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『 Humble seamaid 』
斎藤・智恵子4567)&(登場しない)

 天候に恵まれ雲一つ無い晴天の中、惜し気もなくその姿を晒す太陽。母国では決して味わえない海の、澄んだ翡翠めく青さ。
 智恵子は今、異国の海原の内に身を浸し、その穏やかな海流に添い遊泳を満喫していた。

 事の発端と言えば、珍しく休暇の揃った一家の連休を一体いかにして過ごすか――と言う他愛もない談笑からであった様に思う。
 そんな一般の家庭には稀にある、嬉しい偶然にただ、一つ。異な事があるとすれば、遠慮も無く海中を漂う智恵子の純白の、一見パレオにも似た水着を纏ったその下肢に……薄桃色の尾ひれがゆらゆらたゆたっている、と言う事。

(――……凄い。海の底も、向こうの景色もずっと先も、こんなに澄んで見える何て……)

 例え海に職を置く者でも、生身の身体ではとても踏み入る事の叶わない海底の深部。だからこそ魔法の練習も兼ね、其処に智恵子は当たり前の様に存在し、普段は慎ましく結わえた艶やかな黒髪を波に遊ばせ新たに目にするばかりの世界に瞳を輝かせていた。
 そんな智恵子を歓迎するかの様に、小さく鮮やかな模様で飾った魚達が人懐こく彼女の手の甲を擽り、愛らしい仕草に顔を綻ばせて智恵子もまた、自身の尾ひれをたどたどしく操りくるりと海中を舞って見せる。
 暫くそんな戯れに夢中で興じていると、魚の群れが不意にある方角へ向け、一匹、二匹と異様な勢いで泳ぎ始めた物だから、智恵子は瞬きをして茫然とその様子を窺った。

(……? さっきまで、あんなに楽しそうに泳いでいたのに……)

 無意識に音を紡ごうと動く唇も、今は響かずも魔法の効力により智恵子の口内を海水が侵すと言う事はなく、未だ智恵子の傍らに残っている魚達も何となく切羽詰った様子で智恵子を急かす様に、その華奢な肢体をつんつんと突付いてくる。
 智恵子が全てを理解したのは、彼女が何事かと小首を傾げ、眼前が先までの気候に反し暗く陰った時。
 無防備に振り返り、智恵子の視界を黒く覆い尽くした物は……。

 智恵子の四肢の何倍もある、巨大な鮫であった。

(…………っ!?!?)

 瞬時真っ白になる頭に、恐怖から発せられる危険信号に従うまま智恵子の出来得る全速力で、自身を隠す珊瑚礁の隙間を縫い海原を駆ける。海水の内では分からないけれど、涙の数的程はその間流れていたかもしれない。

 魔法を使わなければ……とか、陸の方へ向かわなければ……とか。そんな冷静な思考は勿論の事残されておらず、無我夢中で海原を彷徨った末に疲労を迎え智恵子が息をついた場所は、先よりもほの暗い、恐らくは陸地から遠く離れた海の沖であった。

「恐らくは、陸はあちらの方……ですよね」

 一度海面に顔を出し、眼鏡を持ってきていたら絶対に先の騒動で失くしていただろうとどこか抜けた安堵と共に濡れた頭を幾度か振って辺りを見回せば、先までと異なり幾分と曇天に遮られた太陽の傾きと、遠くにぼんやりと見える街並みの様な物から自身の現在位置を曖昧に把握して、誰にともなく呟いた智恵子は改めて安堵とも疲労とも分からぬ溜め息をついた。
 息を整え気を取り直し、陸の付近に居た頃には考えられぬ、些か強い冷風に身を震わせて智恵子が再び海中へと潜ろうとした時、微かに鼓膜に響く音を捉えてその動きを止める。

「――……? 人の、声……?」

 それと察して智恵子は素早く海中に身を隠し、海底近くの岩の陰で息を潜める。こんな沖に智恵子の様な年頃の少女が居るだけで怪しい物だと言うのに、今の彼女は人魚と相違ない姿をしている。
 見つかるなどと、魔法を扱う者として絶対に避けねばならない事態であるし、何より見つかった後自身がどうなるかも分からない。そんな不安と緊張を身に走らせる智恵子が、やがて聴こえる声の異質さに気付き、訝しげに音の先を辿った時――その双眸が大きく見開かれた。

(!! あの方達、溺れて……)

 見れば所々心許無く破けた小型のボートに二人、意識も朦朧と縋り付いている男女がされがまま波に揺られ、辛うじて助けを求める唇だけが力なく動いている。
 どうするべきか……智恵子の迷った時間は、そう長い物ではなかった。

 祈る様に、伏せられた瞼に次ぎ眼前に淡く暖かな光が灯り、緩やかに海中を満たしていく。

(どうか……無事に皆さんの下へ、辿り付いて下さい)

 直後、彼らの意識の途切れる間際。七色のシャボン玉の如き光が、自分達を覆い緩やかに何処かへと誘う様を、その瞳に認めたか否かは――……定かでは無い。


 その後、智恵子も無事に陸へ辿り着き、遭難者救助の知らせを野次馬をしたのであろう観光客から遠巻きに耳にすれば、胸を撫で下ろして自身は宿泊先へと戻り。智恵子は一泊の後に、家族と共に帰路へと着いた。

 故に、智恵子は知らぬであろう。
 帰国当日の朝刊の隅、小さく取り上げられたとある事件の幕を。

『奇跡!! 救助された遭難者、人魚の導き? 感謝の想い』


 完
PCシチュエーションノベル(シングル) -
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東京怪談
2007年05月07日

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