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『花薄氷〜ハナウスライ〜 』
榊・紗耶1711)&烏丸・織(6390)&(登場しない)



 日の入りが随分と遅くなったように思う。
 つい先日まで五時ともなると周囲には宵闇が広がっていたのに、四月に入った途端、太陽は沈む事を惜しむかのように、少しづつ日照時間を増やしていった。
 朱味を帯びた陽光が美術館の中に入り込んで、大理石の床に柔らかな日だまりをつくっている。榊紗耶は重厚な造りの壁時計に一度視線を向けると、二階展望ロビーに設置されたソファへ腰を下ろした。
 そろそろ待ち合わせの時刻だ。閉館時刻に美術館で待ち合わせをする事などそうあるものではないが、相手が織だと思うと何故だか得心がいってしまう。
 紗耶は窓越しに広がる庭園を眺めながら、ふとここへ来る経緯を思い出した。

「桜をモチーフに展示会を開くのですが、宜しければ紗耶さんもいらっしゃいませんか」
 紗耶が烏丸織からそんな誘いを受けたのは、まだ寒さの残る季節だった。
 二人で何処かへ出かけた帰り道だったと思う。都心から少し離れた場所に小さな美術館がある。そこのオーナーから、特設展示会場の空間デザインの依頼を受けたのだと、織は楽しそうに言っていた。
 空間デザインという言葉自体、紗耶には聞きなれないものだった。織はそれを察したのか、自分が受けた仕事がどんなものかを丁寧に説明してくれた。
 美術館にある個々の作品がどんなに優れていたとしても、設置の仕方一つで全てが台無しになる事もあるという。言い換えれば、作品を生かすも殺すも、全てディスプレイを行う人間の腕一つにかかっているという事だ。
 作品を作るだけに留まらず、織がそんな大変な仕事もこなしているのだと知ると、紗耶は思わず織へと羨望の眼差しを向けた。
「織さんは凄いのね」
 けれど感心する紗耶をよそに、織は少し照れたような表情で言葉を返してきた。
「染織家達が創るものは、全て草木や花の命から出来ています。その命の色を少しでも訪れる方々に見て頂きたいと……そう思いはしますが、主役は私ではありません」
 自分は作品を際立たせるための助力をしているに過ぎないと織は言う。作品の魅力と、それをディスプレイする側の力量とが均衡を保って、初めて美術館の中に一つの世界が生まれる。織が作り上げる世界はどんなものなのだろうかと想像しながら、紗耶は織の誘いに頷いて返したのだった。

 紗耶が美術館へ足を運んだ日は、展示会初日という事もあって閉館時間ぎりぎりまで賑わいでいた。
 会場は巨大な空間を三つに仕切っており、織を含め計三名の若手染織家の作品がセンス良く配置されていた。第一展示室は早春の寒桜を思わせ、続く第二展示室に置かれた巨大な彼岸桜のオブジェは、春の盛りを感じさせた。第三展示室はやや小ぶりな空間で、里桜をモチーフに作成された小品を鑑賞しながら緩やかなスロープを上って行くと、最終的に展望ロビーへと辿り着く。
 他の来客者の相手で忙しそうにしている織に声をかけることはせず、紗耶は一人のんびりと桜の世界を楽しんでいたのだが、展望ロビーへ足を踏み入れた途端、思わず息を呑んだ。
 全面ガラス張りの窓の向こうには、無数に咲き乱れる八重桜の姿があったのだ。
「命の色を少しでも訪れる方々に見て頂きたい」
 そう告げた織の言葉そのままに、満開に咲き誇る八重桜は春の陽射しに照らされて、濃艶な輝きを放っていた。
「きれい……」
 桜をモチーフにした作品群。その展示の最後に、現実に咲き誇る桜を見せる――
 織の思い描いた桜の世界が、ここに全て凝縮されているように思えて、紗耶は無意識に吐息を零したのだった。


「紗耶さん」
 どれ程の時間が流れただろう。背後から声をかけられて、紗耶は我に返った。ゆっくりと立ち上がり、声のした方へ視線を向けると、丁度織がスロープを抜けて展望ロビーへ入ってきた所だった。
 仕事を切り上げたのか、それとも中断してきたのかは解らなかったけれど、半ば走るようにして自分の元へ来た織の様子に、紗耶は小さな笑みを浮かべた。
「こんにちは。今日はお疲れさま」
「申し訳ありません。私から誘っておきながら案内する事が出来ず……」
 開口一番申し訳なさそうに謝罪を述べた織へ、紗耶は静かに首を横へ振った。例え知人だからという理由であったとしても、織が自分の事を気遣ってくれる事は純粋に嬉しくて、紗耶は微かに顔を赤らめる。
「構わない。忙しそうにしていたの、わかっていたから」
「お一人で退屈ではありませんでしたか?」
「大丈夫。展示もこの庭もとても綺麗で、見ていて飽きなかった」
 言いながら、紗耶は再び視線を桜の庭園へと向けた。春の夕陽はどこまでも優しくて、それはまるで織のようだと思う。
「……織さんの仕事は、やっぱり凄い」
「紗耶さん?」
「命の色……伝わってくる。ロビーに来た人は皆、溜息を零していた。私もそう」
 夢を渡る事は出来ても、夢を持つ事は出来ない。こんな風に人に感動を与えられる術を、自分は持たない。もし病院で眠り続けていなければ、今頃は自分も織のように夢中になれる何かを手にしていたのだろうか。ふとそんな疑問が脳裏を掠めるが、夢を渡る身でなければ織に出会えなかったような気もした。
「……少し、羨ましい」
 紗耶はガラス窓にそっと手を当てて、独り言のように言葉を紡いだ。すると、紗耶の横に立っていた織が、穏やかな口調で話しかけてきた。
「紗耶さん。これからお時間はありますか?」
「何故?」
「展示を見て頂きたいと思ったのも事実ですが、紗耶さんをお誘いしたのにはもう一つ理由があるんです」
 織の言葉に紗耶が首を傾げる。織は行き先を告げてはくれず、かわりに柔らかな笑顔を称えて紗耶へと手を差し伸べてきた。
 不思議に思いながらも、紗耶は織の手のひらに自分の手を合わせると、織の後をついて歩き出した。


*


 織が紗耶を伴ってやってきたのは、ディスプレイ用に運び込んだ荷物が置かれている資材置き場だった。
 室内に窓はなく、蛍光灯の明かりだけが煌々と広いフロアを照らしている。コンクリートの壁には大量の合板(ごうはん)が無造作に立て掛けられ、床にはまだ工具や角材が散乱していた。
 それらに足元をとられないよう注意を払いながら織が紗耶の先に立って歩いていると、不意に後ろから不安そうな声が聞こえてきた。
「ここは、関係者以外の人間が入ってはいけない場所ではないの?」
 振り返ると、紗耶は周囲に視線を向けながら躊躇いがちに歩いている。織は紗耶の様子を見て、穏やかな笑顔を浮かべて返した。
「大丈夫ですよ、オーナーには先に了承を頂いていますから。それに、ここを通った方が近道なんです」
「……この先に、何があるというの?」
「そうですね。強いて言えば『春の色』でしょうか」
「春の色?」
 自分を見上げてくる紗耶に織は頷くと、再び前を向いて歩き出した。
 オーナーから依頼を受け、初めてこの美術館へ訪れた時は、まだ春の足音さえ聞こえない季節だった。枯れ木に覆われた美術館の姿はどこかうら寂しく思えたが、それと同時に、桜の蕾が綻び始めたらどんなに美しいだろうとも思った。
 空は朧に霞み、桜の淡い色彩とあいまって幻想的な世界を作り出す。そんな光景を見せてあげたいと、一番に脳裏に浮かんだのは紗耶の顔だった。
 紗耶はあまり感情を面に出さない。織の言葉に常にぶっきらぼうな返事を返してくる。けれど一緒に居る時間が増えれば増えるほど、紗耶の態度の中に見え隠れする感情の起伏を、織は感じ取れるようになっていた。
 言葉はなくても良い。この先にある景色に、紗耶が少しでも笑顔を見せてくれたら嬉しいと思う。
 そんな事を考えながら、外へと通じる出入り口の前に立つと、織は紗耶へ扉を開けるように促した。
 近代化された表の造りとは異なり、二人の目の前にあるのは、所々さび付いた鉄製の扉だ。紗耶はドアノブに手を置き、一度間を置いた後で扉を開いた。

 柔らかな風とともに、白色の花弁が資材置き場に入り込んでくる。
 扉の先には、別の建物へと続く舗装されないままの道があった。その両脇には、美しく咲き誇る無数の桜の姿。
 真白の花弁は四月の夕陽を受けて淡紅色に輝き、花の重みで緩やかにしなった枝は、互いに重なり合って桜のトンネルを作っていた。
 庭園の八重桜が濃艶であるならば、ここに咲く里桜は可憐と形容するのが相応しいかもしれない。織は微かに瞳を細めながら紗耶へと話しかけた。
「桜の名所と呼ばれる場所は人が多いですし、展望ロビーから見える庭園は来館者の方々にも散策出来るようになっていますから……ここはちょっとした穴場かもしれません」
「…………」
 返事は無い。
 織は隣に佇む紗耶へ視線をおろすと、その様子に思わず口元を綻ばせる。紗耶は桜の美しさに心を奪われているのか、瞬きをするのも忘れて眼前に広がる光景を見つめていた。
「ご存知でしたか? 夕陽を帯びた桜は朱金に輝くのですよ」
 言って、織は一歩外へ踏み出す。振り返って紗耶を見つめると、紗耶が静かに頷きながら織の傍らに歩み寄ってくる。
「……知らなかった……とても、綺麗」
 染織の為に木々を見て歩く織だからこそ知りうる事かもしれない。時間帯によっても品種によっても、桜はその時々によって千種千様の姿を我々に呈してくれる。
「……咲く花を愛しいと思う」
「……?」
「桜の語源ですよ。『咲くら』が転じて『桜』になったと言います。古くから『ら』という言葉には親愛や愛しむという意味があったそうです」
「……愛しむ?」
「ええ。桜を愛しいと想う人の心が花を咲かせるのか。花の美しさが人に愛しいという感情をもたらすのか……もしかしたらその両方かもしれませんが」
 桜と名づけた人の想いが伝わってくるようで、織は言いながら紗耶に微笑んだ。けれど織の予想に反して、紗耶は微かにその表情を曇らせる。
「……紗耶さん?」
「でも、桜はすぐに散ってしまう。愛しいと思っても、傍に留め置くことは出来ない。傍には、居られない」
 紗耶の心の陰りに気づいた織は、思わず立ち止まって紗耶を眺めた。紗耶は織の言葉に返す事は無く、歩みを止めた織の横をゆっくりと通り過ぎてゆく。
「確かにここに在るのに……ここに居るのに。舞い落ちた花弁は、時が経てば幻のように消えてしまう」
 桜の事を言っているのか、それとも桜を何かになぞらえているのか。紗耶の後ろ姿からはそれを知る事が出来ず、織は思わず口を開きかけた。
 ――瞬間。
 突然の強風が吹きぬけて行き、織は咄嗟に片手で己の顔を覆った。
 風にあおられた桜の花弁が、吹雪のように大地へと降り注ぐ。舞い散る花弁は夕陽を反射していっそう輝きを増し、織はその光に視界を遮られて、目の前を歩く紗耶の姿を見失いそうになった。
 まるで桜の花弁に紗耶を連れ去られてしまいそうな錯覚に捉われ、織は咄嗟に紗耶の手を掴むと、己の方へと紗耶を引き寄せた。
 鼻を掠めるのは桜の香りか、紗耶の香りか。
 手繰り寄せ抱きしめた温もりも、華奢な体も、確かにここに在るというのに。抱きしめた途端、己の身の内から溢れ出たのは、紗耶を愛しいと想う気持ちと、紗耶が自分の目の前から消えてしまうのではないかという不安。織はその不安を振り払うかのように、無意識に紗耶を抱きしめる手に力を込めた。


 気がついた時、紗耶は織の腕の中にいた。
 頬越しに織の体温が伝わってきて初めて、自分は織に抱きしめられているのだと悟った。普段の織からは想像もつかないほどの強い力に、自分よりも大きな胸に、織が男の人なのだという事を弥が上にも意識してしまう。
 不思議と嫌悪感はなかった。むしろ伝わってくる暖かさに、ずっとこのままで居たいと感じている自分に紗耶は驚き、それと同時に、何故織がいきなり自分を抱きしめたのか解らず、心が乱れた。

「……何か、悩み事でもあるのですか?」
 どれほどの時が流れたのだろう。もしかしたら一瞬だったのかもしれない。不意に頭上から織に問いかけられて、紗耶は平静を取り戻した。
「……え?」
 囁かれた言葉の意味を解せずに、紗耶は抱きしめられたまま織を見上げた。
「時が経てば幻のように消えてしまうと……傍には居られないと言った時、一瞬紗耶さん自身が居なくなってしまうのではないかと……」
 織と瞳があって、紗耶は思わず表情を硬くした。目を逸らすことが出来ず、紗耶はただ織の口から零れる言葉を聞き続ける。
「もし困っている事や辛い事があるのなら、私でよければ力になります」
 織の言葉に、一瞬紗耶は心の中にある秘め事を口に出してしまおうかと思った。生身の自分は病院で眠り続けたまま動くことさえ叶わないのだと。それなのに、自分は目の前に居る相手に惹かれているのだと。
 けれどその想いは言葉にならなかった。
 幻のような存在の自分が織に対してどんな感情を抱いたとしても、それは叶う事の無い夢のような気がして。紗耶は織が腕の力を緩めると同時に、ゆっくりと織の傍らから離れた。
「……悩みという程のものではない。織さんの思い過ごしだから……平気」
「……本当ですか?」
 紗耶はそれに無言で頷くと、織から視線を外した。
「ありがとう。今日、誘ってくれて嬉しかった」
「ご自宅までお送りします」
「心配いらない。一人で帰れる」
 好きだという気持ちが、花弁のように心の中に積もってゆく。この想いが叶っても叶わなくても、言葉にして告げられたらどんなに幸せだろうと思う。
 泣きそうになるのを堪えながら、自分のそんな表情を見られたくなくて、紗耶は一人踵を返すと鉄の扉へ向かって歩き出した。
 舞い落ちた花弁は積もり積もって大地を覆い尽くし、人の心までも薄紅色に染め上げてゆく。
 やがて地に落ちた花弁がその姿を消してしまっても、自分の心から織を愛しいと思う感情が消え去る事は、無いような気がした。




<了>


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2007年05月14日

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