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『突然のプリマ 前編 』
斎藤・智恵子4567)&(登場しない)

 夏休みに働いていた中華料理屋の二代目は本当にわがままな性格で、二学期が始まっても不意に電話をかけてきては人手が足りないのだと斎藤智恵子を招集する。人を気にしている時期ではないのに、慣れてしまった智恵子も智恵子だった。
 中華料理屋の店の中ではいつも、美しい弓の音が流れている。ずっとCDだと思っていたら、若の言うところによるとそういう曲ばかりを流す有線チャンネルがあるらしい。多様化の時代である。
 しかしその日、店に入ると有線は別のチャンネルに合わせられていた。いや、これこそCDだろうか。聞き覚えのある曲だと耳を澄ましながら丸いテーブルを順番に拭いていた智恵子だったが、いきなり顔を真っ赤にして立ちすくんだ。かけている細いメガネのつるまでもが染まっている気がした。
「これ・・・」
なにを隠そう、今度のコンクールで智恵子の踊る曲であった。一体どこで知ったのだろう、手に入れてきたのだろう。厨房を見ると杏仁豆腐を盛りつけていた若がにこにこと笑っていた。
「いい曲だよね、これ。眠くなるけど」
若はとても変わった性格の持ち主だが、やることに悪気が混じっていることは一度もなかった。曲をかけているのだって、まったく嫌がらせではないのだ。
「は・・・はあ・・・」
確かに、コンクールが近くなると智恵子はいつもお気に入りのラジカセでずっと課題曲を聞いている。けれどアルバイトの最中では、恥かしくてとても仕事にならない。
 とは思いつつも、人の親切に言葉を返すことはできない内気な智恵子なのであった。

 若は、これもやっぱりどこで仕入れてきたのかコンクールの日時会場まで厨房のカレンダーに書き込んでいた。
今度のコンクールは夏の発表会ほど大きな規模ではないけれど東京で開かれる。ちょうど体育祭のシーズンと重なるので、智恵子を含めた出場者たちは皆練習で怪我をしないよう気を配っていた。
 ただ智恵子は学校では、仲のいい友達と教師以外にはバレエのことを秘密にしていたから、リレーの練習などで本気を出して走らない智恵子にいい顔をしないクラスメイトもいた。それが心に辛く、一体どちらが大切なのかとたまに智恵子は自分の現状と夢とを天秤にかけてしまいたくなる。天秤はいつだって夢に傾くのだけれど、確かめてみたくなるのだ。
「智恵子ちゃん、頑張ってね」
みんなが智恵子の夢を励ましてくれる。言葉をかけてもらうたびに智恵子はありがとうございますと言ってその通りに、応援してくれる人たちのために頑張ろうと思う。
 バレエの先生は、それが智恵子の弱さなのだと指摘する。
「人のために踊っていては、いつまでも足踏みを続けてしまいますよ。斎藤さん、自分のために踊ろうとしてみなさい」
昔から教科書通りの踊りをすると言われてきた。誉め言葉でもあり、苦言でもある。型の外れたことがなかなかできない智恵子だった。魔法を使えるという、人と違った部分を一つ持っていると、その他の部分は敢えて同じであろうと意識してしまうのかもしれない。

 これだけは断言できた。智恵子は自分自身の意志で、好きだからこそバレエを続けているのだということ。ただそれが実感できているのは練習のとき、一人だけで時間を関係なくただ頭の中を音楽に満たして踊っているときだけ。発表の場になるとどうしても人の目が気になり、集団の中で合わせなければというのが先に立つ。
 しかも智恵子は、悲しいくらいに臆病で。実はコンクールの前、一人だけ呼び出されてこう誘われた。
「斎藤さん。あなた、この曲に挑戦してみませんか?」
「え・・・?」
実は智恵子は、数年前から一人だけで練習を続けている曲があった。小学生の頃見に行ったバレエの発表会でとあるプリマが踊っていた短いソロ。誰から習うわけでもなく、音楽とビデオと記憶だけで機を織るようにステップを重ねていた。先生は智恵子の練習を見ていて、それを今度のコンクールに発表させようと考えていたのだ。
「・・・・・・」
あのときの自分を思うと、今でも智恵子はため息が出る。どうして、怯えたのだろう。私にはまだ無理ですと、辞退してしまったのか。結局その曲は先生としては捨てがたかったらしく別の少女が踊ることになり、智恵子はいつものようにみんなと同じ無難な曲を選択してしまった。
 経緯を知らない人はいつものように智恵子へ頑張ってと声をかける。けれど智恵子が一度逃げ出しているのを知っていたら、本当に頑張っているのかと疑いたくなるはずだ。なにしろ、智恵子自身がそう考えているのだから。
「俺、バレエなんて見るの初めてだよ。緊張しちゃうなあ」
本当に緊張するのは踊っている人のほうなのにね、と若は屈託なく笑う。言うまでもなく、応援に来るつもりだった。来ないで、とは智恵子には言えなかった。

 コンクール当日、十八人の踊る生徒たちは七時半に駅へ集合することになっていた。几帳面な智恵子はいつも通り十五分前には到着して、目印の噴水の前に立っていた。五分くらい前になると残りの生徒たちも集まってきて、三人の先生の声に合わせて二列縦隊を取った。が、最後で一人余っている、いや足りない。
「十七人しかいないわね」
足りない一人を確かめると先生は携帯電話で連絡を取った。だが、出ないらしく今度は家にかけなおす。生徒たちは不安そうに顔を見合わせている。
「忘れ物でもしたんじゃない?」
誰かが言ったが、有り得なかった。衣装は前日にまとめてマイクロバスへ積んでいたし、必需品のトゥシューズを忘れるわけもない。
 心配になった生徒たちがざわついていると、別の先生の携帯電話が鳴った。受け答えをする先生の顔色が一言ごとに変わっていくのが智恵子にははっきりとわかった。不安が胸をかきたてる。
「はい・・・はい、わかりました」
電話を切った先生は、他の先生と智恵子たちを見回した。
「事故ですか?」
先生が口を開く前に不謹慎なことを言う生徒もいた。縁起でもありませんとその子を軽く睨んでから
「今朝、急性盲腸炎で病院へ運ばれたそうです。幸い手術の必要はないらしいのですが、一週間は入院する予定になるそうです」
もちろん、今日のコンクールも無理に決まっている。今回のコンクールに向けて好調を維持していた彼女の踊りは勿体なかったが、仕方のないことと少女たちは顔を見合わせていた。そんな中智恵子は、先生が自分のことを見つめているのに気づいた。
「斎藤さん」
「はい?」
返事をしてから気づいた。智恵子が尻込みした曲を、入院してしまった少女が踊ることになっていた。他に曲を知っている生徒はいなかった。彼女と自分とは、背も体型も同じくらいだった。
「・・・・・・」
地面に大きな輪を描いて、条件を出すたびにその径を狭められていくような心地がした。先生はあの曲をどうしてもコンクールに使いたいらしく、あなたしかいませんよと目で静かに命じていた。

 その後のことを、智恵子はほとんど覚えていない。マイクロバスに乗り込み、会場へ着いて踊ったはずだけれど、いや本当に踊ったのかそしてなにを踊ったのか。うっすら覚えているのは友達の白いうなじやトゥシューズの感覚。
「それから」
眩しいくせに透明な舞台の照明。家に戻った智恵子は何度瞼を閉じても、あの照明の色が忘れられなかった。
 そしてコンクールから四日後、また唐突に中華料理店の若から電話がかかってきた。けれど今度は人手が足りないのだという救難信号ではなかった。
「コンクールのビデオ、一緒に見ようよ」
のほほんとした声で、上映会のお誘いがかかった。
PCシチュエーションノベル(シングル) -
明神公平 クリエイターズルームへ
東京怪談
2006年10月10日

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