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『glow of a firefly 』
藤宮・永6638)&(登場しない)

 渡る風の爽やかさと、水のせせらぎ。そしてぽつぽつと星影の点る藍が幕を下ろし、藤宮永の望む舞台は整った。
 永は空を見上げ続け、すっかり強張ってしまった首の筋肉を軽く回して解し、糊の効いた浴衣の襟を正す。
 明星の位置に時を計るだけのつもりが、夕暮れの変遷に目を奪われ、すっかり時を忘れてしまっていた。
 人家の明かりは遠く、更に日が落ちれば新月の闇の濃さはいつにないものとなるだろう……しかし、今日の目的からすれば、永に願ったりな状況だ。
 踏み固められ、段差に丸太を埋め込んだだけの野趣溢れる遊歩道に沿い、眼下には小川が流れている。
 山奥から流れ出す清水には川蜷が生息し、それを餌とする蛍の幼虫も多い。知る人ぞ知る穴場である。
 七月の上旬が野生の蛍の旬、中程にかかる今頃となれば人の姿はなく、永は一人宵闇に佇んでいた。
「ただ、蚊が多いんがかなんなぁ……」
神経に障る羽音を手で払い、永は溜息を吐く。
 だからと言って蚊取り線香を持参すれば本末転倒、蚊と一緒に蛍も落としかねず、あまり効果があるとは思えない虫除けシールを貼った袂をパタパタと振った。
 一度、試みに千早の和歌を虫除けに持ち歩いたことがあったのだが、一歩を進む毎に思わぬ場所に潜んでいたありとあらゆる虫がわらわらと逃げ出し、大変不気味な事態に陥ってからは禁じ手として使っていない。
 そんな昔を懐かしんでいる間、星明かりの瞬きに誘われたのか、ほつほつと草むらに蛍火が揺らめきだした。
 イベント化された観蛍のように、見世物化される為に整えられた場と違い、自然と向かい合える静けさが永の最も好む所である。
 夜天に横たわる峰は闇に更に濃い影を落とし、その墨を落としたような黒は和歌に夏虫として歌われてきた命の儚さが際立たせた。
 舞い漂う光は多すぎず、少なすぎず。
 蛍合戦の勢いも良いが、強く淡く歌を交わすような遣り取り、この風情が良いと目を細めて眺めやり、永はずさっと下駄の底を擦るように一歩退いた。
「これってもしかせんでも出歯亀?!」
そんな永の心情はどこ吹く風、蛍は恋を語る為のみにある、と言って過言でない短い生を謳歌して、静かな、そして賑やかな光の競演に忙しい。
 ふいと眼前を過ぎる一対の光に、永は苦笑気味に番いと思しき蛍の行く先に目を向けた。
 雌が全く発光しない種もあるが、ここの蛍は強弱の差はあれ、雌雄共に光を点して思いを交わす。
 交互に明滅を繰り返し、緩やかに空を滑るその光が、永の視線の先で二つ同時に消失した。
 永が目を見張る間、夜目にも白い手が、先の蛍を両手に包むように捕らえている。
 何時の間に訪れたのか……或いは永の訪れより先に居たのか、少女が一人、川の中、流れに足首までを浸して立っていた。
 まるで帷子のような印象を持つ白い浴衣を纏い、少女は永に気を払うことはなく、手の中の蛍をそっと覗き込む。
 手の隙間から零れる光が、少女の幼い頬にかかる黒く長い髪の一筋を際立たせ、無心な瞳に灯を宿した。
 少女は、手の中に息を吹き込むように、覗き窓にしていた隙間を口元にやる。
 そうして軽く首を仰け反らせ、中の、蛍を呑み込んだ。
 何故、それが判じられたのか。
 彼女の口中から喉を通り、そして胸の辺りでふわりと光る、蛍火がその身も衣すらも透かしているのだ。
 内からの灯火に、朱唇を引いた微笑みが見える。
 そこに宿る感情は、幼くとも女のそれを感じさせ、恐れとも、悪寒ともつかぬ何かが永の背筋を這い上がり、それに衝かれるように思わず声を発していた。
「美味しいですか?」
「いいえ、あまり」
脊髄反射的な問いに、打てば響く早さで答えが返り、永は納得に頷いた。
「やっぱなぁ、苦いもんなぁ」
何やら実感の籠もった素の感想は、チャプ、と少女の足下で立つ水音に掻き消され、永はこほんと小さな咳払いに猫を被る。
「貴方は……人ではありませんね?」
人やったらゲテモノ食いやわ、という内心の感想は、特注の猫が持つ穏やかさの下にひた隠し、永は半ば断定的な問いを投げた。
 流れに洗われ、自然に組まれた角の丸い岩を足場に川に下りる、永の姿を捉えたまま、少女も視線を徐々に下げる。
 その間も、彼女の身の内に囚われた光は、困惑したかのような明滅を繰り返していた。
「儚い命で懸命に光る健気な存在、そっとしておいて頂けませんか?」
同じ高さに立つことで距離自体が縮まっても、少女が見上げ、永が見下ろす位置は変わらない。
 少女は、真っ直ぐに永を見上げた。
「邪魔しないで下さい」
諫める言に怖じることなくきっぱりと言い切る、少女の不快感も顕わな拒絶に永は肩を竦め、両の袂に手を入れる。
「邪魔をするなと言われても、私も蛍見物の邪魔をされたのですけれど」
ぼやくような永の主張に、しかし痛み分けにするつもりはないらしく、少女の眼差しの強さが和らぐ気配はない。
「お嬢様に持ち帰って差し上げるのです」
言い、少女は己の胸の中央に手を添えた。
 それはまるで、お嬢様と称する者が己であるのを示す動作にも見える……その掌の下、肌身を透かして、蛍火が明滅を繰り返す。
「持って帰ってどうするのですか?」
こちらから問うでもないのに目的を答える、その純粋とも言える素直さに、永は心中の呆れは表に出さずに先を促した。
「お慰め差し上げるのです。春は花を、秋なら鈴虫を、枕辺に置いて、夜がお独りきりにならないように」
「花や虫にはいい迷惑ですね」
少女の言を途中で遮った上に切って捨て、永は微笑んだ。
「私の興を削ぐに充分すぎる程、不粋な理由です」
あからさまに少女を煽っている。
 しかし、対象であるからこそはそれに気付かないのか、少女は柳眉を逆立て更に表情を険しくした。
「こと、蛍は人の魂であるとも言われます。自然の中、あるがままの姿が最も美しいとは思いませんか」
「魂」
少女は、同意を求めた永の言葉の中から、一言を拾い出して小さく呟いた。
「これが魂ですか」
まさかそこに拘りを持たれるとは思わず、永は思わず口を噤む。
「魂なら、枯れたり死んだりもせず、ずっとお側に置いておけますね」
そしてふと顔を上げて永を見つめ、嬉しげに表情を綻ばせた。
「それならきっと、寂しくない」
少女の意図する所を敏感に察して、永はげんなりと肩を落とした。
「やれやれ……面倒事は嫌いなのですけれど」
しかし、刺激したのは自分。まさしく身から出た錆である。
 流れを横切って、少女はゆっくりと永に近付いて来る。
 身の内に蛍の光を宿し、その淡い光に微笑みを浮かび上がらせながら、伸ばされる繊手が身に触れるより先、永は浴衣の袂から手を引き抜いた。
 永の手には、常に携えている紙と筆。
 竹軸の筆は筆管と同素材の蓋で穂を守るようになっており、その中に墨を染み込ませた海綿を詰めておくのが一工夫である。
 永は喉を掴もうとする少女の両手から、逃れる様子で一歩を退く。その間に手は、片手で支えた懐紙の上に文字を記していた。
「携帯用にすると、どうも墨が濃くて」
ぼやきながら、永は懐紙を口元に寄せてふぅと息を吹きかけた。
 さらりと流れるような筆運びが記したのは、『壁』。
 平たい意味を持つ『辟』と、『土』を組み合わせた形声。隔て阻むものの意だ。
 そしてまた一歩、下がる動きに永は文字を記した懐紙を息に乗せ、吹き落とす。
 宙に浮き上がり、ひらひらと落ちる紙は水に触れる寸前、薄闇よりも濃い文字自体が紙から剥がれて空に残った。
「きゃっ」
少女が短く悲鳴を上げる。下から突き上げるように、永との間を阻んで不可視の壁が立ち上がり、彼女の腕を弾いたのだ。
 痛みよりも驚きで上がった声に、少女は手を胸元に引き寄せる。
 間髪を入れず、永が進める次の筆は『檻』。
 墨の色はそのままに、川底から立ち上った金属の硬質さが目標の四方を囲い込み、逃れようとした少女の身体は、柵にぶつかって高い音を立てた。
 水に座り込んでしまった少女の中で蛍が惑い、不規則な明滅に呆然とした彼女の表情を確かにする。
「囚われるのは初めてですか」
永は檻の隙間から手を入れ、気遣いなと微塵も感じさせない無遠慮さで、少女の手首を掴んで引き立てた。
「痛……ッ!」
「嘘はいけませんね、痛みなど感じていないでしょう」
少女の肩から先を檻の外に引き出し、永が冷たく言い放つ。
 それに恐れを為したのか、少女は腕を永から引き離そうともがいた。
 永に掴まれ、少女が引く形に肘までを張った腕の中を、蛍がついと過ぎって睨み合う両者の視線を集めた。
 蛍は、少女の掌の内側に止まり、瞬く。
「これはいい筆だ」
その掌を見つめ、永は目元で微笑んだ。
 少女の手には、釘で引っ掻いたような、がさついた文字が刻まれていた。
 少女は……持ち主の姿を映した古物の精は、身に刻まれた言葉に、年経て力を得たその代りに無くしてしまった想い出が蘇って動きを止めた。

 刻まれた文字は、『スキデス』と、金釘文字でただ一言。
 少女が、病を得て床に臥せるようになったのは冬の終わりだ。移る病ではないかと言われ家から出ることも出来なかった彼女を慰めようと……使用人の息子であった少年が、折々の草花、季節の虫、自然のそれを窓辺に手向けていたのだ。
 生きるために家族全員で働いていた、彼は無学で文字を知らなかった。ただそうやって野の明るさで、病室の暗さを少しでも和らげようと。
 けれど、その遣り取りは季節を一巡することはなかった。少年は戦場に行く為、秋の終わりの夜、空の自分を、手製の虫かごを少女の窓辺に置いて去った。
 少年が人に聞き何度も地面に書いてようよう覚えた一言、底板に刻まれた思いに、彼女が気付いたかどうかは覚えていない。
 何も収めない空間を見つめる彼女の瞳の、言い様のない遣る瀬無さと寂しさが、澱のように溜まっていくばかりだったのだ。

「貴方の中に残された、思いを見てたんですよ」
少女の思考を読んだかのように、永は穏やかに言って手を離した。
 手にもう一度、筆を握って永がふぅと小さく息を吐いて抜いた肩の力に、少女を捉える檻は消失する。
 少女は無言で永を見上げた。その内で瞬く蛍に……或いは違う何かに眩しげに目を細め、永は流れるような筆運びに一文字を懐紙に記す。
 先に記した二文字よりも、明らかに画数の少ない、『祓』。
 書き上げたそれを少女に向けて差し出し、永は心からの言を口にした。
「も、ええさかい。自分もはよ逝き?」
少女から、墨色の粒子が立ち上る。少女そうと信じることで凝った寂しさは、墨色から灰、そして白を経て銀に変じ、瞬く星の如く空に散った。
 少女の身体はそれにつれ、足下から指先から、徐々に薄れて消えていく。
 彼女は最後に永を見た。今、目が覚めたような顔で少し不思議そうに首を傾げて、そうして。
 ほんのりと、微笑んだ少女の姿が空に散ると同時、彼女が身の内に捉えていた蛍が自由を得て舞い上がった。
 夜が、己の手の先まで溶けてしまいそうに更けていく。
 その中で、暫時、少女の輪郭が奇妙なまでにはっきりと目に映ったのは幻か。
 蛍も散り散りになり、先よりも暗い宵闇があるばかりの其処に、永はいつまでも目を凝らしていた。
PCシチュエーションノベル(シングル) -
北斗玻璃 クリエイターズルームへ
東京怪談
2007年07月23日

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