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『Coma Tar 』
都築・秋成3228)&(登場しない)



 無数の虫たちの声は重なり、ひとつの得体の知れない蟲の鳴き声のようだ。合唱には聞こえない。聞こえる夜もあるというのに。寝苦しいこの夜は、蟲の歌声さえ不愉快で、不気味で、不可思議だ。この世のものではないような気さえしてくる。
 彼はその、謎の歌声を聴きながら眠りに落ちていた。なかなか寝つけない夜に、ようやく眠りを勝ち取ったのだ――しかし、ブラインドの隙間から入り込む蟲の声と、不安な夜の月光と、朝からつづく湿気と暑さは、彼に奇怪な夢をもたらす。
 その黒い夢は都築秋成にとって、『悪夢』であった。


 * * *


 光を感じる。
 目隠しをされているのに、白い光が自分を切り刻もうとしているのがわかる。それは、この漆黒の、ぬめる闇のせいなのか。闇を切り裂く白々とした光が、あまりにも頼りないものであるためか。彼が進む闇は生温かく、母親の子宮の中を思わせる。そしてこの温もりに包まれ、彼は悪寒を抱いて鳥肌を立てていた。
 矛盾、矛盾だ、理不尽だ。夢の中には現実における常識が何ひとつ通用しない。この不条理を訝る感覚さえ奪われてしまう。

 都築秋成は、都築秋成の姿を見つめた。
 黒い式服。黒い布の目隠し。彼は漆黒の中を声も上げずにさまよっている。そのうち、白い月光は消えた。否、月光が黒く染まっただけだった。黒い月の光は、黒い秋成を黒く照らし、ねばつく闇を照らしていた。
 視界は黒でさえぎられているはずだが、彼は進んでいる。彼の足が一歩前に踏み出すたびに、陰鬱な音がした。
 ぐちょり、どちゅり、ずむ、ずむ、がほ、づぷん。
 ここは沼地なのかもしれない。進むたび、足は泥に食らいつかれる。初めは足首が埋まるほどだったはずの深さの泥は、いつしか秋成の太ももまで喰らおうとしていた。
 人は膝から上まで砂や泥に埋まってしまうと、身動きが取れなくなると言うが――秋成は進んでいる。目隠しをされた顔を、能面のように凍りつかせたまま。
 コココココ、と何かが鳴いた。夜鷹か、蛙か。それとも蛇か。熊だろうか、鹿だろうか。コココココ。声はどこまでも透明で、何の感情も見当たらない。コココココ、と鳴く生物は、秋成にその姿を見せぬまま、沼の中に飛び込んだ。ゴゴゴゴゴ。かれは沼の中でも鳴いている。沈みながら鳴いている。そのうち声は、鈍い音とともに途切れた。泥に締めつけられ、骨か何かが砕けたらしい。
 秋成は進む。秋成は進むのだった。それしかない。彼は進むことだけしか許されていないのだ。

 ゆっ    くり  と、秋成が進む先の泥が隆起する。
 何かが鎌首をもたげ、泥をしたたらせながら、秋成を見下ろした。
 龍。
 ちがう、蛇か。

 黒い泥まみれの蛇は、まばたきもせずに秋成を見つめている。閉じたままの口から、二股に分かれた舌を出し入れし、しゅうしゅうと息をついていた。巨大な蛇だ。想像上の龍ほどもある。
 この『声』を、聞いたことがあるのだ。秋成はそこで初めて足を止めた。泥には底がないようだった――歩みを止めた秋成の身体は、静かに、のろのろと、沈んでいく。
 蛇は黙って、しゅうしゅうと囁きながら、沈んでいく秋成を見つめるばかりだ。
 その囁きには、ひどくかすかに、言葉が混じっているらしい。何を言っているのかはわからない。所詮、蛇の言葉だ。
 しかしかれは、言っている。
 力をくれてやろう、と。
 おまえはすでに力を持っているのだ、とも。
 蛇がゆっくりと口を開けた。眠るように倒れていた牙が立ち、黒い泥と涎が糸を引く。秋成は手を伸ばし、その、開いた顎にすがりついた。下顎の牙を掴み、泥に手をついて、沈んでいく下半身を黒い泥の中から引きずり出す。蛇の上顎の牙から、泥でも涎でもない液体が滴り落ちていた。秋成の腕に、墨汁のようなかがやきの液体が降りかかる。
 見える……、蛇の喉の奥にあるものが。
 目隠しをしていても、秋成には『見える』。なぜなら、『目』があるからだ。
 黒い液体でしとど濡れた腕を、秋成は蛇の喉の奥まで伸ばす。蛇が飲み込みかけていたものを、掴んで引っ張る。
 藻だろうか。奇妙な感触が、秋成の手に伝わってくる。濡れた糸、濡れた毛の塊のようだ。毎日触れているもののような気がする。そうだ、髪だ。髪を洗ったことがある人間ならば誰でも知っている感触だろうに、それを掴んだその瞬間、まるで未知のものに触れたような気がした。
 髪の束をしっかりと掴み直し、力を込めて引いた。
 ばきぼき、ずるり――蛇が嗤う。
 秋成が蛇の喉から助け出せたのは、首だけだった。見覚えのある、忘れるはずもない顔が、うつろな目で秋成を見つめた。秋成は首を取り落とし、まるで蛇に自らの身体を餌として捧げるかのような勢いで、あぎとの中に身を乗り出した。蛇は口を閉ざしもせず、しゅうしゅうと囁きながら、待っている。大きく開いた口の端は、まるで笑っているかのようだ。爬虫類の顎のつくりが、笑みをかたどっているように見えるだけか。蛇はしかし、間違いなく笑っている。
 秋成は精一杯に腕を伸ばし、喉に引っかかっている塊を引きずり出そうとした。助け出そうとした。首をなくした人間の骸を、蛇の毒と消化液から救おうと。
 しかし、ゆっくりと骸は溶けていく。秋成の腕も、身体も、肉はすでに真っ黒に染まり、まるで腐汁のように黒い糸を引いて、蛇の喉の奥に流れ落ちていく。溶けている。身体は少しずつ溶けて、秋成は蛇のものになっていく。
 秋成が掴んだ首のない死骸は、彼の手の中でくしゃりと容易く砕けてしまった。野鳥の卵のような脆さだ。蛇は卵の中身をすすり、呑みこんでいく。
 秋成は呻き声にも似た叫び声を上げ、蛇の喉の奥へと腕を伸ばす。腕の肉はすでに溶け落ち、黒い肉汁が絡みつく骨だけになっていた。
 あああああ、あああああ。声は空井戸めがけて落ちていくようだ。いびつな響きとうつろな感情が、何もない闇の中へと落ちていく。秋成は嗚咽を漏らしながら、蛇の喉をかきむしった。黒い血と涎が飛び散った。しかし蛇は、身じろぎもしない。
 見れば秋成の腕には肉が戻り、漆黒の鱗に覆われていた。指は、蛇が進化の果てに失った、爬虫類のものであった。黒い、長い爪は、三日月のように湾曲している。秋成が蛇の喉を掻けば、その爪は蛇の黒い肉を削り取っていた。
 おおおおお! おおおおお。力をこめると、蛇の喉とあぎとは布のように裂けた。下顎を失った蛇の口中から、秋成は落ちる。落ちる一瞬、彼は蛇の血が温かい真紅であったことに気づいた。まるで人の血だ。腕にまとわりつくこの温かい血は、間違いなく人のもの。秋成は、人の血がどれほど温かいか、知っているのだ。なぜなら、その腕に、生きている人間の血を浴びたことがあるから。
「赦してください」
「いいや、おまえは悪くない。なぜなら、力を望んだおまえが正しいからだ」
 泥は泡立っていた。人肌の熱を帯びている。秋成は泥の中に落ちた。彼の身体は、彼の重みによって沈められていく。泥は秋成を優しく包み、締めつけ、一本一本じっくりと、骨を折っていくのだった。
 意識が薄れる。痛みは感じない。何も感じない――喜びも、哀しみも。
 骨という骨が砕け、足と腕は動かない。そうだ、この感覚は、蛇だ。首だけが動く。蛇なのだ。手も足も動かさずにすむということが、これほど気楽だったとは。
「でも……ちがう。俺は……人間だから……」
 手を伸ばせば捕まえられそうなところで、月が揺れていた。千切りにされた月。
 月は黒い光を、放っている。切り刻まれた月の中に、都築秋成の姿があった。光に包まれた秋成は、満ち足りた笑みを浮かべていた。


 * * *


 目覚めてみると、時計はまだ午前3時を指していた。ブラインドの隙間から射し込む月光は、秋成の顔を千切りにしていた。シャツが肌に張り付いている。まるで水でもかぶったかのように、彼は寝汗をかいていた。床に入る直前まで、風邪の兆候など感じなかったから――、きっと、悪い夢を見たのだ。
 目は野生の獣のように冴えていて、しばらくは眠りにつけそうにない。
 秋成はため息をつき、顔の汗を拭いながら、ベッドを抜け出した。殺風景な部屋を横切り、冷蔵庫の発泡酒を取って、縁側に出る。
 風はなかった。気持ちの悪い夜だ。月だけが平然としている。
 あのように無心になれたらと、秋成はぼんやり、月を妬んだ。月にはなれない。
 ふと見つめた汗ばむ両手は、月の光を浴びて、ほの白い光を放っているように見えた。




〈了〉

PCシチュエーションノベル(シングル) -
モロクっち クリエイターズルームへ
東京怪談
2006年08月17日

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