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『秘蜜 』
玲・焔麒6169)&麗龍・公主(1913)&(登場しない)


 春はあけぼの やうやう白くなりゆく山ぎは少し明りて 紫だちたる雲の細くたなびきたる――。

 そんな、何時か聞いたことのある歌が聞こえてきそうなその日。
 まだまだ寒さも増すばかりの俗世と違い、そこはまさしく春だった。



 柳仙閣。それなりに客入りはよいものの、少し胡散臭いなどといわれる漢方薬屋。しかしてそこはやはり胡散臭い。
 何時もにこにこと人のよさそうな笑みを浮かべる店主は、事実人間ではない。そういうこともあってか、何処かにじみ出る妖しさというものは消せないのだろうか。
 まぁパッと見はそれでも少し古臭い薬屋なのだ。しかし、中に入るとそれもそうではなくなる。
 表向きの店である一階は兎も角として、二階ともなればもはや人知の及ぶところではない。
 例えば、雪のまだ残る普通の世界とは違い、季節が数ヶ月先まで進んだかのように花が咲き乱れているところだとか。



 桜が舞い散り、空に独特のグラデーションを描き出す。桜色とも薄い青色とも取れぬ模様に空が変わり、その光景に思わず溜息が漏れた。
「美しいですのぉ…」
 まるで熱に浮かされたように女が呟いた。眺めているだけで、その中に引き込まれてしまいそうになる。
 その呟きはまるで目の前にいる男などまるでいないように――いや、彼がいても極力自然に振舞う様に。そんな、呟き。

 美しいといいながら、自身その中でさらに映える一人の美しい女性――麗龍公主は、今一人の男性とその部屋にいる。
 思い描く光景へと姿を変えるその不思議な部屋で、たった二人きり。目の前の男をよく知るものであれば、それはもはや自殺行為と呼べるものだったのかもしれない。
 しかし彼女は知らない。ただ何かを含んだその瞳を受けながら、極力平静を装いつつお茶を飲んでいた。
 鈍感である彼女だからこそ…いや、ある意味敏感なのかもしれないのだが。秋波を送られつつも、そのままでいられたのは。



 元々彼女がそういった色事に疎いことはよく知っている。知っているからこそ、今ここに二人きりでいる。
 一体彼女は今、この状況にどのような感情を抱いているのだろうか?
 そんなことを考えて、ずっと変わらない視線のまま玲焔麒は微笑む。
 こうやって傍で眺めていればよく分かる。彼女の緊張している様が。
 純真な女性をからかいたくなるのは男の性。そう公言して憚らぬ、彼らしい実に意地の悪い行為だった。

 あえて視線を合わせようとすらしない公主に、焔麒がするりするりとその身を寄せていく。流石にそれには気付いたのか、ぎくりと公主が少しだけ後ずさった。
「な、なんでございましょう…?」
「いえ、少し傍に…などと思いまして。駄目でしたか?」
 ポンっと。音を立てるように公主の顔が赤くなる。
「べ、別に駄目などということは…ぁ、し、しかし…」
 彼の一言に思いっきり慌てながら、公主は必死に考え始める。
 さて、何故彼は近寄ってくるのだろう?
 別に自分たちは特別な関係ではない。仲のいい友人…のはず。なれば傍に寄る程度のことはなんともないはず。
 いやしかし、男女が共に寄り添うということはそういう関係の証であるはずであって、それはつまり自分と彼がそういう関係であるということに。
 いやいやしかし、俗世の男女がそういう関係に至らずともそれくらいのことはしているわけであって、それはつまり…
「公主殿」
「ひゃい!?」
 その言葉に、思考が中断される。思わず素っ頓狂な声を上げてしまった公主を見ながら、やはり焔麒はクスクスと笑っている。
 彼の顔が、不意に彼女の目の前へと動く。唇も触れ合いそうな距離に、公主の顔はさながら茹蛸の如くさらに赤くなる。
 そんな彼女の反応を楽しみつつ、その視線に含まれたものはそのままに一言。
「もしかして…緊張していますか?」
 聞かずとも分かることを、あえて聞いてみた。焔麒は分かっている、この後の彼女の反応を。それが楽しみなのだ。
「そ、そんなことはございませぬ!」
 思わず語尾が強くなるが、その言葉が嘘であることなど誰の目にも明白である。
 そんな彼女の事が本当に楽しくて、また焔麒は笑う。
「え、焔麒殿…何故笑われるのでしょう…」
 むぅっと公主の頬が少し膨らむ。随分と可愛い反応だ。そんな反応をされてしまっては、益々したくなってしまうというもの。
「いえ、公主殿が随分と可愛らしいものですから」
 だから、そんなことを言ってまた顔を赤くさせてみるのだ。





◇ ◆ ◇ ◆ ◇



「そういえば」
 焔麒がふと思い出したように席を立ち、そして奥へといって戻ってくる。その手に持たれているのは、小さなカップとティーポット。
「些かこの場にはあわないのかもしれないのですが、美味しいと評判の紅茶が手に入りましてね。公主殿もいかがですか?」
 などといいながら、焔麒は断る暇も与えずカップに紅茶を注いでいく。淡い琥珀色の液体から、桜に負けない甘い香りが広がった。
「ではいただきましょう」
 公主とて女である。そういったものには興味があるし、何より目の前のそれからは、抗いがたい甘い香りが自身の鼻腔にまで広がっている。
 差し出されたカップに指が伸び、触れる。と、ソーサーを持とうとしたその時、そのカップが少しバランスを崩して傾いた。
「あ…」
 落ちる。そう思った瞬間には二つの腕が伸びていた。
 一本は言うまでもなく公主のもの。そしてもう一本は焔麒のものだった。
 公主のそれよりも早く伸びた手は、しっかりとソーサーの下を支え、カップが落下するのを防いでいる。
「気をつけないといけませんよ」
「す、すみませぬ…」
 ともあれカップが落ちることは免れたわけで、公主は内心ホッと息をつく。
 そんな彼女が、次の瞬間には息を吸うのも忘れていた。

 ふと触れる温もり。紅茶のものとは違う、何かが直接手を触れるその感触。
「おや、どうかされましたか?」
 焔麒が悪戯っぽく笑う。
「え、焔麒殿、そ、その…」
 見れば、焔麒の手が公主のそれを握っていたのだった。
 それを確認した瞬間、また分かりやすく公主の顔に紅がさす。
 もはや紅茶どころの騒ぎではない。どうする、この状況どうすればいい!
「公主殿」
「な、な、何でございましょう…!?」
 ビクッと身体が震える。思わず逃げそうになるその手を、ちょっと強く握って逃がさない様にすれば、さらに公主の顔は赤くなっていく。
 公主、既に大混乱。分かりやすすぎる反応に、焔麒の笑みは益々深くなる。あぁ、本当に楽しい。
「いえ、砂糖などはどうされますか?」
 それで、漸く公主にも理解できた。この人は、自分をからかっているのだと。
「え、焔麒殿!」
 思わず語尾が強くなる。しかし、彼女のそんな様子にも焔麒は何処吹く風。
「いらないのですか?」
「あ、いえ…」

 それからしばしのティータイム。お茶をすする音だけが響く。
「ふぅ…」
 紅茶の甘みに、漸く公主の心は落ち着いていた。
「本当によいお味で…」
「えぇ、噂どおりでよかった。そういえば…」
「?」
 首をかしげた公主に、焔麒は意地の悪い笑みを一つ。
「先ほどは怒っていた様にも見受けられましたが…さて、何故でしょうか?」
 先ほどといえば、焔麒が手を握ってきた時のこと。思い出せば、また公主の頬に紅がさす。
「そ、それは焔麒殿が…からかっておいでで…」
「はて、からかうとは何のことでしょう?」
「い、意地の悪い…」
 頬は赤いまま拗ねた様に顔を逸らす彼女の耳に、やはりクスクスと笑い声だけが聞こえる。
「公主殿、男が何故女性をからかいたくなるか分かりますか?」
「そんなこと、分かりませぬ」
「それはですね」
 つんとしたまま返す公主の耳元で、声が震える。ぎょっとして振り返ってみれば、すぐそこに焔麒の顔。
「な、何をッ!?」
 再び縮まった距離に、公主は顔を赤くするだけでは飽き足らずわたわたと両手を振り回す。
 そんな彼女を見ていた笑顔に、ふと真剣みがさす。
「それは、その女性に対して少なからず好意を持っているということですよ」

 言わんとしていることは、流石の公主であっても理解できた。
 それはつまり、焔麒は自分に対して好意を持っているということ。
「で、ですが、焔麒殿には意中の方がおられるのでしょう?」
「さぁ、それはどうだか。いるかもしれませんし、いないかもしれませんし、ね」
 彼の視線は動かない。ただじっと公主だけを見ている。
 態度はいたって飄々としたいつもの焔麒だ。その様子に、さらに焦る。
「し、しししかし、それは私などではないのでしょう!?」
 それは見事なまでの墓穴だった。そんなことを言ったら、焔麒にどんどん踏み込まれてしまう。勿論今の彼女に、そんなことが分かるはずもないのだが。
 視線は動かない。ただ、誘うように見つめ続ける。
「では、そこでそうだと言ったらどうなるのでしょう?」
「なっ…こ、困りまする! べ、別に焔麒殿を嫌っているとかそういうことではなく、その…!」
「嫌っているわけではない、と…言われました?」
「あ…い、いや、決してそういう意味ではなく!!」
「ではどういう意味なのでしょうか?」
「そ、そそそれは…」

 言えば言うほど逃げ道がなくなっていく。正しくは自分から塞いでいるのだが、公主はやはり気付かない。
 既に焔麒の術中に嵌りきっていた。こうなってしまっては、もはや公主に逃げる術などない。
 状況としてみれば、何処かのCMのように数枚のカードが目の前にある。
 全部捲ってみた。すると全部焔麒と書かれていた。そんな感じ。
 どうするの、どうするのよ私!

「しかし、嬉しいですね」
「う、嬉しい…ですか?」
 未だに一人でパニックに陥った公主が漸くそう返せば、一層焔麒の笑みが深くなった。
「えぇ、どうやらこの気持ちが一方的なもの、であるとも言い切れないようですし」
 それは、つまり。
「気付いていましたか、先ほどから貴女に送っていた視線の意味を」
 そこまで言われては、幾ら鈍感であろうと理解できぬはずもない。
「あ、あの、あぅ…」
 今度こそ言葉がなくなる公主。そんな彼女に焔麒の手がそっと伸びる。
 ふっと頬に触れる手にすらも抵抗が出来ない。混乱しすぎてどんどん思考がおかしくなっていく。
「あ…っ」
 そこからの行動は早かった。柔らかい頬の感触を楽しむのもそこそこに、腰に手を回して体重をかける。そうすれば、混乱して抵抗することすら忘れた公主と一緒に丁度後ろにあった長椅子へと倒れこむ。
「え、焔麒殿…!?」
 押し倒される体勢になっても、公主には抵抗出来なかった。
 混乱していることもあるが、兎に角力が入らない。
 そんな状況にあわあわしているうちに焔麒の距離が近くなって、状況はさらに酷くなっていく。
 こんな距離、もう何をされてもおかしくはない。それこそ男女の関係に陥ってしまっても、今の公主には抵抗出来ないだろう。

 何故抵抗出来ないのか。自分は一体彼にどういう感情を持っている?
 どんどん分からなくなる。もしかして、本当は?

「公主殿」
 そういう焔麒は迫る素振りを隠そうともしていない。公主は思わず目を閉じて、
「男の前で気を抜きすぎると危ないですよ」
 耳元で聞こえた、含み笑い混じりのその声に一気に目を開いた。
 自分にかかっていた体温は、何時の間にかなくなっていた。目を開いた時には、既にそこに焔麒はいない。
「お茶が冷えてしまいましたね」
 何でもなさそうに言うのは焔麒。
 今度という今度こそ、漸く理解が出来た。
(やはり…ずっとからかわれていた…!!)
 ふるふると拳が震える。今度は気恥ずかしさからではなく、怒りに顔を染める。しかし、そんな事すらも彼の楽しみの一つ。
「さて、新しいお茶が入りましたよ」



 結局公主は焔麒に勝てないまま、お茶会の続きと相成った。
 機嫌を悪くしたままお茶をすする公主に、焔麒はまたクスクスと笑う。
「拗ねた顔も可愛いですね」
「ぶっ…!」

「そういえば公主殿」
「…なんでございましょう…」
「もし、あの時私がそのまま続けていたときはどうなったのでしょう?」
「なっ…そ、それは…」
「それは? その先をぜひともお聞かせ願いたいのですが…」
 先ほどまで怒り拗ねていたその顔に、また紅がさす。
 まだまだ焔麒の楽しみは尽きそうもない。目の前の女性はそういう人なのだから。





<END>
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2007年02月02日

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