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『『桜舞う月下で、永久の誓いを』 』
城ヶ崎・由代2839)&高柳・月子(3822)&(登場しない)


 ああ、好きなんだ。
 僕は彼女の事を。
 ―――そう想った時にはたまらなく彼女の事が好きだった。
 唯一無二の存在に彼女がなっていた。
 ふと、少し空いた時間に彼女の事を想う。
 今頃、なにをしていているのだろうか? と。
 前は僕の思考は僕が興味を持つ数々の問題で埋め尽くされていた。
 もっぱら空いた時間はその問題の定理の実態を解き明かすための検証に費やされていたものだ。いや、空いていない時間にも思考していたのだから四六時中僕は思考していた。
 何か目の前に面白い事があると、問題があると、僕はそれにトリップする。
 そんな自分を僕は卑下するつもりは無かった。思考は人間にだけ許された娯楽である。思考をしているから人間なのだ。生きているのだ。思考を止めてしまうという事は自分の発展を放棄し、生きながら死んでいるのと同じなのだと僕は断言する。
 ―――思考をしているのは、彼女と出逢うの前の僕と出逢った後の僕と一緒。
 彼女と出逢う前の僕の思考は僕がドミナス。僕の視点だけで存在する、僕だけの世界の定理だった。
 だけど彼女と出逢って以降は、僕の思考は受けとなっている。彼女の言動や、そこから求められた彼女の思考をトレースして、それに基づく思考と変わったのだから。
 そう、もう僕の世界は僕だけの物ではない。
 この変化を、果たしてどの様に位置付ければいいのか?
 ヴァージョンアップだろうか?
 新たに高柳月子という基盤がセットされた城ヶ崎由代の。
 それとも城ヶ崎由代という存在は退化したのだろうか?
 前にある人は言った。恋愛感情はコンピューターウイルスの様な物だと。
 もう僕は僕だけの物では無い。
 僕が高柳月子を愛した瞬間から、僕は高柳月子という存在が僕の中に住む事を許したのだから―――――、
 いいや。違う。
 僕は彼女の前では体裁も見得も無く弱くなれて、それがひどく心に心地良くって、楽になれたんだ。
 ――――そしてそれが何よりも嬉しくって、救われた。
 もう昔の様に冷めたコーヒーに熱いコーヒーを注ぎ足し続けるぬくもりで、僕は僕だけが居る世界の時間を過ごす事はできない。
 高柳月子は僕の神様で、僕はあらゆる感情を彼女に許してもらう事を望む。
 今一番に僕が望むのは、ねえ、月子。僕に生涯、キミを愛し、支える事を許してくれるかい?

 
 ――――――――――――――――――


 シックな内装でデザインされた店内の商品棚には煌びやかな宝石の数々が並べられていた。それを手がけた宝石職人の手から離れたそれらはここで新たな物語が紡がれる事を待ちわびている。
 例えば今、由代の隣に居る青年。見たところ十代後半。高校生か大学生………彼が見ている値札の金額から推察して高校生ぐらいであろうか? その彼は今、女性店員を相手に話している。彼の彼女は髪を伸ばしているところだから、そういうのも考えてイヤリングを買いたいと店員に相談して、店員は女性ならではの価値観で店の儲けとかとは関係なく彼にアドバイスを送り、自分の栗毛色の髪を掻きあげて、彼のためにイヤリングを耳にあてて、彼は顔を真っ赤にしながら彼女の説明を熱心に聞いている。そして彼はその商品を買うようだ。彼女の誕生日プレゼントとなるそれは店員の手によって綺麗にラッピングされていく。ほら、この通り、彼がまず彼女の為にそのイヤリングを買うだけでもこれだけの物語がもう既に紡がれているのだ。ここからさらにこのイヤリングの物語は彼から彼女に誕生日プレゼントとして贈られる事でまた紡がれていく事になる。
 1+1=2の数式ですらも、人によってはまだまだこれまで語り継がれてきた以上の議論や思考も可能なのだ。
 ならば今し方、由代が最終チェックをし、OKを出した品についてはどうなのであろうか?
「城ヶ崎様。お待たせいたしました」
 ロマンスグレーの髪の紳士が恭しく由代に小さな箱を差し出した。
 この箱の中で蓋を開けられるその瞬間を待ちわびているその宝石は、これからどのような物語を、紡ぐのであろうか?
 その宝石の奏でる物語の幕は、今、上げられた。




  『桜舞う月下で、永久の誓いを』Open→


 三面鏡に映るのは綺麗に着飾った自分。
 正面の、次に左右の鏡に映る自分を高柳月子は入念にチェックする。
 それから軽く眉間に皺を刻みながら額にたらした前髪を弄る。まるで思春期のあどけない少女の様に。
 今の月子の髪型はかんざしフラワースティックと呼ばれる髪型だった。小一時間ほどかけてがんばってやった髪型なのだが――――、
 月子は小さくため息を吐いて髪をとめているかんざしを取っていく。
 彼女の顔は切なげだ。
 ちょっと、いつもと違う髪型なので落ち着かなかったのだ。慣れない髪型というのはやはりいつもと顔が違う様に見えてダメ。女友達とのデートなら本番に備えての予行練習として新しい髪形にもチャレンジできるけど、彼とのデートでいきなりあたらしい髪型というのはやはり難しい。
 もちろん、自分ではいけている、とは想う。
 可愛らしい。女性向けの雑誌に載っているモデルにも引けを取らない自信はある。
 多分、
 由代も気に入ってくれるかな、とも。
 それでもやはり今日は久々の彼との旅行だからその、気合いもしっかりときっちりと入れていきたいけれど、入れすぎて空回る様な悲惨な羽目には陥りたくないな、とも月子は想うのだ。女心の難しいところ。
 そう。今日は久々の旅行。由代に自分との時間を楽しく過ごしてもらいたいのは当たり前として、やっぱり月子自身だってこのしばらくぶりの二人の時間を幸せな時間にしたかった。だから、
「髪型はいつもと一緒で良いわよね」
 いつもと同じ髪型というのは新鮮味が無いような気もしないではないが(あと、がっかりされたり、飽きられていたりしたら嫌だな、という不安もあるけど………。)、それでもいつもセットしている髪型なだけあって、そうと決めたら素早く自分が綺麗に見える形に仕上げられる自信は一番あった。
 鏡に映る自分を見て月子はうん、と頷く。
 せっかくかんざしフラワースティックという髪型の為に新調したかんざしは、後日、由代とのデートで活躍させよう。もちろん、その前に女友達とのデートでしっかりとアンケートを取るのも忘れないようにして。
 いつもの髪型にあわせて少し化粧を変えて、口紅のチェックを済ませると、月子は時計を見た。待ち合わせ時間の少し前である。
「いけない。早くしないと由代が来ちゃう」
 月子はテーブルの上に置いてあった風呂敷で包んだ重箱とハンドバッグを手に取ると玄関に向かった。
 玄関に置いてある姿見でもう一度最後のチェック。丁寧に手櫛で髪を整えて、身繕いを完璧に仕上げると、彼女は「行ってきます」、と元気に言って、部屋を出た。
 外気が部屋を出た瞬間に月子の肌に触れる。わずかな温もりを持ったそれは確かに季節の移り変わりを彼女に感じさせた。
 毎年、変わらずにやって来る季節。四季折々の空気の温もりが月子は好きだった。その空気の温もりが今日一日の晴天を彼女に約束してくれている。空を見上げればそこにある空の青さは随分と透明度が深かった。
 今日のデートは間違いなく天気に恵まれている。それが彼女には嬉しい。最高に幸せである。眉毛入りのコアラのお菓子を見つけた時のように。
 両手で荷物を持って待っていると、やはり待ち合わせ時間の少し前に由代が車でやって来た。旅行は車で行くのである。
 ただ、行き先は教えられてはいなかった。どうにもサプライズ企画であるらしい。いや、由代の趣向からしてミステリィツアー?
 月子は心の裡でくすりと少女の様に微笑んだ。実際には彼女の顔は可愛らしく上目遣いで運転席のドアを開けて車の外に出てきた由代の顔を見ながらはにかんだ笑みを浮かべている。
 由代と会えたのが、会う前まで予想していた以上に嬉しかった。由代の紳士的な気遣いによって助手席のドアが開けられて、月子が持っていた風呂敷包みは由代によって後部座席に丁重に置かれる。何らかの衝撃で落ちてしまわないように器用にシートベルトを使って止めてあるのが何とも由代らしくって可愛らしい。月子はそれを振り返りながら、ああ、この感覚、と由代と会ってから自分が感じている感覚を想って幸せな気分となる。
 由代と一緒に居るのは楽しい。
 最初の頃は何気ない自分の一言が切欠で(もしくは周りの何らかの事が切欠で)、自分の思考にトリップしてしまう彼に戸惑う事もあったし、正直、少しムッとした事もあった。それでも由代にそれを改めさせるよりも自分から彼のそういう所に歩み寄ったのは、その反面、そんな由代を可愛らしく想ったからだし(だってこれではあまりにも幼い子どもと同じではないか!)、自分がしっかりとしてこの人を護ってあげなくっちゃ、って母性本能がくすぐられたからでもある。こう、クラスにはひとりは居る頼りない男子をついつい面倒見てあげたくなってしまうお姉さん気質が元々、月子にはあったのだ。
 それで月子から由代のそういうふいに自分の世界にトリップしてしまうところに歩み寄った結果、さらに月子にとってはふたりで居る時間が楽しくなった。
 例えば月子がお店のアルバイトの美大生から聞いたお話、そのアルバイトの彼女が取っている講義で、どうしてこの母子が描かれた絵には父親が居ないのかを考えてみなさい、という課題が出されて、そのお話を彼に振ったら、もちろん、彼は「ふむ。興味深いね」、と面白そうに呟き、そして自分の検証を彼女に話し出してくれたのだ。そう。由代はすぐに自分の興味がある事を見つけると、その検証や、理論のコーティングにトリップしてしまうが、彼女がそれに理解を示して、寧ろ積極的に彼のそういうところを大事にし、それに関してのお話を振る様にすると(思考にトリップして、出した結論はどんな物だったのか? とか、何を切欠に思考をしたのか? とそこから質問をしたりした。)、彼もそれについての説明を自発的に月子にしてくれるようになり、さらには月子の意見も求めてくるようになったのだ。そして決まって由代は月子の述べる意見を「なるほど」、と納得してくれて、面白い、と言ってくれる。あの母子の絵にしてもそう。由代はその母子の絵に父親が描かれていない理由をひどく哲学的な物として月子に説明したが、月子が口にした、「あの絵を描いたのは父親なのよ。だから父親が描かれていないんだわ」、という意見にひどく感心して、あの凄まじく論理的だった哲学している意見ももちろん捨ててはいないのであろうが、月子の意見を認めてくれて、さらにはそこからまたふたりでそれに関しての意見のコーティングをしたのだ。そんな由代とのディスカッションがひどく月子は楽しかった。
 最近では月子は由代の本当に幼い子どもの様にひどく何気ない事柄に対しても疑問を抱くそのセンスや、そこから思考の飛躍とも取れるような論理の旋律を奏でる彼の思考のプロセスを聞かされ、彼女自身がそれを自分の中でトレースして、由代の思考を自分の中で構築するのが楽しくなっていた。
 それにその作業に自分も参加させてもらえるという事は、由代が月子の存在をちゃんと認め、受け入れてくれているという事だ。
 最近では随分と由代の考えている事や、彼がトリップする切欠となる事等がわかるようになった。無論、だから彼の表情に表れない感情も。
 それは月子がこれまで支払った物の対価としては非常に納得できる物であった。
 でも、今日の由代の妙にそわそわとした感覚は、しかし月子にはトレースできなかった。
(照れているのかしら?)
 月子は上品にお澄まししながら助手席に座って、横目で運転席の由代を見る。その視線に気がついた由代がん? と、同じように横目で月子を見て微笑むが、
 しかしその表情がどうにも不自然だった。そう。まるで悪戯をした事がバレルのを怖がっている悪戯っ子の様なそんな表情だ。
(何かを、隠しているのね?)
 と言うか、今回の旅行は行き先さえも教えられていないミステリィツアーなのだ。だからプレゼンターとしては計画が上手く行くか緊張している、という事なのだろうか?
(ああ、なるほど。本当にこの人はもう)
 ―――クールに決めて大人ぶっていてもどこか大人になりきれていない、少年の無垢な純粋さをずっと忘れずに持っている。
 月子は心の裡でくすりと笑った。そんな由代の事を可愛いと想ったのだ。本当に護ってあげたくなる。そして何よりも由代の自分への気遣いが嬉しかった。
 いつもは色んな事を喋るふたりだけど、月子は由代に気を遣ってずっと上品にお澄ましし続けた。なに、脳内で由代が用意してくれているサプライズを想像しているだけで子どものようにワクワクしたし、
 それにやはりなんと言っても好いた男と一緒に居る時間なのだから会話など無くとも、月子は幸せだった。
 一体、由代はどんなサプライズ企画を用意してくれているのかしら? 
 自然と月子の笑みは嬉しそうな物を隠せない笑みと変わっていた。


 +++
 

 車内にはお洒落なジャズクラシックが流れている。月子の手の平の上のやや小ぶりで赤みを帯びた花びらは風が運んでくれたプレゼントだった。
 長野にある高遠城址公園は540平方メートルの敷地内に実に1500本ものタカトウヒガンザクラが植えられており、その花の可憐さは天下一品と評されるほどの美しい桜である。
「長野県の天然記念物にも指定されているみたいだね」
 ここが由代が月子にプロポーズすると決めた場所だった。
 桜は神が来臨する花である。
 そしてその花の花言葉は純潔。優れた美人。
 優れた美人というのは月子のためにあるような言葉であったし、
 神が来臨する花の下で、純潔という花言葉を持つ花の下で永遠の愛を誓い合う事ほどそれに相応しい場所は無いと由代は想った。
 それに、プロポーズはうーんとロマンチックなのが良いと言ったのは月子だった。ちょっと前にテレビで流れていた携帯電話でプロポーズするCMに月子は眉根を寄せて、女の子全般の意見として彼女はそう言ったのである。ならば由代としては彼女のその願いを叶えてあげたかったのは当然の事だ。それはふたりにとって一生に一度の事で、だからこそふたりの想い出に残る幸せな時として心にそっと飾らねばならぬ事であったのだから。
 今日を迎えるに当たって様々なプロポーズのシチュエーション、言葉を考えた。
 月子の喜びそうな場所。喜びそうな言葉。綺麗な場所。綺麗な言葉。愛の文句。そういうモノでここ最近の由代の思考は占領されていた。考えていたのはそればかりで、幾通りもの試行の結果に弾き出されたのがこの場所でのプロポーズだったのだ。由代にとって考えうる限り最高のシチュエーションだった。
 夜の桜の園。時刻は19時過ぎ。
 ぼんぼりに照らされた桜は可憐に咲き誇り、静かに風の調べにあわせて歌を歌っているようだった。
「寒くは、ないかい?」
 由代は頬にかかる髪を掻きあげながら耳の後ろに流す月子の顔を見て訊いた。
 月子は上手に小首を傾げながら両目を細め、唇を動かせる。
「いえ。大丈夫」
 この夜の桜の園という場所では月子の持つ大人の女性の艶やかさがよりいっそう強く感じられた。相乗効果。夜桜の持つ静謐で厳かな雰囲気が月子の凛とした美貌を際立たせているのだ。今の彼女は由代がこれまで見てきたどの彼女よりも美しかった。
 白い彼女の肌が薄っすらと紅潮しているのがぼんぼりだけが光源の桜の園でも見て取れた。由代はその彼女の肌を指先で愛撫して、そっと口付けをしたい衝動に襲われる。その白い肌をもっと紅潮させて、月子の感じている顔を見たいと想った。
 欲情、しているのではない。卑猥な蝶の羽ばたきが由代の心の中で起こっているのではなかった。ただ欲しかったのだ。独り占めしたかった。月子の雪の様に色白な綺麗な肌も。その柔らかな唇も。サラサラの黒髪も。しなやかな肢体。豊かな胸も。全て自分だけの物にしたい。心でさえも。月子の見ている桜にでさえも由代も嫉妬はした。まるで自分の感情をコントロールできない幼い子どもだ。由代は苦笑する。月子の瞳に映る物は自分だけで良いと由代は心底そう想う。
 だから、
 そっと、
 月子の頬に手を触れさせる。
 その瞬間、月子は初心な生娘の様にほんの少し震えて見せた。身構えるように月子は由代に顔を向けて、彼を上目遣いで見る。
 月子のその仕草に、そして次に上目遣いで自分を見上げたまま、顎をあげて、瞼をそっと閉じたその表情に、由代の体内で激しく電流が流れた。
 桜の園で、花びらが、美しく幻想的に舞っている。
 月子を包み込んでいる。
 頬に触れていた手で由代は月子の前髪を軽く掻きあげて、彼女の額に唇を当てる。
 額から唇に移る月子の体温は温かい。
 由代は月子の額から唇を離し、わずかに恥ずかしそうに俯いた月子を見た。彼女の顔は髪に隠れて見えなかったが、しかしどことなく切なげに見えたのは、キスをしてあげなかったからだろうか、と、そう由代は思った。
 月子はそっと由代の手を握り、体を預けてくる。とん、と実に軽やかに彼女の額が由代の胸に当てられた。
 そして、くすり、と月子は微笑んだ。
 艶やかに。
 上品に。
 伝わった振動に由代の胸は言葉にできないような感覚で詰まる。
 苦しい。
 苦しかった。
 息ができない。
 それは身が悶えるような熱く激しい衝動だった。
 理性が吹き飛びそうだった。
 ああ、いっそう理性を吹き飛ばしてしまおうか?
 そうしたら、楽になれる。
 ただ感情のままに月子を抱けたのなら、そんなにも幸せな事はない。
 その胸が詰まるような苦しさは、由代の理性の叫びであったのかもしれない。
「由代の心臓、すごく速い」
「実は今朝からずっと」
「どうして?」
 ―――キミにプロポーズしようと決めていたから。
 そう言葉には出さずに由代は月子の背中に両腕を回して抱きしめた。着物越しでも月子の柔らかな身体の感触が由代に伝わってくる。
 月子のつけている上品な香りが今日で一番、強く感じられた。
 心に決めている言葉がある。この言葉を口にすれば、そうすればもう、あの月子と別れた後に自分の身体に残る月子の残り香に寂しい想いをしなくても済む。その言葉を口にすればいつだって手を伸ばせば彼女に届く場所に、自分の隣に月子が居てくれるようになるのだから。
 月子は由代の腕の中で次に由代が口にする言葉をじっと辛抱強く待っていた。そんな月子を愛らしく由代は想う。
 結婚が人生の墓場だなんてきっと嘘だ。
 結婚する事でふたりで一緒に居る意味合いが恋人同士の時とは異なり、恋愛感情は、好きだという感情は、変わっていく、というのは嘘だ。
 断言できた。もしもこのままずっと月子と一緒に居たのなら、由代は月子に骨抜きにされると。温かなぬるま湯でふやふやにふやけてしまうのだ、自分は。月子というぬるま湯の中で由代を由代としている物は全て溶けて、自分はもう月子が居ないと何も出来ないような男になってしまうのだ。
 好きだという感情は止められない。一時は恋愛感情など心の妄想だと想って馬鹿にしていた。信じていなかった。自分に確固たる物の無い人間の世迷言だと切り捨てていた。だけど今の由代はもう、月子の事がたまらなく好きだった。一緒に居れば居るだけでどんどん好きになっていく。きっと結婚してふたり一緒に居られるようになったら、自分は月子にベタ惚れで、今以上に月子に甘えるようになるのだろう。
 だけどそれが嫌じゃなかった。
 月子に由代は全てを取られた。
 でもそれは嫌ではなかった。
 月子というぬるま湯の中で自分が溶けて消えてしまう事すらも由代には本望だった。
「今朝からずっと心臓は速かった。だからもうそろそろストライキを起こして止まってしまうだろうね」
 由代は言葉を繰り返す。
「止まってしまったら、嫌だわ」
 月子は言う。月子の手も由代の背に回されていた。指先は彼の背中に立てられている。その痛みはしかし疼くように。由代の身体は火照っていた。
「どうして?」
「あたしは由代が好きだから」
 月子は背伸びして自分から由代の唇に唇を重ねて、甘く由代の下唇を自分の唇で挟んだ。
 心臓はずっと朝から速かった。
 月子にプロポーズすると決めていたから。
 テンポの速い心臓に送り出される血液の巡りも平時よりも速かった。それが由代を落ち着かせない物にしていた。
 きっと月子にしてみれば今日の自分は随分とテンションの高い男に見えただろう。もちろん、由代としては平時の自分を装っていたつもりだが………。
 では月子はそんな自分と今日一緒にずっと居て、どのような想いを抱いていたのであろう?
 月子の気品溢れる大人の女性の艶やかな笑みは男の自分には絶対に得られないほどの余裕を持っていた。それはきっと男女の情の深さ、感性の違いに起因するのであろう。女性が新たな生命を自分の体内から産み出す神秘を持っている以上、永遠に男には辿り着けぬ感情の境地を女は生まれながらにして持っている。そう、何時だって女性の内面は男の先を行っているではないか。
 月子は気付いていたのだろうか? 今夜、由代が自分にプロポーズをしようとしている事を。気付いていて、気付かないフリをしながらも、それでもこうして自分の愛を由代に見せてくれているのだろうか? そう想うと由代は月子がさらに愛らしい女性に想えた。
 そしてふと想う。ならこのまま焦らし続けたら彼女はどう想うだろうか? と。だけどそんな悪戯心を抱いたのはほんの一瞬だけだ。
 由代は月子の背中から両腕を離し、彼女の手を握って歩き出す。
 ぼんぼりの明かりはどこまでも続いていた。
 ぼんぼりの明かりに照らされる道はどこまでも続いていた。
 由代と月子は手を繋ぎその道を歩いている。
 ぼんぼりの明かりだけが世闇の中で存在する光り。その茫洋な光りを追って道を歩くのはどこかお伽の国にでも迷い込む様な心の落ち着かなさを感じさせた。
 この世のどこでもない場所へとふたりで迷い込んで行く様なそんな気持ちにさせられる。
 タカトオザクラの花びらが風に飛ばされて、花霞みを作っていた。闇の帳に重ね塗りする様に花の帳が張られていて、その中を由代と月子は共に歩いていく。
 闇夜で仄かに灯るぼんぼりの茫洋な明かりを追いかけて、夜の園を行く。
「かつて人は夜の桜の園を恐れたという」
 由代は月子の手を引いて歩きながら言った。
 月子は先ほどまで付いて行くのが大変だった由代の歩くスピードが遅くなったのを感じ、ほっと一息ついて、それから由代の囁いた言葉を心の裡で彼女も囁いた。
「桜の樹の下には死体が眠ると言うとから」
 桜の樹は死体を養分にして育つという。遠い昔の迷信。
「桜の樹の下には死体など眠らない。元来、桜の樹とは、神がこの世に降りるための座だった」
 月子もそれは聞いた事があった。『さ』は穀物の精霊や神など意味し、『くら』は神霊が鎮座する場所を意味する、というモノだ。そういった神や精霊といった存在が今よりももっと身近であった時代によもや桜の樹の下に死体が埋められるような事は無いだろう。
「だからかもしれない。桜の樹は人の想いを溜め込む。桜の花は、人の想いを養分に花を咲かせる。だからなあ、月子、」
 ぼんぼりの明かりは消えた。
 夜の桜の園を照らす仄かな橙色は消えた。
 抜け出たのは夜一色の桜の園。そこにはありのままの、本来の桜の園があるだけ。
 その真ん中で、由代は月子を振り返る。握られていた手が、さらに強い力で握られた。
「来年もここに一緒に桜を見に来ないかい? 僕らの想いを溜め込んで、綺麗に花を咲かせたこの桜の園に一緒に来よう。僕と結婚して欲しい。家族としてこれからも一緒に僕と共に生きて欲しいんだ」
 風が吹いた。
 強く強く強く。
 その風に桜の樹は惜しげもなく花びらを舞い散らせる。
 舞い飛ぶ桜の花びらは虚空を飾り、
 ふたりを包み込む。
 愛おしむように。
 祝福するように。
 ふたりと共に幸せを分かち合おうとするように。
 最高の美しく幻想的な夜を、桜の花と風がコーディネートしてくれていた。
 月子の瞳にはただただその光景が夢のように映っている。
 仄かなぼんぼりの明かりを追いかけて、由代の言葉を聞きながら、夜の桜を歩いていく彼女の心の裡はいつの間にか催眠術にでもかかったようにひどく幻想的な気分になっていたのだけれども、
 ここに来てこの桜の嵐と形容して良い光景の中で、世界で一番自分が愛し、愛して欲しいと願う人にプロポーズされた自分は、
 なんだか本当にそれが夢のようで、
 とても信じられなくて、
 ただただ嬉しくって、
 気付くと涙を流していた。
 そんな自分を眺めてくれている由代の顔は、瞳は凄く優しい。
 月子の心の裡から溢れ出してくる想いがあった。その由代の表情を、瞳を護りたい。いつまでもずっと自分に向けていて欲しい。そして願える事ならこの先ずっとその彼の表情も瞳も自分の物にしておきたい。そう。先ほどまで美しい桜の花の園に月子は嫉妬していた。由代に見つめられる美しいそれに彼女は嫉妬していた。
 だから願えるなら、桜の樹に溜め込まれたその想いを桜の樹には忘れて欲しい。今のこの泣いてしまうぐらいに嬉しくって幸せな想いだけを溜め込んでいて貰いたい。
 そうしたらきっと、とても美しい花が咲くから。
「毎年ずっと、あたしと一緒に見に来て。ここに咲く、由代にプロポーズされて嬉しくって幸せだと想うあたしのこの想いを溜め込んだ桜の樹が咲かせる花を。家族が増えても、あたしたちがおじいちゃんやおばあちゃんになってもずっと、ずっと、ずっと。ずっとよ、由代」
「ああ、誓うよ、月子。世界の誰よりも僕はキミだけを愛している」
 由代はそっと月子の細くって折れてしまうような華奢な腰に腕を回して抱き寄せると、口付けをした。軽くそっと。とても大切な者にキスをする。
 触れ合う唇から移る体温をとても愛おしく想いながらふたりは唇を離し、
 由代は月子に左手を出して、と彼女の左耳に囁く。
 月子は左の着物の袖をそっとあげて、左手を由代に少女のように頬を赤く染めながら差し出す。



 幸福な時も幸福でない時も
 富める時も貧しい時も
 病める時もすこやかな時も
 神の清き御定めに従い
 死がふたりの間をへだてるまで
 あなたを愛し慈しみ
 変わらぬ事を宣言いたします



 今日、父と子と聖霊の名により
 ふたりのなした厳かな誓約に基づきなされた
 ふたりの想いの絶えざるしるしとして
 この指輪をキミの薬指にはめます



 恭しく硝子細工の美術品を手に取るように由代は月子の左手を取ると、彼女のすらりとした細い薬指に指輪をはめた。エメラルドがはまった白銀の指輪。ふたりの永遠の愛を誓い合う約束の絆。
「愛しているよ、月子」
 由代はもう一度、月子の左耳にそっと息を吹きかけるようにして囁いた。
 月子は耳まで赤くして、自分の左の薬指にはまる指輪を、それを飾るエメラルドにうっとりとした表情を浮かべている。
「ありがとう、由代。すごく素敵」
 月子は涙を流しながら由代を見上げる。
 桜舞う中で、彼女はまるで桜の園から抜け出してきた桜の精かと見間違うぐらいはっとするほどの美しい笑みを浮かべ、
 凛とした声で言った。
 胸を張って、気丈に。
「ありがとう、由代。あたしは絶対にあなたにあたしを選んだ事を後悔させないから。あたしがあなたを幸せにしてあげる」
 そしてもう一度、その胸にある想いを体温と一緒に由代に伝えたいと願いながら月子は由代の唇に自分の唇を重ね合わせた。



【ending】


 小さな箱が結んだ縁だった。
 よもやその時に出逢った城ヶ崎由代に今こうして自分が抱かれる様になるとはその時のあたしは想いもしてはいなかった。
 とても温かでたくましい温もりに自分は抱かれ、由代の想いが自分の身体にそっとあてられるたびにあたしのこの身体は裡で何かが弾ける様に感じる。
 それが嫌ではなかった。
 寧ろ幸せな時だった。
 優しく唇を重ねるこの時が、あたしには一番に幸福な時に感じられるのだから。
 小さな箱が結んだ縁。
 そこから膨らんだ想い。
 あたしは愛され、愛し、
 誓われ、誓い、
 永久にふたりの愛を育み続けて行く事を由代と誓った。
 あたしは城ヶ崎由代と一緒にいつまでもふたりで幸せに生きていく。
 ずっとずっとずっと。



 →closed

PCシチュエーションノベル(ツイン) -
草摩一護 クリエイターズルームへ
東京怪談
2007年06月14日

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