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『遠い日の夢 』
榊・紗耶1711)&榊・遠夜(0642)&小石川・雨(5332)&(登場しない)



1,

 柔らかな斜陽が街を朱色に染め上げて行く夕暮れ時。榊遠夜は、学校帰りに小石川雨のバイト先であるパン屋へと向かっていた。
 新年を迎え既に学校も始まってはいるが、己の傍らを吹き抜けてゆく風はまだ冷たくて、そこに春の訪れを感じることは出来ない。遠夜はその風から身を守るように、羽織っていたコートの襟を立てた。
 あと数十分もすれば街は夕闇に包まれるだろう。街中は買い物に来ている子連れの主婦や、同じく学校帰りの学生でにぎわっており、人通りが絶える気配はなかった。
 だが、その人混みにさえ気付かないほど、遠夜は先程から一つの疑問に捉われていた。
 今日は紗耶の見舞で病院へ行かなければならないのに、どうしてその前にパン屋へ行こうと思ったのか――。
 冬休みに入る直前にパン屋へ一度足を運んだが、それ以降今日に至るまで、雨とは会っていなかった。久々に様子を見に行こうと思ったのは事実だが、それは今日でなくても良かったはずだ。
 何故? と自問してみるものの一向に答えを見つける事が出来ず、遠夜は無表情の面(おもて)をさらに硬くしながら歩いていたのだが。ふと、凍てついた空気の中に甘い香りが混ざり始めて、遠夜は足を止めた。
 顔を上げると、そこはもうパン屋まで数メートル程の距離で、店の天窓に取り付けられた換気口から、パンを焼く香ばしい香りが外へ零れ出ていた。
 どうやらそれと意識しなくても、足は自然と通い慣れた店へ向かっていたようだ。遠夜はその香りに誘われるようにして歩調を速め、ガラス張りの店の中をそっと覗いた。
 タイムサービスの時間よりはまだ少し早いから、客足は殆どない。一人だけ、初老の女性がカウンターで支払いをしており、その向こうにはレジを打っている雨の姿があった。長い髪をひとつに束ねてエプロンを身に纏っている雨は、いつもと変わらない笑顔で客の対応をしている。遠夜はそんな雨の様子を見ると、微かに瞳を細めてゆっくりと店の扉を開いた。

 扉に付けられた鈴が小気味の良い音を立てる。それと同時に遠夜の耳に届いたのは、元気いっぱいの雨の声。
「いらっしゃいま……あ、榊君久しぶりだね!」
 用を済ませた先客が遠夜と入れ違いに店の外へ出ると、雨が満面の笑顔を浮かべて挨拶をしてきた。遠夜はその笑顔につられて、少しだけ顔を綻ばせる。
「明けましておめでとう、小石川さん」
「うん。おめでとう。お正月の間、ちゃんとご飯食べてた?」
「食べてたよ」
「ホントに? ただでさえ細いんだから、栄養のあるものをしっかり食べなきゃダメだよ?」
 開口一番に雨にそう告げられて、やはり痩せているのだろうかと、遠夜は自分の体へ視線を落とす。
「……心配性だね、小石川さんは」
「心配性なんじゃなくて、面倒見が良いんだよ」
 いつもチビ達の相手をしているからね。とエプロンのポケットに両手を入れながら雨が楽しそうに言う。
 雨の兄弟達には、夏祭りとハロウィンの時に会った。一緒に居るこちらが気圧されてしまいそうなほど皆元気一杯で、そんな彼らの相手をしている雨も、面倒を見ているというよりはむしろ一緒に楽しんでいるように感じられた。人の多い所は苦手だが、彼等の遊んでいる姿を見ていると自分の心まで暖かくなってくるから不思議だ。
 遠夜はこれまでの事を思い出しながら、傍らに置かれていたトレイを手に取ると雨へ問いかけた。
「お勧めあるかな」
「あるよ。今日のお勧めはハーブの田舎パン」
「ハーブ?」
 遠夜が反芻すると、雨がカウンターから抜け出して傍らに近寄ってきた。
「タマゴとツナとレタスを挟んでるサンドイッチなんだけど、パン生地にハーブを混ぜてるんだって。さっき試食させてもらったらすっごく美味しかったよ」
「じゃぁそれを……」
 遠夜が言い終える前に、雨はハーブパンをトングで挟むと、有無を言わせず遠夜の手にしていたトレイへと乗せてきた。雨のその行動に、遠夜は慌ててトレイを持つ手に力を入れる。
「あと林檎パンと、胡麻アンパン。あ、そういえばさっきカレーパンが焼きあがったばっかりなんだ♪」
 矢継ぎ早に言って次々とトレイにパンを乗せようとする雨に、遠夜は否定の意味を含めて遠慮がちに言う。
「こんなに食べられないよ」
 だがその言葉は、かえって雨の心配を煽るだけに終わったらしい。雨はくるりと振り返ると、左手を腰にあて、右手に持っていたトングを軽く振りながら遠夜へと詰め寄ってきた。
「前から言ってるけど、育ち盛りなのにパン一個で十分なんて、絶対駄目だよ!」
「そう言われても、入らないものは入らない」
「何いってるの! 男の子なんだからこれくらい食べないと、そのうち本当にお腹と背中がくっつくよ!?」
「……そんな事あり得ないと思うけど」
「もうっ。屁理屈言ってる暇があったら、素直にパンを受け取りなさい!」
「いらない」
「いらなくない!」
「いや、本当にいいんだ。今日は見舞いの日だから……」
 そこまで言って、遠夜は思わず口篭った。
 雨の怒涛の言いくるめ作戦を回避すべく咄嗟に放った言葉だったが、紗耶の見舞いの件が口をついて出てしまったことに気がつくと、遠夜は微かな動揺の色を瞳に浮かべた。
 そんな遠夜を、雨が不思議そうに見上げてくる。
「誰か入院してるの?」
「…………」
 鼓動が早くなるのを感じながらも、遠夜は努めて冷静を装いながら雨の言葉に無言で頷く。これ以上の質問をしないで欲しいと、切実に願った。
 雨はただ遠夜の体のことを心配しているようで、別段深く追求することもなく話を続けている。
「お見舞いなら尚更だよ。その人にも持っていって、二人で食べればいいじゃない」
「……食べるのは僕だけだから」
「榊君だけって……あ、そっか。病気だったら食事制限とかあるもんね」
「そういうわけでもないんだけど……」
「…………?」
「…………」
 嘘や言い訳で真実を包み込んでしまえるほど、遠夜は器用ではない。例え器用だとしても、この真っ直ぐな雨の瞳を前に嘘などつけるはずがなく、遠夜はただひたすら押し黙った。
 暫くの間、雨は遠夜からの言葉を待っていたようだが、二人の間に流れる沈黙に耐え切れなくなったのか、再び両手を腰に当てながら話を切り出してきた。
「とにかく! それだけじゃ絶対栄養足りないから、せめてもう一個!」
「……じゃぁ、カレーパンを」
 困惑しながら遠夜がぽつりと呟くと、途端に雨が嬉しそうな笑顔を向けてくる。けれど遠夜は、雨の笑顔から視線をそらして、手に持っていたトレイをカウンターの上に乗せた。微かに、自分の手が震えているのが解る。
 もし、この笑顔が消えてしまったら――?
 思い至り、遠夜の胸が酷く軋んだ。


*


 ふと気付いた時、雨は見知らぬ建物の中に居た。
 全景を見たわけではないけれど、とても大きな建物のように思う。真っ直ぐに続く長い廊下の両脇には、似通った作りの部屋が幾つも並んでおり、それぞれの入り口には部屋の番号と、名前の記されたプレートが取り付けられている。全ての部屋の扉は開かれていて、入り口に掛けられている薄いカーテンが時折柔らな動きで揺らいでいる。恐らく室内の窓が開いていて、そこから風が流れてくるのだろう。これだけの広い場所であるにも関らず、雨以外の人の気配は無かった。
「夢かな、これは」
 辺りを見渡しながら、雨は思う。夢を見ている最中に「これは夢だ」と認識出来るのも珍しいが、そう思わなければ、ここはあまりにも現実にそぐわない。
 雨を除く全てのものに色が無いのだ。
 目にしたものが何かということは判別できるが、まるでセピア色の写真の中に紛れ込んだように、一切の色彩が排除されている。
 不思議な夢だなと思いながらも、雨はひとしきり周囲を眺め終えると、立ったままでは何も始まらないとばかりに足を進めた。

 しんと静まり返るその場所で、ただ雨の歩く靴音だけが耳に届く。
 建物の構造。廊下から見る部屋の雰囲気。傍らに備え付けられている緊急用と思しきベッド。それらを見る限り、ここは病院の中であるように思えた。
「榊君がお見舞いって言ってたから、それに感化されちゃったかな?」
 見ず知らずの場所に突然放り込まれても、不安や恐怖といった感情が沸いて来ないのは雨の性格ゆえか。いずれにしても、これが夢であるのなら、どうして自分がこんな所に居るのかと考えるのは無意味な事だ。それにも増して先程から雨の心を占めているのは、パン屋で久しぶりに会った遠夜の事。
「気のせいかなぁ。何か元気がなかったんだよね」
 正確に言うと、話をしているうちに元気が無くなった――といった方が正しいのかな、と雨は夕方のやり取りを思い出す。普段から無表情無愛想の権現のような遠夜だが、途中からそれに輪をかけたように表情が硬くなった気がした。
「パン押し付け過ぎだったかな。売り上げ伸ばそうとしてる!……なんて思われてないよね」
 言葉に出してみたものの、雨はすぐにその考えを否定する。
 自分の知っている遠夜は、人の好意をそんな風に受け止めるような人間ではない。けれどそれ以外に、遠夜の様子がおかしかった理由が見あたらず、雨はうーんと唸りながら首を傾げた。
「よくわかんないけど、こういう事は本人に聞くのが一番だよね。何か悩み事があるなら相談に乗れるかもしれないし、うん」
 自分が悩んだところで本当の原因なんてわかる訳がないと思い至ると、雨は大きく深呼吸をしながら何気なく廊下の突き当たりを曲がった。
 その途端。強い光が前方から放たれて、雨はあまりの眩しさに思わず瞳を閉ざした。

 一体何事かと、雨が片手で光を遮りながら微かに瞳を開くと、それまで存在していた廊下は忽然と消え去り、かわりに雨の目の前には巨大な扉が姿を現していた。
 色彩の無い世界で、その扉は雨を誘うように黄金色の光を放っている。
 暫くの間、雨は茫然としたまま扉を眺めていたのだが。やがて、この向こうには何があるのかという好奇心が心内から湧き出して、雨は両手でそっと扉を押し開けた。
 中へ進むと、眩い光は即座に失せ、やがてうっすらと雨の視界に何かが入り込んできた。
 病室だ。
 以前にも見た覚えのある、病室のように白い部屋がそこにはあった。先程までとは一転して、色彩も戻っている。室内に置かれたカレンダー、本、花瓶と花。そして――
「……雨さん?」
 ベッドの上に起き上がって驚いたようにこちらを眺めてくる、遠夜ととてもよく似た一人の少女。
 雨が辿り着いた場所は、かつて夢の中で出会った少女の居る部屋だった。



 遠夜の言葉に感化されて病院の夢を見、その夢の中で遠夜の事を考えていたら、遠夜にとても良く似た少女に出会った――。
 こんな偶然ってあるんだろうかと考えながら、雨は目の前の少女を瞬きもせずに見つめていた。少女は突然現れた雨に驚いていたようだったが、すぐにその表情は穏やかな笑顔に変わり、雨へと話しかけてくる。
「久しぶり。元気だった?」
「あ、うん。元気だよ? あなたは元気だった?」
 目の前の少女は雨の言葉に頷くと、「よかったら座って?」と傍らに置かれた椅子を指差してきた。
 雨は少し戸惑いながらも、言われるままに椅子へと腰を下ろす。
「また来てくれたのね。ありがとう」
「んー……。前に来た時もそうだったんだけど、あなたにとてもよく似た知り合いの事を考えていたら、またここに来られたんだ。なんか不思議な夢だよね。……でも良かった。会いに行くって約束したのはいいけど、実はどうやって行ったら良いか解らなかったんだ」
 約束したこと覚えてた? と雨は少女へ問いかける。少女は言葉を返すかわりに微笑を浮かべた。
 その仕草が、どことなく遠夜のものと似通っている気がして、雨は微かに困惑する。顔立ちといい、身に纏う雰囲気といい、全てが遠夜と重なるのだ。以前にここへ来た時は、遠夜が夢の中で女性として現れたのかと思ったが、今にして思えばなんだかそれも違うような気がした。
「……どうしたの?」
「ううん。なんでもないよ……あ、そうだ! そういえばまだあなたの名前聞いてなかったよね? この間聞きそびれちゃったから、次に会えた時は絶対に聞こうと思ってたんだ」
 雨はベッドに両手をつくと、少女の顔を覗き込みながら満面の笑みを浮かべた。少女は束の間思案げな顔をしていたが、やがて雨の瞳を見つめながら自分の名前を口にする。
「紗耶。……榊紗耶」
 その名を聞いて、雨は思わず瞳を見開いた。
「榊? 榊っていうの?」
 紗耶が無言で頷くと、雨は遠夜が「見舞いの日だ」と言っていた事を思い出す。
「……えーと。ちょっと待って?」
 次第に混乱してくる頭をフル回転させながら、事の次第を整理してみる。医療ベッドにもたれかかっている遠夜ととてもよく似た少女。彼女も遠夜と同じ「榊」姓だという。ここまで共通点があるということは、もしかしたら遠夜の見舞う相手というのは、この少女の事だったのかもしれない。そう思いながら、雨がふとベッドの横にある床頭台の上を見ると、そこには見た事のあるビニールの袋が置かれていた。
「これ……」
 流石に中身を確認することは躊躇われたが、それは間違いなく雨のバイト先にあるパン屋の袋だった。どうしてこれが紗耶の部屋にあるのか解らず、雨はますます混乱してくる。紗耶はビニール袋を見ると、無表情のまま雨へと告げる。
「兄さんが置き忘れたものだと思う。今日私のところへ来てくれたから」
「紗耶さんって、お兄さんいるの!? 名前は?」
 雨は思わず立ち上がると、身を乗り出して紗耶へ問いかけた。紗耶は突然の雨の行動に驚いたようだったが、兄の名前を告げることはせず、逆に雨へと質問を返してきた。
「……何故そんな事を聞くの?」
「私の知ってる人も『榊』って名前で、しかも今日お見舞いに行くって言ってて……だからもしかしたら紗耶さんのお兄さんが、榊君と同一人物なのかもしれないと思ったんだ」
 雨の言葉を聞き終えると、紗耶は微かな溜息を零した。
「そう。何も聞いていないの……兄さんには困ったものね」
 紗耶に同意するように雨も頷く。
「……本当だよ」
 実際のところ、紗耶の兄が遠夜なのかどうかは解らない。目の前の少女は教えてくれそうになかった。けれどもしそれが事実であるなら、どうして遠夜は自分に何も言ってくれないのか。雨には少し、それが悔しかった。


*


「ねーちゃん! 雨ねーちゃん!!」
 突然頭上から響いてきたその声で、雨は急激に現実へ引き戻された。
 最初に瞳に飛び込んできたのは、同じ学園に住む弟の一人。何故だか凄い剣幕で、雨の事を見下ろしている。
 まだ夢と現実の判断がつかずに雨がぼんやりと弟の顔を眺めていると、痺れを切らしたらしい弟が寝ている雨の布団を思い切り引き剥がしてきた。
「早く起きないとバイト遅刻するって! いつまで寝てんだよ!」
「……あれ、もう朝?」
「朝? じゃないよ! ほんとに遅刻するぞ!?」
 両腕を組んで仁王立ちしている弟の言葉に促されて時計を見ると、雨は時計の針が差している数字にぎょっとして瞬間的に飛び起きた。いつもならとっくに起きて朝食の支度を手伝っている時間だった。
 そんな雨の様子を眺めて、弟はからかうような笑顔を向けてくる。
「早く降りてこないと、ねーちゃんのご飯俺が食っちゃうからな〜♪」
 言いながら部屋から出て行こうとする弟を、雨はベッドに座ったままおもむろに呼び止めた。
「ちょっと待て、チビ助!」
 途端に、弟はギクリと肩を震わせる。相対する雨は、言葉とは裏腹に満面の笑顔を浮かべて弟へ視線を向けた。
「な、なんだよ……」
「私の部屋に、ノック無しで入るなって言ってあったよね。忘れちゃったのな?」
 にっこりと。けれど確実に怒っている雨に、弟がたじろぐ。部屋の壁にへばりついて、既に逃げ腰状態だ。
「だ、だって起こして来いって、母さんが……」
「問答無用!! くすぐりの刑だ!」
「やめろー! 暴力反対!!」
 雨は叫ぶ弟に背後から抱きつこうとした。と、その時。キッチンから、雨と弟に向けて母親が声をかけてきた。
「何やってるの? 二人とも早くしないとご飯冷めちゃうわよ?」
「……はーい。今行きまーす!」
 雨は弟を放すと、慌てて母親の言葉に返した。

 弟が部屋から出て行いくと、途端に部屋に静寂が戻ってくる。それと同時に、思い出されるのは先程まで見ていた夢の内容。
 確かに、遠夜が言ったことと夢の中に出てきた紗耶という少女には共通点が沢山あった。けれど夢はあくまで夢だ。本当に遠夜に妹が居るのかどうか、いくら夢の内容を反芻して唸ってみても解るはずがない。
「……ホント、不思議な夢だよね」
 呟くと、雨は僅かに開きかけた扉を今は心の奥にしまいこんで、バイトへ行く支度を始める。
 いつか機会があったら、今日の夢の事を遠夜に話してみようかなと、そんな事を思いながら――……



2,

 遠夜が紗耶の眠る病院へ到着する頃、太陽はすでにその姿を隠し、東の空には白々とした光を放つ月が昇っていた。
 面会時間が終わるまでにはまだ少し余裕があるから、それまでは紗耶の傍についていられる。そう思いながら遠夜が病室の扉を開けると、窓際には既に薄いカーテンが引かれ、蛍光灯の明かりが室内を照らしていた。
 病室はベッドを置いてなお十分過ぎるほどの広さを持っているのに、カーテンで外界を遮断しただけで、昼間とはまるで違う様子を見せる。遠夜は無機質な蛍光灯の光に微かな圧迫感を覚えながらも歩みを進めると、無表情のまま中央に置かれたベッドへ視線を向けた。
 そこには眠り続けたままの紗耶の姿がある。
 肌は透き通るほどに白く、 その体からは微弱な生気しか感じ取れない。髪の毛が綺麗に整えられているのは、専属医が手入れをしてくれているからだろう。紗耶が自らの手で漉いたのではない。
 遠夜は紗耶の傍らまで歩み寄ると、微かに身を屈めて言葉を紡いだ。
「……紗耶、久しぶり」
 返事は無い。
 現実世界で紗耶が自分に微笑みかけ、言葉を返してくることは無いのだと思い知らされる瞬間だった。
 遠夜は近くにあった椅子を引き寄せると、おもむろにそこへ腰を掛けた。反動で手にしていたビニール袋がかさりと音を立てる。 先程雨の居る店で買ったパンだった。遠夜は床頭台の上にそれを置くと、眠る紗耶に聞かせるように話しかけた。
「パンを買ったんだ。小石川さんっていう僕達と同じ歳の子がそこのパン屋に居て、気付いたら二つも買ってた……紗耶が起きられたら、一緒に食べる事が出来たんだけど……」
 叶わぬ願いと解っていて、それでも言の葉に乗せてしまう。
 紗耶が目を覚ましてくれたら。
 紗耶が自分の言葉に返してくれたら――……。
 そう考えるにつけ、紗耶をこんな目にあわせたのは他ならぬ自分なのだと、心内深くに潜む罪悪感が疼きだす。
 そして、それと同時に遠夜の脳裏を過ぎって行くのは、店で見た雨の明るい笑顔。
「……どうして、見舞いだなんて言ってしまったんだろう」
 深い溜息とともに零れ落ちた言葉は擦れ、明確な音にはならなかった。遠夜はうつむいたまま、思わず瞳をきつく閉じる。
 いつから、あのパン屋へ行くことが当たり前になっていたのか。どうして今日あの場所へ行ってしまったのか。何より見舞いという言葉を口に出してしまえるほど雨に気を許していた自分に驚き、そして怖れた。
「……紗耶」
 声に出して、その名前を呼んでみる。
 同じ血を分かち、心を共有する己の半身。
 遠い日の紗耶は誰よりも自分にとって近しい存在だった。それは紗耶が夢にのみ生きる存在となってしまった今でも、変わる事はない。変わりようがない。
 遠夜を苛み続ける罪悪感がこの先消える事はなくても、夢の中の紗耶は昔と変わらない笑顔を遠夜に向け、赦しを与えてくれる。そこには罪悪と共に流れる絶大な安心があった。
 だが……
 だが、雨はどうか。
 妹がいて、彼女は病院で眠り続けているのだと言ってしまえば、何故こうなったのかを説明しなければならない。そして、それに対して雨はどんな反応を示してくるのか――。
 遠夜はゆっくりと顔を上げ、紗耶を見つめた。血の気の引いた己の手を伸ばし、横たわる紗耶の白い手に触れてみる。けれど紗耶が遠夜に答えて握り返してくる事は、もうない。
「……怖い」
 現実の紗耶に、雨の姿が重なる。
 言ってしまえば、雨はもう二度と自分に太陽のような笑顔を向けてくることはないかもしれない。蔑みにしろ凍った笑みにしろ、今まで通りの雨はいなくなるような気がした。
「……人と深く関るのは、怖い」
 襲い掛かる不安は、考えるほどに深さを増して遠夜の心を支配して行く。
 たとえ紗耶が赦してくれていたとしても、他ならぬ雨が受け入れてくれるかどうかなど解りようがなく。遠夜はただひたすら、己の心に巣食う怖れと闘っていた。


*


 記憶に残る、一番最初の光景は何だっただろう。
 鎌倉の屋敷。舞い落ちる薄紅色の桜の花。花弁の向こうに広がる春の日の柔らかな空――……否。そんなものではない。
 青空の下で紗耶と二人、手をつなぎ互いの額を寄せて微笑みあった幼い頃の記憶。五歳まで、自分を取り巻く世界の中には必ず紗耶の姿があった。
 当たり前のように傍に居て、当たり前のように同じ空を見上げていた、自分の片割れ。
 たとえ屋敷の中に隔離されていたとしても、それが苦しい想い出であったとしても、妹が傍に居てくれれば、それだけで安心することが出来た。
 その妹を現実に失って、罪の意識と後悔とに苛まれながら日々を過ごしていた時、偶然にも雨に出会った。
 何も知らない雨は驚くほどに純粋で、他人であるにもかかわらず遠夜の体の事を心配し、何の屈託も無く笑顔いながら自分を真っ直ぐに見つめてくる。雨のその笑顔と嘘の無い優しさに、少なからず自分は癒されていたのかもしれない。この気持ちが一体どういうものなのかは解らないけれど、あの笑顔が自分に向けられなくなる事を極端に恐れるほど――


 瞳を開くと、遠夜の目の前には闇が広がっていた。
 穏やかで、その場にある全てのもを包み込むような、優しい闇。
 これは夢だと、漠然と遠夜は思う。
 病院から帰った直後、急激な疲れと眠気が押し寄せて、何をするともなく深い眠りについた。だからこれは夢であって現実ではない。そう心内で思いながら、遠夜は無限に続くかと思われる暗闇の中、ただ一点を見つめていた。
 そこには、闇に紛れるようにして己の正面に佇む一人の少女が居る。長い黒髪。白い肌。自分と同じ顔の、妹。
 遠夜は紗耶の姿を見留めて一度口を開きかけたが、どう言葉を紡いで良いかわからず、かわりに唇を噛み締める。そんな遠夜に、紗耶は優しい笑顔を浮かべて首を傾げた。
「久しぶり、兄さん」
「紗耶……」
 何故紗耶が自分の夢の中に現れたのか、遠夜は解っていた。意図して告げたわけではなかったが、病室で紗耶の名を呼び、不安に苛まれた己の心を見せてしまったから。心の声は、きっと紗耶の元へ届いてしまっている。そんな気がして、探るように遠夜は紗耶を見つめた。
 案の定、紗耶は遠夜にこう告げた。
「言ったでしょう? 兄さんが私を呼ぶ声は聞こえるから。どこに居ても、どんな時も」
 途端に、遠夜の胸に罪悪感が過ぎっていく。
「紗耶……ごめん」
 それは紗耶を夢の世界へ閉じ込めてしまった事に対する謝罪ではなかった。雨に対して抱く漠然とした不安と怖れ。一人ではどうすることも出来ないこの感情を持て余して、紗耶を呼び寄せてしまった事に対する謝罪。
 遠夜は紗耶から視線を外すと、微かにうつむいて瞳を閉じた。紗耶が自分に近づいてくるのが解る。やがて、細くひんやりとした掌が遠夜の頬に触れた。
「なんて顔をしているの?」
 紗耶の指がそのまま遠夜の髪を漉いて行く。その優しさに触れて泣き出してしまいそうになるのを、遠夜はぎりぎりのところで堪えて己の手をきつく握り締めたのだが。
「雨さんに、私も会ったことがある」
 唐突に告げられた言葉に、遠夜は思わず瞳を開いて紗耶を見つめた。
 どうして紗耶が雨の事を知っているのか。俄かには信じられず、遠夜に困惑が押し寄せる。
「……どうして?」
「夢の中で偶然。兄さんの事を心配して、そして少し、怒っていた」
 どういう経緯で雨と紗耶が知り合ったのかは良く解らない。紗耶が雨の夢に紛れたのか。それとも雨が知らぬ間に紗耶の元へ辿り着いたのか。いずれにしても自分の中にある不安が急激に膨らんだ事にはかわりがなかった。
「僕達が兄妹だということは……」
 咄嗟に遠夜の口をついて出てきたのは、そんな言葉。
 けれど、遠夜の問いに紗耶は首を横に振って返してきた。
「言っていない。薄々感づいてはいるかもしれないけれど……これはきっと、兄さんが自分の口から小石川さんに言うべきことだと思ったから……」
 紗耶が心配そうに遠夜の顔を覗き込んでくる。
「ねぇ兄さん。雨さんは、私のことを聞いて兄さんを蔑むような……そんな子じゃないでしょうに」
「でも……」
「大丈夫」
 紗耶が遠夜の言葉を遮る。
 握り締めていた遠夜の手に、紗耶がそっと自分の手を乗せてくる。遠夜はふと力を抜くと紗耶の手に己の手を絡ませて、ゆっくりと互いの額を合わせあった。
 額から紗耶の体温が流れ込んできて、その暖かさが少しづつ遠夜の不安を溶かして行く。
「怖くないわ。怖くないから……」
 だから安心してと告げる紗耶の言葉に、遠夜は底知れぬ安堵を覚えた。それに身を委ねて遠夜が再び瞳を閉じると、やがて吸い込まれるようにして、遠夜の意識は深い闇の中へと落ちていった。


*


 目蓋裏に眩い光を感じて遠夜が瞳を開くと、そこはいつもと変わらない自分の部屋だった。
 カーテンの隙間から陽の光が斜めに差し込んで、遠夜のベッドへ柔らかな光を落としている。夢を見ていたせいだろうか、朝の訪れがいつもより早い気がして時計を見ると、針は丁度六時半を指していた。そろそろ学校へ行く準備をしなければならない時刻だ。遠夜は一度深い溜息を零すと重い体を起こして、そのまま窓越しへ歩み寄った。カーテンを開くと、朝の光が整然とした室内を優しい色合いに染めて行き、遠夜は思わず瞳を細める。
 紗耶に会ったからだろうか。それとも紗耶の夢見の力なのだろうか。依然心内に不安は宿るものの、昨日よりは少しだけ気持ちが凪いでいるように思えた。
「僕はいつも心配をかけてばかりだ……」
 紗耶にも、小石川さんにも――。
 そう思うと、再び後悔にも似た気持ちが湧き上がってくるのだが、遠夜はそれを押し留めて、学校へ向かう支度を始めた。
 この先、どんな未来が待ち受けているのかは遠夜自身にもわからなかった。
 けれどもし、次に雨にあった時……逢える勇気が持てた時。雨が真っ直ぐに自分を見つめて言う第一声が「ご飯ちゃんと食べてるの!?」などという怒った台詞ではないように。学校へ行って、きちんとご飯を食べて、日常を送ること。それが、今の自分に出来る最大限の事だと遠夜は思った。
 クローゼットを開いて備え付けられた鏡をのぞくと、そこには紗耶と同じ顔の自分が映し出されていた。その鏡に触れて、紗耶の名前を呼んでみる。
 夢の中の紗耶が、遠夜に微笑みかけている気がした。




<了>


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東京怪談
2007年03月05日

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