは笑みを深めて首に下がるロザリオを引き抜いた。
「キャロルこそ」
取り去ったロザリオは、腕を伸ばして寝台の横に落とす。
 しゃらり、と鎖を鳴らして落ちたロザリオを確かめようと、顔を逸らしたアドニスの頬をモーリスは両手で挟んで制した。
「言っているでしょう、私の前では何も堪えなくても良いと」
あやすような声音で、モーリスはアドニスを誘っている。
 僅かに顔を逸らして、アドニスに白い喉を晒す。
 明らかな誘いを前に、無意識に伸びた手がその首筋に触れ、動脈を探り当てた。
 暖かな血の甘さ、直接命を啜る充足感は快楽にも似る。
 それまでに摂取した酒精も手伝ってか、甘美な誘惑に思考が麻痺するのを自覚しながら、アドニスはモーリスの首筋に顔を埋めた。
「どうぞ貴方の欲するままに」
背に回された腕がアドニスを抱き締める。
 耳元に吹き込まれた囁きの持つ艶は理性を拭い去り、アドニスは僅かな迷いに止めていた牙を、モーリスの柔らかな肌にあてた。


「……キャロル?」
モーリスは、アドニスを抱き締めたまま訝しく名を呼んだ。
 来るべき痛みも返る答えはなく、代りに規則正しい寝息ばかりが静かな部屋に響く。
「飲ませすぎましたか」
力が抜けたせいで、ずしりと重い身体を優しく脇に避け、モーリスは過ぎた悪戯の敗因に軽く舌を出した。
「困らせてすみませんね、キャロル」
少しも悪びれない口調で告げて、モーリスは睡魔に屈したアドニスのこめかみに軽く口付けた。
 血を欲する欲求よりも、人を傷つけたくない感情が勝るのを知っている。
 しかし、常に理性で己を制する彼が血の誘惑に屈した時の無心さは、時にモーリスの安堵に繋がるのだ。
「でないと、私ばかりが求めているようで。切ないじゃないですか、ねぇ?」
こめかみに次いで唇に軽く触れ、モーリスは隣のベッドからシーツと毛布を剥ぎ取ると、アドニスの上にふんわりと広げた。
「あのワイン、お気に召したなら沢山ありますから」
 戦火を免れるためか、件のワインは醸造所の地下、保管庫の最奥の漆喰を塗り固めた壁の更に向こうに隠されていた。
 初期のワインは瓶詰めされることなく樽で保存される。その状態でありながら、奇跡的に品質を損なわずに保っていた逸品である。
 そんな市場に出回ることのない、好事家のみに知られる貴重なワインなのだ。
 その稀少なワインを、モーリスは権を有する職場であるのをこれ幸い、個人的に一樽キープ済だった。
「存分に酔ってくださいね」
シーツの皺を手で整えながら、モーリスはアドニスの耳元に唇を寄せた。
「ワインにも……勿論、私にも」
眠るアドニスの耳元に、まるで睦言の甘さで囁きを吹き込む。
「取り敢えず、今度は迎え酒にお出ししましょうか」
しこたまアルコールを摂取して、判断力に欠けているだろう寝起きにもう一仕掛け。
 対象にとっては、予断ならない思いつきにモーリスは楽しげににっこりと笑い。
 アドニスの隣に潜り込んだモーリスは、安らかな眠りのぬくもりに身を寄せた。
PCシチュエーションノベル(ツイン) -
北斗玻璃 クリエイターズルームへ
東京怪談
2007年12月03日

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