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『Unfinished ―最終楽章の叫び― 』
レイリー・クロウ6382)&(登場しない)

 その男のコレクションは、膨大だった。
 真贋問わず、金にあかせて、というのが、著名な楽譜コレクターである彼のスタンスであるらしい。
 たとえば、モーツアルトがシスティーナ礼拝堂で暗譜した、門外不出の秘曲ドメニコ・アレグリの一部コピー。メンデルスゾーンがクリスマスに祖母からプレゼントされたという、バッハのマタイ受難曲写筆スコア。ショパンが伯爵令嬢マリアに献呈したワルツ――のちに「別れのワルツ」と呼ばれることになった名曲の直筆楽譜。ナポレオンが皇帝になったことに激怒し、ベートーベンがばらばらに引き裂いてしまった交響曲「英雄」の、初期音譜の破片。

 ――フフ……。いい感じに、眉唾ですね。
 
 夜は静かに深まり、一面の紅葉は蒼い闇に沈んでいる。おそろしいほど澄んだ空で笑うのは、魔物の目に似た三日月。
 下から上へ。あり得ない方向に風が吹いた。
 風はすぐにぴたりと凪ぎ、闇の結晶のような男のすがたを形づくる。
 鋭い月光が、スポットライトさながらに照らし出す。赤い屋根のうえに立つ、金の瞳の商人を。
 古典的な怪盗ででもあるかのように、レイリー・クロウは漆黒のマントをなびかせ、月に手をかざす。

 ――今宵の無粋な見物客は、あなたですか。よろしい。あなたのために特別に、1楽章を奏でてさしあげましょう。とはいえ、私は音楽家ではないので、お気に召すかどうかは保証しかねますが。
 どうぞその高みで、ご笑覧あれ。私が食べきれないほどの闇を孕む、天空の貴婦人よ。

 深々と一礼し、身を起こした瞬間、そのすがたは屋根の上からかき消えていた。

 あとには数枚の羽根が、気だるげに舞うばかり。
 月の光を、うるさそうに振り払いながら。
 
 † †

 東京も西の方に深く分け入れば、深山幽谷といっても差し支えないほどの、荒々しい自然が現出する。
 レイリーが訪ねたコレクターの住まいは、まるで岩山の頂上にある城のように、あたりを睥睨していた。
 見るものが見れば、その豪奢な建物は、オーストリアとハンガリーの境、アイゼンシュタットにあるエステルハージー候の宮殿を模したものだとわかるだろう。
 エステルハージー家の人々は音楽好きで、さまざまな音楽家の後援をしたという。おそらくは、それにちなんだのだろうが――
(まだまだ、闇が足りませんねぇ)
 レイリーはいささか、不満だった。この城のあるじは、昨今世間を騒がせたベンチャー企業の雄のごとく、あざかやな現代版錬金術で莫大な資産を築いた。そして、その潤沢な資金を趣味のコレクションにつぎ込んだのだ。すなわち、希少価値の高い楽譜の収集に。
 忙しい壮年のコレクターにとって、この城は住居ではなく、コレクションの保管を兼ねた別荘であるようだった。都心にいくつものマンションを持っていて、住まいは気まぐれに変える主義らしい。
「独身生活が長いもので、お客さまにあまりおかまいも出来なくて」
 学生時代はアメフト部に所属していたというその男は、想像よりも気さくな仕草で、無骨な手で頭を掻く。しかしその目は猛禽のように狡猾に、レイリーを品定めしている。
 レイリーは、黒革の手袋で包んた指を、漆黒のシルクハットに差し入れて軽く持ち上げ、すぐに戻した。
 闇が紡いだ絹糸のような髪が、揺れるか揺れないかの、ささやかな挨拶である。
 これで十分に礼は尽くしたとばかりに、さっそく本題に入る。
「あなたが、フランツ・ペーター・シューベルトの交響曲、第8番ロ単調D759の、最終楽章の楽譜をお持ちだと、うかがいましてね。是非、お譲りいただきたいのですが」
「あっはっは。冗談でしょ。あれがどんなに価値あるものか、ご存じでしょう?」
「むろん。それに見合うものは、お支払いできますよ」
 シューベルトの第8番ロ単調D759とは、すなわち交響曲「未完成」。
 完成しているのは、第1楽章と第2楽章のみ。そもそも最終楽章は、存在しないはずなのだ。
「無理ですよ無理。あの楽譜は、誰にも渡しません」
「そう仰るとは、思っていました。……ではせめて、ひとめ拝見させていただけませんか?」
 男は少し逡巡したが、やがて頷いた。コレクターは、コレクションを自慢したい習性を持っている。
「これですよ」
 あっさりと差し出された楽譜に、さすがのレイリーも息を呑む。

 ――偽作だと、思っていたのに。

 この男のご自慢の楽譜コレクションは、モーツアルトにメンデルスゾーンにバッハにショパンにベートーベンにシューベルト。もちろん、本物なら素晴らしいが、どう考えても残っているはずのないものばかりだ。おそらくは、彼が金に糸目を付けないことにつけこまれ、まがい物を掴まされているのだろうと判断していた。そして実際、ほとんどは偽物だろう。
 しかしこれは。これだけは。
 むせ返らんばかりの、闇が刻まれている。

「私は、『手』を、持っていなくて」
 コレクターは言う。筋張った無骨な手で楽譜を撫で、どこか、恥ずかしそうに。
「演奏家の手。芸術家の手。器用に楽器を操る手。だけど、どんなに欲しても得られるものじゃないですから、せめて、想像したいんですよ。自分の手が、この楽譜に記された音を紡ぐさまを」
「……なるほど。それほど大切なものでしたら、残念ですが、あきらめましょう……」
 古びた楽譜の破れ目を、黒革で覆われたレイリーの指が這う。
「すみませんね。せっかくお訪ねいただいたのに」
「いえ、お気になさらず……フフ。それでは、また」
 レイリーの魔力が楽譜に宿ったことに、コレクターはもちろん、気づいていない。

 † †

(あんなに簡単に引き下がって、妙な人だったな。もっと粘るかと思ってたけど)
 レイリーが帰ったあと、「未完成」最終楽章を特注の金庫にしまい込みながら、コレクターはそう思い、しかし気にしないことにした。もとより楽譜を譲ってくれと言う来客は、珍しくもない。いちいち気に留めていたら身が持たないというものだ。
(……おや……?)
 インターホンが鳴る。出てみれば、顔見知りの音大生だった。もっと正確に言えば、彼の会社に事務のアルバイトに来ていた彼女を、楽譜を見せてあげるからとこの家に誘い、何度か適当に遊んで別れたという経緯があった。
「……ねえ、いつ、あの楽譜をくれるの?」
 外は雨が降り始めたようだ。女はびしょ濡れのまま挨拶もなしで家に入り、両手を後ろに組んで、彼に詰め寄る。
「何のことだ?」
「嘘つき。約束したじゃない。シューベルトの『未完成』最終楽章の楽譜、別れるときはあたしにくれるって、言ったじゃない!」
「そうだったかな」
 男は首を捻る。とぼけているのではなく、本当に思い出せないのだ。口走ったことがあったとしても、それは所詮、寝物語の延長だ。法的効果など、ありはしない。
「……あたし、あなたがそう言ったから、あきらめたのに。あなたが、女優のKさんと付き合ってるって聞いても、我慢して……」
 女優のK? さて、それはどの女だったろう。
 今、交渉があるのは、モデルのAと、アナウンサーのCと、客室乗務員のMと、それから――
 考え込んだ男の顔を、女は懇願を込めて覗き込む。
「くれないのなら、それでもいいわ。別れるっていったの、取り消して。ね?」
 しかし、女のささやかな願いは、粉々に打ち砕かれる。
 男の、次なる言葉によって。

「帰れ。もう君に興味はない」
 
 女は石のように青ざめ、
 ――後ろ手に隠していたナイフを、振り上げた。
 
 † †

 降りしきる雨の中、大きな鴉は、窓辺にいた。
 室内の様子をじっと見つめ、やれやれとばかりに、翼を震わせる。

 この世で最初に生まれた音楽は、「叫び」であったそうだ。
 ならば楽譜とは、叫びの記録に他ならぬ。

 ――こんな幕切れで、ご満足でしょうか?

 問いかけようにも、月は見えない。
 おそらくは、雨雲の上で、笑っているだろうけれど。
 
 
 ――Fine.
PCシチュエーションノベル(シングル) -
神無月まりばな クリエイターズルームへ
東京怪談
2006年11月20日

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