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『終わる事も消える事も 』
長谷・快翔7135)&佐竹・賢(7138)&(登場しない)

 冬が終わると春、そして夏がやってくる。自然の摂理だ。
(あぢぃ)
 汗が額を、そして頬を伝う。柔らかな薄茶色の髪は元気を失いしぼんだ花のように頭に張り付いて不快だ。けれどもそれこそ自然の摂理。熱い初夏の日差しの中、校庭に立ち尽くす制服姿の身体が白い事だけがまるで摂理に反するかのように光を反射している。
「何さぼってんだ、さっさとジャージ着て来い」
「あー、センセ…」
 バシッと大きな音が聞こえた。と、思えば前のめりに倒れそうになる。なんとか両足でバランスをとり、振り返った先には白髪頭を光に吸い込ませた小麦色の男性。陸上部の顧問である佐竹・賢(さたけ・けん)が瞳のブラウン管に映った。
「…長谷。 お前随分なよっちい体つきになったな…」
 妙齢ではあるが歳のわりに皺が、ついでに白髪も多い佐竹は今背中を叩いた生徒の体つきに驚きを隠せないような、逆光から見てもその黒い瞳が見開かれる、そんな風に陸上部の部員――長谷・快翔(はせ・かいと)を見る。
「は、はは。 やだなセンセ、これはイメチェンー。 ファッション誌見てないの? 流行だよー?」
「馬鹿言うな!」
 もう一度背中を叩かれてよろめく自分を長谷はしっかりと足で支えた。コツさえ覚えてしまえばなんの事はない、佐竹も単なる気付けでやっているのだから痛いというよりは意識して支えなければならない自分の身体が恨めしかった。

 自然の摂理がまだ冬であった頃。陸上部もまだ校庭ではなく体育館でしか活動出来なかったあの季節に長谷は身体の不調を訴えた。それがどこから来るのか、どういう物なのか本人には知らされずに。
 ただ、知った事と言えばその季節、入院しなければいけない事と自分の余命が幾許も無いというたった二つだけだったのだ。混乱より先に陸上部の面々が浮かび、入院という言葉をなんとか伏せて過ごせないか、そんな意地のようなものだけが脳裏を過ぎった。両親に嘆願しなんとか校内に広がる事だけは阻止したものの、以前のように健康的に焼けた肌はすっかり白くなりバーを跳ぶ為の筋肉もその殆どが衰えてしまった。

 この初夏が過ぎれば真夏になる。そうすれば陸上の大会が始まり高飛びが唯一無二の楽しみであった長谷にとっては全てが終わる。もうバーには足が引っ掛かるだろうし、それ以上に腕の筋力すら身体を支えてくれるか分からない。
「センセー、なんかさ」
「あぁ? 今度は何だ」
 ぽつりぽつりと、まるで雨が降るように長谷の口は言葉を紡ぐ。佐竹はその言葉が紡がれるのを眉間に皺という皺全てを寄せて、ジャージを着ないホープの言葉を待つ。
「俺スポーツ推薦の大学、行かないかもしれね」
 言って、自分で勝手に納得するかのように頷く。ダークブラウンの瞳が瞼の影を映し漆黒に染まった。
「いや、なんかさ、陸部もこのまま辞めちまうかなって思ってんだけど…」
 言い出し辛いのはきっと佐竹の前だからだろう、長谷の語尾はどんどんと小さくなりながらも思いを伝える。高校に入った時から見守られてきた恩師、黒い瞳の横に皺を寄せながらいつも自分達を怒鳴り、そして褒めてくれたその人が側に居るのだから。こうなってしまうのは当然だと。
「長谷、本気で言ってるのか?」
「ん、本気。 センセにこんな冗談言わないでしょ」
 顧問の教師に辞めるという事は、冗談でも言えばどうなるか位分かっている。だから冗談ではないと、横も見ずに言えば自分よりも背の高い、がっしりとした腕に胸倉を掴まれた。

「もう一度言ってみろ、長谷…」
 怒気を含んだ声。同時に悲しみにも似た声色が長谷を責め苛む。

 入院していた当初、長谷はまだ諦めきれぬ思いでスポーツ雑誌を購入していた。
 両親に頼み込み、新聞と雑誌を、特に陸上の特集があればなんでも読んだ。雪の降る外、けれど陸上部の仲間達は体育館で練習をしている。本来ならそこに居た自分を重ね合わせて。
 来る日も来る日もスポーツ雑誌を読むうちに、ふと、病院の購買で見つけたファッション雑誌が目にとまったのだ。
「もう終わりだって言ってんだろ…!」
 佐竹の腕は今の長谷の二倍は太い。それは身体がふくよかだからという意味ではなくスポーツで鍛えぬいた身体だからだ。自分は元よりそこまでの太さは無かったがそれでも、今より筋肉はついていた、その筈なのに。
 顧問の太い腕を振り解いた手は意外にも白く、痩せ細っていて長谷は佐竹から離れたかと思うと数歩、後ろに下がり校庭を後にした。今では決して早くない足はこんな時ばかり早くなり、後ろから聞こえる声を無視して校内に逃げ込んでいく。
(もう、終わり…かぁ…)
 日陰でも初夏の熱気は篭っていて、逃げ込んだ校舎を伝い廊下に出ると丁度校庭が見える。そこに佐竹の姿は無く、代わりにあんなにもまた、共に練習したいと願った陸上部の部員達が大会へ向けての特訓をして日差しを目一杯浴びている。
 中には顧問と長谷の会話を聞いていたのだろうか、何度か校庭の向こうを気にする部員も居て部長に激を飛ばされては方を竦める姿も見えた。

 ファッション雑誌を見たことがないと言えば嘘になる。
 陸上部、高飛びのホープとして皆とやっていた時期も何度か購入して暇な時に読んだ、そんな程度のものだが入院生活が退院という話になった頃、長谷の側からスポーツ誌は消え代わりに煌びやかな表紙が病室のあちこちに散らばるようになったのだ。
(諦めかな、これは)
 余命幾許もないなど、そんな言葉はテレビドラマの主人公が聞かされる特権のような物だと思っていた。決して身近に思う事の無い言葉が両親の口から出た時、聞き耳を立てていた長谷の身体が意思とは関係無く動いたのは今でもはっきりと覚えている。
 怒りか、不安か、絶望か。それは今でも分からなかったが確かだったのはそれが衝動だった、それだけだ。
(俺はスポーツ推薦校だし、これからも青春満喫してやるー…かぁ…。 ザマぁ無いなぁ、これじゃ)
 日陰に居ると今までどれだけ汗を流していたかが分かる。気分の悪い湿っぽさが長谷の気分を害し、遠巻きに見ている部員達すらも今は知らない人間の集団のように見えた。
 病の影が見えなかった頃に貰った推薦。将来を約束するスポーツ名門校の推薦は長谷もそうだったが何より佐竹も喜んだ。常日頃から怒鳴り散らす顔をくしゃくしゃにし、何度もやったなと言いながら。
 当然部員達も羨望の眼差しを自分に向けた。彼らは今年高校三年生で引退、文字通り社会に或いは自分の進路に巣立っていくのだから、長谷はその分も青春を貫いてやると笑顔で言ったのだ。
(ザマぁ無さ過ぎー)
 窓から見える空は区切られていて、長谷という人間には実にお似合いだと口元に笑みを浮かべた。上さえ見てしまえば陸上部の練習も何もかも空の青と雲の白に塗り替えられて気分が楽になる。
 このまま自然の摂理というもので消えてしまったのならば、あの空から下を見下ろすのだろうか。
「馬鹿くさっ」
 瞳に映るのは青と白でも、耳に聞こえるのは生徒達の下校の声と校庭からは元気な掛け声が聞こえてくる。これはまだ、見下ろす人間ではないという証拠だ。



 病人にも明日はやってくる。次の日が例え曇りでも、昨日の青空を思い出しながら受ける授業はなかなか、生きているという感覚を覚えた。本日最後の授業は体育。とはいえ、校庭ではなく体育館で、またこの授業が終われば陸上部の練習はあるが今足元に見えるのは木の板の体育館である。
「はい、次いってー!」
 数班に別れての授業に長谷の名前は出てこない。
(当たり前か)
 次、次と班長の生徒が他の生徒を呼ぶ中、自分はステージの横にある階段で制服のまま佇んでいる。つまりは見学という立場だ。
 確かに、生徒達には自分の身体が病魔に蝕まれている事は知られていない。寧ろ一部の教師ですら知らない事実なのだ。それでも、この身体が不自由な何かを抱えている限り校長や一部の教師にそれが知らされる事になるのは仕方がない事である。
 呼ばれない体育の授業。見るだけのスポーツは長谷の目にはスローモーションのようにゆっくりと、プロの選手が記録を測る際に使用するコマ送りのように見えた。
 ここがもし体育館ではなくて校庭だったなら、そして曇り空は晴れ渡っていたなら。
(懐かしいな…)
 何もかもが美しかっただろう。長谷の記憶の中で高飛びをしていた自分が校庭を走る、そんな姿が目の前を通り過ぎた。

 風のように速く、そして高いバーを跳び越える一瞬。その時の高揚感は言葉に出来ない程気持ちが良い。今のようにファッション誌から取り出してきた服装の自分ではない、また別の焼けた肌に無駄なくついた筋肉で空の一部になったあの時が。

(今更思い出すなんてね、おかしいの)

 体育の授業が終われば曇り空は晴れ、また夏の日差しが校庭を照りつける。天候が憎いと思いながらも矢張り陸上部の練習には来てしまう。そんな自分が少しばかり憎い。全てを忘れた筈だと、この部さえ辞めると言ったのに、ここに居るのが当然とでも言うように足はその場を去ってはくれない。
「おい、またジャージ。 さっさと着替えて来い」
 今度は背中を叩かれる事は無かった。ただ、静かにそう言葉を紡がれ動揺する。
 顧問は、佐竹は一体何を考えているのだろう。辞めると言った言葉は教師として受け取ったのだろうか、照り続ける日差しの中を彷徨っていれば、ふと。
「…ん?」
「お、おい。 長谷!?」
 背中がふと軽くなった。まるで空を飛ぶように。視界は後ろに落ち、次に捕らえるのは佐竹の白い髪だというのに。
「大丈夫か? 校舎へ戻った方がいいぞ」
 そうか、自分は倒れたのか。佐竹の力強い声のその意味を聞き、途切れた意識が理解するまで数秒かかったが感付かれまいとした意地が長谷の背中を大きく押した。
「あー、大丈夫、ダイジョウブー。 センセから逃げようかと思ってちょっと迷っただけだよ」
「何を言うんだ長谷、本当にお前は…」
「しつこいな、賢ジィ」
 佐竹が自分を心配しているのはよく理解できた。元々病の影を部活の顧問である彼に隠し通すという事事態が無理なのだから。けれども、卒業まであと一年、出来る事なら心配させたまま終わりたくは無いと長谷は思う。
 例え卒業前に自分が消えてしまったとしても。
「そこで見てろよ」
 制服のまま、重いアクセサリーをつけてバーへ向かって走り出す。全てを支える足と手にそんな筋力は残っていない、このままでは落ちてしまう。引き攣るような痛みに耐えながら長谷はゆっくりと空へ飛び立った。
 これがもし、墜落してしまったらおしまいだ。そんな風に自嘲した念が静かに自身の身の着地へと繋がっていく。風が気持ちの良い、空から温かな地上へと降りる。
(あ…)
 着地して数秒間、長谷は自分が今跳んだのかそうでないのか矢張り理解が出来なかった。
「長谷、大丈夫だったのか?」
「ん、あったり前じゃん?」
 つくづく今日の自分は間抜けだと思う。人の言葉、自分の行動一つ、理解するのにこんなにも時間がかかってしまう。バーを跳んだ事が頭の中を駆け巡れば何故か何も怖くないような、以前の自分に戻った感覚すら思い出すのに時間がかかってしまうのだから自分でも笑える。
「やっぱ昨日の取り消しっ!」
 制服は汗だくで髪は纏まらないままで、それが昨日までは酷く不快だった。だが今、同じようになって不快かと言えば寧ろ清々しい気持ちを持って長谷は佐竹に向かって今年初めての万遍無い笑みを見せた。

「言ったじゃん、アンタに日本一をプレゼントしてやるって」
 握り拳に親指を立てて、長谷は笑う。その姿は以前と変わり果て、お洒落で白い高校生になってしまったが佐竹はそれでも変わらぬ部員を見て口元を緩ませる。
「ああ、しっかりプレゼントしてくれよ」
 それは始まりの言葉。佐竹にとっても長谷にとってもこれが二度目の日本一への宣戦布告。この先の道がどうなっていようとも、この記憶だけは終わる事も消える事もないのだ。

 ――、永遠に。


END

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2007年06月20日

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