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『Préparation au futur 』
オリヴィア・ー6558)&ジェームズ・ブラックマン(5128)&(登場しない)

 雨が降っていた。
 シトシトと音もなく降り、全身に纏わりつくような雨だ。
 体温を奪おうとする氷雨を拭おうともせず、男は小さく息を漏らした。
 それは大きな失敗であった。仕事中のトラブルとはいえ、これほどのケガを負うことなど今まではなかった。
 その廃墟にいつから足を踏み入れたのか、記憶は定かではない。
 気がつくと、いつもこの場所に足を向けることが多くなっていた。
 かつては教会だったのだろう。その面影は今でもある。人が訪れなくなり、無人のまま風化した建物は、かつて信仰の対象とされていたのが嘘であるかのようにひっそりとしている。
 男は体を引きずるようにして建物の奥へ向かった。
 扉があった。古い扉が。
 男が手をかけると、軋んだ音を上げ、扉が開いた。
 その部屋は書斎であった。少なくとも以前は。
 床に敷き詰められた、くすんだ赤い絨毯。血の色を思わせる。
 部屋の片隅に置かれた古い木製の椅子に歩み寄り、男は倒れこむようにして椅子に腰を下ろした。男の全身を濡らした冷たい雨が、椅子の表面に張られた赤い布を湿らせた。
 再び、ため息が漏れた。
 迂闊だった。仕事とはいえ、これほどの傷を負うとは。
 まるで空を見上げるかのように天井へと目を向け、そして静かに瞼を閉じた。そのまま眠りに就くように男の意識は闇の中へ堕ちた。

 ふと、誰かの気配を感じて男は目を開けた。
 辺りには赤い薔薇が咲いていた。薔薇の庭園。頭の片隅に追いやられていた古い記憶が呼び起こされる。それが、かつて自分がいた場所であることを男は思い出した。
 もう、どれほど昔のことだろうか。正確には思い出せなくなったほどの過去。男は、1人の女性のためだけに、このバラ園を手入れしていた。彼女に喜んでもらうために。彼女の笑顔を見ていたいがために。
 気がつくと目の前に女性が立っていた。
 その女性は、いつも同じ姿で彼の前に現れる。あの時と変わらぬ美しい姿のままで。まるで男の罪を思い起こさせるかのように。
「怪我は大丈夫?」
「……問題ありません」
「そう」
 女性は安堵したように微笑んだ。その笑顔すら変わらない。かつて、自分に向けられていた微笑み。それに何度、癒され、救われてきたことか。
 その顔に手を伸ばしかけ、男は躊躇したように伸ばした手を握り締めた。
 もう触れることはできない。
 昔のようにはいかない。
 あまりにも彼女が眩しすぎて、今の自分には触れることを許されていないような気がした。自分と彼女とでは、住む世界が違いすぎる。そう言われているような気がした。
「いつも、無理をしすぎなの」
 女性はかがむと、1輪の薔薇に手を伸ばした。
「ここも、そうだった。いつも1人で手入れをしていて」
「オリヴィア」
 男の口から名前が漏れた。かつて男が愛した女性の名前が。
「まだ、その名前で呼んでくれるのね」
 オリヴィアは微笑み、男を見上げた。
 思い返せば、彼女はずっと笑顔を向けていた。いかなる時も笑みを絶やさず、それが周りの人間をどれほど幸せな気持ちにさせたことか。
 その微笑みを消したのは、自分だ。
 最期の瞬間、彼女から笑みを奪ったのは、紛れもない自分なのだ。
「ロイ」
 オリヴィアの口から懐かしい名前が聞こえた。
 もう、はるか昔に捨て去ってしまった名前だ。その名前で男を呼ぶ者は誰もいない。男自身ですら、彼女の口から発せられるまで忘れていた。
「無理をしていない?」
「無理? 私が?」
「ええ。なんだか、そのように見えるわ」
「そんなことはありません。なにも、無理をしてなど」
「そう」
 静かに微笑み、オリヴィアは立ち上がった。その笑みが、先ほどよりも幾分か悲しげなものに見え、男の胸にかすかな痛みが走った。
「無理はしないで。もう、わたしではあなたを癒すことはできないのだから」

 その感触を今でも覚えている。
 長い時を歩む中で、多くのことを忘れ去り、自身のことすら定かではなくなったというのに、その感触だけは今も鮮明に残っている。
 銀色に輝く刃が肉を截ち、愛する者の心臓を貫く感触。
 彼女の口から漏れた血が、男の視界を紅く染めた。
 苦しまなかった。少なくとも男にはそう見えた。それが救いであった。
「ごめんなさい」
 彼女は最期にそう告げた。
 彼女が謝ることなど、なにもない。詫びなければならないのは、むしろ自分だというのに。
 自分が彼女を愛さなければ。いや、むしろ自分と出会わなければ。彼女は幸せに生き、幸せのまま死ねたかもしれない。
 彼女を――オリヴィアという1人の女性を不幸にしたのは、自分だ。
 自分の欲望を満たすためだけに、彼女を牢獄のような城から連れ去った。
 永遠を共に歩むと約束し、だが約束は守られなかった。
 彼女は人として生き、そして人のままで死ぬことを望んだ。その望みを叶えたのは自分だ。愛する女性の望みを叶えるべく、彼女を自ら手にかけた。
 後悔はないはずだった。
 しかし、いつまでも心の底に漂っている痛みはなんなのだろうか。

 気がつくと、いつも雨だった。
 辺りの薔薇の園はない。愛するべき者の姿もない。男の視界にあるのは廃墟と化した教会の一室。生命の息吹など微塵も感じない無機質な空間だけだ。
 白く霞んだ息が漏れた。
 それまでの光景が夢だったのだと男は思った。
 夢。
 果たして本当にそうだろうか。
 この胸に感じる痛みは、ひどく生々しい。
 ゆっくりと男は椅子から立ち上がった。最早、傷の痛みは感じなかった。ただ、心の底に得も言われぬ鈍い痛みが、まるで澱のように沈んでいる。
 辺りへ目を向けると、誰がそこに置いたのか、机の上に1輪の白い薔薇があるのを男は見つけた。
 薔薇は枯れ、しおれている。
 男は手を伸ばし、薔薇を握った。
 枯れた白い薔薇。その姿はまるで今の自分を表しているようでもあった。
 その時、軋んだ音を響かせて部屋の扉が開かれた。
 この場所にやってくる者などいない。訪れるはずのない来訪者の出現に、訝しみながら振り返った男は、そこに立つ人物を見て若干の驚きとともに動きを止めた。
「オリヴィア」
 そこには、いつもと変わらぬ姿で1人の女性が立っていた。
 男の夢から抜け出してきたかのように、オリヴィアが微笑みを湛えたまま部屋の入口に佇んでいた。
 軋んだ音を響かせて扉が閉じられる。
 そして、ゆっくりとオリヴィアは歩み出した。
「また、ここへ来てしまったのね」
 男の目の前に立ち、どこか寂しげに微笑んで彼女は言った。
 手を伸ばせば簡単に触れることができる距離。しかし、それはできなかった。触れてしまったが最後、2度と彼女が姿を現さなくなるような漠とした恐怖が男の中にあった。
 だから、代わりに薔薇を差し出した。枯れた白い薔薇を。
 だが、オリヴィアは男の手に握られた薔薇を見て小さく首を振るだけだった。
「これは重いですか?」
 男の言葉にオリヴィアは悲しそうな微笑を浮かべた。
 枯れた白い薔薇の花言葉は、生涯を誓う。それは揺るぎない彼女への愛の証であった。
「永遠を生きる人に誓われても、どちらも辛いだけ。受け取ることはできないわ」
「なぜです? 今でも、あなたへの想いは変わらないというのに」
「そろそろ、わたしから解放されてもいいと思うの」
「解放? 私を?」
「ええ」
 オリヴィアは小さくうなずいた。
「あなたと共に歩めた時間は、それほど長くはなかったけれど、わたしは幸せでした。だから、あなたも自分の幸せを見つけてほしいの」
「私は今でも幸せです。あなたが、そばにいてくれるのなら」
「いいえ。わたしは、もうそばにはいない。あなたは思い出に縛られているだけ。わたしという、過去の幻影を引きずっているだけです」
「違います」
 思わず言葉が男の口をついた。だが、それは非常に弱々しい口調であった。
「もう、わたしは共に歩けない。だって、わたしは――」
「オリヴィア。そんな悲しいことは言わないでください」
「なぜ? あなたも覚えているでしょう? だって、わたしを人のままで死なせてくれたのは、あなたなのだから」
 微笑みを浮かべたままでオリヴィアは告げた。しかし、それは残酷な言葉だった。そう、彼女の命を奪ったのは紛れもなく自分だ。今でも忘れず、男の瞼に焼きついている光景がある。彼女の胸に短剣を突き刺した瞬間の光景が。
 オリヴィアは苦しまずに死んだ。人のままで逝けた。それが男にとって唯一の救いですらあった。だが、彼女を手にかけたことに変わりはない。それが罪。愛する者を、自らの手で殺したことが、男の心に沈んだ古い傷。
「ねえ、ロイ。わたしは本当に幸せだったのよ」
 持ち上げられたオリヴィアの手が男の頬に触れた。その手は驚くほどに暖かく感じられ、彼女がまだ生きているのではないかと男を錯覚させるほどだった。
 自然と涙が溢れた。2度と触れることができないと思っていた。その暖かさを感じることができないと諦めていた。彼女がまだ死んでいないと思いたかった。
「わたしは幸せだった。だから、あなたも幸せになって。ね?」
「ええ……」
 まるで幼子を諭すかのようなオリヴィアの言葉に、男は静かにうなずいた。
 そして男は思い出した。最期に見せた彼女の表情を。聖母のごとき優しさと慈愛に満ちた顔をしていた。その表情が男を救ったのだ。
 どこか名残惜しそうにしながらも、男の頬から離れたオリヴィアの手が背後の扉へ向けられた。
「ほら、彼が来るわ」
 扉を指差し、微笑を浮かべながらオリヴィアが優しく告げた。

 完

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東京怪談
2006年10月31日

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