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『doff a mask 』
芳賀・百合子5976)&朝深・拓斗(5977)&(登場しない)

 一際甲高い和笛の音が、暮れながらも高い空に吸い込まれて行く。
 調べを転じ、飽くことなく続く祭り囃子が夏の空気を浮き立たせ、芳賀百合子は参道に軒を連ねた夜店の原色を見渡した。
 参道には既に人の流れが出来つつある。
 子供連れや浴衣の少女、真っ黒に日焼けした少年達。
 どの顔も笑みに溢れる様に、百合子は一歩先を歩く朝深拓斗の浴衣の袖を軽く引いた。
「何だよ?」
語尾上がりの声に、不機嫌を感じ取った百合子は、引いた袖から急いで手を離す。
 同い年の少年は、藍地に竹葉を瓶覗きに染めた浴衣を、襟元もピシリと正しく纏っていた。
 古式ゆかしい模様は、彼によく似合う。
 百合子は白にぼんやりと青い花を滲ませ、同色の兵児帯を濃淡で二本使いにした装いが子供っぽいものに思え、気後れに口を噤んだ。
「……何だよ」
胸元に手を寄せ、黙ってしまった百合子に気付き、拓斗は幾分か語調を和らげ、肩越しにもう一度問うた。
 百合子を背に庇うように先に立つ、拓斗は舞殿に立つと同質の緊張を纏っている。
 右の手に太刀がないことが落ち着かないのか、幾度も包帯を巻かれた手を開閉する様が後ろからよく解った。
「え、と」
促されて百合子は言葉を迷いに途切れさせ、ふぅ、と小さく息を吐き出すと、行き場のない手を軽く腰の前で組んで落ち着かせる。
「人がたくさんだね、村のお祭りとは全然違うかも」
「人なんて、今更珍しくないだろう」
如何にもお上りさんな百合子の発言に、拓斗は背を見せたまま呆れたように肩を竦めた。
 それに、心持ち肩の力が抜けたようにも見える……意図は確かに拓斗に通じたようで、百合子も僅かな安堵を覚える。
 神事のみが催される、山神を鎮める為の祀りと、この祭りは、違う。
 人々は笑いさざめき、神の言祝ぎの是非を意に介した風もなく、ただ日常と違う空気を楽しんでいる。
 意識してみれば、それは至極不思議なことのようで、百合子は思わず足を止めた。
 それを見計らったように、人波が百合子を取り残して参道と交差する路地の幅だけ途切れる。
 百合子の遅れに気付いた拓斗は、参道を脇に抜ける路地に一歩動き、不承不承、といった様子で手を差し延べた。
「……はぐれんなよ」
ごく僅かな距離だが、自分を待つ為の挙措が嬉しく、百合子は大きく頷いて拓斗に手を伸ばす。
 そうして小走りに駆け寄ろうとした百合子の手は、拓斗に触れることは適わなかった。
「お前トロイんだか……らっ?」
側面からの衝撃、というよりはふわりと浮き上がる感触で、瞬く間もなく拓斗の呆気に取られた顔が遠ざかる。
「き……きゃ、ぁ?」
突然の事態に悲鳴を上げようとした百合子だが、それは迷いに尻すぼみに消えてしまう。
「セイヤセイヤセイヤセイヤ!」
百合子が身を預けるは、祭り装束も勇ましい猛者に担がれた御輿の上だった。
 行く手を阻む者は、このようにもれなく輿に掬い上げて運ばれてしまう、この祭りの特殊な作法を百合子が知る筈もない。
「わー、あのおねーちゃん、いーなー」
幼児の羨望の眼差しも、あっと言う間に遠ざかり、百合子は取り敢えず後ろに向かって手などを振って見てやる。
「セイヤセイヤセイヤセイヤ!」
見事な唱和に、氏子衆の心は一つ。
 そしてそれには、今この場では百合子しか気付いていない一声が混じっていた。
どを振って見てやる。
『野郎共まくり飛ばせーッ! 今こそ風になるんだーッ!』
神輿とは、神の乗り物。即ち神。
 日の丸鉢巻きを締めた氏神が、氏子達に激を入れながら参道を駆け抜ける。
 まさしく一丸となっての勢いに抗することが出来ずに。
 百合子は為す術もなく、本殿まで運ばれていった。


「頼むから少しはしっかりしてくれ……」
爆走する神輿に拉致られるなどという事態は、自助努力でどうにかなるものではない。
 その神輿を追って浴衣姿で百五十メートルの直線コースを駆け抜ければ、それでも言わずにいられないだろう。
 息を荒げ、色々な感情をその一言に納めた拓斗に、百合子は恐縮するしかない。
「……ご、ごめんなさい」
その両手には缶ジュースが握られている。
 神輿を下ろされた際、奉納品の一部であるジュースを頂いたのだが、拓斗は頑として受け取ろうとしない。
 しかしそれでも帰るつもりはないのか、当たり前のようにして、参拝待ちの最後尾にもう一度ついた。
「帰らないの? 拓斗」
恐る恐る聞く百合子に、拓斗は眉間に眉を寄せたまま、正面を睨んだ。
「挨拶もせずに帰っちゃまずいだろ」
生真面目さの窺える意見に、百合子は軽く眉を上げて小さな笑いを零す。
「……何だよ」
「ね、拓斗。神様も笑ってるよ」
冷たく露を結ぶ缶を、掌で音を集めるときにそうするように耳の後ろに添えて百合子は目を閉じた。
「楽しそう……ここの神様は人間のことが好きみたい」
スピード狂と思しき氏神は、その原動力である氏子達に喝のような気合いのような、そんな言葉をかけている。
 神の言葉が届く人間は稀と知っていても、人間に関わり、土地を守ろうとする、地域に根ざした信仰が感じ取れた。
「相変わらず聞こえるのか?」
耳を澄ます百合子の手から、痛い程に冷えている缶を受け取って、拓斗はその場で軽く放り投げ、また片手で受け止める。
 声なき存在の声を聞く、自分の性質を指しての言に、百合子は小さく頷く。
 人に、拓斗に、見えざる存在のことをいつから進んで話さなくなったのだろう。神に限らず、人間の目に捉えることの適わない、しかし百合子に優しい存在達。
「……村の神様は少し怖い」
正直な心情が、ぽつりと口を吐いて出るのに、拓斗が弾かれるように百合子の顔を見た。
「でもここはちょっと違うね」
その視線に百合子は微笑みを向け、ゆっくりと前進する列に従って歩を進める。
「神様もだけど、お祭りに来ている人たち皆笑ってるもの」
百合子は、楽しげな空気に引かれた人ならざる存在や、神酒を振舞って陽気な場の主、そして笑いさざめく人々の姿を捉え、声を聞く。
 どうしても頬の緩みを抑えられない百合子は、身長差の分、拓斗を見上げてその顔色を伺う。
「神なんてどこも似たようなものかと思ってたが……違うんだな」
拓斗は鼻から短く息を吐き、缶ジュースを額に押し付けた。
「なら仕方がない、勘弁してやるか」
未だ神輿拉致事件を引きずっていた拓斗に、百合子は小さく笑い声を立て、話している間に漸く回ってきた参拝の最前列に移動した。


 射的にヨーヨー釣り、三角くじにガムの型抜きにマスコット掬い。
 主に小学生以下ターゲットを絞った出店を堪能し、残念賞の吹き戻しをピルピルと鳴らしながら、百合子は拓斗の先を行く。
 往路とは色々な意味で真逆の状況に、今度は忠犬の如く後につく拓斗だが、その表情は相変わらず固かった。
「楽しいね♪」
それに反し、実に楽しげなのは百合子である。
 戦利品を抱える足取りも軽く、率先して興味を持った屋台へと突撃をかける。
 背を気にすることない百合子の、無意識の信頼に抗うことなく、拓斗も同じ遊戯に参加していた。
 そして興味のなさが無欲の勝利に繋がるせいか、拓斗の手にする景品は百合子のそれより明らかに上だ。
 かさばるばかりの、原色ビニール製のクマを背負う拓斗に、百合子は喜色を浮かべて振り返った。
「拓斗、金魚すくいやってみようよ」
合間にヤキソバや揚げ餅、リンゴ飴、チョコレートフルーツにかき氷を制覇しながらも元気な百合子に、拓斗は思わずの胃の辺りを押さえた。
 些か凭れ気味の胃にかかる圧迫がどうにかならないかと、拓斗はビニール紐をおんぶ紐よろしく括り付けられたクマをよいせと背負い直した。
「……やめとけよ」
足は既に目的の屋台に向いていた百合子だが、不意の拓斗の制止に振り返る。
「拓斗?」
「夜店の金魚なんか、すぐに死ぬだろ」
口を吐いて出た、否定的な響きに、拓斗は胸の内で臍を噛む。
 言いたいことは違うはずなのに、楽しそうな……何もかも、忘れているような百合子の様子に、言うべきでない言葉が出てしまった。
 べよよん、と百合子の手にした水風船が輪ゴムに引かれて奇妙な音を立て、ぱしゃりとウチで弾ける小さな水音を響かせる。
 足を止めた場所は、懐かしいような、張り子の面と風車を商う屋台の前。
 参道を渡る形で吹きすぎた風が、和紙で出来た風車の羽根をカラカラと回し、奇妙な静けさを呼んだ。
 何故、と百合子が視線で問うている。
 楽しさに水を注す発言の後ろめたさに、拓斗は思わず目を逸らした。
「……楽しくても、どうせいつかあの村に戻るんだ」
拓斗の目には、俗っぽい祭りを満喫する百合子姿は、まるでごく普通の少女のように映っている。
「もっと現実を見ろよ。俺達にはするべき事があるだろ」
それはまるで触れることの出来ない絵のようで、そしてそうと感じる自分は決してその風景に溶け込めない。
 百合子が楽しそうであるほど、裡に抱える決意が重さを増し、全てを自分で抱えている錯覚に陥る。
 狭量さを自覚しながらも、口に出さずに居られない自分に歯噛みし、拓斗は百合子の言葉を待った。
「おじさん、これ下さい」
百合子の声に顔をあげれば、彼女は目の前の店で面を買い求めていた。
「百合子」
自然、咎める口調になる拓斗の呼び掛けに、百合子は仄かに笑って見せた。
 カラン、と下駄の音を軽く響かせて、百合子は求めたばかりの面……ウサギのそれを、拓斗の顔に乗せた。
「ん……でもね。戻らなきゃいけないけど、戻るまでの間にたくさんたくさん楽しい想い出を作っても良いと思うよ」
狭まる視界の中、小さく頷いた百合子の黒目がちな眼は、変わらずに拓斗の眼差しを捉えている。
 面を支える百合子の手が離れるのにつられ、自分で面の顎先を摘んで持った拓斗は、息苦しさを覚えて、僅かに口を開いた。
 百合子は、何も知らない。
 知らないからこそ口に出来る無邪気な願いに、拓斗は笑えない……笑ってやれない。
 求められても与えることの出来ない表情を、面が隠してくれている。
「いつか、ずっと後になってから思い出して笑えるような、そんな思い出」
百合子は何も、知るはずがない。
 けれど百合子は、何もかも心得ているような強い横顔を見せ遠く、多分、未来へ眼差しを向けた。
 夜祭りに出向こうと、強く誘ったのは百合子だ。
 それは、今まで言われるままに舞を修め、知らされぬまま望まぬ道を進んで来た、彼女の表情はいつもと違う質を持ち、拓斗は息を呑む。
「今じゃなくても、笑ってね、いつか」
言って目元を細めた百合子がタッ、と軽く駆け出そうとするのを追って、咄嗟に細い手首を掴む。
 淡い花模様に包まれた細い体が、幻灯めいた夜店の原色の明かりに紛れてしまいそうな、不意の不安がそうさせた。
 支えを無くした面が石畳に落ち、カラランと軽い音を立てて、百合子の足を止める。
「拓斗?」
「……金魚すくい」
地面に落ちたウサギの面が微笑みの形に唇を引き、拓斗を見上げている。
「やるんだろ、金魚すくい」
伏せた眼差しにその姿を捉えながら、拓斗は百合子の手を引いて隣に並んだ。
 歩き出しても、握る手はそのままに。
「俺だって初めてだからな。掬えなくても笑うなよ」
拓斗の言に百合子は満面の笑みを浮かべ、大きく頷いた。
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2007年08月28日

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