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『≠ not equal ≠ 』
神宮寺・夕日3586)&桐月・アサト(6735)&(登場しない)



 遠くでいかずちが転がっている。あるいは、トラックの荷台から何かが転げ落ちた音かもしれない。さらにまた音、重低音。トラックは転がり、いかずちは笑う。
 そして劇的な雨が、降ってきた。
 砂利と水を積んだトラックの荷台をひっくりかえしたかのような大雨だ。
 雷雨は、突然にやってきたわけではない。その日の天気はひどく不安定だった。空は朝から鉛色で、民家の多くは昼間も蛍光灯のスイッチを入れていた。稲妻と雷鳴を持て余す空は、数時間おきに激しい雨を降らせていた。
 降り出した大雨は、10分ほどで引き揚げていく。
 いつしかその日は夜になっていたが、誰も、いつ日が沈んだか知らなかった。
 傘を持つべきか否か、濡れるか濡れないか、非力な人間たちは空を見上げて不安になっていた。人間とは、つまり、そういう生き物なのだ――空が変わるだけで不安になる。とても怖がりで、とても心配性だ。
 人の不安は、人を駆り立てる。
 その日の警視庁はいつにも増して不機嫌だった。捜査一課に身を置く彼女には、警視庁どころか、東京のすべてが不安に包まれ、ぴりぴりと張り詰めているように感じられた。
 神宮寺夕日は、傘のかわりに銃を持って、ひとりの男を追っている。


 また、降り出しそうだ。
 小さな公園のタコ滑り台の下から、もそもそと壮年の男が這い出した。どことなく胡散臭い風体の彼は、桐月アサトと言った。彼はぶつくさ空に文句を言いながら、着ているジャンパーの表面を撫でる。その手もジャンパーも、すっかり濡れていた。彼は傘を持たず、かわりに惣菜とチョコレートとカップ麺が入ったビニール袋を持っていた。
「……雨には降られるしプリン買い忘れるしこの滑り台雨漏りしてるし……ったく……」
 ツイてない、
 本当に今日はツイてない。
 また降り出す前に帰ろう、と彼は足早に歩きだす。ポケットの中の煙草が湿気てしまう。
 遠くの空か近くの空か、ごろごろといかずちが転がっている。近くか遠くか、パトカーがサイレンを鳴らして走っているようだ。
 サイレンも雨も、珍しいものではない。アサトは肩をすくめ、急ぎ足でねぐらに帰る。目指すは掘っ立て小屋同然の、愛着ある何でも屋事務所。古いし狭いし汚いが、タコ滑り台よりは確実に雨風をしのげた。
「……おい!」
 不意に男の怒声が、湿った空気の中に響きわたったが――アサトはそれが、自分に投げかけられたものとは気づかなかった。
「おい、どけ!」
 怯えたような怒ったような、よくわからない負の叫び声。アサトはようやく振り向き、一瞬腰を抜かしかけた。この日本ではめったにお目にかかれない、拳銃が、アサトの視界の中に飛び込んできていたのだ。


「……見つけた!」
 ぼろぼろのタコ滑り台がある公園。東京どころか、全国のどこにでもあるような小さな児童公園で、夕日は追っていた男を見つけだした。巡回中の警官を殴り倒して拳銃を奪った犯人だ。その男は警官の公務執行妨害のほかにも、強盗の罪で警視庁に追われている。今朝方、コンビニで店員を傷つけ、レジの金を奪ったのだ。今日一日で一体いくつの罪を犯すつもりなのか――恐らく、本人にもわからないだろう。今はただ、猛烈な不安だけが彼を突き動かしている。
「警察よ! 動かないで!」
 そう警告して素直に動かなくなった凶悪犯はほとんどいない。それを知っていたので、夕日は拳銃を手に、突進していた。彼女はハイヒールだった。だが、素晴らしい速度で走っていた。犯人は止まらず、彼女も止まらなかった。


 ――ああ、そうだ俺、今日、ツイてなかったんだった……。
 走り寄ってくる男は、必死だった。手にしていた拳銃をアサトに向けた。アサトは奇妙なほど神妙な気持ちになった。突きつけられた銃口が、スクリーンの中のもののように感じられる。駆け寄ってくるスーツの女の姿も、一応視界の中にあった。どうやら警察らしい。
 ぞっとするほど近くで雷鳴が轟いた。雷鳴の中に雷鳴が隠れていた。スーツの女がぶつかってきて、アサトは倒れた。女も倒れていた。拳銃を持った男は、悲鳴のようなものを上げて走り去っていく。雨がやってくる。手に触れる雨が温かく、アサトは身体を起こして、自分の手を見た。
 赤く染まった浅黒い手を、雨が洗ってしまった。
 アサトのそばに落ちた警察手帳には、神宮寺夕日、という名前が記されている。
「おい! まさか、撃たれたのか!?」
「……あ……、大丈夫……でしたか?」
 痛みに顔を歪めて、夕日はアサトに尋ねる。アサトのほうも、夕日に尋ねていた。夕日の身体のどこからか、血が流れているのだ――雨がたちまち、地面に滴り落ちた血を洗い流していく。
「何で、……何でこんなこと。おまえさん、……俺のこと、知ってたか? なあ? 俺はおまえさんのこと、知らないぞ……! 知らないのに、どうして……!」
「え……、だって……、……」
 夕日の声は、どしゃ降りの雨と、転がる雷鳴、近づいてくるサイレンで、ほとんどかき消されている。
 アサトは夕日のことなど知らなかった。そして夕日も、アサトとは初対面だ。彼女はぼんやりとした笑みを浮かべた。
「撃たれると思って……、……、犯罪から人を護るのは……、私たちの……、義務ですから……」
「……!」
「……ごめんなさい……、かえって、……迷惑に……巻き込んじゃっ…………」
 夕日は目を閉じた。か細い声も途切れた。しばらくアサトは、口を開けたまま、雨に打たれて、夕日を抱きかかえていた。
「……おい! ……おいッ!」
「大丈夫か!」
「救急車!」
 にわかに、アサトの周りは騒がしくなった。当のアサトには、夕日の沈黙しか聞こえなかった。目を閉じたまま夕日は動かない。流れている血は温かい。誰かがアサトの腕から、夕日を半ば奪い取った。警察か、救急隊か。どちらでもいい、夕日を悪いようにはしないはずだ。赤いパトランプが、びしょ濡れの視界でぎらぎらと光り輝いている。雨の雫やアスファルトの上で、赤が踊っていた。
 目を閉じたまま夕日は動いていない。
「許さねえ」
 雨と人の喧騒の中で、アサトは乾いた声を漏らした。
「あの野郎、許さねえ……!」
 警察か救急隊かが、アサトの腕を掴んで、何ごとか怒鳴っていた。どこにも行くな、状況を教えろ、きみに怪我はないのか、何があった、ここを動くな、動くな、動くな。アサトは猛獣のように一言吼えて、自分を掴む腕を振り払った。雨の中、彼は走り出す。不安すら吹き飛ばした怒りが、彼を駆り立てた。


 銃を持った男は、公園の、意外なほど近くにいた。彼はいろいろなものにつまづき、蹴倒しながら逃げたらしい。ひっくり返ったプランターや、散乱して濡れたゴミを辿り、アサトはすぐに男に追いついた。
 今度の雨は、なかなか降り止まない。アサトも男も、ぐっしょりと、頭の先から足の先まで濡れていた。川の中に飛び込んだかのような、見事な濡れ鼠たちだった。
「……自分が何したか、わかってるのか」
 アサトの猛烈な怒りは、雨を縫って男に届いた。
「『知らない人間』にも、いろいろいるもんだ」
 雨を受けながら、アサトは怯える男に近づく。男はまた、銃を構えた。ニューナンブだ。装弾数は5発、今は4発以下。これと同じものを、ついさっきも突きつけられたはずだが、その記憶がまるで遠い空の下にあるもののようだ。知らない人間の一生のようだ。すべてはアサトにとっての他人事――。
 近づくアサトに、男は引き金を引く。
 弾はアサトに当たらなかった。3回ほど、同じ銃声があとに続いたが――アサトには打ち身ひとつ負わせられなかった。男は見ただろう。銃撃の間、銃弾どころか雨粒さえも、アサトに当たっていなかったことを。
 男は不安な叫び声を上げた。
 あとはアサトが、男を殴り倒して、その身体を引きずりながら公園に戻るだけだった。
 ようやく雨脚が弱まり始めている。やんだとしても、どうせまた、すぐに降り出すのだろうが。


「あ、戻ってきた! すいませーん、ちょっと来てくださーい」
 公園では、ジャケットを脱いだラフなシャツ姿の夕日が手を振って待っていた。

「……あ!? ……はァ!?」
 凶悪犯を引きずってきたアサトは素っ頓狂な声を上げる。

 神宮寺夕日警部補はご存命だった! 怪我をしているが『健在』だ。見事にピンピンしている。ものすごく明るい笑顔だ。アサトはしばらく動けなかった。彼の手から犯人の男が物品のようにもぎ取られ、救急隊のもとへと担がれていく。
 アサトがいつまで経っても動かないので、仕方なく夕日が動いた。彼の前に立った夕日は、ぴっ、と笑顔で敬礼した。
「ご協力感謝します。お怪我はありませんか?」
「……ちょっ……、おまえさん、……なんで生きてるんだ……? 撃たれたんじゃ……血もたくさん出てたぞ……!」
「ああ、あれはここの脇腹のところをちょっとかすっただけで」
「はぁあ!?」
「倒れたときに軽く脳震盪を」
「なぁにぃ!?」
「ほんとにそれだけなんです。うん、ほんとに。……勝手に殺さないでください」
「…………」
 がくり、とアサトは肩を落とした。地面に向けられたその目は、泥まみれになった彼の夕食をとらえる。半額シールが貼られた惣菜パック、カップ麺、チョコレート。惣菜はともかく、ビニールに包まれているあとのふたつは何とか食べられるだろう。
 ――そうだ、俺、今日はツイてなかったんだった……。
 うなだれたまま自分の不運をかみしめるアサトに、夕日は追い討ちをかけた。びしょ濡れのアサトの頭を、ぺたぺた撫でたのだ。アサトは36歳の立派な中年だったが、それは子供の撫でかただった。俗に言う「えらいえらい」というやつだ。
「お手柄!」
 うつむいたままのアサトの顔は、たちまち、かあっと赤らんだ。
「やァめろ! 俺は犬とかガキじゃねんだッ」
「あ」
「事件は解決したんだろ。俺は帰らせてもらうぞ!」
「そんな、怒んなくても……」
「ほっといてくれ。俺は俺の今後の生き方について考えたいんだ」
 湿った地面を踏みつけながら、赤面のままのアサトは夕日に背を向けた。ずんずんと公園の出口に向かって歩いた彼は、慌てて引き返し、カップ麺とチョコレートを拾ってまた歩き始めた。そして、また途中で引き返した。そして、泥だらけになったビニール袋と惣菜パックも改めて拾い上げ、今度こそ公園を出て行く。
 夕日はその様子を、終わりまでじっと見ていた。
「今後の生き方……」
 ぽつり、と彼女はアサトの言葉を反芻する。脇腹のかすり傷が、じわりと痛い。
 事件に巻き込まれた彼が、事件を解決した。
「もっとちゃんとした褒め方、勉強しなくちゃ」
 ふと、彼女は空を見上げる。雨がやんでいた。彼女の髪も何もかも、雨に濡れて泥だらけだ。彼と同じ――彼、と同じ。
「……あ、しまった!」
 夕日は、彼の名前を聞いていなかった。彼女は打った頭とかすり傷の痛みに構わず、公園を飛び出していく。


 雨はそれきり、降らなかった。




〈了〉

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2006年10月13日

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