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『Shadow is Born 』
桐生・暁4782)&梶原冬弥(NPC2112)



 地図から消えた村と呼ばれる場所は、一夜にして突然にこの世から消えてしまったわけではない。ただ単に、地図上から抹消されたというだけ。ただ単に、人が住んでいないというだけ。建物はその場に残り、人の手が入らないために徐々に朽ちていく。建物とは対照的に木々は人の支配から逃れ、我が物顔で枝を四方八方に伸ばす。
 たとえ人々から忘れ去られようとも決してなくなりはしない場所。そんな場所に悪い噂の1つや2つたつのは自然の摂理だろう。ある山中、数十年も前に人々の営みが絶えたこの村にもまた、穏やかならざる噂がたっていた。
 県道から獣道ともつかぬ細道に逸れ、小一時間登った先にぽっかりと開いた村の入り口。両脇に崩れかけた地蔵が座るその場所に立つと、桐生 暁はわざとらしく肩を震わせた。
「うわー、なんか、やっちゃったーって感じのところだな、冬弥」
「やっちゃったのはお前だろ。そもそも、廃村なんてこんなもんだろ」
「お地蔵さんも大変なことになってるし。これだから信仰心のない現代人はダメなんだよなー」
「お前も現代人だ。思いっきり」
 金色に染めた髪と、耳元でキラリと光るピアス。今時の格好をした暁は、肩を竦めると目を細めた。
「信仰心があっても、県道から随分離れたここまで毎日お参りしに来ようって人はそうそういないんだよ、きっと」
「だろうな」
 苦々しい顔で梶原 冬弥が頷き、肩に下げていたバッグを足元に下ろすと中から懐中電灯を2つ取り出し、1つを暁に向かって投げた。
 綺麗な弧を描いて手元に落ちてきた懐中電灯を手の中で回し、手際よくスイッチを入れる。手品師のような手さばきに暫し見とれていた冬弥は、明るい光を受けてはっと顔を上げると自身も懐中電灯のスイッチを入れた。2人をここまで乗せてきたタクシーが来た道を引き返して行き、ヘッドライトに照らされていた前方が闇に染まる。
「田舎の山奥の夜は暗いね。懐中電灯がなかったら何も見えないところだったよ」
「懐中電灯がなくても、暗さに慣れれば月明かりで見えるようになる」
「月明かりね‥‥」
 空を仰げば数多の星。微妙に輝きの異なる星の隣では、夜空を支配する月が変らぬ光を地上に降り注いでいる。
「月が雲に隠れれば、真っ暗になるだろうな」
「そうだな」
「闇討ちに最適だね」
 およそ闇討ちなどとは縁のなさそうな明るい口調で言う暁。一瞬耳を疑った冬弥が、脳内で勝手に闇討ちをキャンプファイヤーに変えてみるが、事実は事実、自分の耳に嘘はつけなかった。
「‥‥お前は誰か闇討ちしたいヤツでもいるのか?」
「うーん、3人程度」
 邪気のない笑顔で邪気のある言葉を吐かれ、冬弥は天を仰いだ。誰なのかと聞くべきか、それとも会話を強制的に終了させるべきか。
 しかし暁はそんな冬弥の苦悩など知る由もなく、もしくは知っていながらもあえて、右手の指を折って名前を挙げ始めた。
「まずは梶原冬弥でしょ、次に冬弥でしょ、最後にとおやちゃんでしょ?」
「‥‥それは全員違う人物なのか?」
 呆れと怒りを滲ませた声は低く、薄っぺらい笑顔は口元が引き攣っていた。
 暁は走り出すタイミングを見計らいながら、満面の笑顔で首を振った。
「同じ人物、かな?」



 山奥にひっそりと佇む廃村は、空から見れば歪な瓢箪のような形をしていた。
 村の入り口から村の真ん中にある学校までが瓢箪の口のような形をしており、学校を通り過ぎた辺りで山肌と切り立った崖が左右から迫り一旦は細くなるものの、更に奥へと歩を進めれば両側の崖は外へと向かって広がっていく。
 学校の前までのエリアをA、学校から奥、巨大な洋館があり、深い崖へと続くエリアをBとした場合、BはAよりも少しだけ広い。
 Aエリアは両側を森で囲まれており、畑や農家、民家が点在している。廃れる前はのどかであっただろうその場所は、今や見る影もない。
 Bエリアは左手を山肌、右手を深い崖に囲まれた場所で、山肌には土砂崩れ防止用のネットがかけられ、崖側には転落防止用の手すりが途切れることなく続いている。Aエリアとは違い、農家や民家はほとんどなく、閑散とした雰囲気は廃れる前も淋しい雰囲気を発していたのであろう。
 そんなBエリアには、村が廃れる何年も前に一家が断絶した華族だか貴族だかのお屋敷がポツンとある。人が住まなくなってかなりの月日が流れたにもかかわらず、当時を髣髴とさせる威圧感だけは変らない。
 山奥には似つかわしくない豪華なお屋敷を通り抜ければ、切り立った崖に囲まれた小さな裏庭がある。せり出すように作られた裏庭から下を覗き込めば、微かな轟音を響かせながら流れる川が白い線となって見える。下からのぼって来る湿った水の匂いには仄かな死の香りが混ざっているような気がする。裏庭のある一角、手すりが壊れて外側に開いているこの場所に立った人々は皆、同じ死の香りを嗅いだであろう。
 この場所は、廃村になる前から自殺の名所だった。
 古くは洋館がまだ煌びやかで活気付いていた時、身分の低い村人と恋仲になった令嬢が恋人と共に身を投げた事が最初だと言われているが、定かではない。
 定かなのはこの村がまだ廃村ではなく、きちんとした由来の名前があり、何百年も前から続く家を守っている人々が生活を営んでいた時代、数人の村人が人生を悲観して裏庭から身を躍らせたと言う事実だけだ。当時の新聞記事、地方版のほんの数行に素っ気無く加えられたこの村の暗黒面を拾い上げてみれば、それは10年に1人いるかいないかという、さほど多くない数だった。
 しかし噂は噂を生み、いつしか巨大な鳥となって人々の上空に飛来する。
 廃村になってから数年後、何処の誰が囁いたとも知れぬ、自殺の名所と言う噂は瞬く間に地方から都市へと広がり、自身の人生を自分の手で断ち切ろうとする人々が人知れず村にやって来てはこの世の恨み辛み、果ては愛しい家族や恋人に最後の言葉をしたためて身を投げた。



「で、自殺の名所がどうして死者が蘇る名所になったんだ?」
 Aエリアにある一番太い道を歩きながら、冬弥が眉を跳ね上げた。踏み固めただけと言った砂利の道は、両側から迫る雑草に今にも侵食されそうになっている。
「自殺の名所って、幽霊が出るって噂の心霊スポットになるでしょ?」
「あぁ」
 懐中電灯がさっと暗闇を照らす。闇に慣れ始めた目は、月明かりだけでも大分周囲の状況が見て取れるようになった。
「今から5年前、大学生のグループが真冬の肝試し大会に繰り出したんだ」
 真夏のではないのかと問た気な冬弥に曖昧に微笑む。若者のノリは、冬だろうと夏だろうとあまり関係はない。ノったら最後、エネルギーを放出させるのみだ。
「男3人、女2人の全部で5人だったんだけど、そのうちの4人が次の日遺体で発見された。その日の昼まで一緒に遊んでいた女の子が、5人が約束の時間に現れないし連絡も取れないと警察に通報したんだ」
「どうしてその女の子は肝試しに行かなかったんだ?」
「怖いの苦手だったみたいだよ。それに、前日のバイトがハードで疲れていたとも言ってたかな?」
「そうか。で、生き残った1人って言うのは?」
「男だったんだけど、その人も発見された翌日に亡くなったんだ」
「集団自殺ってわけじゃねぇよな。だったら、翌日に女の子と約束しねぇもんな」
「衝動的だったってのもアリだけど、オールのノリで自殺はないよね。しかも、4人のうち3人は何者かに刃物で刺されてるんだ」
「じゃぁ、残った1人が‥‥でも、そいつも翌日に死んだんだよな?」
「そうだよ。背中とお腹を刺されてたんだ。救助隊に発見された時にすでに虫の息で‥‥その人はおかしな事を言ったんだ。仲間の1人の男に刺されたって‥‥」
「‥‥5人のうち4人は刺されたんだろ?残りの1人は?」
「自殺の名所から飛び降りたんだ」
 鋭い光が、古びた農家を照らし出す。ぞっとするほど朽ち果てた家は、木の死骸のと言うよりほかなく、かつてそこで生活していたであろう人間の気配はどこにも残されていなかった。
「辻褄は合うじゃねぇか。何があったのかは知らねぇが、4人の仲間を刺したそいつは自殺の名所から飛び降りた‥‥最初からここで殺そうと決めていたのかも知れねぇし、喧嘩になって思わず刺しちまったのかも知れねぇし」
「一応警察の見解もそうなってるんだ。生きてた男が告げた名前も、自殺した男の名前だったし」
 不意に月光が鈍くなったような気がして上空を仰ぎ見る。白い靄のようなものが視界にまとわりつき、ふと手元を見れば懐中電灯の光も幾分弱くなっている。
 2人以外に音を発するものは両脇から迫る木々だけと言う廃村に、薄く霧がかかり始めていた。
「でもね、おかしなことがあるんだ」
 足を止めた暁が、紅色の目を細めると遠くを見るような虚ろな瞳になる。冬弥の肩辺りに固定された視線は、闇に潜む何かを見極めようとするかのようで、ピンと張り詰めた緊張感が夜の闇によく映えた。
「その男、1人だけ死亡推定時刻が早いんだ」
「なに?」
 視線が合わさる。難問を思いついた子供のように挑むような優越感に満ちた瞳を冬弥に向け、暁は1歩近付くと背伸びをした。耳元に口を近づけ、囁くように言葉を吐息に混ぜる。
「しかも、3時間も」
「どういうことだ?」
 近付きすぎた暁に戸惑い、どう対処して良いのか分からなくて複雑な表情を浮かべる冬弥の姿に満足げに微笑むと、暁は身体を離した。
 からかいの言葉が幾つか浮かんで来たものの、それを無理に押さえ込むと再び前を向いて歩き始めた。
「だから、死者が蘇るってことなんだよ。もしかしたら、他のメンバーが突き落としたのかもしれないなんて噂もあるくらいなんだ」
「で、その噂の真偽を確かめに来たってことか?」
「簡単に言えばそうなんだけど、ちょっと違うかな」
「難しく言えばどうなんだ?」
「ここが自殺の名所って噂が流れた時、おかしな遺体が数体見つかったんだ。数ヵ月後に結婚を控えたカップル、付き合い始めて日の浅いカップル、はたから見ても仲の良かったカップル」
「上手くいってるカップルの心中か‥‥。なかなかないかもな」
「そう、周りからも反対なんてされてなかったし、自殺をする動悸も見当たらないんだ」
「でも、人には分からない心の闇だってあるだろ。誰だって」
 探るような言葉、鋭い視線。それをまともに見ないように気をつけながら、暁は艶やかに微笑んだ。物事を誤魔化す時によく使うこの笑みは、追及の手を逃れたい時に活躍する。
「おかしなことはそれだけじゃないんだ。2つの遺体は死亡推定時刻が異なっているし、見つかった場所がバラバラ。後から死んだと思われる遺体が何者かによって首を絞められていたりもする」
「第三者の存在は?」
 先ほどまでの半信半疑と言った表情を引っ込め、やや固い真面目な口調で質問する冬弥に、つられて暁も真剣な口調に変る。
「確認できてない。いなかったと断定は出来ないけれど、逆にいたと断定する事も出来ない」
「お前は、いなかったと思ってるのか?」
「死亡推定時刻の誤差は、長い場合で4時間から5時間にもなる。その間、残った1人は見知らぬ第三者と何をしていたの?」
「見知らぬってわけじゃないかも知れないぜ?」
「それに、ここまで来るのに徒歩はキツイよね」
「車は残されていたのか‥‥。でも、2台で来た可能性もあるだろ?」
「可能性を上げればキリがないよ」
「確かにな。‥‥死者が蘇るってお前が言うだけの証拠があるんだろ?」
 もったいつけずに早く教えろと言う瞳に頷くと、暁は無意識に首に手を当てた。
「首を絞められて亡くなっていたの、女の人なんだけど‥‥首筋についていた指の痕が、亡くなった男の人のものとそっくりなんだ。怪我をしてから左手の薬指に思うように力が入らなくなってたところとかね」
「左手薬指の部分だけ痕が不鮮明だったってわけか‥‥」
 懐中電灯がAエリアとBエリアの間にある廃校を映し出す。淡い黄色の円の中に収められた木の校舎に窓ガラスはなく、かつてはガラスがはまっていたであろう場所には、光の進入を拒むように闇が横たわっている。
 伸びた雑草が1階付近をぐるりと囲み、正面玄関だけが雑草の間でぽっかりと口をあけている。
 先ほどから垂れ込めていた霧はいっそう濃さをまし、Bエリアへの侵入を拒むように乳白色の闇が広がっている。
 暁は校舎を一瞥しただけで、霧の中へと分け入ってBエリアへと進もうとした。懐中電灯の光がさっと校舎から立ち退いたその瞬間、3階の窓に誰かが立った。濃い闇を背負い、自身も黒に染まった人物は男なのか女なのかの判断すらもつかなかったが、刹那感じた狂気の視線は暁の肌を刺激した。
「今、誰かいた‥‥」
 再び光をそちらに向けてみるが、先ほどと変らない朽ちた校舎が浮かび上がるだけで、人影はない。
 隣を見上げれば、冬弥が難しい顔で佇んでいる。どうやら彼は人影を見なかったらしい。
「行ってみよう」
 無駄に肩に入っていた力を抜き、咄嗟の場合にも何等かの対処が出来る程度に程よい緊張感を体中にめぐらせると、崩壊した扉から校舎内へと入った。
 奥へと伸びる廊下はところどころ落とし穴が仕掛けられており、埃と腐りかけた木の匂いが充満していた。ささくれ立った木に触らないように気をつけ、誰かが引っかかったらしきトラップに落ちないように注意しながら廊下に足を下ろした時、突然チクリと首元に痛みがさした。
 針先で刺されたような、小さく鋭い痛みに顔を顰め、首筋を触ってみるものの何も刺さっていない。気のせいにしてはあまりにもリアルな痛みに首を傾げながら、闇と霧が支配する場所を舐めるように懐中電灯の光で照らす。
「3階の窓辺に人影を見たんだ」
 霧のせいなのか、それとも湿った木のせいなのか、暁の言葉は不自然に歪んで聞こえた。自分が発した音とは違う音が聞こえた気がして頭をふる。
「行こう」
 冬弥をチラリと振り返り、歩き出す。今度は自然な形で伝わった音に、自分が必要以上に緊張しているのに気が付き、思わず苦笑する。
 死者が蘇る村だから、何だと言うのだろうか。全ての死者が蘇るわけではない。まして、死者に逢える村などではないのだから。
 かつては何年何組と書かれた紙がはさまっていたプレートが、ひび割れて蜘蛛の巣のように細かい線をいれている。扉の上部にはめ込まれていたであろうすりガラスはすでになく、乱雑に放り投げられた机と椅子が転がり、黒板にはスプレーで悪戯書きをされた教室内が見て取れる。
 お菓子の袋やペットボトル、コンビニの袋。これらを持ち込んだ人達は、果たしてこの村から生きて帰れたのだろうか。
 廊下のほぼ中央に位置する階段を上る。左右を教室にはさまれた階段の反対側にはトイレがあり、もとはピンクと青だったタイルは変色して色が薄くなり、泥らしきものがこびりついている。
 今にも抜けそうな危うい階段を上りながら、暁は後ろを歩く冬弥を振り返った。
「冬弥、大丈夫そうか?」
「は?なにが?」
「床、抜けない?ほら、俺は体重軽いけど、冬弥は俺よりもあるだろ?」
「俺がデブだと言いたいのか?」
「違くって‥‥てか、冬弥は別に太ってないじゃん。細い方っしょ?ただ、俺より背があるからさ‥‥」
 冬弥にしてはおかしな受け答えに、暁はじっと彼を見つめた。察しの良い冬弥ならば、最初に暁が大丈夫そうかと声をかけた時にすぐに階段の事だと察し、それなりの返事をしそうなものだが。冬弥もこの雰囲気に呑まれ始めているということなのだろうか?
「もしかして、とおやちゃん‥‥ちょい太った?馬肥ゆる秋になっちゃったとか?」
 霧と闇を背後に、懐中電灯の光に浮かび上がった冬弥が不気味に微笑む。背筋が冷たくなるような無機質な笑顔から顔を背けると、ギシギシと抗議の音を立てる階段を上る。
 2階は素通りし、3階に向かって階段を上る。ギシギシ、ギシギシ‥‥
 3階の廊下に立ったとき、不意に暁は今までの道のりで感じた奇妙な事を思い出した。さほど気にする事でもなかったために意識の上に浮上しては来なかったのだが、無意識ではあまりの奇妙さに警告のように違和感を感じていたこと。
 まだ階段を上がっている途中の冬弥を振り返る。残り3段、2段、1段‥‥音がしない‥‥
 暁が体重をかけるたびに鳴っていた階段は、冬弥が体重をかけてもまるで何も乗っていないかのように、悲鳴1つあげようとしない。
「お前が人影を見たの、どの部屋だったんだ?」
 ふっと暁の脇を通り抜け、廊下の奥に横たわる闇と霧を睨みつけながら懐中電灯を右へ左へ踊るように振る。
 普段はふわりと香る香水の匂いもしない彼からは、不自然な水の臭いが立ち上っていた。
 暁は咄嗟に彼から距離をとると、ポケットに仕込んであった小型の折りたたみ式ナイフを抜いた。
「おいおい、いったい何のマネだ?」
「お前、冬弥じゃないだろ」
「は?何のことだ?」
「冬弥、ほんの数分の間に香水変えた?‥‥そんなにこまめにつけるようなものじゃないと思うけど?」
 皮肉に吐き捨て、暁は軽く床を蹴って一気に間合いを詰めた。横に引いたナイフは冬弥の服を掠めたが、切り裂く事は叶わなかった。まるで空気を切っているかのような手ごたえのなさに、小さく舌打ちする。
「やっぱお前、冬弥じゃない。冬弥だったら、今くらいの速さなら難なく避けられたはずだし」
 冷たい汗が頬を伝う。こちらからの攻撃が効かない相手と対峙した場合、とれる行動は逃げる事のみだ。しかし、安易に背中を見せてはいけない。ほんの一瞬の隙をついて階段を駆け下りるしかないが、先ほどの反射神経と良い、暁が無事に1階までたどり着ける可能性は極めて低い。
「攻撃されるとは思っていない相手から突然攻撃されたら、判断が鈍るのは当然だろう?」
「‥‥そうやって、ここに来た人達を殺したのか?相手に警戒心を抱かせない人の姿を借りて?」
 クスリ、冬弥の口元が歪められる。艶かしい色香を漂わせた微笑は、男女を問わず魅了する力を持っており、暁は無意識に1歩距離をとった。
「冬弥もお前みたいな顔が出来たら、人生楽勝だったと思うんだけどなー」
 俺の我が侭に付き合って、半ば強制的にこんな場所につれて来られることもなかったはずなのに。
 冬弥のことへと飛ぼうとしていた思考を切り替える。今は人の心配をしている場合ではない。すぅっと息を整え、腰を落とすと肩から力を抜く。どこから来ても避けられるようにと体制を整えた瞬間、ふっと霧が濃さを増し、冬弥の姿を包み込んで溶かした。
 緊張感が高まり、視線を素早く左右に振る。左肩を引いて振り返った時、背後で大きな音が鳴った。
 何か大きな力がかけられ、物が崩れ落ちる音。暁の目の前で、階下へと続く階段は途中から消え失せた。
 懐中電灯の光を下へ向けてみるが、霧と闇に閉ざされて床が見えない。見えないと言うだけで、恐怖が膨らむ。一度落ちたら二度と戻ってこれないかもしれないと思わせるほどに、闇と霧が不気味に混じり合っていた。
 暁は踵を返すと廊下を走りぬけた。それほど大きくない学校とは言え、階段が1つだけしかないということはあまり考えられない。暁の走る速度にあわせて懐中電灯の光が大きく上下に動き、闇を切り裂いては不気味に佇む扉や教室内を浮かび上がらせる。
 廊下の一番端、右手に開いた空間に光を向けた瞬間、目の前に人影が浮かんだ。反射的に飛び退き、威嚇するようにナイフを突きつければ、相手もこちらと同じように飛び退き、ナイフを突きつけた。鋭い眼光に僅かに恐怖を滲ませた瞳は赤く、暁はそれが鏡に映った自身の姿である事に気づき、ナイフを下ろすと苦笑した。
 姿見が取り付けられた階段は上へ伸びる道は残っているものの、下へ伸びる階段は途中で断ち切られている。階段がダメとなると、何か使えるものを探して窓から脱出するしかない。カーテンでも残っていれば良いのだが‥‥。諦めて教室へ取って返そうとした暁の足元で、ジャリっと小さな音がした。光を向ければキラキラと反射するソレは鏡の破片だった。
 割れた鏡の破片か‥‥。でも、あの鏡、割れてたか‥‥?
 顔を上げる。鏡に映った暁の姿は、胸から下しかない。鏡は丁度暁の胸の部分で割れており、埃と細かいひび割れとで不鮮明にしか姿を映さない。
 それなら、さっき映ったのものはいったいなんだったと言うのだろうか‥‥?
 乳白色の霧が全身にまとわりつく。冷たく湿った霧は必要以上に暁の心を揺り動かし、普段ならば心底に潜んでいる些細な恐怖心を刺激する。
 暁は鏡に背を向けて走り出すと、手前にあった教室に飛び込んだ。1階で見た教室よりも比較的整ってはいるが、机と椅子がバラバラに放り投げられている。ぱっと見た限りでも、机と椅子の数があっていない。
 割れた窓から吹き込む風が、元は白かったであろうボロボロのカーテンを揺らす。暁は乱暴にレールからカーテンをむしりとると、適度な大きさに裂いて繋げた。窓には全部で4枚のカーテンがかかっており、全てを繋ぎ合わせれば何とか下まで伝って下りられる程度の長さにはなった。
 窓から外を見れば、月明かりが霧の間をすり抜けて鈍く地上を照らしているだけで、星の輝きは見えない。今にも壊れそうな不安定な机を足場に、強い力をかければ簡単に壊れてしまいそうなレールにカーテンで作った縄の端を括りつける。ためしに数度強く引いてみて、自身の体重を持ちこたえられそうだと判断した時、霧の向こうに人影が2つ立った。
 Bエリアへと向かっている人影は冬弥と暁のもので、チラリと見えた冬弥の横顔からは警戒心は微塵も感じられない。
「冬弥!!」
 サビの浮いたサッシに手をかけ、身を乗り出して声を張り上げるが、深い霧が全ての音を吸収してしまっているのか、声はまったくと言って良いほど響かなかった。これ以上呼びかけても無駄だと判断した暁は、下唇をぎゅっと噛むと汚いカーテンの縄を下へ垂らした。
「これでもし落ちて怪我でもしたら、責任とってもらうからね、とおやちゃん」
 わざとらしく明るく言い放ち、暁はサッシから身を乗り出すとカーテンに全体重をかけた。



 気が滅入るほどの霧は懐中電灯の光を無闇に拡散し、ほんの数m先すらも包み隠している。まるでミルクの海を漂っているような感覚だった。霧によって髪や服が湿り、不快な冷たさを伴って体温を奪っていく。暁は慎重に歩を進めながら、時折右手の闇に光を向けた。
 AエリアとBエリアの中間にある廃校を脱出して数分、走って冬弥と暁の後を追いかけたのだが、彼らの姿は見つけられなかった。ゆっくりとした足取りだった2人にまだ追いつかないはずもなく、知らずに途中で追い抜いてしまったことも考えられなかった。BエリアはAエリアとは違い、幅の広い踏み固められた道は1本しかない。暁の頭の中に描かれたこの村の地図上では、もうすぐで洋館に到着する頃だった。
 もしかしてあれは霧が見せた幻だったのではないか、そう思う反面、すでに冬弥は深い谷底に落とされているのではないかと思う。
 自分ではない、もう1人の暁の手によって‥‥
 不快な思考を断ち切るように、暁は首を振ると溜息をついた。
 冬弥に限ってそう易々とやられることはないだろう。ただ1つ心配なのは、ポケットに入っているナイフだ。丸腰の冬弥とナイフを持っている暁。普通に考えてみれば、こちらの方が有利だ。
 光が霧の向こうにある大きな何かを浮かび上がらせる。近付いてみれば、サビの浮いた頑丈そうな大きな門で、人1人が通れそうなほど細く開いていた。門を開閉するためのレールと車輪がもう壊れているらしく、どんなに押してもそれ以上は開かなかった。
 鉄門の中央に掘り込まれた猛禽類の鋭い眼光を感じながら、するりと抜ける。荒れ放題の庭は、かつては薔薇が蔦をはって彩っていたであろうアーチが淋しそうに佇み、百合や向日葵など、季節によって様々な花を咲かせていたであろう花壇は名も知れぬ雑草が我が物顔で占領している。
 枯れた噴水の底には枯れ葉と泥が堆積しており、中央で瓶を持って立つ女神像は首から上がない。不用意に触れてしまえば崩れ落ちてしまいそうな噴水を右手に、暁は洋館の正面玄関の前で足を止めた。両開きの扉の片方はなくなっており、コケの生えた赤絨毯が足元に敷かれている。建物の中からは物音一つ聞こえず、闇と霧が絡まりあうそこは、人の侵入を拒んでいるかのようだった。
 暁は洋館の中には入らずに、外側を一周して裏庭へ行く道を選んだ。
 蔦が絡まったレンガ造りの外壁を左手に、前庭を通り抜け、高い塀と建物の間を進む。さほど荒れていない細道を見る限り、ここを訪れたものは皆洋館の中を行く道を選んだのだろう。
 洋館の正面から半分ほど来たところで、急に霧が薄れてきた。1歩進むごとに薄くなる霧は、裏庭に到達した時には消え去っていた。
 元はブランコだったらしき鉄の塊が一角に無造作に捨てられており、その近くにはボロボロのベンチが置かれている。切り立った崖の上に作られた裏庭からは、隣の山がすぐ近くに見える。
 暁は慎重な足取りで進み、ぐるりと囲んでいる手すりが外側へ開いている場所に立つと下を覗き込んだ。
 月明かりで薄っすらと見える白い線、崖の途中にせり出した岩場。そこは他の場所とは違い、土が赤黒く変色していた。その色は、おそらくここから落ちた人達の‥‥
 砂を踏む音と殺気を感じたのはほぼ同時だった。ポケットに手を滑り込ませ、振り向きざまに切り裂く。空を一閃したナイフの向こうには、薄い微笑を浮かべる暁が立っていた。
 自身と同じ俊敏さでナイフをかわした暁は、軽く地を蹴るとこちらに飛び込んできた。右手に光ったナイフを避けようと身をよじるが、その行動を読んでいた暁の左手が肩に食い込み、押し倒される。
「良かったよお前、俺の姿で出てきてくれて。俺、一度自分と戦ってみたかったんだよねー」
 上に乗った暁を睨みつけながら、軽口をたたく。双方の喉下につきつけられたナイフが、月光を鋭く反射する。
「なかなか出来る事じゃないしな、キチョーな体験ってやつ?」
 一瞬の隙も出来ない相手に、暁は自身の能力の高さを再確認した。逸らそうとしない瞳は、ほんの僅かな隙すらも見逃すまいと語っている。まるで鏡を見ているような不思議な感覚に、これが夢なのか現実なのか分からなくなる。
 長い膠着状態は精神をすり減らして行くが、隙は見せられない。1分が数時間にも感じるような緊張状態の中、一か八かの賭けに出ようと右足を動かした時、屋敷の中で何かが光った。
 黄色くぼやけた光は瞬く間に近付き、派手な音を立てて裏口のドアを壊した。
「大丈夫か!?」
 上に乗っていた暁が、飛び出してきた冬弥に驚いて振り向く。その僅かな隙をつき、暁は右足を胸に引き寄せると思い切り突き上げた。
 薄く筋肉のついた腹部に入った足に更に力を入れ、勢いをつける。ナイフが頬の皮を薄く裂き、温かい鮮血が流れるのを感じながら、暁は後転の要領で相手を後ろに跳ね飛ばした。
 紅の瞳と目が合う。薄く微笑んだ暁は、頭を下にして落ちていった。腕と腹筋の力で起き上がると、ナイフを構える。探るような目つきで冬弥を見れば、落ち着き払った態度の彼が肩を竦めた。
「自分の影を倒したついでに俺を闇討ちする気か?」
 早鐘になる鼓動と荒くなる呼吸。散大した瞳孔には懐中電灯の光が眩しい。
「名案だけど、今日は止めとくよ」
 暁はナイフをしまうと、地べたに手をついて下を覗き込んだ。せり出した岩場にはトロリとした赤い液体が広がっているが、暁の姿はない。
「霧が薄れてきたみたいだな」
 冬弥の声を背で聞きながら、暁は異様に高鳴る鼓動と高まる不安を落ち着かせるべく、深呼吸をした。



 夜明け間近の空は、様々な色が溶け込んでいて美しい。朝日よりもやや早く目覚めた鳥達が朝の挨拶を囁く声が遠くで聞こえる。
「つまり、冬弥は学校から少し先に行った後で引き返したってこと?」
「あぁ。霧が濃くなればなるほど、影が暁らしくなっていったからな。だから、来た道を戻れば消えるんじゃないかなと」
「あれって結局なんだったわけ?ドッペルゲンガー?」
「お前さ、学校に入った時、首筋に何か刺さったような感じしなかったか?」
「したけど‥‥もしかして、アレが原因?」
「おそらくな。あの時影が出来て、俺たちを二分したんだ」
 不自然に響いた声を思い出す。あの時、自分の発した音とは違う音が聞こえた気がしたのだが、気のせいではなかったのだ。
「冬弥はあの時どこにいたの?」
「1階にいたんだけど、その時点で妙だと思ったから、警戒しつつ顔には出さないようにしてた」
 廃校の場面を思い出す。懐中電灯に照らし出されたそこは、1階の部分は名もない草に覆われており、外からは見えなかった。
「霧が濃くなるにつれて、相手の力が強まり、実体を持てるようになるんだろうな、きっと」
「裏庭から身を投げた人は、自殺したわけじゃなくて突き落とされたのか‥‥。でも、大学生のグループが言ってた、仲間に刺されたって言うのは?」
「こっからは推測だが‥‥お前、岩場が赤黒く変色してたの見たか?」
 暁の影を落とした後に見た鮮血が脳裏に浮かぶ。けれど映像はすぐに巻き戻り、最初に崖下を覗き込んだ時のものに切り替わる。
「あぁ。‥‥そうか、あそこに落ちた人は‥‥」
「大量の血があれば、それだけ実態に近づけるってことじゃないかと思うんだ」
「あの岩場が元凶だったのか‥‥?」
 まるで生贄を供える台のような岩場だった。その上に落ちた自分の姿を思い、暁は唇を噛んだ。落ちたのは影であり、生贄となったのは暁自身ではないというのに、言いようのない不快感は霧のように心の中に広がっていった。
「分からないけど、無関係ではないだろう」
 だから冬弥は壊したのだ。どうやって崩したのかは分からないが、暁が崖に背を向けた時に凄まじい音がし、見れば岩場は跡形もなくなくなっていた。
「ねー、冬弥。こっから県道まであとどれくらいかかる?」
 影が落ちていくときの顔、死の香りを纏った水の匂い、赤黒く染まった岩場。グルグルと回る光景から目を逸らすと、暁は冬弥を上目遣いで見つめた。
「さぁ?‥‥言っとくけど、疲れたとか喉渇いたとか言ったら怒るからな」
「じゃぁ、おんぶか抱っこ」
「‥‥‥」
「お姫様抱っこも可!」
 ギロリと睨みつけられ、暁は曖昧に微笑んだ。行き道はタクシーで来た2人だったが、帰りのことは考えていなかった。携帯電話が通じるかと一縷の望みを託したのだが、こんな山奥に電波は届いていなかった。
「なんか、とおりゃんせみたいになってるよね、俺たち」
「誰のせいでだ、だ・れ・の!」
 はぁぁ〜と盛大な溜息をつく冬弥。心なしか歩行速度がアップしている。置いていかれないようにと歩幅を広げた暁が隣に立つ。
「‥‥結局お前、あの村で何がしたかったんだ?」
「原因を突き止めたかっただけだよ」
「原因を突き止めて、これ以上犠牲者が出ないようにしたかったのか?」
「そうとも言うかな」
「いや、違うな。お前はそんなヒーローキャラじゃない」
「ひどー!俺はか弱いヒーローなんだぞ」
「か弱いヒーローなんて、いらないっつの。ただの足手まといじゃねぇか」
「んじゃぁ、か弱いヒロインなんてどうかな?ヒーローは、とおやちゃんに譲ってあ・げ・る」
 するりと冬弥の二の腕に手を伸ばし、艶やかに微笑む。媚を売っているような、それでいて挑発しているような眼差しを受け、冬弥の顔が引き攣る。振りほどけば良いのだが、振りほどけない。蛇に睨まれた蛙状態の冬弥に苦笑すると、暁は身体を離した。緩やかな坂道を跳ぶように下り、冬弥から距離をとると振り返った。
「ねぇ、冬弥。あの時岩場に叩きつけられたのが本物で、今いる俺が偽者かもよ?」
 表情を伺う。徐々に明るさを取り戻していく細道は、懐中電灯なしでも足元が見えた。
「お前、もし俺が偽者だったらどうするんだ?本物は、途中の崖から落とされてたら?」
 冬弥の表情から心は読めない。暁も表情を消そうとするが、どうにも上手く行かない。泣き笑いのような不思議な表情のまま、暁は口を開いた。
「同じだよ。偽者でも本物でも、この世に1人しかいないなら‥‥」
 あの時、落ちたのは本当に影だったんだろうか?本物を落とした影が、本物の記憶を盗み、なりきっているだけなんじゃないのか‥‥?
 微かな疑問が浮かぶ。けれどすぐにその疑問に、暁は自分なりの答えを出した。
 そう、どっちでも同じこと。1人しかいないなら、本物がいなくなってしまったのなら‥‥



 岩場が崩れてしまった場所にポッカリと開いた洞窟を辿れば、洋館の地下室へと出る。既に地上に出られる扉が錆び、閉ざされたまま固まっている。
 暗くじめじめとした空間の中で、薄い霧が渦を巻く。誰かの思念なのか、怨念なのか、はたまた古来より土地に住み着いているものなのか。
 それは人の心の隅に巣くう、ほんの小さな闇を喰らうのが好きだった。それは人の血を欲し、奪い、闇を喰らい、闇の従うままに行動する。
 愛しい人を一瞬でも憎む、その時の殺意。仲間との些細な口喧嘩で芽生える憎悪。
 けれどそれにとって、一番必要なのは血だった。闇を喰らって行動するのは、些細な遊びでしかなかった。
 それはゆっくりと洞窟内を漂うと、新しい岩場を作り、洋館へと移動した。割れた窓から差し込む朝日に眠りの時を悟ると、再び岩場に戻った。
 1夜1夜でしか生を得られないそれは、眠りにつけば全ての事を忘れる。全ては無に還り、再び夜に生き返る。
 死が迫った刹那、それは暁の姿になると短い言葉を口にした。
「心の闇は消えたのか‥‥?それとも‥‥」





END

PCシチュエーションノベル(シングル) -
雨音響希 クリエイターズルームへ
東京怪談
2007年11月02日

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