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『bitter tears 』
レイリー・クロウ6382)&(登場しない)

 ベランダに降り立ったレイリー・クロウを白い両の腕が迎えた。
「あぁ、よく来てくれたわ」
女の声は喜びに震え、情熱を色濃く宿したブラウンの瞳がレイリーを映す。
 扉の隙間から一条、室内に差し込む光が、夜の室内に凝る影を僅かに減じさせ、その分レイリーの持つ闇を際立たせる。
 まるで心からそうと感じているような巧みさで、花の香りと共に抱き締められたレイリーは、敬意を表して軽く頭を下げた。
「私を一人にしておくなんて、非道い人。それとも他に私を忘れてしまう程、美しいお相手でも出来たのかしら?」
内容は不満を示すものだが、口調は自尊心を擽る甘えを有する。それは人間になら有効だろうが、化生であるレイリーには通用しない。
「貴女ほど美しい方を、私は存じ上げませんが?」
レイリーは、問答を求められた魔法の鏡めいた答えを返し、一方的に背に回されていた腕に応じて髪を撫でた手を滑らせ、彼女の背の中心にあてた。
 傍から見れば、睦まじい逢瀬である……が、彼女は伯位の家柄に生まれ、侯位に嫁いだ紛う方なき人妻である。
 胸から上を大きく開いた夜会服と、階下に流れる音楽と声に、邸内では某かの集まりが催されている事が察せられる。
 夜会はしばしば深夜に及び、夜半とはいえ客室に戻る者は未だなく、レイリーと彼女の逢瀬を見咎める者はいない。
 彼女と遭うのは、そのような社交の場の片隅ばかりだ。
 女である、それを実に巧みに使う彼女の高く結い上げた髪を撫で、レイリーは薄い微笑みを浮かべた。
 ひっそりと夜の闇に紛れるレイリーの装いと違って、侯爵夫人は暗く色を押さえながらも絹の光沢に華やぎを増す紅一色のドレスを纏っている。
 レイリーの首に絡められた手首には幾重もの金の輪を、首元には紅玉を連ねたネックレスを、そして結い上げた黒髪にも紅色の玉を使った髪飾りで装い、白磁の肌を映えさせた。
「嘘を仰い」
くすくすと笑う彼女は、楽しげに言って右の手を上げ、掌でレイリーの頬をするりと撫でる。
「男がそういう言葉を吐いて真実味を得るのは、三日と飽かずに寝室を訪れた時と相場が決っているのよ?」
「ならば、暫くお会いしない間に、更に美しさを増したとでも言葉を変えましょうか?」
レイリーの言に、夫人は微笑んで首の後ろに手を回し、更にレイリーに身を寄せた。
「それは本心のようね」
彼女の若々しさは取り繕ったそれでない事が、至近で良く解った。
 齢は40を超えようというのに、容色衰えることなく年経る程に輝きを増さんばかりの夫人を、口さがない者はエリザヴェートのような、と評する。
 それは勿論、血の伯爵夫人と称されたエリザヴェート・バートリーに由来する。
 若い娘の生き血で満たした浴槽に身を浸し、己の美貌を永遠の物にしようとした伯爵夫人と類する、ある種の血生臭い噂が、彼女の周囲にも存在していた。
 篤志家としての顔を持つ彼女は、若い才能に好んで出資する……が、金を受け取ると言うことは夫人の愛人になる事を示し、その庇護を望んだ者、全てが次々に不慮の死を迎えているのだと言う。
 ある若い画家は事故に利き腕の自由を失い、声楽家は病に喉をやられて自らの命を絶った。如何なる方法でもってかそんな悲運と不運、そして若い命を糧に己の若さを保っているのだと、まことしやかな風評として彼女につきまとっていた。
 更には好んで纏う赤い色彩が、血を連想させてもいるのだろうが、彼女は決してそれを改める事はしない。
 ごく自然に併せられる唇を拒む事はせず、レイリーは夫人に体温を分け与えられて自分の唇の冷たさに気付く。
「私を召し上がるおつもりですか?」
「美味しければね」
合間の囁きにしては甘さに欠くレイリーの揶揄を、夫人がからかいの口調で受け止めた折、レイリーの金色の眼差しがつと動いて、室内に僅かな灯りを届ける扉の隙間……そこにひらりと動く桃色の残像を捉えた。
「……見られてしまいましたね?」
扉の狭間から逢瀬を覗いていた目撃者の、その場から早く立ち去ろうとしてか、殺しきれずに去り行く足音を耳に捉えながら、少しも悪びれずにレイリーが言う。
「可愛いでしょう? あの娘が夫の小鳥。とても良い声で鳴くの」
夫人はレイリーの首に腕を回したまま、目元で微笑んだ……その愛しげな様子に、レイリーは革の手袋に包まれた長い指を夫人の頬に添える。
「えぇ。まるで籠の中でこそ美しい、金糸雀のようですね」
 小鳥、と称したのは彼女の義娘である。子供の居ない侯爵夫婦に引き取られた孤児は、金色の巻き毛に緑の瞳を持つ、それは美しい少女だった。
 家を結ぶための婚姻に、夫人と夫の間に情が通わないのは最初から。暗黙の了解のように寝室を別にしていれば子供など望めよう筈もない。
 何と心優しいご夫婦だ、貧困を忘れ淑女としての将来を約束された彼女は幸せな娘だと、知らぬ者は口々に褒め称え……少女が侯爵の慰みとされている事を知る者は、呆れに眉を上げるか潜める。
 幼い内に貧民窟から拾い上げられた彼女は、侯爵の行為が本当の親子の情だと教え込まれて欠片も疑わず、滑稽なほど清らかに美しく育っていた。
 人に羨まれ、傅かれる豊かな生活。その暮らしに一点の染みのように夫人の不貞が際立つ。
 それでも優しい少女は、社交の場以外では自分の存在を無視する義母が、いつか優しい義父と和解してくれる事を信じている。
 その健気さは、レイリーの興味を引く事はない。薄っぺらな光は、闇に転じたとてさほどの魅力を持つことはない。光が薄ければ影も薄いのが道理だ。
 その点、夫人の内包する闇は甘い香りでレイリーを引き寄せる。
 貴族社会の爛熟した闇の、腐り堕ちる寸前の果実に似たねっとりとした甘みは、少々食傷気味であったのが正直な所だが、夫人のそれは実を結ぶ前の芳しく闇にこそ香る花の芳しさを持っていた。
 その香に引き寄せられたのが、五年前の事だ。その時に夫人に与えたイヤリングが、耳元を飾るそれである。
 持ち主の血を吸い、寿命を喰らうそれが、如何なる経緯で以て不老の質を代償とする知恵を得たのか、レイリーには知る由もない……否、興味がない。
 レイリーにとって、紅玉が人の血を吸う事で力を、輝きを増し、更なる甘美を蓄える、その事実のみが何よりも大切な一つ。
 夫人は良く保っていると言えた。今までにイヤリングを与えた女は、一年を待たず、全身の血を失って干涸らび、命尽きたというのに……男の愛を止めるために、若さを求めた者だからいけなかったんですかね、とレイリーは自問しながら、未だ嘗てない程、濃い紅を蓄えたイヤリングをうっとりと眺めた。
 五年前のあの夜、夫人は涙を零していた。
 引き取ったばかりの義娘を伴って夫が消えた寝室の扉を睨むように、瞬きもせずに見つめる眼から、いつ血の涙が溢れても不思議のない。
 その感情は、嫉妬、と言えば嫉妬なのだろう。
 夫人は確かに恋うていた。扉の向こうに姿を消した金色の、小さな少女を。
 それが、情熱と呼ばれる感情を持たぬまま、女の盛りを越えようとしていた夫人が初めて覚えた狂おしいばかりの恋情。
 昏く甘く、噎せ返るほどに濃く闇に満ちる香に魅かれ、レイリーは彼女の元に降り立った。
 そして彼女の望むとおり。命を代償にしても若さを保つ……少女に、決して衰える女の姿を見せぬ力を持つ装身具を譲り渡したのだ。
 夫人の奔放さが、表に現われたのはそれからだ。才長けた青年達を選び、魅了して絡め取り、破滅へと追いやる。
 絶望と闇とを紅玉に蓄える巧みさは、レイリーがそうと告げてのものではない。イヤリングを得るまでの彼女が、神に捧げられる程に潔く在ったとて、そうと信じる者は果たして居ないだろう。
 彼女と、その周囲の者の欲と闇を吸収して、より深い輝きを得る紅玉、その熟成を確かめる為に彼女の元を訪れるのが、レイリーの楽しみの一つとなっていた。
「貴女は私と良く似ている」
抱擁の腕を解かぬ夫人の手に、レイリーは彼女の耳元に熱の残る唇を寄せた。
「失礼ね、私は貴男ほど多情ではなくてよ?」
 夫人は、その想いと裏腹に、公式の場以外では義娘の存在を徹底的に無視していた。拒否するほどに、少女が彼女の興味を請う事を知りながら、知るからこそに。
 夫人は闇に朧に身を溶かし、闇に紛れる彼女を求めて少女の視線が注がれるそれだけを望んでいる。
 それは人の内に闇を求めるレイリーのそれに、ある意味で酷似していた。
「そうですね、貴女は私よりも余程欲深い」
言葉の意味とは裏腹に、確かな賛辞を有したレイリーの声音に、夫人は今度は異論を唱える事なく、髪止めを外す。
 艶やかな黒髪が、肩を伝って背に流れ、肌を覆い、紅玉を更に際立たせた。
「今夜も良く、お似合いですね?」
言ってレイリーは夫人の耳元を彩る赤に指先で触れる。
 水滴を形取った、大粒の紅玉。それは闇を背景にしてとろりとした質感に色濃く、今にも滴り落ちそうな血の色に酷似していた。
 レイリーは夫人の耳朶ごと、イヤリングを口に含む。
 舌の上で転がるそれは、無念、怨み、悲哀……夫人が集めた負の感情を、馥郁とした血の香りに凝縮し、その濃厚さはレイリーを酔わせるには充分だ。
 しかし、芯に僅かな苦みが残っている。
 闇と相対し、レイリーの力を相殺する、それは夫人の未だ汚れなき恋情。
「私の死は、あの娘の中に残るでしょうね」
レイリーの髪を撫でながら、独言のように夫人が呟く。
 外見の若さを保つその代り、内臓は急速に老いさらばえている筈だ。最終的に枯れ木のように、乾ききって命尽きる、その死期が近いのを自覚し、後に残される少女を案じての言と取ったレイリーは、舌先に乗せた紅玉をそっと離してその耳元に囁いた。
「遺して行くのが気掛かりですか?」
ならば、と更なる代償と共に懸念を……少女を庇護するとして己の所有とする彼女の夫の破滅を提案しようとしたレイリーだが、唇に宛てられた夫人の指に先を制される。
「私が果てた後、私を見ないあの娘がどうなろうと、それは構わないわ」
虚を突かれたレイリーは、微笑みも忘れて腕の中の貴婦人を見た。
 己のためだけに闇に堕ちる。何とも小気味よく、潔く、そして貪欲な恋もあったものだ。
 夫人の耳元で、生命の色をした雫が幽かに揺れる。
 彼女が死したその後に、紅玉のイヤリングを想う娘に与えればどうなるだろう。
 宿る情念を怖れるか、呑まれるか……はたまたそれ以上に深い、何かをレイリーに見せてくれるのだろうか。
「これだから、人間は……」
面白いんですよ、と続くべき言を夫人の口中に吹き込んで、レイリーは黄金に煌めく眼を満足げに細めた。
PCシチュエーションノベル(シングル) -
北斗玻璃 クリエイターズルームへ
東京怪談
2007年05月01日

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