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『月と蛍 』
城ヶ崎・由代2839)&高柳・月子(3822)&(登場しない)

「おや」
 城ヶ崎由代はふと足を止めた。
 視界の隅を1つ、2つ、光るものがふわりと浮いていくのに気づいたのだ。それは、由代が見ている間に、ふ、と木々の間にまぎれて見えなくなってしまった。
「……蛍?」
 由代は軽く首を傾げた。
 自宅からほど近いこの自然公園は、軽い起伏のついた森の中に何本かの遊歩道を伸ばし、ハイキングや自然観察ができるようにしただけのもので、レジャー施設などが併設されていないせいか、あまりにぎわうことはない。その静けさが気に入って、何度となく散策に訪れている由代だが、今まで蛍など一度も見たことがなかったし、蛍が見られるという話も聞いたことがなかった。
 それでも、かなり広い敷地を持つこの公園のこと、由代とて全コースを隅々まで踏破しているわけでもなく、ひょっとしたら蛍の棲むような地形もあるのかもしれない。
 些細なことでも興味を覚えたなら、調べずにはおかないのが由代の性。帰ったらさっそく資料をあたってみようと心に決めて、由代は散策を続けた。

「でね、公園のパンフレットや出発物だとか、全国蛍観察マップだとかを見てみても、あの公園で蛍が捕獲された記録はないんだよ」
「まあ」
 由代が軽く手を広げて話せば、高柳月子が軽く口元を綻ばせた。凛と切りそろえられた前髪の下で、好奇心の光を浮かべた茶色の瞳がまっすぐに由代を見つめる。
 蛍を見てから2日後、休日のランチタイム。
 月子の手料理を堪能して一息ついた後、由代は早速先日の蛍の話を切り出したのだ。和風情緒をよく解する月子は、由代の期待を裏切ることなく、目を輝かせた。
「たった一回だけなら、僕だって見間違いかもしれないと思うだろうさ。でもね。」
 由代は一度言葉を切った。目元に軽い笑みを浮かべて、月子の瞳を覗き込む。茶色の瞳は軽くつり上がって、由代に続きを促した。
「昨日も見たんだよ、蛍みたいなのがふわふわ飛んでいるのを」
「あたしも見てみたかったわ」
 由代の言葉に、月子は心底残念そうに溜息をついた。
「そこでだ。どうだろう、今日、夕涼みを兼ねて蛍を探しに行くというのは?」
 そう由代が提案すると、月子も一も二もなく頷いた。
「さすがにこのままじゃ、自然公園は歩けないわね。着替えてくるわ」
 いつも通りの和装の襟元を軽くつまんで月子は笑う。それは、一輪の花のような笑顔だった。

 日中はきつい日差しも、少し傾けば途端に穏やかなものに変わる。木々の間を抜ける風は思いのほか涼しかった。
「いい風。うちわ、いらなかったかしら?」
 車から降り立って、月子は軽く首を傾げた。昼間の和装とは打って変わって、その身をキャミソールワンピースに包み、薄手のカーディガンを羽織っている。艶やかな黒髪は涼やかに結い上げられていた。
 ちょっとしたしぐさのせいか、洋装に身を包んでいても、やはり月子にはどことなく和の風情が漂う。何を着ていても、和装美人はやはり和装美人なのだ。
「いいじゃないか。風流で」
 こちらはシンプルなシャツとズボンという出で立ちで、由代は軽く笑う。
「さて、ご案内しようか、蛍の出たところへ」
 もともとさして人出の多くない自然公園だが、由代が昨日一昨日と歩いたコースは、特にこれといった見所もないためか、すれ違う人もいない。そんな誰も来ないようなところに、ひょっとしたら2人だけが知っている蛍のすみかがあるのかもしれない、そう思うと自然、2人の心は浮き立った。
「ねえ、由代」
 うちわを軽く胸元に当て、月子が口を開いた。
 それが愛しい者の唇から紡がれるからこそ。
 よけいな敬称を取り払った自らの名は、どんな楽聖の奏でる旋律よりも、細やかに胸に響く。
「何だい、月子」
 そして、それが愛しい者の名だからこそ。
 それは、どんなに洗練された魔術の術式よりも、口にする時に心が踊る。
「もし由代が見たのが蛍だとしたら、どこから来たのかしら?」
 月子の言わんとすることはすぐに知れた。この周辺にはそれらしい水辺が見当たらないのだ。
「そうだね……。実は気づいていないだけで、どこかに沢とか湧き水とかがあるのかもしれないな」
「うーん、そうか……」
「でも、まだ蛍と決まったわけではないよ」
「ううん、きっと蛍よ」
 蛍という虫には不思議と人の心を踊らせる何かがある。自ずと2人の口数も増えた。
「それでも、僕が子どもの頃はね、まだ蛍は見ようと思えば……って、月子はこういう話嫌かな?」
「どうして?」
「ほら、若い人って昔話なんか好まないだろう?」
 由代が頭をかきつつ言うと、月子はひどく大人びた所作でくすくすと笑った。
「由代の子どもの頃の話ならいくらでも聞きたいわ」
「そうかい? ……でもやっぱりやめておくよ。なんだかひどく自分が年寄りになった気になってしまう」
「あら、残念」
「さて、ちょうどこの辺りかな、蛍を見かけたのは」
 そう言って、由代が足を止めた時だった。
「あ、あれ、見て、由代!」
 月子が声を上げた。
 その形の良い指の示す先には、ぽつんと小さな光が木の根元に灯っていた。
「蛍……だね」
 その正体を確かめて、由代が呟く。
「ね、やっぱり蛍だったじゃない」
 月子が浮き立つような声で言ったのとほぼ同時に、蛍がふわりと浮き上がった。
「追いかけてみましょうよ!」
 月子が早速その後を追う。
 蛍は、まるで2人がついてきているのを確認するかのように、ふわりと飛んでは草の葉にとまり、またゆっくりと飛び立った。
 それを数度繰り返した後、不意に蛍は遊歩道を逸れて山肌の方へと降りて行った。一瞬、由代と月子は顔を見合わせたが、それで追跡を断念する気はどちらにもなかった。
「月子、うちわは僕が持とう。足下に気をつけて」
 由代は月子の手をとると、慎重に木々の間に足を踏み入れた。乾いた枝が折れる音が、ぱきり、ぱきり、と軽快な音を立てる。月子が足を滑らせないように、と細心の注意を払いながらも、由代は目で蛍の行方を追った。
 蛍はまだ、近くの草の上にいる。と、それはふわりと浮かび上がって、消えてしまった。
「っと……、あれ? 蛍は?」
 しっかりと由代の手を握りながら、足場を確認した月子は、顔を上げて首を傾げた。
「消えてしまったように見えたけれど……」
 月子に返事を返し、由代は先ほど蛍が消えたあたりまで足を進めた。ゆっくりと周囲を見やる。
「おや」
 先ほどいた所からはちょうど死角、木の後ろ側にあたるところにそれを見つけて、由代は軽く首をひねった。
 空間にひびが入っているのだ。ちょうど、どうにかすれば人ひとり通れるくらいの太さの。そして、そのひびの向こうには、「こちら」とは違った景色が垣間見える。
「これは……、結界?」
 間違いなくここには、何者かの、おそらくは人外の者の意図がかかっている。けれど、悪意や敵意のようなものは感じられない。何よりも、蛍はこのひびの中に消えて行ったように思えるのだ。
「どうしたの?」
 すぐ側まで寄って来ていた月子が、少し心配げな色を浮かべて由代を見上げた。
「少し向こうにお邪魔してみるよ。危険な感じはしないけれど、月子は一応ここで待っていてくれるかい?」
 月子が不安がらないようにと微笑んでそう告げると、月子はゆっくりと頷いた。
「では……、扉がないのでノックなしで失礼。お邪魔するよ」
 由代は一応向こう側に声をかけると、ゆっくりと自分の身体を空間のひびに差し入れた。
 一歩足を踏み入れた途端、柔らかい風が由代の頬を撫で、何ともいえない匂いが鼻をくすぐった。
 夕日の匂い、水の匂い、草の匂い、土の匂い。そういったものが入り交じったそれは、日本人なら誰しもが胸の奥に持っているであろう、ふるさとを呼び起こす匂いだった。
「これは……」
 由代はしばし立ち尽くした。
 その耳に、ころころころ、と鈴を転がすようなカジカの声と、その合間にこんこんと水の湧き出る音が足下から響く。そして、その周りを日暮れを待ちきれない気の早い蛍の光が2つ、3つと舞っていた。
 湧き出た水は流れ出し、たまって小さな池となっているのだろう。少し向こうになると、葦がたくさん茂っているのが見える。その葉陰には、夕日を避けて大きなトンボが羽を休めていた。
 足下の流れの中を覗き込むと、小さなメダカが群れを作り、石の陰からは、サンショウウオがのっそりと姿を覗かせる。
 それは数十年前なら日本の片田舎のどこででも見られたような、そして、今となっては血眼になって探しても見られないような景色だった。
 由代は大きく息をついて、軽く目を閉じる。哀しさと、懐かしさは、かなり似ている。どちらも胸がきゅっと締め付けられるような感じがするのだ。
「由代? 大丈夫?」
 覚えず、その不思議な感傷に浸っていた由代を、月子の声が呼び戻した。
「ああ、大丈夫だよ、月子もおいで」
 由代は、再び月子の手をとり、こちら側に招き寄せる。
「まあ……!」
 月子もひとたびこちらの景色を目にすると、感嘆の息をもらしたまま、しばし立ち尽くした。
「……綺麗」
 その唇から漏れた言葉に、由代は軽く口元を綻ばせた。
 この、一見ただ手つかずの光景を見て、綺麗という言葉を口に出せるのは、ものごとの本質を感じることのできる人間だけだ。ここでは、全ての命が他の命によって生かされ、そして他の命の糧となってその生を終える。人の手によって歪められていない、流れるような生命の営みが、ここにはある。
 それを美しいと感じる心の持ち主だからこそ、このひとが側にいてくれるのが心地よいのだ。そう、由代は思う。
「月子、ここには神様がいるよ」
「神様?」
「天上の神じゃない、いわゆる八百万の神と呼ばれていた、そんな存在がね」
 それはかつて人がまだ自然と共に生きていた頃、常にその暮らしの側に在って、生命の営みを見守っていた者。そんな存在が護っているから、ここは自然そのままの姿を保っていられるのだ。
「蛍はここから来ていたのね……」
 月子は数を増し始めた蛍の光を眺めて呟く。
「でも、どうして外に出てきていたのかしら?」
「結界が、綻びているね……。ほら、僕たちが通ってきたところだよ」
「ねえ、由代。その結界、直してあげることはできないの?」
 不意に、月子は真顔になって由代を正面から見つめた。
「ここは、人の手で荒らされるべきところじゃないわ」
 その目に強い光を浮かべて切々と月子は訴える。
「同感だね。よし、結界を戻す手伝いをしようか」
 由代が言うと、月子は輝くような笑顔で頷いた。
「……というわけで、勝手ながら手伝わせてもらうよ」
 由代は池に向かって声をかけた。どこからともなく了承の意が伝わってくる。
「さてと、綻びた辺りに原因がありそうなんだが……」
 由代は、空間にひびが入っていたあたりを慎重に調べた。大した労もなくそれを見つける。
「あった。これが要石だな……。こいつが原因か」
 小さな注連縄をかけられたその石の面には、何らかの文様が刻まれていた。が、そこには何か白い汚れが詰まり、そのせいで文様が一部欠けてしまっている。
「誰かが上の遊歩道からアイスクリームでも投げ捨てたんだな……。それがたまたまここに落ちたと」
「心無い人がいたものね」
 由代が溜息をつくと、月子は憤然と眉をいからせた。

 2人は足早に車に戻ると、積んであったバケツと雑巾とを持ってきた。ここの神に断って湧き水を汲み、雑巾を絞る。由代がそれで石を磨こうとすると。
「あたしも手伝うわ」
 月子も雑巾を1枚手に取った。
「でも月子、服が汚れてしまうよ」
「構わないわよ」
 月子は軽く笑い飛ばすと、石を磨き始めた。由代も軽く笑い、手を動かす。
 2人で黙々と磨けば、あっという間に石は綺麗になった。空間のひびも細くなり、そして消えて行く。それを待っていたかのように夕日が沈んで、辺りを包む薄闇が、次第にその色を濃くしていった。
「向こうでは今頃、蛍がたくさん飛び交っているんでしょうね。真っ暗な中にきらきらと」
 もはや伺うこともできない、「向こう」を見やって月子は言う。
「そうだね。少しもったいないことをしたかな。見たかったろう?」
 由代が言うと、月子は笑って首を振った。
「直接見なくても、想像することはできるもの。それに……、あたしたちも『人』なんだし、あんまりお邪魔しちゃいけないわ」
「そうかい。それじゃあ、帰ろうか。暗いから足下に気をつけて」
「待って」
 再び手をとろうとした由代を、月子が引き止めた。そして、先ほどの空間に向かって手を合わせる。
「何してるんだい?」
「祈っているの。あの池がいつまでもこのままでありますようにって」
「それはいい。祈りを捧げるのはあの神様にとっても力になるだろうから」
 由代も笑って柏手を打つ。
 ふ、と柔らかな光が差して、まるで2人に帰り道を案内するかのように、その足下を照らした。
「月だわ。綺麗ね」
 月子の声に見上げれば、たくさんの蛍を集めたような大きな月が、静かに輝いていた。

<了>
PCシチュエーションノベル(ツイン) -
沙月亜衣 クリエイターズルームへ
東京怪談
2006年08月17日

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