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『突然のプリマ 後編 』
斎藤・智恵子4567)&(登場しない)

 あと五分で、家を出なければ間に合わない。そのぎりぎりまで斎藤智恵子は玄関で靴とにらめっこをしていた。一瞬でも油断すればこの靴を履いた途端に、みんなの待っている中華料理屋とは逆のほうへ駆け出してしまいそうだった。
 自分の気持ちを抑制しようと努めている智恵子はなんだか、餌へ飛びつく寸前の猫に似ていた。じっと、じっと息を殺し一瞬のきっかけを待っている。
「・・・・・・」
そうしているうち、時間があと一分に迫る。
 うん、と頷いて智恵子は靴を履いた。
「いってきます」
家族に、靴箱の上に置いてある犬の置物に声をかけ、玄関を出る。風は強く冷たいのだがよく晴れた、気持ちのいい休日だった。昨年よりも少し遅い紅葉が、庭にも訪れようとしていた。ひらりと飛んできた落ち葉をつかまえ、明日掃き掃除をしなくては、と智恵子は思った。
 そして智恵子は駅のほうへとまっすぐに歩き出した。駅前の、商店街の一角にある中華料理屋の二階、若の部屋を目指すために。今日はそこで智恵子が出場したバレエコンクールのビデオ会が開かれるのだ。
「急がなくちゃ」
約束の十五分前に着くためには、立ち止まっている時間はなかった。どんなときでも十五分前に到着、それが智恵子という性質だった。

「あ」
「こんにちは」
中華料理屋の下で、一人の少女と顔を合わせた。夏休みの間一緒に働いていて、彼女のほうはそれからもアルバイトを続けている。最初の頃はよく失敗して皿を割っていたけれど、今は一度に三段の蒸篭だって運んでいる、ただ、少し危なっかしい手つきではあるのだが。
「若さんが呼んでくれたの」
「そうなんですか」
自分の出るビデオだからだろうか、なんとなく智恵子ははにかんでしまう。自分よりも少し背の低い、智恵子のその顔を横から覗きこむように首を傾げる少女。夏よりも伸びた髪の毛が肩から落ちてサラリと音を鳴らす。
「智恵子ちゃん、どうしたの?」
「・・・この間のコンクール、自信がなくて。ビデオも、恥ずかしいんです」
なるほど、という少女の目。とても優しい光が宿っていた。智恵子を励ましたいのだと、唇が動いた。
「でも私、すごいと思うわ。だって私にはバレエなんて踊れないもの。コンクールに出るなんて、絶対に無理」
それで少しでも智恵子の憂鬱が軽くなったのかどうかはともかく、彼女の優しさは充分に伝わった。笑わないでねと小さな声で智恵子はお願いする、笑うはずがないわと少女は智恵子の頭を撫でる。
「こんなところでなにしてんの」
二人に声をかけたのは上映会の人数が予想以上に集まったため、買出しに出ていた若だった。シャツ一枚に細身のジーンズ、サンダル履きという姿は見ているほうが風邪でもひきはしないかと心配になる。
 そういえば若の普段着を見るのは初めてだと智恵子は思った。アルバイトのときの若はいつも油に汚れた調理服を着ているし、コンクールのときは会っていなかった。

 若の呼び出しで集まってきたのは店の従業員が三人、アルバイトが継続している者辞めてしまった者を含めて五人、それに若自身と今回のメインである智恵子。あまり広くない上にマンガで埋もれている若の部屋は根太が潰れそうだった。
「もっと広いところないのかよ」
スープ担当の、若の兄貴分ともいうべき従業員は積んだ雑誌の上に座っている。テレビのある部屋はここだけだと弁解する若、しかし智恵子は思った。もっと広いところで、もっと大きな画面のある場所を知っている。
「あの、お店・・・」
言いかけてしかし、自分が大画面に映し出されると気づいて口を閉じる。が、耳の聡い若にはしっかり聞こえていた。
「そうだ、店のプロジェクターを使えばいいんだ。今は休憩時間だし、誰もいないだろ?」
一階の店では結婚式の二次会を引き受けることもあるので、大きなスクリーンとプロジェクターを用意していた。あまり使っていなかったのでみんな忘れていたが、智恵子は一度だけ見たのを覚えていた。記憶力がいいのも、良し悪しである。
「決まったら移動、移動」
同じ店で働いているだけあって、みんな団結すると行動が早い。機械に強い者は先に部屋を出て、プロジェクターを用意しに行く。残った者たちは広げたお菓子をこぼさないよう袋に戻したり、人数分の紙コップを運ぶお盆を用意したり。食べ物飲み物を運ぶのは、それこそ得意分野だった。
「じゃあ俺は智恵子ちゃんを運ぼうかな」
手持ち無沙汰の若は、そんなことを言って笑いを取っていた。だが本当に、うっかりしてしまったと立ち尽くしている智恵子は、誰かが運んでいかなければ動きそうになかった。
「口は災いの元」
そんな言葉が頭をうずまく。若は心の中で災いなんかではないのだよ、と背中を押してやりたかったが智恵子の背中はか細くて、折れてしまいそうだった。
 少女はそんな若を見つめながら
「若さんはみんなに優しい」
と自分に言い聞かせていた。

 コンクールの結果については、奨励賞をもらっていた。だが、賞をもらう経緯については覚えていない。ビデオが始まっても、最初のほうはとても見られなくて一番前の席で俯いていた。
「どうしたの?気分でも悪い?」
小声で心配される。耳元で聞こえたそれは、やけに響く。静かである、ビデオの音以外しんとしている。なにがあったのだろうかと智恵子は後ろを確かめた。
 プロジェクターの光を逆光に受けたみんなの姿、顔かたち。それぞれに違うことはわかっているのだが、しかしそのときの智恵子には全員同じに見えた。彼らは同じ顔で、感心するような目でコンクールの映像に見入っていた。唯一、振り返っている智恵子に気づいた若はにこりと笑う。
「いいね」
顔を近づけてきて、それだけ言った。どこがいいんですか、と思わず言い返そうとするのだが、自分の踊りを覚えていないので否定の仕方もわからなかった。
 勇気を出して、智恵子はコンクールの中の自分と向き合うことにした。首をまっすぐに戻し、目をゆっくりと上げていく。
「・・・・・・」
自分の知らない自分が、そこで踊っていた。
 コンクールの当日になって踊りなさいと言われた曲は、一人でずっと練習してきた。けれど手本となる人の姿は遠い記憶の中で曖昧で、ターンの回数もステップの形もそれこそ、真似をする人がいなかった。だから、ビデオの中で踊っている智恵子は人の形をなぞっているのではない、智恵子のバレエを踊っている智恵子なのだった。
「あ」
心の中で声が上がる。ジャンプして、着地に失敗した。だが、失敗と感じたのは智恵子だけで、他の人が上げる声といえば滑らかな智恵子の動きに感嘆するため息ばかり。

「どこがよかったですか?」
上映会が終わって、大拍手の賞賛を浴びた智恵子の第一声はそれだった。拍手をしたほうはきょとんとした顔を見合わせ、それから揃って笑い出す。
「どうして笑うんですか」
自分は真面目に聞いているのに、智恵子は顔が熱くなる。するとみんなを代表して少女が答えた。
「踊っている智恵子ちゃんは、いつもの智恵子ちゃんじゃないみたいだった。だけど嫌なんじゃなくて、こんな智恵子ちゃんもいるんだってびっくりしたの。智恵子ちゃんが踊るところ、すごくいい」
「俺もだ」
大きく頷いたのはプロジェクターを操作していた従業員。
「お前、いっつも真面目に頑張ろうって顔ばっかりだけど、あの踊ってるときはすげえ気持ちよさそうだったぞ。笑ってる顔が楽しそうだった」
「私・・・笑ってました?」
全然意識がなかった。それに、バレエを踊っているときに笑ったことなど、これまであっただろうか。智恵子は戸惑った。しかし、今までとなにか違う奨励賞の意味を感じ取った。笑顔で頑張ってゆけと、励まされたようだった。
「若さん、この発表会のビデオ、ダビングしてもらえませんか」
「いいよ」
元々そのつもりだったんだよと、若は既に準備しておいたビデオテープを取り出す。帰ったら家族にも見せよう、と智恵子は思った。
 しかし、その後つくづく後悔したことがあった。どうしてあのときビデオをダビングしてほしいではなく、オリジナルが欲しいと言わなかったのだろう。
「この子ね、うちでバイトしてるんだよ。可愛いでしょ」
プロジェクターの使いかたを覚えた若が、有線の代わりに智恵子のコンクールの映像を繰り返し店内で流しているのだった。
 これはもう恥かしくて、しばらく手伝いに行けない。
PCシチュエーションノベル(シングル) -
明神公平 クリエイターズルームへ
東京怪談
2006年11月17日

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