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『duty and humanity 』
杉浦・梨花6809)&円居・聖治(6603)&(登場しない)

 道端にひっそりと、紅梅が咲いている。
 隙間なくコンクリートに埋められた都会の片隅、それは当然の如く活花であるのだが、人の目の端にふ、とかかって和やかな笑みを誘う、存在感に変わりはない。
 最も、それが看板を持たないバー『此花』の開店の合図と知る者は、そう多くはないのだが。


 人の話に伝え聞いて興味を持った店は、先ず気の置けない友人と誘い合わせるというのが杉浦梨花のセオリーである。
 年頃の娘が定時で帰るのを誰一人として咎め立てはしない天下御免の2月14日、というよりもそんな日に仕事に邁進してたらいらぬ心配を買ってしまう事情もあって、お先に失礼しますの明るい声で事務所を飛び出し、梨花は難なく待ち合わせの駅に立っていた。
 勿論、本日の自分のノルマは完遂済……明日出来ることは明日にしたという説もあるけれど。
 ともかく、梨花は今日の逢瀬を、というよりも幼馴染みと場所を同じくする時間を心待ちにしていた。
 仕事を持つようになってからは、そう頻繁に会う事のなくなった相手だが、かといって空白が疎遠の理由にはならず、バレンタインという日に気軽な誘いがかけられる貴重な友人である。
 異性との約束がない、と確証のある一点に於いて。
 しかし、駅での待ち合わせは止めておけばよかったかな、と梨花は多少の後悔とチョコレートを胸に抱いて行き過ぎる人並みを眺める。
 駅前、というのは何よりも確かな目印であるせいか、梨花と同じく人待ち顔の女性が幾人も佇んでいる。
 流石はバレンタイン、と胸中にむむむと唸って、梨花は壁に背を預け一息吐く。
 薄暮の中を行く人の姿は均一な影の姿に個性を失くし、相手から見つけて貰わなければこちらから求める姿の視認は難しい。
 まるで、舞踏会でダンスの申込みを待つ壁の花のようだ。
 梨花は何とはなしにそこまで思考して、軽くこめかみを揉むように片方の掌で視界を遮った。
 目を懲らそうとする無意識を戒め、梨花は頭骨を親指と中指でぎりぎりと締めあげる。
「梨花さん……?」
力を込めるあまり肘を震わせる梨花に、遠慮がちな声が掛かる……出来得るなら、このままそっと他人のふりをしておきたい。そんな心情を微妙に漂わせた待ち人、円居聖治の姿を指の間に確かめ、梨花は慌てて楚々とした風情を取り繕った。


 梨花と聖治の付き合いは、発端を小学生の頃迄遡る。
 家族ぐるみのご近所さん、女らしさをアピールしてみても今更な間柄で、どちらかと言えば聖治の体面を保つ為の気遣いだった。
 それが功を奏する事が出来たかは別として、目的の店に迷うことなく到達出来て、ご機嫌しきりの梨花である。
 照明を押さえた和風の店内、古木の風情をなくすことなく磨き上げられたカウンターが印象に強い……聞けば、それは一本の桜の古木をそのまま使っているのだと言う。
 音楽のない穏やかな空気は、押さえた人の声のさざめきに波紋を作るのが最大限の干渉で、噂に違わぬ落ち着きの良さに、梨花は手柄を立てた心持ちで正面に座る聖治を見た。
「感服しました」
視線の意味に気付いて、軽く頭を下げる聖治に、梨花は鷹揚に頷いてみせる。
 多種多様の酒類の並んだバー・カウンターと別に、対面席は畳敷きで足を崩せるようになっており、軽い食事も楽しめる。
 隠れ家的な特質を持つけれど、知る者を拒むことは決してないそんな店が故、既知の者は胸の内に存在を秘する……ひょんな事で顧客との会話に上った店を、「バレインタインディに過ごしてみたいんです♪」のお強請りで聞き出す事が出来たのは、年より幼い顔立ちが勝因だろう。
 梨花は「あんまり飲み過ぎるんじゃないよ」の忠告と共に頂いた簡単な地図と目印を書いたメモにそれとなく感謝しながら鞄の中に戻し、代わってラッピングを施した箱を取り出した。
「それでは毎年恒例の」
厳かに告げて、梨花はてん、と間に横たわるテーブルの上に箱を置く。
「チョコレートに御座います。感謝の気持ちをたんと込めてありますのでどうぞお納め下さいまし」
「は、これはご丁寧にありがとうございます。お気持ちしかと堪能させて頂きます」
深々と頭を下げ会っての遣り取りは、果たして妙齢の男女が思いを確かめ合う夜に相応しいものではない……が、梨花と聖治は申し合わせたように同時に顔を上げると、笑顔を交わした。
「今年はどんな?」
わくわくと聞く聖治に、梨花は両手を腰に胸を張る。
「トリュフチョコに挑戦しました。中身が一緒じゃ面白くないから、色んな味になってるの。キャラメル、アーモンド、胡桃にマシュマロなんかも」
甘党の聖治の為に、と言って良いラインナップを指折り数え、さぞや目を輝かせている事と顔を上げた梨花は、ハンカチで目元を拭う聖治の姿に意表を突かれる。
「……ど、どうしたの?」
「いえ」
梨花の問いに、聖治はすん、と小さく鼻を鳴らした。
「あの、チョコレートを直火にかけていた梨花さんが。お湯の中にチョコを投入していた梨花さんが。大きくなったなぁ、と何やら感慨を覚えて」
小学校、低学年時分の悪行を挙げられ、梨花はぐ、と反論に詰まる。
 幼馴染みは、別名、過去の真実を知る者とも言う。
「そうよねぇ〜」
聖治に悪気はないとしても、忘れて欲しい過去を引っ張り出され、何気に乙女心に一打をくらった梨花は笑顔を崩さぬまま反撃を試みる。
「聖治は湯煎したてのチョコに指突っ込んでみたり。使いかけのカレールーをチョコと間違えて囓ってみたり?」
寛容という言葉は、多少の遠慮を前提として発揮される美徳だと梨花は信じている……故に兄妹同然な相手に気を置く筈もない。
「そぉんな聖治が、そんな沢山のチョコを頂く身になるなんて!」
手首を逸らした梨花の指が示す先には、様々なパッケージが紙袋から覗いていた。
「あぁ、今日は出先から直接待ち合わせ場所に行ったものですから」
梨花の報復を空振りさせる気軽さで、聖治は持参は思しき袋を軽く叩く。
 調律師、という職業柄、ピアノを有する顧客はやはり女性が多いのだろうと推測される。
 チラと覗くラッピングは既製品は元より、小学生の手と思しき折り紙で包まれた物もある。甘党の聖治には、製菓業界の陰謀だろうが欲望だろうが、定着して何よりも嬉しい行事であるに違いない。
「ホワイトデーはどうするの?」
ピンからキリまで千差万別、それぞれ倍返しにするとなれば手間も暇も大変だ……と、今更ながら案じる梨花に、聖治は笑顔を向けた。
「勿論、お一人ずつにお返しさせて頂きます。ホワイトデーも美味しいお菓子が沢山ありますし」
勿論、味の是非は試食と称して自分用に買い込んで確かめるのだろう、と梨花はあたりをつけて頬杖をついた。
「凝ったお返しは出来ませんけどね。楽譜を添えて差し上げると、喜んで下さいます」
普通、それは気の利いたお返しに分類されるだろう。
 天然でそつのない聖治の配慮にぐぅの音も出ず、来年はチョコだけで誤魔化すのはどうかと悩む梨花の前で、聖治はわくわくと机上の箱に手を伸ばした。
「開けてもいいですか?」
許しを求める指は、既にリボンにかかっている。
 見るだけ、と言っても飲食店で持ち込みの品を晒すのはどうか、と梨花が悩みながらカウンターに目を向けると、視線に気付いた老年のバーテンダーが穏やかな微笑みに、どうぞ、と掌で示す。
 初見の客がいつもの、と注文してもそつなく洒落たカクテルを出してきてくれるような。そう称される店の雰囲気が確かに出ていると、妙な感心の仕方をしながら梨花は聖治に許可を与えた。
 ピアノを奏でるに相応しい長い指が、梨花の施したラッピングを丁寧に解いて行く。
 調律師の道を選んだと聞いたとき、正直に勿体ないと思ったものだが、音との関わりを断つ訳ではないと素直に納得もした。
 お湯で溶かしてしまったさんざんな初作品を、文句も言わずに食べてくれたのは聖治だけだったなと、懐かしく思い出しながら、その指先を見守る。
 蓋を開いて、聖治は短く歓声を上げた。
 紙製のアルミカップに一つずつ納めたトリュフチョコは、一口というには些か大きく、外観だけでは中に何が入っているか制作者である梨花にも見当がつかない。
「お店で売ってるみたいですね! 美味しそうだな……」
直ぐにも手をつけたいような聖治の雰囲気に、誇らしいと同時に場が場なだけに焦る梨花の横に、すいと人影が立った。
「失礼いたします」
先の老年のバーテンダーが片手に掲げたトレイの上から、すっと音なく二人の前にカクテルグラスを置いた。
「え、オーダーはまだ……」
戸惑う梨花に、バーテンダーは微笑みに目尻に深い皺を刻んだ。
「殿方にはアフター・ミッドナイト。ご婦人にはグリーン・プラネット。本日、お二人でお見えになったお客様にサービスでお出しさせて頂いております」
どちらも濃く澄んだ緑の美しいカクテルである。
 訝しく思いながらも、サービスの一言に負けた梨花は、恐る恐る口をつけ、広がる香りに軽く目を見張った。
「チョコレート……?」
バナナに合わせて、濃いカカオの香りが程よく甘い。
「はい」
ヴァレンタインデーに相応しい小粋な心遣いに、満足の笑みを浮かべる梨花に向かって、聖治は目の前のグラスの足を支えて滑らせた。
「梨花さん、よろしければこちらも」
「え? 聖治好みに甘いよ?」
不思議そうに首を傾げる梨花に、聖治は軽く肩を竦めた。
「明日も仕事が入っているので……シャーリー・テンプルを頂けますか」
「承知致しました」
軽く頭を下げて退くバーテンダーに、気遣いを無碍にした謝罪の意味で聖治も軽く頭を下げる。
「変な聖治。甘くてジュースみたいなのに」
訝しみながら、こちらはチョコとミントの香りの強いもう一杯を飲み干して梨花は満足の笑みを浮かべた。
「おーいしい♪」
にっこりと微笑む梨花の言葉の語尾にしゃっくりが重なる。
「り、梨花さん……?」
「カクテヒック、初めエック、呑んヒャック、おいしウック」
合いの手のように入るしゃっくりに、何を言ってるのか自分でも判らないのが楽しく、梨花は唐突に笑い出した。
「……梨花さん、こんなにお酒弱かったでしたっけ?」
時に。ビールのみ、日本酒のみ、ワインのみ、と摂取する種類が限られている折にはさして問題はなくとも、飲み合わせた場合にのみ覿面来る、という人種が存在する。
「お水を呑んだ方がいいですね」
しゃっくり毎に紅潮していく頬に、早々と危険信号を見て取った聖治は、手を上げて水を請う。
 すかさず、と言った様子で……ビアジョッキに並々と継がれたミネラルウォーターが出され、しゃっくりの合間に「こんなに飲めなーい♪」と笑いながらも、梨花はそれを一息に干して後ろに倒れた。
「梨花さんッ?!」
咄嗟にテーブル越しに手を伸ばし、掴んだ手首に後頭部の強打だけは免れた梨花だが、すいよすいよと気持ちよさ気な寝息を立てている。
 一部始終を見守らざるを得なかったバーテンダーが、控えめに毛布を差し出した。
 脹ら脛を見せて横たわる、梨花への心遣いだ。
「後程、ビターソーダは如何でしょうか」
シャーリー・テンプル、ビターソーダ……どちらもノンアルコールカクテルである。
 たった二杯で梨花が酔い潰れてしまう事態を想定していなかった聖治は、後程、即ち彼女が目覚める迄は滞在を許された事実に心から感謝を示して頭を下げた。
「お願いします」
しかしバーテンダーは慣れた様子で、迷惑そうな素振りを見せることなく頷くと、対面席を仕切る衝立を動かし、二人の席を囲ってくれる。
「食事の方もその時合わせて頂けますか。それから……先程のカクテルを私にも」
梨花が飲み干した一つを示した聖治の要望に、バーテンダーは軽く眉を上げる。
「アルコールを控えてお作りいたしましょうか」
「……いえ」
梨花の寝息を聞きながら、聖治は頬杖をついた。
「同じもので。あんまり無防備だと、少しアルコールを入れたい気分にもなります」
溜息と共に吐き出される言葉に、バーテンダーは了承の意に頷いて下がる。
 それを見送った聖治はふと、テーブルの下を覗き込んだ。
 狭い空間の向こう、幸せそうな梨花の寝息に聖治は声をかける。
「……私以外の男性の前では、止めて下さいね、絶対に!」
聞こえては居ないだろう事を承知。睡眠学習の一環だとばかりに言い聞かせる聖治に、梨花は「ふぁぃ」と短く返事を返した。
 同時に浮かんだ笑顔に、聖治は窘める気も失せる。
 肩から力を抜いた聖治は、その場に座りなおすと何気なく壁に掛けられた写真を眺めながら、ホワイトデーのお返しは何か花をモチーフにしたアクセサリーでも贈ろうかと……他のチョコレート贈呈主とは明らかに一線を画したお返しを考え始めた。
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東京怪談
2007年03月05日

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