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『Theobroma cacaoに、紅ひとつぶ 』
浅海・紅珠4958)&(登場しない)

 St. Valentine's Day――聖バレンタインデー。
「聖」がつくからには、カトリックの聖人に守護された日であるはず。が、Valentinus氏はどうやら実像が明確ではない聖職者のようだ。
 残念なことに、1969年の典礼改革で整理されてしまったので、現在のところ、聖人歴に彼の名を冠した「St.Valentine's Day」という日は存在しないらしい。これほど世に貢献なさっているかたなのに、おいたわしい限りだ。
 もっとも、現代東京において「なになにの日」というのは、生き馬の目を抜く資本主義社会の要請による後づけ設定ではある。日本のバレンタインデーがチョコレート戦争になったきっかけは、神戸の某洋菓子店が仕掛けた大いなる陰謀であるという説は間違ってはいないものの、オーバーに流布された都市伝説の様相も持っている。某世界的企業の創始者などが、「最初に始めたのは実はウチだ! 日本のバレンタインデーはウチが作ったんだ!」と口走ったりしたために、真相は依然、混沌としているのだ。
 ともあれ、大人の事情は置いておくとしよう。
 それはバレンタインデーを、気合い入りまくりな決戦の日と認識している乙女にとっては、たいした問題ではないからだ。
 2月14日が近づくにつれ、世の男子たちがそわそわ翻弄される中、「義理チョコ」や「人情チョコ」や「友情チョコ」の取捨選択配布加減に気を使うのは、世間の荒波を華麗に渡っていかねばならぬ大人の女になってからのこと。
 乙女は、現実を冷徹に見据えたうえでなお、燃え上がる情熱に拳をにぎりしめることが可能なのである。
 まして浅海紅珠は、若干12歳にして、「本命持ち」なのだから。

 ――したがって。
 作らねばならない。
 極めねばならない。
 
「しじょーさいきょー」の、チョコを。

 眉間の縦皺を滅多に消してくれない最愛の彼が、感動して、ひれ伏すような。

 ◇◆◇ ◇◆◇

 そんなわけで紅珠は、東京湾のマッドな秘密基地、もとい師匠の別荘にいた。
 まるっと占領したキッチンのど真ん中には、大きな鍋が据えられている。壁一面にみっちり並べられた師匠愛用の魔女グッズを見る限りでは、もしやここは、世界征服を企む悪の秘密結社の海底アジトか、もしくは危険な魔女が強力惚れ薬を作成中で、これを飲ませればあ〜ら不思議、世界中の男が私の意のままよウフフ、なのかと思ってしまう。
 し・か・し。
 床を埋め尽くしている、まるでチョコレート工場さながらのカカオ豆の海を見れば、その誤解も解けよう。
 現代日本では、個人がココア豆を入手することは難しいのだが、そこはそれ、師匠の根回しにより、コートジボワールやインドネシアやガーナやナイジェリアやカメルーンから、選りすぐりの豆を集めることが出来たのである。
 それは、「売ってるチョコを溶かして固め直すだけじゃつまんない。最初から作んなきゃ」という、紅珠の真摯な製作姿勢によるものだった。
 紅珠は、文字どおりの「手作りチョコ」を作成したかったのである。
(だって、思いっきり本気こめないと、気持ちは届かないだろうし)
 たぶん、嫌われてはいないと思う。
 だけど彼は、ちょっと引いているのではないか、逃げ腰なのではないか、と感じることが、時々ある。
 それはもしかしたら、ぶっきらぼうな彼なりの、思いやりや優しさの裏返しなのかも知れないけれど。
 でも、わかって欲しい。
 こんなに、全力で真剣なのだ。言葉を失い、気持ちをうまく伝えられずに海の泡になった、あの人魚姫のように、なりはしない。
 戦いに臨む剣士さながらに、紅珠は包丁(注:カカオバター刻み用)をぐっと握りしめる。
 選りすぐりのカカオ豆に加えて、山を成しているのは、乾燥イチジク、洋酒漬けチェリー、なつめ、マンゴーなどの彩り用ドライフルーツ。さらに、紅珠が東京中の店を回る勢いで買い込んだ、ラッピング用のシルバーの小箱にクリスタルバッグに色とりどりのサテンリボンにリネンのレース。
 たったひとりだけの相手に対して、何百人分もの材料を用意したわけであるが、この量は、失敗率を考慮しての予備でもある。
 ……なんとなれば。
 紅珠は、不器用というほどではない。
 料理も、それなりにできるほうだ。
 しかしながら。
 少々、情熱が元気に前のめり傾向なので、予想外の暴走が起きてしまったりするのである。

 ◇◆◇ ◇◆◇

「まずは、えーと。カカオ豆をローストしなきゃな。120度で20分程度の焙煎っと」
(熱しすぎて焦げてしまい、やり直し3回)

「次は、分離(セパレーティング)か。焙煎したカカオ豆を砕いて、皮と胚芽を取り分ける」
(砕きすぎで粉々に。焙煎からやり直し4回)

「よぉし。取り分けたら今度は……磨砕(グラインダー)に混合(ミキシング)に微粒化(レファイニング)」
(磨砕はOK。しかしカカオマスとカカオバターと粉砂糖と粉ミルクを加える「混合」と、すり鉢ですり続ける「微粒化」の過程で、味の調整に入れた謎のハーブが妙な反応を起こし、摩訶不思議な生き物が発生。生き物は師匠に預け、分離からやり直し2回)

「……ふう。やっと精錬(コンチング)と調温(テンパリング)までこぎつけたぞ!」
(微粒化を終えて湯煎にかけ、チョコレートの温度を45度〜50度になるように管理しながら練り続けていたのに、今度は謎の大爆発発生。材料の山があらかた、ちゅど〜んと吹っ飛んだ。残りを何とかかき集め、焙煎から最後のやり直し1回)

「こ、今度こそ。充填(デポジタリング)に突入!」
(丸いハートの型に流し込んで冷却。成功)

「やった。固まったぞ。そっと外して……」
(型抜(デモールダリング)成功!)

 師匠はあえて手を貸さず、そばで見守っていた。
 ――どんなチョコでも、心がこもっていれば、いいんじゃないかしらねぇ?
 意外なほどに王道な、無言の示唆を込めて。

 ◇◆◇ ◇◆◇

16世紀、アステカの王たちは、チョコレートを不老長寿の薬として遇していたという。カカオの学名「Theobroma cacao」とは、「神さまの食べ物」という意味であるらしい。
ローマ時代に殉教した聖職者の名にちなむ、その日。
小さな魔女は、まっすぐな乙女の瞳で、彼のために作った、神の食べ物を贈る。
 
 ラッピングの色は、春が近い海に似た、柔らかなブルー。
 青空色のリボンを解けば、可愛らしい丸いハート型の、つややかなチョコレートが現れる。
 飾りは、洋酒漬けの小さなチェリーがひとつだけ。
 紅くきらめく、珠のような。
 
 史上最強のチョコを受け取った彼は、きっと喜んでくれるだろう。
 ぶっきらぼうな態度を崩さぬまま、それでも微かな笑みを浮かべるに違いない。
 絆創膏だらけの紅珠の手に、作成中の悪戦苦闘ぶりを想像すれば、なおのこと。


 ――Fin.
PCシチュエーションノベル(シングル) -
神無月まりばな クリエイターズルームへ
東京怪談
2007年02月28日

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