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『水月の伴を想ふ 』
藤宮・永6638)&(登場しない)



 真昼に鳴く蝉の声は、夜になると何処へ消えてしまうのだろう――。
 夜半も過ぎた頃。自宅の一室で、藤宮永(ふじみや・えい)は窓からのぞく景色を眺めながら、そんなことを考えていた。
 動植物が忙しなく楽を奏でる昼間とは異なり、夏の夜は次第に迫り来る秋を思わせて、柄にもなく物寂しさを感じてしまう。見上げれば静謐な月が凪いだ青を湛えて下界を照らし、その下では、既に秋に属する虫達が涼しげな声を響かせている。
 その声を聴きながら、永は八月の盛りを過ぎた寥々たる風に身を任せていたのだが。ふと、文机に置かれた大仰な台紙が目に入ると、微かな不機嫌の色をその黒の瞳に宿した。
「全く……人の気持ちもよう知らんと、押し付けがましいっちゅーねん」
 粗略、と言えば聞こえは悪いが、永はやや乱暴にそれを手に取ると無造作に中を開く。そこには薄い半紙で保護された写真が収められており、上質の着物を着て品良く微笑んでいる一人の歳若い女性が映っている。――俗に言う、お見合い写真だ。
 永は台紙の中で微笑む女性に別段興味を示す風もなく、何故こんな事になったのだろう? と、軽い溜息を零しながら、今朝あった出来事を思い出していた。


*


 祖父、父ともに高名な書家であり、己も同じ道を歩んでいる永は、個人的な活動の他に一般向けの書道教室の指導も行っていた。
 永が直々に書の指導を行っていると聞きつけて、遠い道のりをわざわざ電車を乗り継いで通ってくる書家の卵も少なくない。さらに土曜ともなれば、そういった人々に紛れて社会人や学生の姿も見えるのだが。やはり平日昼間の教室ともなると、生涯学習と称してやってくるご婦人方が、席の大半を占めていた。

 永自身、それが悪い事だとは決して思わない。むしろ機械に頼り過ぎ、文字本来の美しさが損なわれてゆく昨今。生涯学習であろうと書家を志す者であろうと、日本古来からの伝統を受け継ぐ者達が居てくれるのは非常に喜ばしい事である。
――だが。
 流石の永も、己より倍近い歳月を生きているおば様方の強靭なパワーに勝つには、どう足掻いても人生経験が足りなかった。


 正午までの部を終えて、永が道具を片づけていた時の事である。
「藤宮先生には、お付き合いをなさっている方がいらっしゃるのかしら?」
 初老の婦人が、そそとした態度で近づいてくると、満面の笑みを湛えておもむろにそんな事を聞いてきた。
 永はその問いに、やんわりとした笑顔を浮かべて首を横に振る。
「残念ながら、今のところそういった方はおりませんよ」
「あらあら。でしたら私のお知り合いの娘さんで、先生にとってもお似合いの方がいらっしゃるのよ。如何かしら」
 永の言葉に「待っていました♪」とばかりに初老の婦人は目を輝かせるのだが、「いかがかしら?」と問われたところで永にその気は全く無い。さてどのように断りの言葉を告げようか、と口を開きかけたその時。
「まぁあっ、藤宮先生にご縁談?」
 永と婦人の会話を小耳に挟んだ別の女性が、教室中に響き渡るような黄色い声をあげて近づいて来た。その声に、教室に居た他の女性全員が、興味津々と言わんばかりに顔をあげる。
「実はね、写真も持って来ているんですよ。お歳もお家柄もつり合っていて、美人でとっても気の利く優しい子ですのよ? きっと先生のお気に召すと思うの」
 縁談の仲立ちが出来るかもしれないと、それはもう嬉々とした笑顔で、婦人は既に準備していた見合い写真を開かぬまま永へと差し出す。
「……参りましたね。私は書家としてもまだまだ学ぶ事が沢山ありますし、今すぐ伴侶を、とは思っておりませんから」
 女性というものは、色恋沙汰の話になると何故こうも盛り上がれるのか。いつの間に出来たのだろう、自分と婦人を取り囲む女性達の輪に気圧されながらも、永は笑顔を絶やす事無く、己に差し出された写真を右手で押しとどめてやんわりと断りを入れる。
 と、すかさず別の女性が口を挟んだ。
「またそんな事をおっしゃって! お仕事大事は男の方にとっては良い心がけですけれど、それを支える奥様が居ても不思議ではない御年齢ですし!」
「そうですよ先生。一度お会いになって話をされたら、案外意気投合してしまう事だってあるんですから」
 実は私もお見合い結婚だったのよ、と口元を押さえて微笑む女性の話に、他の生徒が数名飛び付いて、一角では既に別の話が展開されている。
 話がぽんぽん他の方向に流れ、それに平然と調子を合わせていけるのは、女性の神秘の一つだと、永は常々思う。

「あらっ、可愛らしくて清楚なお嬢さんですこと」
 その声にふと視線を戻せば、婦人が自分で持ってきたお見合い写真を開いて、他のおば様方と観賞していた。
「先生にはいつもお世話になっていますし、結婚なんて事になったら教室一同から是非祝辞を贈らせていただきたいですわねぇ、皆さん♪」
「ほら! 藤宮先生もご覧になって下さいな」
「…………」
 人の言葉を思い切り無視しくさって、勝手に色めき立っているおばさま連中をどうしてくれようかと腹の中で思い巡らしはするけれど、鉄壁スマイルは決して崩さずに、永は一旦押し黙った。
 ノリにのっているおば様連中に、今また自分が断りを入れれば、再び非難の嵐に巻きこまれて、一向に自宅へ帰れないような気がしたからだ。
「……先生? どうかなさいました?」
「いいえ、なんでもありませんよ。大変申し訳ありませんが、所用がありますので私はこれで失礼致しますね」
 このお話は日を改めて。と、謝罪の言葉と穏やかな笑顔をおば様達へ向けると、永は道具を丁寧に仕舞って、さっさと教室を後にした。
 但し、無理矢理お見合い写真を持たされて――。


*


「伴侶ねぇ……」
 思い出すだけでどっと疲れが湧き出てくるのを、永は深い溜息で落ち着かせながら、独り言のように呟いた。
 書家としてまだまだ学ぶべきことが沢山ある――。昼間おば様方に告げた言葉は、その場凌ぎで告げた偽りではい。かといって、まだその気がないだけで、永自身結婚というものに全く興味が無い訳でもなかった。

 鴛鴦、麒麟、翡翠、鳳凰……生まれながらに名に伴侶を定められた存在がある。
 何故、雄雌二つの字面を併せて一固体の名を形成させるのか――。
 幼少の時分、ふとそれに気づいて不思議に思った事があった。
「人」に字音の「半」を伴って出来た会意文字は、人の良き半分、友を意味する。

――では伴侶なき今の自分は、半身の欠けた存在なのだろうか?

 人を愛し、愛され、家庭を築いていくということ。それはとてつもない労力を要する事のように思える。
 両親のように、その労さえも厭わぬ程、互いにとって必要不可欠な存在に巡り会い、その人物と伴って歩いて行く日が、自分にもいつか来るのだろうか。
 思い、押し付けられた見合い写真を放り出すと、永はおもむろに文机に置かれた硯に向かって筆に墨を含ませた。
 己の半身が居るのであれば、「伴」の字を具象化して相手の顔を見てみたいと、永の心に微かな好奇心が生まれたのだ。
 だが、半紙に墨を置く直前で動きを止めると、やがて永は苦笑しながら筆を硯へと戻した。
「何しとんねん、自分」
 文字を具象化して、万が一にも己の未来の伴侶が映し出されたら、いずれ出会う時の楽しみが無くなってしまう。

 もし己にも伴が居るのだとすれば、相手は相当手強い人物なのだろう。何せ、自分の相手を出来る人物なのだから。
 水に映る月影のように、今はまだ巡り会えず、手に触れる事も叶わない伴を想い、永は瞳を閉じて誰にも見せた事のないような優しい笑顔を浮かべた。
「……まぁ、焦らんと気長にな」
 おば様達に見合いを断る言い訳を考えるのは明日でもいいかと、そんな事を思いながら、永はのんびりと呟いた。



<了>

PCシチュエーションノベル(シングル) -
綾塚るい クリエイターズルームへ
東京怪談
2006年08月28日

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