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『海からの贈り物 』
ジェームズ・ブラックマン5128)&(登場しない)



 妙な――というよりも、自分には役不足な依頼であると、ジェームズ・ブラックマンは思った。最近は今の仕事にも飽きてきているし、金に執着する柄でもない。その依頼人は払いがよく、ジェームズの得意先でもあった。つまりその男は、交渉人が出張らねばならない問題にしばしば直面しているということだ。
 ――気の毒な方だ。
 そう思ったジェームズは、
 ――うらやましい方だ。
 すぐにそう訂正した。ジェームズは、むしろ被害者になってみたい。彼はもっぱら、自ら事件を探しに行くか、事件がもたらされるのを待つ側だ。
 他に仕事が入っていたら断るつもりだったが、ジェームズは依頼を受けたそのとき、「あいにく」暇だった。得意先の依頼でもある。
 依頼人が今までにないほど深刻な顔をしていて、本気で困っているようだという点が、ジェームズの心を動かしたわけではない。


 依頼人は郊外に平屋の簡素な事務所を構えている。その周辺にも、似たような間取りの平屋が何件か建っていたが、人が入っているのは依頼人の事務所だけだった。
 依頼人は事務所で寝泊りすることも多い。夜は静かだったし、近所づきあいに悩まされることもないからだ。
 しかしそれも、一週間前までの静寂だった。先週、隣家に奇妙な一団が越してきたのだ――。

 依頼人の話を反芻し、依頼人の困った様子を横目に、ジェームズは現場へ向かった。彼の事務所は一、二回訪れたことがある。それだけに、ジェームズは現在の事務所周辺の様子に少し驚いた。
 空気が変わっている。湿っていて淀んでいるし、何より――
「……これは確かに、ひどい臭いですね」
「だんだんひどくなってましてね。昨日から、ここで飯を食うのをあきらめました」
「昨日までここでお食事ができたと仰るのですか」
「……はあ」
「あなたならそのうち慣れるのではないでしょうかねえ」
「はあ!?」
「失礼。慣れる見込みがあるなら、私に依頼はしませんね」
 ジェームズはにやりと笑みながら、依頼人の事務所に入った。少しも本心から謝っていない。どんなに鈍感な人間でもそれに気づいただろう。依頼人はむっとした面持ちで、ジェームズに続いた。
 事務所の窓はきっちりと閉め切られていたが、悪臭は確実に同居していた。先週越してきた一団が悪臭の原因であることは間違いない。臭いは隣家から発生している。
 まるで魚や海藻が――海が、腐ったかのような臭いだ。鼻の粘膜というものは順応性が高いというか、強い匂いにはすぐに折れてしまうものだが、この悪臭はいつまでも脳に不快感をもたらした。
 悪臭に眉をひそめながら、ジェームズは事務所の奥にある簡素な居住スペースを見て、ん、と声を上げた。冷蔵庫の周辺が、薄汚れた発泡スチロールの箱で埋め尽くされていたからだ。港や鮮魚売場でよく見かける箱だった。
「ああ、あれは、連中がお詫びに持ってくるんですよ」
 ジェームズが尋ねる前に、依頼人が答えた。発泡スチロールの箱からは、海の匂いがする。冷蔵庫と冷凍庫の中には、箱に入っていたという海産物が詰め込まれていた。
「……アワビにキンキ……おや、これはクエじゃありませんか。高価なものばかりですよ」
「それはわかってるんですけどねえ」
「まあ、あなたの気持ちもわかります」
 隣家に住み着いた者たちを、依頼人は「連中」と呼んだ。家族のようにも見えず、何らかの企業の社員たちのようにも見えない。怪しげなカルト集団、という印象が強いという。彼らは越してきてから毎晩遅くまで部屋という部屋の明かりを灯している。海の悪臭は日ごとに強まる。だが彼らも悪臭を悪臭と認識しているのか、それとも遅くまで煌々と明かりをつけていることに対してか、「お詫び」と称して依頼人に毎日海産物を渡してくるのだ。
 しかし、依頼人はもらったものに一度も口をつけていない。もともとシーフードが苦手であったし、何よりこの臭いの中で食事をする気にならなかったからだ。
 ジェームズはその、腰の低い謎の団体との交渉を依頼された。穏便に、ここから立ち去ってもらうのだ――。
「……」
 なんとなく、本当に、なんとなく。
 依頼人がもらった海産物を食べていなかったのが、不幸中の幸いなのではないかと、ジェームズは思ったのだった。


 日があるうちは、問題の隣家はひっそりとしていたが、空が西から変色を始めた頃から動きがあった。そして、黄昏時が過ぎれば、明かりが灯った。薄手のカーテンは一日中閉め切られているようだ。今はそのカーテンの向こう側を行き交う影がうかがえる。
 闇を切り取ったかのような黒衣のジェームズは、闇に溶けこむのが得意だ。彼は闇から影へ、音もなく動いた。悪臭に顔をしかめつつ、彼は問題の家に近づいた。手をついた壁がひどく湿っていて、ジェームズは驚く。
 海、……海だ。まるでこの家は、海の中にあるかのようだ。
 ジェームズは窓の下で息を殺し、耳をそばだてた。
 壁一枚隔てた異世界に、男が5人、女が4人。子供はいない。
「隣の男は?」
「だめね、食べる気ないみたい」
「明日はトロにしたらどうかな」
「日本人はトロに目がないから」
「特に男はね」
 彼らは、ごろごろと笑った。ごろごろと。人間の笑い声というよりも、それは蛙の笑い声だった。それもなかなかおかしなものだ、蛙が笑うはずはないのに。
「さ、今日の祈祷を始めよう」
 誰かがそう言い、誰もが異句を口にすることなく、奥の部屋にぞろぞろと移動していった。
 ――祈祷? やはり、カルト関係か?
 これは厄介なことになった、とジェームズが内心でため息をついたそのとき、何かが――聞こえてきた。
 それは果たして、声だっただろうか。

 イア! イア!

 フングルイ ムグウルナフ クトゥルフ ルルイエ ウガフナグル フタグン

 イア! イア!

 それは果たして、言葉であろうか。
 聞いたことも触れたこともない音と空気の流れ。ジェームズの肌が、ざわりぞわりと粟立っていく。彼がそれを、恐ろしい、おぞましい、いやらしい、不快だ、とはっきり心で感じるよりも先に、本能のようなものが警鐘を打ち鳴らしている。
 この祈りを、聞いてはならないのだ。
 誰に教えられたわけでもなく、ジェームズは知る。
 これは、触れてはならないものだ。
 壁一枚隔てた向こう側は、まさしく異世界。祈りの文句は、世界の壁をねじ曲げている。そして漂う悪臭は、いっそう強くなってきた。むせかえりそうになる悪臭だ。46億年の昔、はじめに海の底に堆積した土が、掘り返されているかのようだ。ねっとりとした泥が盛り上がり、その下から何かが顔を出す。その目、その目、その目、その言葉。
 ジェームズは依頼人の事務所に戻った。『交渉』をするために。


「調べたところ、お隣には9名がお住まいのようです」
「はあ」
「そういうわけで、あなたがお引っ越しされたほうが効率がよいのでは、という結論に至りました」
「はあ!?」
「周辺のお家にはどなたもお住まいではありませんからね。悪臭に悩まされているのはあなたお一人だけなんですよ」
「いやそれはそうですけど!」
「思うに、あなたの事務所がどうしてもこの場所になければならないという理由も特にありません。穏便に、『あなたの』問題を解決するには、『あなたが』お引っ越しするのが最善かと」
「そういうの、身も蓋もないって言うんじゃありませんか! ここはいいところなんですよ、家賃がほんとに安いんです! 周りも静かですし」
「しかしその分、都心までの交通費がかかっていませんか。それに東京にはここと同じくらい静かなところなどいくらでもあります」
「う……」
「では、こうしましょう。私が都心のよい物件を探します。そしてあなたのご希望の賃料で借りられるよう、不動産屋さんと交渉します」
「あ。そ、それいいですね。そうしましょう」
『交渉』は成立。ジェームズ・ブラックマンは顎を撫で、にいっと無言で微笑んだ。彼の手にかかれば、依頼人すらもこんなものだ。
「ああ、忘れるところでした。いただいたものは、口をつけずに処分されたほうがよろしいかと」
「はあ」
「食べていたらきっと、都心どころか、あの世へ引っ越すことになっていましたよ」


 見ていた、薄手のカーテンはわずかに開かれ、彼らは見ていた、祈りとともに。
 その大きな目、大きな口は、まるで魚と蛙のあいのこだ。海の臭いは彼らを包み、渦巻いていた。
 祈りの部屋からは、まるで地響きのような寝息が聞こえてくるようである――それは、彼らの祈りを子守唄にする、神の寝息らしい。
 そして彼らが見ている前で、事務所の引っ越しは終わった。

 彼らの土地になった。




〈了〉
PCシチュエーションノベル(シングル) -
モロクっち クリエイターズルームへ
東京怪談
2006年10月12日

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