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『色取月の≪藍≫は清けし。 』
烏丸・織6390)&(登場しない)


 ひとの感覚というものは、どこまでを「実像」として認識しているのだろう。
 当たり前と思っていたことが、ひとつとして「当たり前ではなかった」と知った時、世界は全く違うものに変容してしまった。
 急速に香りと色彩を失っていく生活。
 全てを失ってから、妻がいかに日常の中に彩りを添えてくれていたかを思い知った。
「そういえば……家から花が絶えたこと、なかったな……」
 誰もいない家に、ひとり。
 色も香りも絶えた家の中で、男はぼんやりと、藍色の花を手に佇んでいた。





 九月に入ったある日のこと。
 織は以前より縁のあるギャラリーから、「ちょっと頼まれてくれないか」と声をかけられた。
 今月行う展示イベントの、店内ディスプレイを担当して欲しいというのだ。
「実際の『いけばな』ではなく、『いけばなのスナップ写真』の展示会、ですか」
「そうなんです」
 早々にギャラリーを訪れた織に、ギャラリーのマスターは「ちょっと変わってるでしょう」と、笑いかける。
「写真を撮っているのはアマチュアの男性作家さんで、亡くなった奥さんのいけばなを撮影しているんだそうです。ご自身も最近いけばなを習い始めたそうなんですが、個展を開くのが奥さんの夢だったらしくて。旦那さん、写真ででも夢を叶えてあげたいって言ってましてね」
 織は展示予定だというパネルの一枚を見つめる。
 パネルには深い藍色の花をメインに生けた、清楚な花鉢が捉えられていた。
 アマチュアの写真と言うが、なかなかどうして、素朴な味わいのある一枚に仕上がっている。
「その作家さん、今日はこちらにいらっしゃっていないんですか?」
 展示イベントを前にした作家なら、ギャラリーに直接足を運んでいることも多い。
 今回は急な声かけとあって、準備期間があまりなかった。
 できれば今すぐにでも作家に会って、ディスプレイのイメージを相談したい
「それがその作家さん、パネルの搬入だけ済ませて、あとは全部任せるって言うんですよ」
 展示関係は全くわからないから、良いようにしてくれ、と。
「……その方と連絡を取ることはできますか? できれば、直接会ってお話をしたいんです」
「そりゃそうでしょう。ええと……今日はお時間大丈夫ですか? 少し待っていてください。すぐ連絡を取ってみます」
 マスターは足早に事務所へ戻ると、作家へ連絡の電話を入れた。
 電話はすぐに繋がり、織の都合さえ良ければ今日にでも来てくれて構わない、とのことだった。
「ありがとうございます。すぐにでも向かってみます」
 織はマスターに聞いた作家の住所を控え、単身、作家の家へ向かうことにした。



「ああ、あなたが烏丸さんですね。ようこそおいでくださいました」
 訪れた先で顔を出した男は、どこにでもいそうな地味な人物だった。
 表情の穏やかな男で、質素な身なりが品良く似合っている。
 すでに会社も定年退職し、今は年金生活をして暮らしているという。壮齢というだけあって、歳を経た落ち着きの感じられる人物だ。
 居間に通されると「男やもめでお恥ずかしい」と、盆の上のお茶を出しながら男が笑う。
 ギャラリーに顔を出さないというだけで人付き合いの苦手なのだろうかと想像していたが、そうではないらしい。
 聞いてみると「飾り付けとか、デザインなどの方面はサッパリなんです」、と申しわけなさそうに笑った。
 織は展示イメージのせめてもの参考にと、男の持ってきたいけばなのアルバムを眺め、それぞれのいけばなについて解説を聞いていった。
 鉢の置かれていた場所、そのころにあった出来事……。
 アルバムは五冊以上にも及び、最初のうちは奥さんが自分で写真を撮っていたという。
 それをいつしか男性が撮影するようになり、奥さんが亡くなるまでの花鉢を全て撮影してきたらしい。
「ギャラリーのマスターには、あなたもいけばなを習っていると聞きました」
 織の問いに、男が頷く。
「葬式の日にね、竜胆を見たんです」
「……りんどう」
 「ええ、これです」と男が頷き返し、織が開いていたアルバムを指し示す。
 男が示したのは、釣り鐘の形状をした背の低い藍色の花だ。
「涙を隠すためにうつむいた時、足下にこの花が咲いていました。妻が居た時は全く気に留めことのなかった色が、その時ぱっと目に飛び込んできたんです」
 男はアルバムを眺めながら、静かに微笑む。
「写真を整理していて、妻が好んで飾っていたものと同じ花だと知りました。家の中から花が消えて、これまでいかに生活の中に花が溢れていたかということに気づいたんです」
 写真を見れば、男の言葉がなくとも妻の気遣いを感じとることができた。
 花鉢の置かれる場所に合わせた花の選び方、生け方。
 きっと亡くなった妻は、彩りや香りまで考慮して、家にいけばなを置いていたのだろう。
 じっと鑑賞するのではなくとも、せめて少しでも夫の疲れが紛れるよう、視界に入る微かな彩りが彼の心を癒すよう――。
「妻の夢を叶えてやりたいと思いギャラリーにお願いはしたものの、展示物の見せ方については、どうにも知識が足りなくて……。今回はどうぞ、宜しくお願いします」
 男はしんみりとした空気を打ち払うように、改まって頭を下げた。
 織はかしこまらないでくださいと慌てる。
「奥様にご満足いただけるよう、私も精一杯ディスプレイさせていただきます。そこでひとつ、提案なのですが――」
 織は男に向かって微笑むと、すでに考え始めていたディスプレイの案を説明し始めた。

 ひととおり展示のアイデアを相談しあった後、仕事場に帰った織はすぐに準備に取りかかった。
 今回必要なのは、男の写真を「ひきたてる」ディスプレイではない。
 いけばなを「あるべき状態」に配することだ。
「あのお宅を訪れたのは正解でした。おかげで、奥様にも彼にも、良い贈り物ができそうです……」
 綾はひとり微笑むと、その日のうちに展示構成をまとめあげ、パーティション代わりに使うタペストリーと、染めに使う材料調達や小物の手配を始めた。



 そして、展示イベント当日。
 織は朝早くからギャラリーに入り、数日前から手がけていたディスプレイの仕上げを行っていた。
 パネルの順番、タペストリーの配置、照明、小物の演出。
 そのどれもが織のイメージ通りに間違いなく完成されていることを確認する。
 ギャラリーの入り口に戻ると、本日の主役とも言うべき作家――先日会いに行った男が姿を現したところだった。
 織の姿を認め、男が頭を下げる。
「おはようございます、烏丸さん」
「おはようございます。ちょうど良かった。今最終チェックが終わったところなんです。ぜひ、あなたに一番に見ていただきたくて」
 織は男を連れて会場に向かうと、うながすように入り口を示す。
「決められた順路はありません。どうぞあなたの思うままに、歩いてみてください」
 私はここでお待ちしていますからと、その背中に声をかける。
 織の言葉にいぶかりながらも、男は納得したようだった。
「では、拝見してきます」
 ぺこりと頭を下げると、男はそのまま入り口に向かっていった。

 自分の撮影したパネルを「拝見する」と言うのもおかしな話だと思いつつ、男は目の前の展示会場を見渡していた。
 展示は藍色のタペストリーでいくつかの空間に分けられていたが、とりあえず、一番最初のパネルへの道はひとつしかないようだった。
 タペストリーの道に沿うよう歩み、最初に置かれていたパネルは小振りの花鉢を撮影したものだった。
 派手さには欠けるが、いけばなを知らないひとが最初に目にする作品としては、身近な雰囲気があって良いのかもしれない。
 男はそのまま先に進む。
 藍色のタペストリーは、まっすぐに進む道と、左に折れる道に分かれていた。
「左は個室のようになっているのか」
 男は左の道を選び、タペストリーによって区切られた空間を目に感嘆する。
 そこは入り口にあったものより、幾分濃いめに染められたタペストリーが三方を囲っていた。
 こうしてみると、パーティションを使わずとも、きちんとした小さな個室に見える。
 照明は暗めに落とされ、そこにパネルがいくつも飾られていた。
 パネルの下には、それぞれ本が置かれている。
「これは……。あの日私が烏丸さんにお貸しした本じゃないか」
 男の家を訪れた日、織は花鉢の置かれていた場所を実際に確かめたいと、家の中を見て回っていた。
 書斎を見たときに偶然いけばな関係の本を見かけ、花について勉強したいからと、いくつか本を貸し出したのだ。
 それが、このように使われているとは。
 良く見ると、本は撮影された花について解説されているページが開かれているようだ。
 スタンドライトによって照らされたそれは、書斎で本を見ている感覚に陥る。
「書斎で……。まさか」
 勘の悪い男にも、しだいに織の意図していることがわかりはじめていた。
 男は個室を後にし、次に広い個室へと向かう。
 今度は本の置いてあった所とは違い、淡いめに染め上げられた、一見秋空を思わせる風合いの鮮やかなタペストリーが三方を囲っている。
 全体が明るい照明で演出され、タペストリー越しに陽光を思わせる光が当てられていた。
 飾られたパネルに映されていたのは大振りの作品や大輪のいけばなが多く、そのどれもが、男が家の居間で見かけたものばかりだ。
 抱いていた確信を強め、男はあわてて個室を出る。
 続くタペストリーの道には、点々と距離をとって作品が置かれていた。
 合間合間に小さな台座が置かれ、その上にはフォトフレームに飾られたいけばなの写真が飾られている。
 それはパネルにしてあるような見映えのする作品ではなく、妻が初期に作っていた無骨な作品や、素人写真とわかるようなピンボケしたものばかりが並べられている。
 一度失敗した作品をフォトフレームに。後日再挑戦した鉢をパネルにして飾り、妻の上達ぶりを伺えるよう構成されたものもあった。
「……これも……。あの日烏丸さんにお話ししたから……」
 男はフォトフレームを手に、じっと写真を見つめ呟く。
 今朝も世界は色褪せていた。
 妻を失ってから、色彩は全て抜け落ちてしまっていた。
 いけばなを始めてみたものの、妻と過ごした日々に見た彩りが戻ってくることはなかった。
――それなのに。
 男の目に、会場の色彩が強く、色濃く、鮮やかに映り始めていた。
 男の家を模した間取りは、全て竜胆色の濃淡で染められたタペストリーで演出されている。
 今ではその色彩までもが、作品の一部のようだ。
 男は先を急いだ。
 通路の最奥にある作品で、展示は最後のようだった。
 奥へ進むにつれ、ふんわりと花の香りが漂ってくる。
 男はその先に置かれた小さな花鉢を認め、足を止める。
 竜胆をメインに、秋の野草を添えたそれは間違えようもない。
 あの日、織によって提案された、「妻への花束」だった。
 手習い始めたばかりで、まだまだ展示できるような作品など作れないからと、とまどう男を織が説得したのだ。
 「奥様への花束にしましょう」、と。
 会場内で唯一「本物の」いけばなは、完成度こそパネルの鉢に劣るとはいえ、他にはない心地良い香りを放っていた。
 竜胆をメインに、秋の野草を集めたささやかな花鉢。
 手習い始めたばかりの、まだつたない作品。
 妻への想いと感謝を込めた、優しさに満ちた作品。
 ああ、そうだ。
 彩りは常に彼の傍にあった。
 色彩や香りが、常に彼を癒してくれていた。
 玄関、書斎、居間、廊下。
 花は作品としてではなく、亡き妻の、日常を彩る心遣いそのままに飾られていた。
 男の撮ったいけばなの写真は、全て彼の家になぞらえて配置されていたのだ。
「……いかがでしたか?」
 入り口に立っていた織の姿を認め、男は穏やかに微笑んだ。
 彼の記憶そのままに、花は会場全てに咲き誇っている。
「お見事です……。本当に、素晴らしい作品でした。ありがとうございます」
 頭を下げた男の目に、藍色のタペストリーが映る。
 その藍は葬式の日に見た色とは違い、どこまでも青く澄んでいる。
 男は自分の世界に彩りの戻ったことを改めて実感し、じわりと霞む視界に、喜びを噛みしめていた。





 あの展示イベントいらい、廊下の突き当たりには、いつも小さな花鉢を置くようにしている。
 もちろん、ひとつの作品として、きちんと花を生けて。
 妻の作品にはまだ叶わないが、そんなことは一向に構いやしない。
 家の中に色彩があることで、浮かび上がる想い出がある。
 ただよう香りに、心癒されることがある。
 無くした物や失った者は帰らないけれど、記憶も想いも、彼の心の中で色褪せず咲き続けている。
 それを見失わないために、今日も野草を取りに出かける。
 彼の過ごす日々に、鮮やかな色を添えるために。
 今、妻のいる場所にも、彩りと香りがあることを願いながら。





 了




PCシチュエーションノベル(シングル) -
西尾遊戯 クリエイターズルームへ
東京怪談
2006年08月21日

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