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『HOT LIMIT 』
火宮・翔子3974)&(登場しない)


「…………」
 何も言えなかった。絶句するしかなかった。
 なんだ、なんなんだこれは。
「…………」
 足元には煮え滾る何かの液体。足場があるおかげで、それは何とか彼女にかからずに済んでいる。
 しかし、あれが身体にかかればどうなるか。そうなってしまえば、自分がどうなるかなど想像に難くない。
「…………」
 足場を確認する。何かふにゃふにゃしていて頼りなく、それでいて滑っていて非常に危険な足場であることは間違いない。
 もしこの足場が揺れたら、恐らくは自分もあの中へと飛び込むことになるだろう。
 それだけは避けなくては。それには、他の足場も必要だろう。
 周囲を見渡した。立ち上がる湯気で視界がふさがれていて、中々何も見えてくれない。

 なんて悪夢だ。自分の周りは既に地獄。味方などいてくれるはずもない。
 そもそもなんでこんなところにいるのかすら不明瞭だ。
 訳が分からない。訳が分からないといえば、何故この湯気からは美味しそうな出汁の香りが漂っているのか。
 悪夢だ、とんだ悪夢だ。
 一歩間違えば死ぬというのは分かりきっている。
 しかしその原因が、
「なんでおでんなのよ…!!」
 そう、おでんの鍋だなんて。





 まごうことなきおでん鍋。あの独特の四角い鍋は、今や巨大な壁となって彼女の前に立ちはだかる。
 見渡せど見渡せど、見えるのはおでんの出汁と、それに煮られる様々な具。
 普段なら美味しそうといいながら見れるそれも、今となってはただ不気味で恐ろしい存在でしかなかった。
 何せ人間の身体は40ちょっとの熱を出すだけで死ぬ脆いものだ。それがこんな、ぐつぐつと煮立った煮汁の中に入ればどうなるかは火を見るよりも明らかというものだ。
「大体なんでこんなところに…!」
 翔子の悔しげな呟きに答えるものはいない。聞こえてくるのは、ぐつぐつという煮える音だけ。
「と、とりあえずここから如何にかして出ないと…」
 頭の混乱が収まったわけでもないが、だからといってここにいては何時か自分もおでんの種になるのは目に見えている。今まで何度も死線を潜り抜けてきた彼女は、その突破口を探し始めた。

 ふるふるとした足場はなんとも頼りなく、彼女が歩くたびに微妙に上下する。
 この足場がいきなり沈んだら…そんな最悪な状況を浮かべようとする頭を必死に働かせて、突破口を探す。
 幸い、今立っているはんぺんが沈んだとしても周りにはまだたくさんの具があって、そちらに飛び移れば難を逃れることは出来そうだ。
「このおでんを作った人、作り方がわかっているわね。はんぺんは軽く煮るのが一番だから」
 そうと分かれば精神的な余裕が出てくる。そんな冗談めいたおでんの常識を語りながら、翔子の足取りも幾分か軽くなった。
 …次の瞬間までは。

「…なっ…!?」
 突如、鈍い音を立てながら具が動き始めた。揺れるはんぺんの上で、翔子は信じられないものを見る。
「な、何なのよ…」
 ちくわが、牛すじが、ごぼう巻が。次々に音と立てて立ち上がり始めたのだ。
 それだけならまだいい。それが、次の瞬間自分へと倒れ掛かってくる!
「ちょっ…冗談でしょ!?」
 しかし、冗談などでは全くなかった。明らかにその倒れ方は自分を狙っている。勿論あれがあたってしまえば自分は即死だろう。
 なんて酷い話だ。おでん種に潰された挙句煮えて死ぬだなんて、地獄の鬼ですら同情してくれるに違いない。
「そんなの本気で嫌よ…!」
 飛び散って少しかかりそうになる出汁を器用に避けつつ、翔子ははんぺんから近くにあったさつま揚げへとその身を投げ出した。

「……っ!」
 振り向くと、先ほどまで立っていたはんぺんが既に沈んでいた。そして、再びあのちくわたちが立ち上がる。
 おでんの種がひとりでに動く。恐らく人間サイズで見ればそれも面白く感じられただろう。
 しかし、今目の前にあるおでん種のサイズは人間サイズのそれをはるかに超えている。たとえ出汁がなくとも、倒れ掛かるだけで圧死させることが可能なサイズだ。
 そんなおでんは食べたくない。いや、見たくもない。
 翔子はただ目の前にある巨大なそれに恐怖することしか出来なかった。
 言ってしまえば、何時も食べる立場にあるものが食べられる立場になったのだ。それも仕方がないことだろう。

 しかし、そんな状況であってもまだ冷静なところも残っているのは流石と言うべきだろうか。
(…動きは遅いわね)
 そう、どんな状況であろうと常に状況分析だけは怠らない。それが今まで彼女を生かしてきたといっても過言ではない。
 見たところ、でかい見た目に違わず動きはそれほど機敏ではない。その体が棒状であれば尚更のことだ。
 それはつまり、足場さえ確保できれば避けることは可能であるということ。その間に突破口を探せばいい。
 再び倒れこんできた牛すじを避けつつ、翔子は脱出を図るべく次の厚揚げへと飛び乗った。



 性質の悪い鬼ごっこは続く。牛すじたちは翔子を捕まえられないでいたし、その翔子自身突破口が見つからずあせっていた。
「ったく、なんでこういうときに限って…!」
 また一つ倒れ掛かる具を避けながら悪態をつく。このときばかりは、巨大な鍋が壁のようにも思えた。
 はるか上空にも思える突破口。足場はもう少ない。正直なところ、状況は最悪だった。
 さらに最悪な事態は続く。
「……嘘だと言ってほしいわ、全く」
 出続けていた悪態は、とうとう諦めに近い呟きに変わっていた。
 彼女の視線の先には、先ほどまでの牛すじたちに加えて、さらに卵や結び昆布、つみれなどといったものまでが浮かんできていた。いつもなら一口サイズで食べられるそれが、今は彼女の命を狙っている。
 状況だけを見ればただの喜劇。しかし、その先にあるのは悲劇である。

「ちっ…!」
 呆けている暇などない。いきなり飛び掛ってきたつみれを寸でのところで避ける。
 鍋の壁に激突したそれは、形を幾分か崩しながら出汁の中へと墜落していく。その滴る出汁が、当たったら自分がどうなるか暗に示していた。
 棒状ではない卵やつみれなどは、ゆえに動きが早い。倒れ掛かるだけならばなんとでもなるのだが、いきなり飛び掛ってくるそれはそうもいかない。
 足場が失われていく。否、既に足場もないのかもしれない。
 いきなり卵たちが動いた事を考えると、今自分が立っているはんぺんなどがいきなり動き始めても不思議ではない。そうなってしまえば、そのときこそ彼女の終わりだろう。
「こんなことなら、もっとおでん食べておくべきだったわ…!」
 強気な悪態も、今はただむなしいだけだった。

 足場を確認する。足場と出来そうなのは、蒟蒻と今自分が立っているさつま揚げ。それ以上足場に出来そうなものは、ない。
 状況はさらに悪くなっていた。がんもどきや里芋といったものまでもがその仲間に加わっている。
 最悪に最悪は続く。壁にぶつかった里芋はそのままぬるぬるとしたものへと変わり、まだ再利用できそうな足場をとりもちのようにしてしまった。
 確実に翔子への包囲網は狭まっている。そして壁は…まだ高い。
「……よし」
 そして翔子は覚悟を決めた。
 壁が高いというのなら、襲い掛かってくる具を避けた勢いで足場にして一気に飛び上がってみせる。
 うまくいく保証などない。しかし、そうしなければ彼女はお終いなのだ。可能性があるというのなら、それにかけるのみ。

 じりじりと、具たちが間合いを測っている。
 チャンスは一度。のるかそるかの大博打。
「きた!」
 まずはつみれが飛んできた。それをギリギリで避けて壁へとぶつける。
 そして間髪入れずに飛来するがんもどきと卵。それを高くジャンプして避け、卵とがんもどきを激突させる。
 勢いを失い落下するがんもどきを足場として蹴り上がる。そこに、狙いすましたかのように倒れこんでくるちくわとごぼう巻、そして牛すじ!
「ちっ!」
 その腹を蹴って、一旦最後の足場である蒟蒻へと移る。と、そこで一つ誤算が生じた。
「ちょっ…!?」
 出汁の中から、突如として幾つもの糸が現れたのだ。その糸が、彼女の身体を瞬く間に絡めとっていく。
「嘘っ、しらたき…!?」
 いや、あれは糸蒟蒻か? もっとも、それはどちらでもよいのだが。
 体の自由を失った翔子は、それでも必死に落ちまいと踏ん張ろうとする。しかし、足場は蒟蒻。その表面はおおいに滑っている。となれば、結果など知れたこと。
「ぁ……」
 呆気なかった。しまったと思った瞬間にはもう遅い。今までの努力など実ることなく、翔子は身体に巻きついた触手、もといしらたきのままに出汁へと落下していく。
(…これで終わりなの…?)
 今までどれほどの苦境であっても乗り越えられてきたのに。
 まだやっていないことも沢山あるのに。
 後悔する暇も、走馬灯を浮かべる暇もなく、翔子の身体は出汁へと消えた。

 最後まで出汁のいい香りだけが消えなかった事だけは、いい事だったのだろうか。





* * * * *



「…はぁ…ッ!?」
 ソファから翔子が起き上がる。最悪な悪夢に全身が汗で濡れていた。
「さい…あく…」
 軽く頭を振って、先ほどまでのイメージを振り払う。
 と、くつくつという小さな音が耳についた。先ほどまでの悪夢のせいで酷くその音に敏感になっていた翔子は、思わず身体を強張らせた。
 音のするほうに視線を動かす。そこには、コンロの上で湯気を立てる鍋の姿。いい香りも漂っていた。
「…そうだった、忘れてた」
 そう、彼女は今夜の夕食に食べようとおでんを作っていたのだ。そして、出汁が染み込むまで待つうちに何時の間にか眠ってしまっていたのだった。
 とすれば、先ほどの悪夢はこのおでんの呼びかけだったのだろうか?

「……」
 火を消し、蓋を取る。そこには、しっかりと出汁の染み込んだおでん種たちが踊っていた。
 普段ならばすぐにでも食べようとするそれを、しかし今は取り出せない。昨日の今日で食べる気などなれるはずがない。
「…はぁ、しょうがないか」
 しかし、捨てるわけにもいかない。しょうがなく彼女は電話を取る。
「さて、誰か…」
 言いかけて、頭に浮かんできた一人に電話をかける。

 楽しい…かどうかは微妙だが、夕食時はもう少し後になるようだ。
 おでん種たちは、今や遅しとその瞬間を待っていた。





<END>
PCシチュエーションノベル(シングル) -
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東京怪談
2007年01月09日

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