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『香りは消えた思い出の中 』
光月・羽澄1282)&藍原・和馬(1533)&(登場しない)



 骨董品屋から骨董品屋へ、香りは渡った。旅をした。日本の骨董品屋に来る前には、ヨーロッパにいたらしい。本当の意味で、その香りは『ヨーロッパ』にいたのだ。まだ国王や騎士がいた時代の欧州各国を、香りは根無しのように渡り歩いていた。
 そして結局、どの国の、どの地方で生まれたのか、判然としなかったのである。さらには、具体的に、どのような成分で作り出されているのかすらも、謎のままだった。
 光月羽澄は少しだけ、プライドを傷つけられたような気がした。調達屋『胡弓堂』の力を持ってしても、香水の謎をすべて解き明かすことができなかったからだ。調達屋は彼女ひとりが切り盛りしているわけでもないし、店長や店員が全知全能の存在であるわけでもない。それでも、正体を掴めない謎が出てくると、羽澄は悔しい。
 香水は骨董品屋『神影』から預かったものだった。『神影』は、それを郊外に住む好事家から預かった。
 香水とその香りには、曰くがついている。この香りに魅せられた者は、突然、ふっつりと消息を絶つらしいのだ。羽澄はその手の曰くには慣れていたし、消えるつもりもないので、恐ろしくはなかった。科学の力でも情報の力でもはっきりとしなかった正体には、正直なところ不思議な魅力を感じていた。
 羽澄も、香水の匂いを嗅いでみた。
 匂いの好みは十人十色。この香水も、万人が好きになる類のものではないだろう。悪臭ではないことは確かだ。花のような香りでもあり……熟れた果実の香りが前や後ろをかすめ……ブラッシングされた愛玩動物の毛並みや……月も凍る夜空……人いきれ……青い草原を撫でる風の匂いがくるくると踊る……
 ――いろんな匂い。なんだろう、ちょっとほっとするな……。
 様々な人の手を渡ってきた香水は、古い意匠の瓶に入れられていた。羽澄は瓶を手にして、胡弓堂の店先にいた。
「どうもー、『神影』で――ぶはっ! ……ぶへっ!」
「あれ、藍原さん! こんにちは」
「ぶしっ! ちわっス、どーもっス。へぶしっ!」
 ドアを開けるなりくしゃみのような咳のようなものに七転八倒しながら、『神影』の使いが羽澄のそばにやってきた。藍原和馬だ。彼は非常に嗅覚が敏感で、犬や狼並みである――そして犬や狼にとって、香水や柑橘類の匂いは刺激が強すぎるのだ。和馬はスーツのポケットからティッシュを取り出すと、鼻血を出した男子の如く、両の鼻の穴に詰め込んだ。
「ごではひどいニオイでふね」
「え? ……あ、ああ、そっか。ごめんなさい、さっき蓋を開けちゃって」
「ぞの香水(ごおふい)のごどで問題(ぼんばい)が起ぎだんだ。よげでばでづだっでぐんねエだどうが?」
「はい、もちろん。ちょうど結果が出たところですし……って言っても、結果が出なかったっていう結果なんですけど……」
「よし。ま、どでぃあえず……外(ぞど)、行ごうや」
「……はい」
 羽澄は笑いをこらえるのに必死な半面、和馬には悪いことをしたと、少し反省していた。胡弓堂から外に出ると、和馬は鼻の栓を抜き、至福の表情で深呼吸をした。空気には、秋の匂いが混じり始めている。


「え! 消えた!?」
「いや、消えたか死んだかはわからんのよ。連絡つかなくて困ってるって段階なんだな」
 羽澄の素っ頓狂な声に、和馬は苦笑いをしてみせた。
 香水の持ち主である好事家と、数日前から連絡が取れなくなったのだ。『神影』はその好事家とは香水以外にも色々と同時に取引の話を進めていたが、まったく音信不通になってしまい、せっかくの商談がまとまらずに困っているというのだ。
 香水の成分や素性調査の結果を伝えることもできないのか、と羽澄は憮然とした面持ちでため息をついた。
「せっかく調べたのに」
「いや、だからまだ死んだかどうかはわかんねンだってば。それに、調べても結局よく正体わかんなかったんじゃなかったっけ?」
「……、とにかく、依頼人の安否を確かめに行かなきゃならないのね」
「そういうこと。ま、何も起こらないはずはねエけど、どうにかなるでしょ!」
 和馬はからりと明るく笑って、『胡弓堂』の前に停めていた愛車のロックを外した。


 たとえ瓶の蓋をきっちり閉めていたとしても、和馬の嗅覚は香りをとらえていた。羽澄には蓋ごしの匂いを感じ取ることはできなかったが――、車内に匂いが存在していることだけは何となくわかっていた。この香りには、力がある。付与された伝説のとおり、所有者は消えてしまった可能性があるのだ。
「不思議な匂いね」
「そうだな」
「藍原さんにとって、嫌な匂い?」
「それが、そうでもないんだよ。俺も、『不思議』な匂いだって思うくらいでさ……好きでも嫌いでもない匂いなんだ……フタ開けられたらたまらんけど」
「不思議だったり、謎だったりしたら、正体知りたくてたまらなくなる」
「うんうん、わかるね、わかるよ、その気持ち」
 ハンドルを駆り、前方を見たまま、和馬はそう相槌を打ってにいと笑った。
「でも、そういう正体に限って、知らなかったほうがよかったりするんだよな」
 ふたりの前に、草木に囲まれた好事家の屋敷が現れた。


「依頼人さん、ここには独りで?」
「らしいけど」
 車を降りたふたりを、静寂が包む。小鳥たちのさえずりすら、どこかうつろで、沈黙を増長させているようだ。風が吹いて、郊外の澄んだ空気を掃いていく。そしてその風の匂いを嗅いで、和馬は眉をひそめた。
「……香水の匂いがする」
 羽澄はそれを聞いて、口を真一文字に閉ざした。屋敷には恐らく誰もいない――気配がない。羽澄は玄関ポーチを上がり、無駄だとは思いつつもノックをして、声をかけた。返ってくる沈黙は、予想どおりだ。
「鍵、開いてる」
「ここでのこのこ勝手に中に入ったカップルが死んだりヒドイ目に遭ったりするというわけだ」
「大丈夫。カップルじゃないもの、私たち。ちゃんとお付き合いしてる人がいるでしょ? ふたりとも」
「まア、それはそーだが。……って、『ふたりとも』!?」
「『胡弓堂』にかかれば藍原さんのプライベートなんて――」
「頼む、まだ大っぴらにしないでくれ!」
「そんなことしないわ。でも、どうして?」
「さっさと中に入ろう! お邪魔します!」
「……なんて強引な……」
 はじめに中に入ることに難色を示したのは和馬だったはずだが、彼がすばやく屋敷の扉を開けた。突然ナイフが飛んできたり、足元で落とし穴が開いたり、殺人鬼がハンマーを持って襲いかかってきたりはしなかったが、かわりに――例の香りが、ふたりを出迎えた。
 和馬は顔をしかめたが、鼻にティッシュを詰めたりはしない。香りは香水瓶の中にあるものと同じだが、何かが異質なものに変わっていた。
 香りは、屋敷のものになっていたのだ。屋敷がこの香りを発しているようだった。
 何かがいる――何かが、何かを成した。ふたりに備わった未知の感覚がその事実を捉える。ふたりは扉を開けて中に入った瞬間から口を閉ざし、あとは慎重に歩みを進めていった。
 屋敷の中では、実に様々な骨董品を見ることができた。貴重な絵画は壁に掛けられ、古い家具も『家具』として使っていたようだ。好事家は、買い上げたものを保管して眺めるだけのものに留めてはいなかったらしい。古い道具たちも、それを光栄に思っていただろうか。骨董品たちもまた、あの匂いを発しているようだった。
 居間のテーブルに、クリスタルの瓶がある。中は空だった。和馬はすんすんと鼻を吸い、羽澄に目配せをした。匂いは居間のクリスタルの瓶から強く発せられていたのだ。
 好事家は、例の香水も香水として使ったのか。『神影』に渡す前に、好事家は中身を分けていたらしい。
 ふたりは息さえ殺して、居間の瓶を見つめていた。

 不意に、香りが動いた。
 ふたりは目をこらす。
 何ということか、香りの動きが見えたのだ。

 次第に、香りの『姿』も見えてくる――。
 それは女、簡素なドレスを身につけた女。女神像のように、その身体は均整が取れていた。ドレスの色はシャボン液の模様のように、音もなくうねり、無数の色彩を持っていた。
 依頼人は日本人だ。〈香りの女〉は、どこからどう見てもアジアの者ではなかった。
『あなたたちも〈記憶〉の中に入りたい?』
 女は、不可思議な声でふたりに問いかけてきた。
「どういうことだ?」
 和馬が尋ねると、女は静かに微笑し、囁くように語った。
『この香りは〈記憶〉の香り。あらゆる命や歴史、生み出されたものの香りなの』
「じゃ、香水の持ち主は――」
『望んでこの〈記憶〉の一部になったわ。望まない人間は香りを手放す。ただそれだけ。〈わたくしたち〉は惨たらしく殺したわけではないの』
 女の話を聞くうちに、和馬と羽澄は、〈記憶〉の香りの中に、自分だけが知る香りと、よく似た香りを見出せるようになっていった。
 和馬が嗅ぎ取ったのは、満開のツツジ、アジサイ、忘れな草、茂る青葉の、むせかえるような匂い。
 羽澄が嗅ぎ取ったのは、恋人ができる前まで使っていた香水と、今使っている香水の香り。
 どれもふたりの記憶にある香りとは微妙に違っていて、まったくの同一のものではない。だが、匂いにまつわる記憶を呼び起こすには充分すぎるほど、似通っている。
 この香水は、地球の香り。人類の香り。だから、特に嫌いにもなれない中立な香りなのだろう。
『さあ……、あなたたちは、どうするの?』
 女は静かに微笑んだ。
 その笑みには、個人的な感情などひとつも感じられない。ただ、望むものを受け入れるだけの、白色にして無数の色の、絶対的な表情だ。
「俺ァ遠慮する」
「私も、まだやることがたくさんあるから」
「そうそ、今を生きてるんでね」
 女はふたりの答えにゆっくりと頷いた。不満も喜びも抱いていないようだった。ただ彼女は、こう言い残したのである――
『もとの瓶の中に、戻してほしいわ』
 それだけが、香りの望みだったようだ。
 女の姿は空気の中に溶けた。
 そうして女の姿が消えたあとに見ると、テーブルの上の瓶の中に、香水がほんの少しだけ入っていた。好事家が、もとの瓶から取り出した分だろうか。羽澄は持ってきた瓶の蓋を開けて、分けられた香水をもとの瓶に戻した。その慎重な作業の間中、和馬は鼻をつまんでいた。


「……戻ってきたりするのかしら」
「どうだろうな」
「この香り、永遠に残るのかな」
「……どうだろうなあ」
 帰りの車中、ふたりは無口だった。会話と言えば、そのくらいだった。
 もし、今の文明が滅びて、人間がいなくなったとしても、この香水瓶は地球上に残るのだろうか。ガラス瓶は、永遠のものだろうか。誰かが見つけてくれるだろうか。そうして見つけた香りを感じて、一体どんな想いを抱いてくれるだろう。
 永遠などというものは幻想だ、とふたりは割り切っていた。いずれ太陽も滅びて、地球もなくなってしまうのだ。香水瓶はそんな大きな『終末』も乗り越えてくれるだろうか。そうでなければ、存在そのものを自らすすんで〈記憶〉に残した生命たちが、浮かばれないのではないか。
「俺が預かる」
「え?」
「俺が持ってたら、きっと、ずっと……永遠に残るから」
 羽澄は和馬の横顔をじっと見つめた。和馬は、笑い返さない。真顔でハンドルを駆り、信号の色を確認していた。
 羽澄は香水瓶を持つ手に、わけもなく、ぎゅっと力をこめていた。




〈了〉
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2006年10月16日

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