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『スペシャル・ルーム 』
彼垣・紗名7064)&彼垣・まれか(7065)&(登場しない)


 この部屋って、こんなに広かったっけ。

 紗名は、ただ呆然と部屋の中央に座り込んでいた。
 誰もいない、たった自分ひとりだけの部屋に、ただただ――座り込んでいた。

 ◇

 昼も僅かに過ぎた頃、いつもの通りに部屋の掃除をしていたまれかの耳に、唐突に『にゃん』と小さな声が響いた。

 紗名とまれか――二人が一緒に住むようになって、もう一ヶ月が経とうとしている。
 最近は紗名も口うるさく『帰れ』などと言わなくなってきたし、だからまれかはすっかりお嫁さん気分で、こうして毎日甲斐甲斐しく部屋の掃除などしていたりするのだけれど、そのまれかの耳に、間違いなく猫の鳴き声が聞こえてきたのだった。
「……??」
 小さく首を傾げて窓の外に視線を向けた。
 ベッドの下まで綺麗にしようかと手を伸ばしかけていた時だったから、それはある意味丁度いいタイミングだったのかもしれない。
 鳴き声が聞こえた瞬間に、つい先日、紗名に『ベッドまで触んなくていい』と言われていたのを思い出したから。
 窓をあけて、少し身を乗り出すようにして眺めると、二回の屋根に猫が一匹。尻尾をゆるゆると振りながらこちらを見ている。
「ねこ……!」
「にゃー」
 嬉しさと驚きで思わず声を上げると、その猫は飛ぶように身を翻した。
「え、え、うそ、待って、待ってぇ!!」
 しなやかな動きで視界から消えていった猫に、まれかの胸はドキドキと興奮を覚える。
 じっと自分を見ていた、あの猫。
 まるで自分を呼んでいるみたいだった、あの鳴き声。
「猫……ッ!!」

 ――サナもきっと、あの猫を見たら可愛いって言うはず!

 夕方帰ってくる旦那様――もとい、紗名の姿を思って、まれかは目を輝かせながら掃除もそこそこに一歩を踏み出した。
 最後に手を触れられなかったベッドだけが、そんな少女の行動を知っていた。

 ◇

 その日紗名は、珍しく早くに帰路へとついていた。
 予想外に、そして予定外にバイトを早く上がれたのだった。
 ここ最近、遅くまでいたり、病人の代わりにシフトに入ったりしていたのを気にかけてくれていた店長が、今日はもう帰っていい、と言ってくれたのだ。
 人間誰しも自分の時間が予想外に出来るとなると、多少なりとも嬉しいもので――しかもこの夕方の時間ならば、ギターを弾いても隣近所に苦情を言われることもないわけで。
 だから紗名は、ご機嫌だった。
 コンビニでまれかのためにゼリー(新製品)を買って帰るくらいには。

 まぁ、今日の俺は機嫌がいいからな!
 たまにはいいこともしようじゃないか、一日一膳って言うし!!

『一日一膳』だと『一日一食』という意味になってしまうわけだが、とにかくそんな間違いを鼻歌交じりにスルーしてしまうほど、紗名はご機嫌だった。
 アパートが近くなると、次第に歩幅も大きくなる。
 玄関の扉を開く。
 鍵は、かかっていない。
「ただいまー。ゼリー買ってきたぞー」
 少女が出迎えてくるだろう事を予想しながら、彼は靴を脱ぐために足元へと視線を落としながら告げる。
 けれど、
「……まれか?」

 ――おかえりなさーい、サナぁ!

 いつもなら、そう返ってくるはずの声は――決して、返ってこなかった。
 ゆっくりと顔を上げる。
 誰もいない部屋が、誰もいない部屋だけが、紗名の帰りを待ちわびていた。
 思わず辺りを見回しながら「まれか」と呟く。
 いつもならば嬉しそうに駆け寄ってくる少女の姿は、どうやったって見当たらない。
「おい、まれか」
 1Kの部屋で見間違えようもないというのに、もう一度、紗名は少女の名を呼んだ。

 返事など、ない。
 誰もいないのだから。

 無言で、のろのろとテーブルの前に腰を下ろした。
 手に持っていたコンビニの袋が、身体を動かすたびにカサカサと寂しい音を立てる。
 その音が異常に大きな気がして、紗名は思わず小さく笑みを零した。
「……は。……はは、は、なんだよ、あいつ。やっと帰ったのか」
 ゼリーの入った袋をテーブルの上へと置きながら、零れた笑みに便乗して呟く。「やっとかよ」――紗名はもう一度繰り返し、
「……そうだ。元はといえば、帰って欲しかったんじゃん!?」
 僅かの沈黙の後、唐突にしゃべり始めた。
 ぐっと拳まで作って、はははー! とどこか窓の外を見つめながら口を開く。
「おお! 良かったじゃないか、俺!
 想像してみろ、ここ一ヶ月の出来事を!!」
 自分の言葉に、思わず自分で想像してみた。『ここ一ヶ月の出来事』を。

 腹にタックルを食らわされ。
 いきつけのコンビニには幼女誘拐を疑われ。
 大事な金は夕飯に使われ。
 周りの草木は、まれかの一挙一動に萌えるは枯れるは忙しく、最近に至っては嫁気取りで掃除なんか始めやがって、おかげで俺の大事なベッドの下の教科書(あくまでも教科書だ。決して18歳未満に見せられない本じゃねぇ!)が見つかりやしないかと毎日ハラハラして過ごしたりして!

「もうご近所に『あら、彼垣さん。今日はちっちゃなお嫁さん一緒じゃないの?』なんて言わせないッ!!」
 がっつり、ばっちり、ガッツポーズ!!
 作っていた拳を上に掲げ、この世の春だといわんばかりの満面の笑みで言ってのける。
「よし、このゼリーも食っちまえ!
 おーい、まれかー、ゼリー食っちまうからなー! 無いって文句言っても知らねぇからなー!
 お前はもういないんだからなー!!」
 人生って素晴らしい、と勢いをつけて袋からゼリーを取り出し、その蓋をベリとはがそうとして――。
「……」
 はがそうとしたところで、手が、止まった。

 どれだけ騒いでも、もう、声は返ってこない。
 甘いものを食べて幸せそうに笑う顔は、どこにもない。
 呆れさせるほどの我儘も、いっそ殺されるんじゃないかなんて思うほどのきついタックルも。
 空気の音さえ聞こえないような、シンと静まり返った空間だけが、そこにある。

 ――この部屋って、こんなに広かったっけ。

 紗名は、ただ呆然と部屋の中央に座り込んでいた。
 誰もいない、たった自分ひとりだけの部屋に、ただただ――座り込んでいた。

 ◇

「サナー! 見て見て、サナぁ! 可愛い猫が……」

 まれかが猫を抱えて満面の笑みで玄関を勢い良く開けた時、紗名は自分の額をベッチベッチと叩きながら項垂れてなにやら首を振っていた。
 時折「そうじゃない」とか「いやしかし!」とか、どうにも意味不明な呟きが聞こえてくる。
「……どうしたのぉ?」
 さすがに不審に思ってソロリと近づき、隣に座って彼の顔を覗き込むことにした。
 ぱちぱちと目を瞬かせて様子を伺っていると、最後にベッチンと自分の額を叩いた後に切なげに首を振った紗名が、地の底から出すような、どこか絶望的な声を搾り出す。
「どうもこうも、おおおおおぉ……色々自覚したようなしてないような、だが俺はロリコンじゃ……」
「サナぁ?」
「ああそうだとも、扉を開けてビックリしたともさ!
 でも違う、それは違うんだ、誰だってそりゃ居なかったら驚くさ、ああ驚くさ!」
「……???」
「決して、あのタックルが恋しいだとかこれっぽっちも――」
「たっくる?」
 一体何の話をしているのだろう。
 呟き続ける紗名に、もう一度「どうしたの」と尋ねてみると、その瞬間に彼の肩がビクッと動いた。
「……まれか!?」
 自分を見たと殆ど同時に驚きの声を上げる彼に、まれかはますます顔に疑問符を浮かべてしまう。
 何をそんなに驚いているのだろう。
 自分は、さっきからずっとここにいるし、今までもこれからも、ここにいるのは変わらないのに。
「? うん、まれかなのぉ。
 あ、それよりも見て、見て!!! あのねぇ、お掃除してるときに猫がいて――」
 驚きの表情のまま固まってしまった紗名に、そんなことよりも、と抱えている猫を見せる。
 昼から必死になって追いかけたのだ。
 気まぐれなのか、遊んでいたのか、追いつかれては逃げるを繰り返していたこの猫を捕まえるのは一苦労だった。
 いつのまにやら夕方になっていて、そろそろ紗名が帰ってくる時間だと気がついて、そこでようやく捕らえることが出来たのだ。
 両手で抱え、紗名にも見て欲しくて、急いで帰ってきたのに――彼といったら、まだ呆然と自分を見つめている。
「サナぁ、ちゃんとまれかの話、聞いてる?
 ねっ、すっごく可愛い猫! このしっぽがねぇ、えへへ、ゆらゆらって揺れるのぉ」
「……」
「……サナぁ?」
 やっぱり、心ここにあらずといった彼の姿に、小さく首を傾げてしまう。
 腕の中の猫が、「にゃあ」と鳴くと、ようやくそこで、紗名の表情が和らいだ。

「……おかえり」

 強張っていた表情が解れ、やんわりと、優しい声音で。
 毒気でも抜かれたようにぽつりと呟かれた紗名の言葉に、まれかは僅かに目を丸くして、それから満面の笑みをその顔に浮かべた。
「うん、ただいまぁ」
 まれかの声に、猫がまた「にゃあ」と小さく鳴いていた。

 ◇

「……お前さ、出かけるときは鍵閉めていけよ、ちゃんと」
「うん、今度から気をつけまぁす!
 ……って、あー! ゼリーがあるっ! まれかのために買ってきてくれたのぉ!?」
「え? あー……ああ、そう、うん」
「わぁ……! サナぁ! ありがとうっ、大好きーーー!」
「うぉお!? お、お前、いきなり、タックル食らわせ……ぐふっ……」

 にこにこしているまれかに、一瞬まぁいいか、と思いもしたが、良くない。
 全然良くない。

 タックルを食らった瞬間に、自分の生活や、恋愛や、夢や、その他もろもろのものが一気に駆け巡り――。
 ただ「しっかりしろ、俺」と。
 紗名は、薄れ行く意識の中で、最後にそう強く思っていた。

 ……かもしれない。
 多分。



- 了 -
PCシチュエーションノベル(ツイン) -
了英 聡 クリエイターズルームへ
東京怪談
2007年08月08日

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