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『志ある者は事竟に成る(『後漢書』より) 』
斎藤・智恵子4567)&(登場しない)

 夏休み。普段より遅い時間の町は、普段と違う顔をしている。開店間際の店のざわめきを通り抜けながら、斎藤智恵子は鞄の中から財布を探していた。今日の、バレエのレッスンは午後からなのだが一人で早目の練習をするつもりで家を出てきた。
 駅前に一軒の中華料理屋があった。いつも通り過ぎるだけの店で、今日もそうするつもりだったがショーウィンドウの張り紙が剥がれかけているのが気にかかり、立ち止まってしまった。指を伸ばし、セロテープをつまむ。
「やあ」
そこへいきなり、自動ドアが開いて男が顔を覗かせた。驚いた智恵子は思わず脇に挟んでいた鞄を取り落とす。それなのに、張り紙に触れていた手は動かなかった。
「君、暇?」
「え?あ、あの・・・」
「これお願い」
鞄を拾い上げる間もなく、智恵子は男からじょうろを渡される。まいて、という仕草に従って正面の道路へじょうろを傾ける。夏の陽射しに焼けたアスファルトから蒸気が上る、制服の白い背中にじわりと汗が滲む。
 智恵子の隣で男はてきぱきと開店準備を進めていた。ガラスを磨き、足拭きマットの埃を叩き、予約帳を載せた台を引っ張り出す。台を所定の位置にぴったりと並べておいて、ようやく終了だと伸びをする。それから智恵子のほうを見た。
「ありがとう」
「あ、いえ、別に・・・」
大したことはしていませんとじょうろを返そうとしたら、男はじょうろではなくそれを抱える智恵子の手を掴んだ。
「ついでにもう一つ、暇?」
男の指が張り紙を向いていた。眼鏡越しに追いかけると、紙には「アルバイト募集中」の文字。
「俺の得意な料理は水餃子で、好きなメニューは杏仁豆腐。酢豚はまだ半人前で、作らせてもらえない。ちなみに趣味は漫画を読むことで、ちょっとだけオタク」
「は、はい?」
「今から仕事仲間だ、よろしく」
「よ・・・よろしくお願いします」
ここまで自己紹介をされて、智恵子が断れるはずはなかった。

 男は実はこの店の二代目で、調理師学校へ通いながら店で働いているのだそうだ。店の中では「若」と呼ばれているのだが、実は智恵子には時々「ばか」に聞こえた。どうやら、からかって呼んでいる店員がいるらしい。
「で、これがお店のユニフォーム」
さっそく着てみせてとせがまれたのは青色のチャイナ服だった。子供の頃から店の中でチャイナ服に囲まれて育ったからオタクになったのかもねと男、若は笑っていた。冗談なのか本気なのか、よくわからない喋りかただった。
「髪の毛はお団子ね、それから・・・」
子供のように若は注文がうるさかった、おまけによく喋った。高校何年生、とか今日はどこへ行くつもりだったの、とか着替えた智恵子を質問攻めにした。智恵子は答えるのに精一杯、勢いについてゆくことばかり考え話していたら口が滑って、うっかりバレエのことまで話してしまった。学校でも、親しい人にしか教えたことはないのに。
 今年、バレエのコンクールは九州で開かれる。教室のみんなは新幹線で行こうか飛行機で行こうかと相談している。智恵子は新幹線にするつもりだった。
「飛行機にしたらいいじゃない。速いし、快適だよ」
けれど、飛行機はお金がかかる。バレエ教室の月謝を出してもらうだけでも両親には申し訳ないと感じているのに、そこまで甘えたくはなかった。
「なら、ここのアルバイト代でコンクールに行けば?自分で働いたお金なら、飛行機で行ってもいいだろ?」
君、アルバイトは初めて?そう聞かれてようやく智恵子は一息ついて、考えた。そして頷くという返事ができた。若の性格には慣れないけれど、その思いつきはとてもいい。アルバイトがバレエの足しになればどんなにいいだろう。
「よろしくお願いします」
「こちらこそ」
若は真面目な智恵子の性格にか、それともチャイナ服にかとにかくご機嫌で笑っていた。

 アルバイトは夏だけの臨時募集ということで、智恵子のほかにも何人か入ったばかりの大学生や高校生がいた。みんなをまとめていたのが二代目の若だった。のらりくらりとしていたが、人の扱いはうまかった。
「俺、怒るの苦手だから怒らせないでね」
と言うだけあって誰がどんな失敗をしても笑っているのだが、それだけに怒らせたらどうなるのかという好奇心が新入りたちの中に広がっていた。
 もちろん、智恵子はその中には含まれていない。仕事を覚えるのに手一杯で、人を怒らせるほどの余裕がなかった。働き始めて一週間になるのだが、いまだに蒸篭が運べない。ただの、水が入ったコップを運ぶだけでも手が震えてしまう。
「焦らなくてもいいよ」
と、言ってもらうのだが智恵子にとっては慰めにならない。かえって、華奢な胸が自己嫌悪に押し潰されるのだ。もっと練習しなければいけないと、自分に言い聞かせる。
 同じ時期に入ったアルバイトに一人、智恵子と同じくらい不器用な少女がいた。その日、彼女が調理場で皿を一枚割ってしまった。ガシャンという音が聞こえた瞬間、智恵子は自分が仕出かしてしまったような気がして背中がすっと冷たくなった。さらに、心無いアルバイトの一人が振るった言葉の暴力に、消えてしまいたくなった。
「あーあ、ほんっと役立たず」
思わず、胸の前でトレイを抱きしめる。皿を割ってしまった少女は、耐え切れずに泣いてしまっていた。大丈夫と言いたいのに口が動かない、どうしよう、少女の姿に自分が重なる。自分までトレイを落としてしまいそうになった、そのとき。
「クビ」
二代目の声だった。若は真っ直ぐに、少女を傷つけたアルバイトを睨みつけてその言葉を吐いていた。両の瞳が半目に据えられており、明らかに怒っていた。
「お前、クビね。俺を怒らせるなって言ったのに怒らせたんだから」
「な・・・」
アルバイトは反論しようとしたが、若に襟首を掴まれものを言う間も与えられず裏口から放り出されてしまった。続けて荷物と一週間分の給料とが叩きつけられ、終いには二度と敷居をまたぐなという意味の塩までまかれる。ここまでされて、それでも仕事を続けようという根性は、とりあえずそのアルバイトにはなかった。
 塩を調理場に戻した後、若はまたいつもの愛想よい笑顔に戻って割れた皿の破片を片付けはじめた。泣いていた少女が手伝おうとしたのだが
「危ないからいいよ」
と、一人で作業を続けた。
 若の背中を見ながら智恵子は、この人は「ばか」なんかじゃないと思った。とても優しい人なのだ。彼を怒らせるただ一つの方法は、誰かを傷つけることだった。
「泣いてる場合じゃない」
多分、今のままでは智恵子もクビを言い渡される。自己嫌悪で、自分のことを傷つけてばかりいるのだから。
「頑張らなくちゃ」

 夏休みの臨時アルバイトということで、智恵子のアルバイト代は週末払いだった。初めて稼いだお金は微々たる額だったが、続ければ飛行機代とコンクールの参加費くらい、なんとかなりそうだった。
「アルバイト代、もうちょっと上げてあげようか」
若が言うのだけれど、智恵子は首を横に振る。
「今のお金で、頑張って働きます」
「そうじゃなくってさあ」
「え?」
「アルバイト代を上げる代わりに、そのお金で俺もコンクールに連れて行ってよ」
智恵子ちゃんのコンクールが見たいなあとだだをこねる若。働いているときは真面目なのに、それ以外では本当に甘ったれている。クスリと智恵子は笑い、さて上げてもらおうかどうしようかと考えていた。
 そういえばその日、智恵子はようやく両手で蒸篭が運べるようになった。重ね積みはまだだけれど、とりあえずは一段目。
PCシチュエーションノベル(シングル) -
明神公平 クリエイターズルームへ
東京怪談
2006年08月11日

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