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『赤い瞳のうさぎ姫 』
深沢・美香6855)&三下・忠雄(NPCA006)

 ──本当は、ずっとずっとこの小屋から抜け出したかった。


『美香さん、どこを見てるの? 休憩時間はまだまだ先ですよ!』
 雨の音に惹かれぼうっと窓の外を眺めていた深沢・美香は、ハッと我に返り先生に謝った。
「す、すみません‥‥」
『美香さんは少し注意力散漫ですよ。ただでさえこんな簡単なメヌエットで躓いてるんですから、もっと身を入れて取り組んでもらわなくては』
 すみません、と。美香はただただ小さくなった。
 高圧的なピアノの教師は、品の良いワンピースを着た少女を見下ろし、鼻の頭に皺を寄せる。
 恵まれた裕福な家庭で、蝶よ華よと育てられているのは一目見て分かる。同じ女としてその事実は腹立たしいし、その自立心の無さが嗜虐心を煽った。
 全く、と忌々しげに息を吐き出す。
『ではもう一度最初から』
 はい、と白い鍵盤に乗せた小さな指が、優雅な舞曲を紡ぎだす。宮廷舞踊のために作られた筈のその曲は、何故か少し、寂しい響きで‥‥。

「──あ」
 ぱちりと目を開けた時、眦を伝う生温い雫を感じた。
 ゆっくりと身を起こし、昔とは比べものにならないほどの近距離にある窓を見つめる。薄い窓を叩くように雨が降っていた。
 十年も前の事を夢見たのはどうやらこの雨のせいらしい。重い気分で起き上がった私は、畳の上に降り立つ。流しまで数歩で行けるこの部屋は、かつての自分の部屋に比べたら犬小屋も同然だった。
 ──いや、ウサギ小屋、か。
 自嘲するように笑い、グラスに水を入れて飲み込む。愚痴が喉からせりあがってきて、危うく溢れ出しそうだった。
 ざああああ、と雨は頭の中の雑音をかき消すように降り続けている。

●ウサギの仕事
 ざああああ、と水が激しく迸る音がする。今朝見た夢を思い出しながら、美香は浴槽に落ちていくその様子を眺めていた。
『こっ、困りますお客様、あの、外さないで下さい』
『え〜? いいじゃん俺病気持ってないよ〜?』
 はぁ、と溜め息が漏れた。
 今日のお客さんは気付かないうちにスキンを外すのが異様に上手くて、毎回同じ会話を繰り返している気がする。週一以上で来てくれる上に自分を指名してくれるとはいえ、いいじゃんいいじゃんで毎度毎度誤魔化そうとするその態度に今日は上手く対応出来なかった。
 その接客態度にも怒られたし、朝見た夢が原因で、目が虚ろだと叱られた。部屋持ちの先輩嬢にも嫌味ったらしく罵られ、どうしても顔を上げられなくなった。
『‥‥お湯、張り直してきます』
 その場から逃げ出したくなる気持ちを抑え、毒々しい壁紙の中にソファや浴槽しかない部屋に舞い戻った。
 ざあああ、とお湯が落ち続ける。心も湯と共に落ち続けた。
 頭の上にぴょんと生えているウサギの耳を取る。肩や二の腕には布地がない衣装。お尻に揺れるふわふわとした丸い尻尾。両足は黒い網タイツに覆われていた。
 ──君は従順そうだからなぁ。よっし、バニーで行こう!
 サラ金男に連れて来られた職場は、ここ、ソープランドであった。その中で自分に定められた役目は、ウサギになる事。
『ウサギさん‥‥ですか』
 呆然と返した自分が今は懐かしい。だがそれは愛しいと思える事ではなかった。何も知らない自分が、何も知ろうとしなかった自分がより鮮明になって突きつけられるから。
 ざあ、ざあ、ざああああ。
 浴槽に溜まる湯はいつか溢れる。いつもより少し多めになってしまったのを見つめ、ウサギは溜め息を吐いて蛇口を捻った。
『美紀ちゃーん、お客様をご案内して!』
「‥‥はい!」
 ──生まれ親しんだ名前をここでは呼ばれない。泡姫となるその瞬間だけ、美紀という誰かになる。
 目の前の客は、初めて見る顔だった。目立たない地味なスーツを着て、洗練されてない眼鏡。年は自分より少し上だろうか? おどおどと自分を見つめている。
 少しその客の態度に不思議に思いながらも、この三ヶ月で身に付けた技を披露する。
「いらっしゃいませ、お客様。美紀がお部屋までご案内致します」
 ──例え相手がどんな酔っ払いであっても。容赦ない力で胸を揉まれても。
 ──髪を無茶苦茶にされて、嫌だと言ってるのに無理矢理押し倒されたとしても。
 ──私は、ソープ嬢。
 ──相手が欲望を吐き出すその時まで、笑顔で接客する。

●東京怪談
「う、うあああああちかっ、近いですぅうううっっ」
「‥‥はい?」
 ソファに案内するまで座る気配もなく、座ったら座ったで隣に座る美香からのけぞるように離れた。美香の目が点になる。
 ここはソープランドであって、プレイタイムは110分をお選び頂いたのだが。
 ──あ、ひょっとしたらそういう‥‥?
 特殊プレイがお好みか、と。まだホステス業からソープに移って三ヶ月しか経ってない美香はこっくりと頷いた。
「わかりました。お客様は攻められるのがお好きなのですね。無理矢理の場合はあまり経験がないのですけど、精一杯やらせていただき」
「ままま待って下さい、ちがっ、違うんです! 僕は取材に来たんであって、そんな女王様に踏まれたいとか縛られたいとか握られたいとか潰されたいとかそんな事! 碇編集長で手一杯ですから! 僕!」
「‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥」
 碇編集長って誰なんですか。と思いつつ。
 取材、という言葉に小首を傾げた。
「ええと、それは‥‥interview、という事なのでしょうか?」
「は?」
 思い切り客の目が見開かれる。その英単語の発音は流暢で、明らかに本場のものであった。
 ──あ、いけない‥‥。
 反して美香はハッと我に返り慌てた。結婚詐欺師に騙され大学を中退する前はかなりレベルの高い教育を受けて育っていたから、美香の何気ない一言に先輩嬢が、『高学歴を鼻にかけるソープ嬢だこと!』と睨まれてしまっているのだ。
「あの」
「そうそう、インタヴューで来たんですよ、僕。だだだから、その、そういった事はしなくていいんです! ええっ!」
 耳まで真っ赤になった客に、美香はぱちくりする。こんな人は初めてだった。
「ええーと、僕アトラス編集部の平社員でして、このお店が東京のど真ん中に位置するせいか、不可思議な現象を目にする人も多いと聞きまして──」
「‥‥アト、ラス? ですか?」
 どんな雑誌でしょうか、と首を傾げるウサギの耳が揺れた。え? と今度は客が首を傾げる。
「ま、まさか、ウサギさん、月刊アトラス知らないんですかぁあああっ!!???」
「すみません‥‥」
 しゅん、とウサギが萎れた。客が慌てて首をぶるぶると左右に振った。
「えとえと、あの、いいんですよっ、知らなくても! た、確かに同じようにオカルトを扱っているといっても、ゴーストネットOFFほどの注目度はないかもしれませ」
「あ、あの‥‥すみません、ご、ゴーストネット? OFF? って何ですか?」
「ええええええっ!!?????」
 それも知らないの!? と絶叫する客に、ウサギは再び萎れた。
 ──小さな頃から、与えられる知識にしか興味を持たなかった。外の知らない世界を見せてくれたと思った人は、私に借金を残して消えた。私が、何も知らないから。何も知らない女の子だから‥‥。
「あ、あ、お、落ち込まないで下さいっ! その、僕がアトラスやゴーストネットOFFの事、教えてあげますから‥‥ねっ? ねっ?」
 朝からの積み重ねで、客の前での空元気をする余裕もなくなったウサギ。
 両親に守られていた小屋を出て、今またこの小屋から逃れる事も出来なくなっているウサギ。
 そんな私に初めて外の世界を教えてくれたのは、アトラス編集部の──ちょっと臆病な、三下・忠雄さんだった。

●雨上がりのウサギ
「それじゃあ、三下さんはいつも命がけで取材なさってるんですね」
「そうなんですよぅ〜、さっき言った女王様! な編集長が上司だから、もうホンットーに容赦なくって!」
 だびだびーと涙を流す三下が可笑しくて、この日何度目かの声を上げて笑った。
 くすくす、くすくすくすくす。
 今は絶縁されてしまった両親の元で学ばされた様々な事は、この部屋では全く不要な事だった。
 女性のそういう知識を嫌がる男性客もいる、と店長に説明されても分からなかったし、そのお上品な態度が駄目だ、と先輩嬢になじられた。
 どんな自分ならいいのだろう? それが分からなくて、押し潰される限界まできていた。けれど。
「ふふっ、三下さんって‥‥面白い方ですね」
 私が何のサービスをしなくても構わないと言うし、笑い方や話し方を注意する事もなかった。久し振りに心から笑える安心感。
「あっ、わわわっ、もうそろそろ時間ですね!」
「えっ?」
 気付けばプレイタイムの110分を終えようとしていた。二時間近くあったのに、何故こんなに物足りないのだろう。
 ──東京のあちこちで見られる摩訶不思議現象の事。私が行った事もないネットカフェや探偵所の話。たくさんの不思議が集う学校や下宿屋さん‥‥。
 空っぽだった胸の奥が今は熱い。私には知らない事がたくさんあるのに、今はそれに好奇心すら湧いている。
「三下さん‥‥」
「はい?」
 下に向かって垂れ気味だった耳が、ぴょこんと浮き上がる。美香が背を伸ばした瞬間に、跳ねたのだ。
 目の前の客はキョトンと見つめ返している。私に対して悪意も何も持ってない顔。今まで客の顔をじっと見た事があっただろうか?
 ──ちゃんと、相手の事を知ろうとしていただろうか?
 知らないなら、知れば良かったのだ。
「また取材に来てくれませんか?」
 次に来て下さる時には店の皆さんから、不思議な体験をしなかったか、聞いておきますから。

『美紀ちゃん、もう中に入ってー!』
 ボーイがそう声をかけた。
 返事をした美香は、雨上がりの中三下を見送った。もちろん普通の業務ではそんな必要は全くないが、大事なお客さんだから、と初めて無理を言った。
 入口に手をかけ、再度三下の去った街中を見つめる。
 雨の上がった東京の街は、洗剤で洗われたように水を弾いてぴかぴかしていた。空気もひんやりしていて気持ちいい。
 ──ずっと、私は周りが見えていなかったんですね。
 そう気付いた。
『美ー紀ちゃーん!』
「はい!」

 今、ウサギは小屋の外への第一歩を踏み出す。
PCシチュエーションノベル(シングル) -
べるがー クリエイターズルームへ
東京怪談
2007年03月09日

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