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『雪の夜の幻 』
妙円寺・しえん6833)&(登場しない)





 さあさあ、ようこそお越しくださいました。狭い場所ですが、お上がりくださいませ。
 外は寒うございましたでしょう? こちらで火鉢にお当たりください。ただいまお茶を用意いたしましょう。ここはわたくしだけの居室、どうぞ楽になさっていてください。
 あら、これは失礼。自己紹介が遅れてしまいましたわね。わたくしはこの荘厳寺の仮住職、妙円寺しえんと申します。
 どうして「仮」かって? 少々事情がございまして……本山からは正式には認められておりませんの。認められないのも無理はございません。わたくし、元は極道の家に生まれたんですの。人を殺める稼業に嫌気が差してこの寺にやって参ったのでございます。
 そう……あれはちょうどこんな寒い日のことでございました。





 もう何年前になるでしょう。わたくしが実家を出たのは。
 わたくしの父は全国でも三本の指に入る超広域暴力団の二代目総長でございました。わたくしはその娘。三代目を継がなければいけない立場だったのです。
 ですが……極道の稼業というものに段々嫌悪を感じるようになっていきました。
 切ったはったの渡世稼業。人を殺め、陥れ、傷つけ、騙し。自分が生き残るために、そういったことが日常的に行われておりました。自分と自分の家を守るにはそうするしかなかったのでございます。
 ですが、敵対組織の組員とて同じ人間。血の通った、生身の人間なのです。人間を傷つけて喜ぶ人間がどこにおりましょう? 血で洗われるたびに、わたくしの心は疲れ、ひび割れ、すさんでいったのでございます。
 ですがわたくしは三代目を継ぐべき立場。多くの若い衆を抱えているのです。わたくしだけの問題ならばこの世界から足を洗えば済みましょうが、組を慕っている若い衆はどうなるでしょう? わたくしの肩にはたくさんの人間の命がかかっています。やすやすと渡世を捨てることなどできましょうか。
 この家にいる限り、わたくしは極道の世界から抜け出すことはできないのです。ならばこの家を捨ててしまえばよいと、ある日思い立ちました。家を捨て、身ひとつで、新しい安らぎの世界を求めてわたくしは旅立ったのでございます……。



 季節は真冬。雪が降っておりました。
 行くあてあるはずがなどございません。ただ、わたくしはあの家から、この身に負わされた重い物から、逃げ出したかったのでございます。
 ひたすら逃げるように山へ山へと分け入り、帰り道どころか自分の居場所まで見失ってしまいました。寒さでとうに感覚を失った手はいくら息を吹きかけても少しも温かくなりません。コートは雪で重く濡れ、凍えるような寒さが骨までしんしんと冷やしていきます。それでも、わたくしはつらくなどありませんでした。音も、色も、何もかもがない、静かな夜の銀世界。濃密な闇と真っ白な雪ですべてが覆い隠された様は言葉にならないほど美しく、穏やかでありました。
 ただ、わたくしにはひとつだけ心残りがございました。家を出る時に連れて来てしまった愛犬のことでございます。
 この愛犬とは幼い頃から一緒でございました。いつもそばにいてくれました。ひび割れたわたくしの心を癒してくれたのはこの愛犬でございました。すべてを捨てようと思っても、この愛犬だけはどうしても捨てることができず、ここまで一緒に連れて来てしまったのでございます。
 「ごめんなさいね」
 わたくしは雪の中に膝をつき、愛犬の首をかき抱いてはらはらと涙を落としました。「わたくしのわがままで、おまえにこんな苦労をかけて……」
 愛犬の吐く息は白く、霜のような細かい氷が顔の毛を覆っておりました。体から滴る青みがかった脳漿のような粘液も半分凍りついております。飲まず食わずで誰よりもつらいはずなのに、愛犬は太く曲がりくねった注射針のような舌で私の涙を舐め、私にそっと寄り添ってくれたのです。愛犬の心の優しさが疲れた心身にこの上なく優しくしみ入り、わたくしはまた新たな涙を流しました。わたくしはどうなってもいい、でもこの愛犬だけには生きてほしい――。わたくしは本気でそう願ったのです。
 そうやってどれくらい雪山をさまよった後でございましょうか。不意に、わたくしたちの前に長い階段が姿を現したのでございます。長い参道の先には、古いながらもがっしりとした寺が無言で佇んでおりました。わたくしたちは吸い寄せられるように雪の参道を進み、ふらつく足で一歩一歩階段を上って行ったのでございます。
 「もし。どなたか……」
 門をくぐり、本堂の扉を叩いても応答はございません。わたくしの傍らでは愛犬が寒さに身を震わせています。このままではこの子まで凍えてしまう。悪いことと知りつつ、私は本堂の扉を目いっぱいの力で押していました。
 観音開きの扉が少しずつ少しずつ動く気配があり、やがて重い音を立てて内へと開きました。
 誰もいない本堂は暗うございました。しんしんと降る雪の音すら聞こえるほどに、深い静寂に包まれておりました。古びた床板からは外の寒さが容赦なく這い上がって来ます。空腹と疲労と寒さで、わたくしも愛犬ももはや限界でございました。目はかすみ、頭は半ば朦朧とし、足元も危うく、それでも、わたくしは何かに導かれるように本堂の中央に歩を進めたのでございます。
 それはあるいは幻だったのかも知れません。いえ……きっと幻だったのでございましょう。これほど美しい物が現世にあるわけがございませんもの。ですが、幻でも構いませんでした。これこそわたくしの望んだもの。わたくしが望んでやまなかった、清らかで、穏やかなるもの……。そんな幸せの下で、最期を迎えられるのですから。
 本堂の中央に静かに安置されていたのは須弥壇でございました。それはそれは美しい須弥壇でございました。決して派手さはございません。ですが、重厚な木の質感と細密に施された美しい彫刻、両脇に安置された日月の菩薩、そして山の頂上に聳えるかのように中央に鎮座した仏像の厳しいながらも安らかな微笑といったら!
 一目で分かりました。これは幼い頃から憧れてやまなかった、婁遍須による須弥壇だと。わたくしはその場にひざまずき、こうべを垂れて、ただはらはらと涙を落としました。なんということでございましょう。まさかここに来て、こんな状況になって、初めて自分の望むものと巡りあえたなんて。
 くーん、と愛犬が鼻を鳴らしました。愛犬はいつの間にかわたくしの傍らに寄り添い、濡れた瞳でわたくしを見上げておりました。わたくしは唇を震わせて愛犬の体を抱きました。こらえようとしても嗚咽が喉からこぼれ、静寂を震わせていきます。愛犬はかすかに鼻を鳴らし、わたくしの肩に顔を押し付けてそっと目を閉じました。
 「破徒羅主……わたくしは、もう疲れました」
 そしてそのまま、わたくしたちは床の上に崩れ落ちました。「どうしてでしょう。なんだか、とても眠いのです……」
 愛犬は抗いませんでした。ただわたくしに寄り添うように伏せ、凛と首を持ち上げて、わたくしの身を守ろうとするかのように周囲を見張っておりました。そして時折、鋭く折れ曲がった舌でわたくしの頬を舐めてくれるのでございます。何も言わずに、ただ黙って、わたくしを安心させるかのように、じっと見つめているのでございます。そんな愛犬がいじらしくて、いとおしくて、わたくしは彼のぬくもりを感じながらむせび泣きました。悔いなどございましょうか。悲しいことなどございましょうか。わたくしはこの上なく幸せでございました。これほど素晴らしい須弥壇の下で……これほどいとしい愛犬とともに、最期を迎えられるのですから。
 どれほどそうしていたでしょうか。わたくしの命の灯がまさに消えかけんとしたそのとき、床がかすかに軋む音が聞こえたのです。
 「もし。どうなさいました?」
 次に聞こえたのは男性の声でございました。駆け寄る足音、同時に周囲に漂う線香のにおい。朦朧とした目を上げると、そこには初老の僧侶が立っていたのでございます。
 「しっかりなさってください」
 この寺の住職でございましょうか。白くなりかけた眉の下の目を軽く見開き、僧はわたくしを抱き起こしました。「どうなさったのです、こんな所で。立てますか?」
 皺の刻まれた目許がそっとわたくしを覗き込みます。答えようと口を開いても、喉からかすかに空気が漏れただけでした。それほどわたくしは衰弱しておりました。
 「とにかく、こちらへ。まずは温かいものでも差し上げましょう」
 住職がわたくしの体を支えるようにしてそっと立たせた、そのときでございました。
 不吉な唸り声が静寂を震わせました。敵意をむき出しにした、危険な唸り声が。
 すぐに分かりました。わたくしの全身が一瞬で凍りつくと同時に愛犬は床を蹴り、豹のごときしなやかな体を宙に躍らせていました。
 その刹那。闇を引き裂いたのは住職の悲鳴だったでしょうか、それとも愛犬の咆哮だったでしょうか。住職に振り払われて着地した愛犬は目を爛々と光らせ、口からは原形質に似た青っぽい粘液が滴り、白煙をあげて床を溶かしていきます。ずらりと隙間なく並んだ牙が暗闇の中でも鋭い光を放つのがはっきりと分かりました。凶悪に曲がりくねった舌が荒い呼吸に合わせてかすかに上下しているのを見てわたくしは決定的に青ざめました。愛犬が住職を敵と誤認したのだと、一目で分かったからです。
 いとおしい愛犬には秘密があるのです。それは――彼が、ティンダロスの猟犬であるということ。
 時間が生まれるはるか以前、太古の神話の時代より、彼は時空を超えて生き続けて参りました。常に飢え、執念深い彼は一度見つけた獲物は絶対に逃さず、時間も次元も超えて貪欲に追い続けるのです。そんな彼にとって、住職を牙にかけることなど赤子の手をひねるよりたやすいこと……。
 「いけません!」
 蚊の鳴き声よりも小さなわたくしの悲鳴は愛犬の威嚇音にかき消されてしまいました。続いて弾けたのは肉が裂けるような嫌な音。わたくしは目を覆ってその場に崩れ落ちました。愛犬の体から幾本もの触手が飛び出し、住職目掛けて一直線に飛んで行ったのでございます。
 しかし――次の瞬間に聞こえたのは住職の断末魔ではなく、鋭い気合の声でございました。はっとして目を開くと、悲鳴を上げて飛びすさる愛犬の姿が視界に飛び込んで参りました。綺麗に断ち落とされてびちびちと床で跳ね回る触手、その先には数珠を片手にかけて身構える住職の姿。何が起こったのかわたくしには分かりませんでした。
 愛犬が再び床を蹴りました。先程よりずっとずっと強い敵意と殺意をもって。住職は数珠を握った片手を鋭く突き出し、鋭い掛け声とともに何か呪文らしきものを唱え始めました。愛犬の牙が空を切り、住職の数メートル先に着地します。激しさを増す住職の呪文。綺麗に剃られた頭にはうっすらと汗が浮かび、青い血管が透けて見えました。わたくしは呆然と立ちすくんでおりました。このままでは愛犬が調伏されてしまう。ですが、今ここで止めれば、愛犬の牙が住職を引き裂いてしまうでしょう。ああ、わたくしはどうすればよろしいのでしょう? 今、弱いこの身に何ができるのでしょうか?
 愛犬はすぐに振り返り、後ろ足にばねをため始めました。しかしその四肢からはすぐに力が失われ、その場にへたり込んでしまいます。住職の口から咆哮にも似た声が迸りました。
 「破徒羅主! ああ――」
 わたくしはふらつく足で愛犬に駆け寄り、しっかりと彼の首を抱きました。住職の呪文は止まりません。わたくしの腕の中でかすかに煙を上げなら、愛犬の体からはどんどん力が失われていきます。
 「やめて」
 わたくしは愛犬の体に顔を押し付け、ただただ涙を流し続けました。「やめて! お願い、やめてください!」
 その瞬間。
 真っ赤な色つきの感情がわたくしの視界を支配しました。それは骨の髄から突き上げるような激しい情動でございました。鼓膜を震わせたのは住職の気合の声だったのでしょうか、それともわたくしの悲鳴? 強く抱いた腕の中で愛犬の体が徐々に冷たくなっていきます。わたくしは泣きました。炎のような激しい感情の中で、ただ愛犬の体を抱き、泣いて――そして、ついに何も分からなくなりました。
 ですが、意識を失う寸前、わたくしは確かに見たのです。
 本堂の中央で優しくわたくしを見守る、あの安らかな須弥壇を。
 (わたくしは見たのですね……婁遍須の須弥壇を……)
 それがわたくしの頭をよぎった最期の思いでございました。そして――冷たくなった愛犬の体を抱いたまま、わたくしはその場に崩れ落ちたのでございます。



 あら? あれは何でしょうか?
 やけに明るい空でございますわ。空から舞い降りてくる小さな小さな子供たち。あら、貴様たち、裸じゃございませんの。この寒いのにいけませんわ、お風邪を召してしまいますよ。
 あら……その背中の羽根は何でございますの?
 一糸まとわぬ姿で明るい空から降りて来たのは、何人もの小さな子供たちでございました。そのどれもが背中から白い羽根を生やしております。まるで、童話か何かに出てくる天使のような格好をしておりました。
 天使?
 天使がわたくしを迎えに来たのでしょうか?
 ふと傍らを見ると、愛犬が横たわっております。
 くーん、と鼻を鳴らし、愛犬がゆっくりと首を上げました。
 わたくしの頬を涙が伝って行きました。
 「ずっと一緒ですわね」
 愛犬の首を抱き、わたくしはただただむせび泣きました。
 天使たちがわたくしの体をそっと持ち上げました。続いて愛犬の体も。天国に行くのだと、わたくしは死んでしまったのだと、瞬時にそう悟りました。
 目を上げると、見覚えのある仏像が頭上で待っておりました。美しい彫刻が施された台座に鎮座する、穏やかな微笑を湛えた仏像。あの須弥壇だと、一目でそう分かりました。
 新たな涙がどっと溢れ出しました。
 悲しくなどありません。
 悔いなどありません。
 あの須弥壇のもとへ……この愛犬と一緒に、行けるのですから。
 何だか体が温かくなって参りましたわ。特に背中がひどく温かくて、心地ようございます。もう天国に着いたのでしょうか?



 わたくしはふっと目を開きました。
 (ここは……?)
 木の板の天井から下がる蛍光灯。漂う線香の香り。体の下には、白い布団。ゆっくりと頭を動かして目を巡らすと、枕元には頭を丸めた三人の若者の姿がありました。
 「気が付かれましたか」
 顔にバンソウコウを貼った若い僧はどこか疲れきった表情でわたくしの顔を覗き込みました。わたくしは小さく肯いて体を起こそうとします。腕に包帯を巻いた別の僧がわたくしに白湯を差し出しました。わたくしは礼を言って受け取り、こくりと小さく喉を潤してからゆっくりと尋ねました。
 「あの……ここは?」
 「二日前にあなた様が迷い込んだ荘厳寺でございます」
 僧はそっと溜息をついて教えた。「何も覚えていらっしゃらないので?」
 わたくしはわけが分からずに肯くしかありません。三人の僧はうんざりした表情で目を見交わし、「ついていらしてください」と言って立ち上がりました。
 案内されたのは寺の本堂でございました。ですが、これは一体どういうことでございましょう? 床も壁も穴だらけ、あの素晴らしい須弥壇も跡形もなく粉々になっているではございませんか。
 「すべてあなた様の所業でございますよ」
 三人の僧が同時にわたくしを振り返りました。「住職の悲鳴を聞いて駆けつけた私たちが見たのは二丁の拳銃を乱射するあなた様のお姿でした。推測ですが、あの不気味な愛犬が目の前で調伏されて頭に血が上り、我を失ったのではありませんか?」
 「調伏? あの子は調伏されてしまったのですか?」
 「ええ、住職の手によって」
 ああ……なんということでございましょう。犬一匹守れなかったなんて……。今まで幾度も血に染まってきたわたくしの手は、犬すら守れないほど弱かったというのでしょうか?
 「それで、住職さまは今どちらに?」
 「あなた様に撃たれて入院中です。幸い、命に別状はございません。じきに退院してくるでしょう。あの犬よりもあなた様のほうが厄介だったと申しておりました」
 わたくしは眩暈を感じて壁にもたれかかりました。とんでもないことをしてしまったという後悔と悲しみだけが身を締め付けておりました。
 「かなり衰弱されていたようですし、まだ無理はいけません。お床にお戻りください。ゆっくり休んで体力を回復したら、さっさと――」
 わたくしは静かに首を横に降って僧の言葉を遮りました。僧の表情が小さく引きつったようでしたが、わたくしは気付きませんでした。
 「こたびの償いはこの身に代えてでもさせていただきます。住職さまが戻ってこられるまで、このお寺で働きましょう。何なりとお申し付けくださいませ」
 「え? いいえ、そんな気を遣わずとも。過ちはどなたにでもあることです。早く元気になって早くお帰りになったほうが……」
 「それに、これはあの子への償いでもあります。守ってあげられなかったあの子への……」
 わたくしはその場にひざまずき、愛犬を思いながらそっと両の手を組み合わせました。まるでキリストの前で懺悔する迷える子羊のように。
 「どうかこのお寺で修行させてくださいませ。もともと現世に憂え、家出をしてきた身。己を鍛え、あの子の菩提を弔って心安らかに生きとうございます。どうかわたくしをお導きくださいませ……」
 どうしたことでしょうか。涙がとめどなく溢れ、止まらないのです。それでもわたくしはただただ祈り続けました。祈りを捧げるわたくしの後ろで僧が溜息をついたようでしたが、そのときのわたくしには関わりのないことでございました。





 ――わたくしの話はこれで終わりですわ。こうしてわたくしは仏門に入り、この寺に身を置くことになったのでございます。
 あの日のことを悔やまなかった日はございません。愛犬を思って涙した幾千の夜を軽くするつもりもございません。この情念は一生消えることはないでしょう。ですが、これがわたくしの選んだ道。いつかあの子に胸を張って会えるようになりとうございます。
 捨てた家のことは悔いてはおりません。元々家出をした身ですもの。今更現世のことなど――
 え? 何ですの?
 それは「家出」ではなく「出家」だ、ですって?
 ………………。
 嫌ですわ、貴様。
 何をおっしゃるやら、わたくしにはさっぱり分かりません。 (了)

PCシチュエーションノベル(シングル) -
宮本ぽち クリエイターズルームへ
東京怪談
2007年01月15日

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