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『春巡符 』
陸玖・翠6118)&ヴィルア・ラグーン(6777)&草間・武彦(NPCA001)



 その音色は、今も胸の奥深くに残っている。
 どんな峻嶺の根雪も溶かすような、あたたかく優しい響き。

 こんなに美しい調べを奏でられる者を、『彼』より他に知らない。

 魂までも蝕みそうな孤独な夜を、幾度あの旋律に救われただろう。
 ふわりと耳の奥から浮かび上がり、心を撫でては霞み、消えていく笛の音。
 死によって遠く隔たれても、記憶の中の音楽は変わらず自分を慰めてくれる。
 たとえそれが、もう二度と耳にする事が叶わぬものだったとしても。



 親友の祥月命日を、陸玖翠は一人でぼんやりと過ごした。
 『彼』の死が遥か昔の事になってしまった今でも、その日がくると自然と思い出してしまうのが不思議だ。
 日にちの感覚など擦り切れてしまうほど、永く生きてきたというのに。

 生々しい喪失感は、とっくの昔に薄れている。
 『彼』と過ごした日々は、今思い返せばただ懐かしいばかり。
 胸を引き裂かれるような痛みも、もう感じない。
 なのに、『失くした』事だけはどうしても記憶から消えてしまわないのが不思議だった。
 別れなど、いちいち数えるのも面倒になるほど重ねてきたというのに。

 それだけ『彼』が特別だったのだという事を、改めて思い知らされる。

 とはいえ、もう二度とは戻らない──戻さないと決めたものを想って鬱々と過ごすのは翠の趣味ではない。
 気の塞ぐ時はやはり友人の一人も呼んで、酒でも飲んで憂さを晴らすに限る。
 翠がまず呼びつけたのは草間武彦だった。仕事が忙しい、なのに金がないとしょっちゅうボヤいているあの男は、いい酒と旨い肴さえ用意しておけば、何としてでも時間を作って駆けつけてくれるのだから、易いと言うか、有難いと言うべきか。
 同居人のヴィルア・ラグーンは、放っておいても酒盛りの気配を嗅ぎつけて寄ってくる。仕事中なのをわざわざ呼び戻すまでもない。
 屋敷の庭園には、見頃に染まった紅葉が枝を広げている。散った赤い葉の上に、それよりも赤い毛氈を敷いて、翠は式達に宴の準備を命じた。用意が整いかけたところに、早くも草間が顔を出した。
「お招き感謝する、陰陽師殿」
 珍しく恭しく礼など言い、草間は手にしていた細長い包みを翠に差し出した。どうやら手土産のつもりらしい。
「ようこそ、探偵殿。さては飢えていたな?」
「その通りだ。ここの所、変に慌しくてな。お陰でロクなものを食ってない」
 そう言われると、馳走しない訳にはいかなくなる。翠は手を打ち鳴らし、式達に温かな食事を用意させた。草間は実に勢いよくそれを食べ始めた。見ている方も気持ちのいい食べっぷりだ。
「ところで、これは何だ?」
 手渡された包みを掌で弄びながら訊ねると、草間は「笛だ」と答えた。
「ただし、鳴らない笛なんだ」
「鳴らない笛を貰って、私にどうしろと言うのだ?」
「まあ、そう言うな。実用性はないが装飾は見事だ。この屋敷の置物にいいんじゃないかと思ってな」
 ふむ、と呟いて、翠は包みを解いた。萌黄に金糸の刺繍が施されていて、長さと細さからして中身は龍笛だと分かる。二藍の紐を解き、中の笛を取り出し、翠は息を飲んだ。
 精緻な鳳の彫刻が施された、艶やかな黒塗りの龍笛だった。歌口の朱は遠い昔に見た時のまま、少しも褪せずに色鮮やかさを保っている。それに触れた翠の指が小さく震えた。
「見事だろう? 何でも随分と古いものらしい。持ち主が偏屈なんで世に出た事はないが、話が本当なら国宝級の品だとさ」
 まあ法螺話だろうが、と肩を竦めながら、草間は焼き魚にかじりついている。翠は返事をする事もできずに、ただ呆然と笛を眺めていた。怪訝に思ったらしい草間が、口をもぐもぐさせながら顔を覗き込んでくる。
「どうした? まさか何か曰くのある品なんじゃないだろうな」
 草間の言葉も右から左に、翠は笛を凝視する。どんなに時が経っても見間違えるはずがなかった。
 これは翠の親友の形見の品だ。今際の際に手放された、『彼』の愛用の笛。
「沙羅……」
 翠は虚ろに呟く。草間は食べるのをやめて、怪訝な顔をした。
「どうしてその笛の名前を知ってるんだ? ……まさかそれ、おまえの所から盗み出されたなんて言うんじゃないだろうな?」
 ただ首を横に振り、違うと答える。草間がますます訝しげな顔つきになって、翠の肩を掴んだ。
「おい、翠? 大丈夫か?」
「武彦、この笛……どうやって手に入れた?」
 問う声が掠れそうになる。それほど翠は驚いていた。滅多な事で驚きを露わにしない翠が急き込んで問うのに、草間は目を丸くしながら答える。
「依頼人に貰った。正規の報酬はちゃんと受け取ったからと辞退したんだが、どうしても俺に譲ると言ってきかないんで、おとなしく受け取ってきた。それがどうか……」
 そこで草間は、ふと何かに気付いたように眉根を寄せた。
「そういやあの偏屈爺さん、俺が受け取るのを遠慮した時に言ってたな。この笛は、持ち主に相応しいと思える奴に渡してくれればそれでいいって。それで俺は、じゃあ翠にやればいいかと思って受け取ったんだ」
「……そうか」
 呟いて視線を戻し、翠は笛を撫でた。
 まさかこれが自分の手元にこようとは夢にも思わなかった。そんな確率は無に等しいと、とうの昔に諦めて。
 それなのに、『彼』の形見の品は翠の手に巡ってきた。それも、新たな友人の手を経て。
「何か、縁のある品なのか?」
 どこか遠慮がちに草間が問うてくるのに、翠は無表情に答えた。
「まあな」
 そうして笛に唇を寄せ、今は亡き『彼』を真似て吹いてみる。予想していた通り、音は鳴らなかった。
「やはり鳴らせないか……。おまえならどうだ? 武彦」
 苦笑気味に呟いて、翠は草間に笛を手渡してみた。草間は覚束ない手つきで笛を鳴らそうと試みるが、やはり微かな笛の音さえ聞こえてこない。
「うんともすんともいわんな。この笛には何か術でもかかってるのか?」
「そういう訳ではない。ただこの笛は、己の正しい主を知っているというだけだ」
「ふうん」
 草間は呟いて、笛をためつすがめつしている。
「正規の持ち主でないと鳴らせない笛か。随分とプライドが高いな」
「それだけ元の持ち主を慕っているという事だ。……よく今まで残っていてくれた」
 しみじみと翠が呟くと、草間は何かを言いかけた。一度口を噤んでから、少し迷ったふうに再び口を開く。
「……その元の持ち主っていうのは、ひょっとして……」
「お察しの通り、故人だ。だが気を遣って貰う必要はないぞ。もう随分と昔の話なのだからな」
 草間が表情を曇らせるのに、翠は微かに笑って見せる。
「これは、私の親友の形見の品。沙羅双樹の花から名付けられた」
「沙羅双樹……っていうと、あれか。お釈迦様が亡くなった時、一緒に枯れたっていう」
「そう。この国では平家物語の冒頭に出てくるので有名だな。『沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらわす』。……もっとも、あれは夏椿と混同されているという話だが」
 諸行無常を噛みしめてでもいるのか、草間はますます表情を陰らせてしまう。翠は苦笑混じりに言った。
「……そんな顔をしてくれるな。何もおまえをしんみりさせたくて呼んだわけではないのだから」
「ああ、うん。……いや、でもな」
 草間は何やら困ったように頭を掻いている。彼の手から笛を受け取り、翠はそれに視線を落とした。
「それに、あ奴は最後に言ったんだ。この笛が再び私の前に現れたら、自分もきっと、この笛と一緒に私の傍にいる筈だと」
 それを聞いて、草間はキョロキョロと辺りを見回した。翠は小さく笑みを零す。
「魂だけになって……という意味ではない。『彼』の魂は、とうに輪廻の中だ。つまりは成仏済みという事だな」
「じゃあ、生まれ変わって、って意味か?」
「さあな。……正直、そこまでの期待はしていない。形見の品がこうして、巡り巡って私の元に現れてくれただけで充分だ」
「……そうか」
 どこか安堵したように草間は息を吐く。見れば、彼の膳は先程から少しも減っていない。熱かったはずの汁物すら湯気を立てなくなっているのを見て、翠は式を呼んで新しい膳を用意させようとした。
 そこへ、どすどすと足音が聞こえてきた。誰何するまでもなく同居人のものだと分かる。
「屋敷中探したのにどこにも居ないと思ったら、こんな所で宴か、この酒好きども! 私を抜きで始めるとはいい度胸だ!」
 元・侯爵令嬢だというのを疑いたくなるほど、遠慮も何もない足音と第一声だった。廂の間で仁王立ちになり、ヴィルアはこちらを見据えている。
「今日はいやに帰りが早いな」
 翠が呟くと、ヴィルアは腕組みしたまま高らかに笑う。
「何故だか今日は、急いで仕事を終えて帰ったほうがよさそうな予感がしていた。案の定だ。思う存分暴れてきたから、私は空腹なのだ。丁度いい」
 言って、ヴィルアは草間の新しい膳に手を出した。止めても無駄だとばかりに、草間は翠に肩を竦めて見せる。仕方なしに、翠は式にもう一膳運ばせる事にした。
「思う存分暴れてって、どんな仕事をしてきたんだ、おまえ」
 物騒なものを見る目つきで草間は問う。ヴィルアはそれにしゃあしゃあと答えた。
「愚かな質問だな、武彦。私は運び屋。運び屋の仕事はモノを運ぶのに決まっている」
「運ぶだけなのに、どうして暴れる必要があるんだ?」
「そんなもの、道の真ん中に、私の仕事の邪魔をする端役がでしゃばってきたからに決まっているだろう。三流役者の分際で見得を切ろうとするものだから、見るに耐えかねて舞台の外に蹴り出してやった」
 どんな活劇が繰り広げられたのかは容易に想像がつく。草間は深く追求するのをやめたらしく、運ばれてきた膳にさっさと手を伸ばした。
 ヴィルアは膳を平らげ、式達に酌をさせて、文字通り浴びるように酒を飲んでいる。翠だけが飲み食いする気が起こらずに、気がつけば形見の笛を眺めていた。
「どうした翠。具合でも悪いのか?」
 そんな訳はないだろう、と言いたげな口調でヴィルアが言う。いや、と答えて翠は笛をしまおうとした。
「何だその笛は」
 楽器に興味があるらしいヴィルアが、めざとく気付いて手を伸ばしてくる。それを草間が遮った。
「こらヴィルア。この笛は特別なんだから、みだりに触るな」
「何だと? 武彦に制止される謂れはないぞ」
「いや、ある。これは俺が翠に届けたものなんだからな。それにこれは、おまえには鳴らせないぞ」
 言い切られ、ヴィルアはあからさまに鼻白んだふうだ。翠の手から笛を奪い取り、勢いよく立ち上がる。
「何を言うか武彦。この私に喧嘩を売りたいのか? 翠、この笛、借りるぞ。笛の演奏くらい簡単なものだ。興が乗ってきたから一曲披露してやる」
「やめろって。これはただの笛じゃないんだぞ。正当な持ち主以外には鳴らせない笛なんだからな」
 気付けば、ヴィルアと草間とで笛の取り合いになっていた。大切な形見を壊されてはたまらないとばかりに、翠は溜息混じりに符を取り出す。観客の目の前から、忽然とカードを消して見せる魔術師よろしく笛を取り上げると、ヴィルアが猛然と抗議の声を上げた。
「何だ、翠まで私の技量を疑うつもりか!? とにかく貸せ! どんな曰くがあるか知らぬが、絶対に奏でて見せてやる!」
「だからこの笛は、正当な持ち主じゃないおまえには鳴らせないと言ってるだろう!」
「それならば私が、その正当な持ち主とやらになってやろうではないか!」
「無茶言うな! 大体、おまえは自分が……」
 ヴィルアと草間の言い合う声は段々と大きくなっていく。このまま放っておいては子供の喧嘩の様相を呈しそうだったので、翠はやむを得ずヴィルアに笛を手渡した。
「いいのか? 翠」
 草間が気遣わしげに問いかけてくるのに、苦笑しながら頷く。
「いいも何も、一度言い出したら止める方が骨だ。どうやっても鳴らせないと分かれば、さすがのヴィルも諦めるだろう」
 そんなやりとりも知らずに、ヴィルアは笛を手に上機嫌になっていた。
「これはなかなか繊細かつ優美な細工の笛ではないか。どんな音を奏でるのだろうな?」
「鳴らせるものなら鳴らしてみろってんだ」
 草間がぼそりと呟く。翠は何の気もなしに、笛を口許に運ぶヴィルアの姿をただ眺めていた。
 ふ、と周囲の空気が変わる。
 緩やかな風に、微かな葉擦れの音を立てていた紅葉達が沈黙し、清い水音を響かせていた池は静まり返る。
 月明かりに照らされた影以外に、空気を揺らすものはない。

 そこに、澄んだ夜気をふるわせて響き渡った美しい笛の音を、どう言い表せばいいのだろう。

 硝子のように硬質で透き通っていて、なのにどこかあたたかくて、聴く者の胸にやわらかく染み入る不思議な音だった。
 長い眠りから目覚め、閉じていた世界を開いた瞬間に、春の陽射しを見るよう。緩やかな光。ふわりと頬を撫でる風。懐かしい草の匂い。冷え切った肌に感じるぬくもり。どんな生命も照らすような。

 笛から唇を離して、ヴィルアは傲然と言い放った。
「ほら見るがいい。普通に鳴るではないか。私にかかれば、ざっとこんなものだ。それにしても何とも霊妙な音を奏でる笛だな。気に入ったぞ」
「おい翠……。あの笛、『正規の持ち主』にしか鳴らせないんじゃなかったのか?」
 草間の驚くような声が聞こえているのに、反応できなかった。誰よりも翠が一番驚愕していた。
 あれは間違いなく、翠の親友の形見の品。『彼』の魂だけが『沙羅』を奏でられる。たったひとつの例外もなく。
 それを奏でられたというなら──導き出される答えは。
「何だ? 珍しく呆けたような顔をしているな、翠」
 こちらに視線を投げかけて笑うヴィルアに、懐かしい笑顔が重なる。遥か以前に亡くした親友の。
「武彦はともかく、お前にそこまで驚かれるとは心外だ。この際だからお前も武彦と一緒に、私の天才ぶりを再認識するといい。一曲、即興で演奏してやろう」
 そう言い、ヴィルアが奏でた旋律を聴いて、翠は認めざるを得なくなった。
 それは、どんなに寒い冬が来ても、その次には必ず春が来るのだと伝える為、『彼』が翠の為に作ってくれた曲だった。
 『春巡符』と名付けられたその曲は、冬の冷たさを思い起こさせる凛烈な調べから始まり、やがて、全てが息吹きほころぶ春の暖かさを切切と謳う。

 今にして思えば、これは『彼』の遺言のようなものだったのかもしれない。

 厳寒に凍てつき、何もかもが死したように見えても、時が過ぎれば必ず春は巡り、花が咲く。
 人も同じなのだと。
 心を通い合わせた者が息絶え、永遠の別れが訪れたとしても、命は世界を巡り、時を越え、再びまみえる日が来る。
 それまで必ず待っていてほしいと。

 もう二度と耳にする事は叶わぬと諦めていた調べを聴きながら、翠は空を見上げる。宵闇に浮かび上がる紅葉の緋の向こう、夜の果てには満ちた月が輝いていた。



 宴は終わり、ヴィルアは満足したように眠っている。
 緋毛氈の上に流れる彼女の金色の髪を指で梳き上げ、翠はその寝顔に見入っていた。
 髪の色も、瞳の色も、肌の色も違う。性質も性格も、言動もだ。それでも今なら確信できる。彼女こそが、『彼』の輪廻の果てなのだと。
 どうして今まで気づかなかったのだろう。そう心の中で呟いて、翠はヴィルアの頭を一撫でした。
 紅葉の幹にもたれてうたた寝をしていた草間が薄目を開ける。彼はぼんやりした目つきで翠とヴィルアの姿を眺め、眠気を追い払うようにひとつ頭を振った。
「……あの笛を鳴らせたって事は、こいつがおまえの親友の生まれ変わりなのか?」
 問う口調は半信半疑と言うより、確認を取りたがっているかのようだ。翠は無表情に答える。
「『沙羅』が反応したのだから、それ以外に考えられない」
「……似てるか?」
 笛の所以を訊ねていた時に見せた遠慮のようなものは消え、思い出話でもねだるように草間は問う。
 翠は静かに首を横に振った。
「どんな奴だった?」
「そうだな……。一言で言うなら天真爛漫」
「……そりゃ似てないな」
 草間が大袈裟に肩を竦めるのに、翠は苦笑を浮かべて答えた。
「だが、私の存在を疎まず、ありのまま受け入れてくれる所は一緒だ」
 呟きに、草間は真顔になる。翠はそれに小さく笑って見せた。
「私が何者であっても友だと言ってくれる、大切な存在。……おまえもだ、武彦」
 草間の顔に「どんな表情をすればいいのか分からない」と書いてあるようで、翠は思わず肩を揺らし、声を殺して笑う。彼は、ふてくされたような仕草で再び後ろの木にもたれかかった。
「冗談なのか? ……真に受けて損した」
「茶化したつもりはない。本心だ。……思えば、私が誼を結びたいと思える相手には、いつも共通点があったのかもしれぬ。……あ奴と同じ部分が」
 けれど、と翠は続ける。
「私は別に、あ奴の代わりを誰かに求めているつもりはない。あ奴は誰にも替え難い存在だったが、それはヴィルアやおまえも同じ事」
 もしもヴィルアが『彼』ではなく、他の誰かの生まれ変わりだったとしても、彼女が彼女のままならば、翠は愛着を感じただろう。勿論、それは他の友人達も同じだ。
 似ているから惹かれたけれど、似ているから求めたわけではない。あくまでも、それは翠の側から一歩を踏み出すきっかけになったに過ぎない。
 親愛の情を抱き、互いに友と呼び交わすまでに積み重ねられたものは、翠一人ではなく、友人達と共に積み上げたもの。それは相手ごとに形も色も意味合いも違っていて、いずれも、何にも替えられないものなのだと翠は思っている。
「正直、輪廻転生とか生まれ変わりとか言われても信じられんというのが本心なんだが、おまえにも俺にも鳴らせなかったあの笛を、ああいとも簡単に吹かれちゃ信じない訳にもいかんな……」
 溜息混じりに呟いて、草間は笛を手にとって眺め、顔を上げる。
「……おまえや俺も、誰かの生まれ変わり……なんて事もあるかもしれないんだよな」
「そうだな」
 くすりと笑い、翠は目を伏せる。
「袖擦り合うも他生の縁、と言う。ひょっとしたら私達は、自分達の与り知らぬ場所で既に出逢っていたのかもしれぬ。……前世の因縁、なんてものはぞっとしないが、今生で別れても、遠い未来での再会があるというなら……この上ない慰めになるな」
 今まで、そんな風に考えた事などなかった。人ならざる身の生に離別は多く、さりとて今の今まで、昔に失った者との再会など一度たりともなかった。
 けれど、これからはどんな形で誰を、何を失おうと、希望を失わずにいられるような気がした。
 冬のあとには必ず春が来るのだという『彼』の教えが、ようやくこの胸に芽吹いたから。
「……それはよかった」
 呟いて、草間は翠の手に笛を握らせて立ち上がる。邪魔したな、と言って千鳥足で歩き出す草間の背に、翠は問うた。
「何だ、帰るのか? 泊まっていっても構わぬのだぞ。どうせ部屋は余っている」
「馬鹿言え。親しき仲にも礼儀ありだ。怖いから本当の歳は訊かない事にするが、世間から見れば『妙齢の独身女性』の家に、ほいほい泊まるほどの節操なしじゃないぞ、俺は」
「何の心配をしている。おまえとヴィルアと私の間で間違いなど起こりえない」
 妙に力強く翠が答えるのに、草間は「自分で言うか」と苦笑を漏らした。
「君子危うきに近寄らず……じゃなくて、李下に冠を正さずって言うだろ?」
「……前者が本心だな? まあいい。帰ると言うのを留め立てはしない」
 翠は笛を掲げて見せた。
「感謝する。この礼はいずれ」
「水臭い事を言うな。俺は言われるがまま運んできただけだ」
 軽く手を挙げ、ご馳走様、と言って草間は歩き去った。翠はその背中をぼんやりと見送る。
 途端、無性に飲みたくなってきた。そもそも草間を呼びつけたのは一緒に飲むためだったのに、翠はまだ酒の一滴も口にしてはいない。
 ヴィルアは熟睡しているし、話し相手もいないが、今夜は少しもわびしく感じなかった。
 ふと思い出し、翠は懐に手を入れ、一枚の符を取り出す。緑の一葉は、かつて友人だった者の一人が式神と化した姿。清酒で満たした杯にその符を浮かべ、翠は笑った。
「おまえも飲むか?」



 翌朝、翠は御帳台の帳を勢いよく跳ね上げて、寝所まで乱入してきたヴィルアによって揺り起こされた。
「起きろ翠。お前、また新しい術を開発したのだな?」
 何を言われているのか分からないまま、強引にヴィルアに手を引かれて中庭に出る。そこには、昨晩とは全く違う風景が広がっていた。
 陽射しを浴びて紅く輝く楓やもみじ。その奥で控え目に色づいていたソメイヨシノが全て葉を落とし、その下はさながら秋色の絨毯のようだ。そして、枝には。
「……桜?」
 翠は瞬きする。見間違いではない。確かに桜の花が咲いている。淡い桜色が紅葉の赤に引き立てられて、白く輝いて見えた。
「紅葉が見頃だというのに、桜までも愛でるつもりか。贅沢な奴だな!」
 言いながら、ヴィルアはもう手酌で酒を飲み始めている。翠は庭をぐるりと見回し、昨日、杯に浮かべた緑色の符が赤く染まっているのに気がついた。
「……さては、おまえの仕業か?」
 式神・常葉を指で摘み上げると、符はへにゃへにゃと揺れた。どうやら酔っ払っているらしい。
「何をしている翠。こんな絶景はまたとないぞ。これを肴に飲まない手があるか!」
 いかにも機嫌良さそうに杯を突き出してくる友に微笑を返し、翠は中庭に下りていく。どばどばと酒を注がれて満ちた杯に、桜の花びらが一枚落ちてきた。
「風流だ」
 言って、ヴィルアは笑う。その笑顔を眺めて、翠は『彼』との約束を思い出していた。
 互いがわからなくなっても、また一緒に酒を酌み交わそうと誓った。その約束はとうに果たされていたのだ。
 小春日和に紅葉と桜を同時に眺めながら、心が満たされていくのを感じる。
 自分の生に、再び春が巡ってきているのだ。そう素直に信じる事ができた。





■登場人物(この物語に登場した人物の一覧)■

【6118/陸玖・翠(リク・ミドリ)/女性/23歳/面倒くさがり屋の陰陽師】
【6777/ヴィルア・ラグーン(ヴィルア・ラグーン)/女性/28歳/運び屋】
PCシチュエーションノベル(ツイン) -
結城 菜野 クリエイターズルームへ
東京怪談
2007年11月30日

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